時の雫-美音
§6
夏休みを終えて、始業式の日。
私はいつもより心臓をどきどきとさせて学校へ行った。
でも、普段の日と時間が違うので、登校中に彼と会うことは無かった。
校内にいる時でも、彼を見かける事は無かった。
それに心の中に浮かんだ感情があったけど、私は知らないフリをした。
学校が始まれば、この間まで夏休みだったのが嘘の様に慌しい時間がやって来た。
学園祭の準備に取り掛かるからだった。
そして、生徒会もその準備に追われ息つく暇がなくなっていた。
亮太はあまりの忙しさに堪らず声を上げていたけど、私には丁度良いくらいだった。
だって、余計何かを考えないで済むから。
……それでも、ふと心に油断を浮かべた瞬間、思い出してしまうのだ。
思い出したくも無い、嫌な思いをした丁度1年前……。
初めて付き合った、2コ上のセンパイの事を。
去年の準備期間中に告白されて付き合った。
だから、仕事をしていれば、あちらこちらに過去の幻影を見かける。
どうでも良い事はすぐに忘れてしまうのに、忘れたい事は皮肉にも忘れられないなんて。
起こってしまった、済んでしまった出来事を、後になってどう言ったとしても何も変わらない。だから、気にするだけ無駄なのに……。分かっているのに……。
そして、止まっていた手に気付いて、再び動かし仕事を進めた。
やらなくてはいけない事はたくさんあって、すぐに片付くような量ではなかった。
それでも、心の中は後悔の念でいっぱいだった。
1年前のあの日、なんで「はい」と言ってしまったんだろう……。
「元カレ」の津田センパイは、何かの委員会に入っていた。
だからか、顔を合わす機会もあったし、話すこともあった。
最初から物腰が柔らかそうな物言いで、分からない事を訊ねた時も優しい口調で教えてくれていた。一緒にいても嫌ではなかったし、一緒にいても違和感を感じなかったら。
9月になり、学祭の準備が始まって暫くの頃、生徒会室に一人で向かって歩いているのを呼び止められた。
ここで話をするには、しにくいのでと校舎の反対側に連れられた。
そこで付き合って欲しい、というような事を言われたのだ。
もし、その時の私でなかったら、津田センパイではなかったら、「はい」とは決して口にしていなかっただろう。
それはただ、悪いタイミングだったとしか言いようが無い。
でも、センパイの事、始めは「いーなぁ」と思っていた。
今更、ため息を吐きたくなっていた。
センパイとは、仕事の合間に会うような感じで、周りが思っているような付き合いはしていなかったと思う。
時間が出来て来てくれるのはいつもセンパイの方だった。
今思えば、それって冷たいなぁ、と思う……。
だけど、一緒にいる機会が多くなるほど、センパイといる事が気が重く感じるようになっていた。
センパイの言葉の端々に、突き刺さる何かがあって、いつも私の表情を翳らせた。
一緒にいればいるほど慣れていくのなら分かるのに、反対にセンパイとは一緒にいればいるほど、一緒にいるのが嫌になっていた。
付き合っている二人なら、後夜祭のダンスは必須のイベントで生徒会側でもそれは欠かしてはならないものだった。もし廃止しようものなら、一体どれだけのブーイングが寄せられることか……。
だけど、その頃には一緒にいたいとは思っていなかった。
仕事にかこつけて、会うことを極力避けていた様な気がする。
生徒会室にこもって仕事して、後夜祭を避けるようにしていた。
けど、周りから非難があったので、「やっぱり……」と思って一応センパイを探しに行った。
人混みの中をやっと見つけ出した時には、センパイは他の人の誘いを受けていた時だった。
そこへのこのこと出て行く気にもなれず、結局仕事に戻った。
まるで自分がバカのように感じた。
その後、体育館に行って、学祭の為だけに飾られた物を外していった。
まるでそれは、後夜祭の為に告白されたような自分の姿とダブって見えて、無性に悲しくなった。そして、それに少なからず振り回された事に、ばかばかしさも感じていた。
でも、それで傷ついたなんて思わない。思いたくない。
だけど、その頃の事を思い出すたび、やるせない気持ちになる。気分が沈む。
物凄くいやな気分になって、頭を抱え込んでその場から消えてしまいたくなる。
学祭が終わっても、私はセンパイに会いに行かなかった。
あんな場面を見て、尚更会いに行こうなんて気にならなかった。
センパイも会いに来てくれることもなかったし、「あーもう自然消滅だー」なんて思っていたんだ。それはそれでずるい考え方だったのかもしれない。
でも、センパイは私の前に現れた。
最初は優しいと思っていたセンパイの物言いは、実は本当に言いたい事を口にしないで相手に動いてもらおうとする言い方で、それは私にとってストレスになっていた。
奥歯に物を挟んだような言い方。はっきりとしない言い方。
本心を隠すように人を試すような言い方。
優しいと思ったそれは、間違いだったのだと知る。
でも、そうさせてしまったのは、私の方なのかもしれない。
思い出すたび、そう考えるたび、私の口からは小さなため息が零れた。
そして、思い出すあの時のこと。
「春日さん、いいかな」
それは訊ねているのではなかった。
私の都合を無視した言葉だった。来る事が断定されている言葉だった。
それだけで、嫌な気持ちになった。
暗くモヤモヤとした感情に心は覆われて、それをすぐに晴らすことは出来ないでいた。
それでも、先輩が望むように足を向け背中をついて行った。
せめての抵抗に表情無く、じ……、と見つめた。
何をどう切り出そうかと躊躇った表情のまま、口を開いたセンパイ。
「後夜祭のとき、忙しかった?んだよね?」
何やらねっとりと絡み付くような何かがあるような言い方だった。
けど、あえてそれを無視し、はっきりと声が届くように口に出した。
「はい、ずっと片付けに追われていたので、役員は皆最後まで一緒に仕事をしてました」
知っているくせに。仕事に追われていたって。
他に人の誘い、ちゃんと受けて、後夜祭踊っていたくせに。
「そう、なんだ。いや、こっちもはっきりと聞いていなかったし、…でも、その時ぐらいは時間空いているものだと思っていたから…、確かめなかったこっちが、悪いんだろうけど」
その、本心を見せるように且つ隠した言い方は、私を不快にした。
それに、自分の心の中に苛立ちをはっきりと感じ始めた。
それをどうにか紛らわせようと視線を校庭の方に転じた。
その反応にセンパイは困惑を感じたらしかった。
「いや、だから何だという訳ではないんだけど、……その、気に、なって」
まるで、自分は待ちぼうけになってずっと待ってたみたいな言い方に、私はいらっとしたのを覚えている。
「途中一度だけ先輩の姿を見かけたんですけど、誰か他の人と後夜祭に向かって行かれたので声かけられなかったんです」
言うつもりはなかったそれを、苛立ちの後押しで口にしていた。
「……え?」
ぎくりとしたような表情。
何とも、しどろもどろに言い訳みたいのをセンパイはしていた。
何を言っていたのか今はもう覚えてなんていないけど。
それで「終わり」なのかな、と思ったけど、センパイは時間が出来ると会いに来てくれていた。頻度は以前より減ってはいたけど。
なんとなく一緒にいて何となく言葉を交わした。
それに意味なんて見出せないまま、時間は過ぎた。
それとともに、私の中には重い気持ちだけが増していっていた。
そして、球技大会の日、忘れもしない最悪な日。
汚れた手を手洗い場で洗い流していた。普通にしていた事だったのに、突然横から飛んできた水。12月だったので、水はもう冷たかった。
何が起きたんだろう、そう思って顔を上げてみれば、当時2年の女子数名がそこにいた。
そして、一人の顔を見て、後夜祭の時にセンパイにダンスを申し込んだ人だとすぐ分かった。敵意の満ちた目が全てを物語っている。
「あ、ごめーん」
空々しい言い方に、面白そうに笑っている2年女子の方々。
水が前髪から滴り落ちるのを十分に感じながらも、私は心うちに広がっていく感情に耐えるように口を開いた。
「……偶然じゃないですよね?」
偶然じゃない事くらい分かっていた。
彼女たちは楽しそうに口にした。
「そんな訳ないじゃん」
「おかしいんじゃなーい?」
その台詞で、私の中には静かな怒りのようなものが広がっていった。
自分の心が冷たくさえ感じた。それでも迸る冷ややかな怒りに、彼女たちの表情から笑みが消えて行った。
「羨ましいですよ?大した勇気をお持ちで。もし、このままこの事態を正当化されて謝りの言葉も無いようなら、私生徒会役員ですので査問委員会に先輩方をお掛けすると思いますけど?どうなさいますか?」
実際、コレくらいの事で査問委員会なんて開かないけど、でもそう言わずにはいられなかった。それくらい、腹が立っていたから。
「あ、手が、滑っただけよ、」
「悪かったわよ」
動揺しながらもそう言うと、彼女たちは罰が悪そうに走って去っていった。
それでもすぐに治まりきらない感情に、目は彼女を追っていたけど体は動かなかった。
姿が見えなくなって、やっとその場から離れることが出来た。
でも、濡れたのをそのままにして歩いて行った私の姿は、他の生徒から注目を浴びていたようだった。
その時の私には、それさえも気にせず、自分の中に渦巻いている感情に圧迫されそうになっていた。でも、歩いていく度、道を進む度、怒りはどこかに消え、ひどく気持ちは沈んでいった。
なんで、ここまでいやな目に遭わないといけないんだろう。
別に何かを差し置いてまでセンパイが1番という訳ではないのに。
一緒にいるのにも気が重くて、言葉を交わす度気持ちが重くなっていって、それなのに付き合っている意味なんかあるんだろうか。
会えば、会えなかった時の事をねちっこく言われ、まるで私が全部悪いみたいなニュアンスで言われ、…………私、何もしていないのに。
そして、中庭を一人歩いていたら、亮太が走ってきたんだ。
「春日!」
名前を呼ばれても、私は顔もあげず返事もしなかった。
きっと、今、私ひどい顔をしている。
私の前で足を止めた亮太は、タオルを頭にかけてくれた。
その時点で、偶然見かけたという事ではないのだと分かる。
この惨状を知っていて、探してくれていたのだと。
「頭濡らしてどーしたんだよ」
さほど驚いた様子でもなく言ったその声が、その考えを肯定だと言っている。
視界の端に映ったタオルをぎゅうっと握り、堪らず言葉を吐いた。
「頼まれれば、あんな男くれてやるのに、わざわざご丁寧に水をプレゼントされた。
あの2年ドついてやれば良かった」
腹が立つのと同時に、どうしようもなく泣きたくなっていた。
でも、人のいる前でなんて泣けない。
それも、肩を並べて生徒会で張り合う亮太の前では特に。
「単なる僻みだろう?気にすんな、……って言っても無理か」
そして、起こった事はそれだけじゃなかった。
その日の昼休み、珍しく食堂で食べていたんだ。
食べ終わったトレーを返却口に置いて戻っている所で、センパイの後ろ姿に気がついた。
「いやぁ別に。色々忙しいらしくて、ろくに会えないしな。何考えてるんだか分らない子だし」
その台詞だけで十分私の事を話しているのだと分かった。
「えー?あの子結構可愛いいし人気あるだろう?」
「そう、だけど、確かに可愛いは可愛いんだけど、なんていうか」
ええ、仰りたい事はよく分かります。
だけど、何もこんな日にこんな場面に遭遇しなくてもいいのに。
なんだか、深くため息を吐きたい気持ちになっていた。
「見かけだけで、中身はやけにあっさりしてて拍子抜けというか、なんか喰えない相手みたいな」
それって、めちゃくちゃ私のことですよね?センパイ。
そう訊ねてしまいたかったのを押し込んで、私はどうしたものかと考えた。
知らないフリをして、このまま友達がいる所へ戻ろうか。と。
だけど、センパイの向かいに座っている人が私に気付き、慌てた様子でセンパイに言っていた。
「お、おい、後ろ」
「え?」
言われて振り向いたセンパイと私は思い切り目が合った。
この状態ではさすがに素通りする事もできない。
また後で何かをグチグチ言われるのはごめんだった。
いつもはこちらの様子を窺うような表情をしているセンパイもこの時ばかりは青ざめていた。この顔を見て、私はちょっとばかり気が晴れたような気がした。
そして、私はにっこりと笑顔を向けると反論を許さぬ眼差しとともに言ったのだ。
これが本当の私。センパイの前では出さないようにしていたのだけど。
「ええ、よくそう言われます。そーですね、先輩には後夜祭に一緒に踊っていた2年の方がお似合いだと思います。なので先輩、今までありがとうございました。じゃさようなら」
最後に又笑顔を向け、そのままスタスタと友人たちの座っている所へと向かった。
言葉の中に最大の厭味を込めて言った。別れの言葉とともに。
後で少しやりすぎたかな、とも思った。
でも、嫌な思いはさせられたのだから、これくらい可愛いものだろう、と自分を納得させて。
放課後、生徒会室で亮太に事の顛末を話していた。
そんな状況にしてしまった自分へ愚痴もこぼしながら。
その時はいろんな事を言わずにはいられなかった。
心の中がいろんな思いでぐちゃぐちゃになっていて、自分が嫌になっていて、もう情けなくて泣きたい心境だった。
「私、きっと男運も男見る目もないんだわ……。これがきっとずっと続いてくんだよ。そして、年頃になっても良い相手もいなくて一人きりで寂しい人生送ってるんだよ。それで、親とか親戚とか近所の人とかにも、そろそろ結婚の方は?とか言われて、顔引きつりながら適当な事言ってるんだろうなぁ、私。あーやだやだ。きっと、中身で選んでもらえなくて、人生の穴場に落ちて、30過ぎても独身で周りにうるさく言われ続けるんだよ、きっと」
机に顔を預けたまま、落ち込んでいる様子で言う私を、亮太は少々呆れ顔で横目で見ていた。よくもまぁ、それだけ考えが進むもんだ。と言っている顔だった。
本当にその時の私は、落ち込んでいて先の人生真っ暗闇だとしか思っていなかったから。
亮太は特に慰めの言葉を言う訳でもなかったけど、私にはそれが丁度良かった。
熱いお茶を入れてやるよ、と席を立った亮太は、急須にお茶を注ぎながら、静かに言葉を口にした。
「……俺も、運も見る目も無いから、そん時は俺が貰ってやるよ。10年後お互い独り身だったらな」
目に入るのは亮太の背中だけ。
その台詞に思わず身を起こした。
亮太はコップにお茶を注ぎながら眼だけをこちらに向けて、どこか照れた様子でも普段の調子を崩さずに言った。
「……んだよ?」
「あは。溝口くん、意外といいヤツねー」
「……意外は、余計だろう。意外は」
「だって、ほんとに意外となんだもん」
「いいヤツじゃなきゃ、こんなに話し聴いてやってお茶まで入れてやる訳ないだろーが」
「あはは。おもしろーい」
「んだよ、それ。〜〜〜、もう笑ってら」
少々呆れ気味に呟いた亮太の声を聞いて、私はけらけら笑っていた。
それだけで充分だった。
亮太のその言葉が、その場だけの気休めで言ってくれたものだとしても嬉しかった。
たとえ、違う意味が込められていて、もっと気持ちが込められていたものだとしても、純粋に嬉しかった。
その時は次の事を考えられるような気持ちではなかったから、軽口で流したのだけど。
普段は妙に腹の立つやつなんだけど、こういう時の亮太の言葉って心に染みるんだよね。
本当はいいヤツなんだってこと知ってる。
だけど、私は、誰かと付き合うもんか。恋なんて当分するもんか。って思ったんだ。
痛みが消えるまでは。
今年の学祭もまた仕事に追われていた。
私にはそれが丁度良かった。気を抜けば思い出してしまう1年前の事を、まだ思い出さないですむから。
けれど、校内を歩いていれば、「ああ、ここでお喋りしていたな」とか、「ここを歩いていたら、時間の出来たセンパイが会いに来てくれたっけな」とか、「センパイと初めてしたキスはここでだったな」とか、余計な事ばかり頭に浮かんでしまう。
それを諌める自分との間で、精神的疲労はたまっていくばかりだった。
「あ〜っおわらねー」
やってもやっても減らない書類の山に、とうとう亮太が声を上げた。
「なぁ!休憩しようぜ休憩」
机の上に倒れ込むようにして作業を中断した。もう我慢の限界らしい。
「休憩しようか」
薫ちゃんがそう言うと、亮太はお茶を用意すべく椅子から立った。
どこかぼんやりとしながらの口調で薫ちゃんは話した。
「選択の技術で、今月の課題シルバー細工らしいねぇ?」
「おーそうだよ。何しようか考え中でさ何かない?」
「んー?例えばどんなの作るの?」
「まぁネックレスの飾りの部分とか、バッジやらキーホルダーやら」
「あー、キーホルダー欲しいー。作ってー」
薫ちゃんのいつもと変わらない様子。甘え上手な、私には真似できないそれに、亮太は笑顔で口にする。
「おう。これでちょっとは考えるの楽になるわ」
……本当にそれだけ?
結構薫ちゃんにそう言われたら、内心喜んで世話してない?
結構、要所要所であちらこちらにいい顔してませんこと?
「ふぅ〜ん?」
と呟きながら目を亮太に向けた。きっと意地悪い笑みを浮かべていたはずの私。
機嫌の良い笑みを浮かべていた亮太だったけど、私に気付き、何かを言いたそうな顔をした。だけど、すぐ顔を反らすようにしてコップに手を伸ばし口をつけた。
何かを誤魔化したような感じ。何だろう?
そう思っても、そう思うだけでそれ以上何も考えなかった。
気分を変えるように、肩の疲れを取るように伸びをして一段落着かせて窓の外に目を向けた。
外は秋の気配が少し見えつつある。
ついこの間までは夏真っ盛りという様子だったのに。
時間が経つのは早い……。
また余計なことを考え出そうとしている自分に気がついて、私は自分でも分かっている戯言を口にしてみた。耳には生徒会室の扉が開く音が届いていたんだけど。
この場にいない2人が戻ってきたのだと思って大して気にもしなかった。
「いーなぁ、キーホルダー。私も欲しいなぁ家の鍵用に。私のも作ってよー」
亮太に向けて言ったところ、一瞬「バカ言え」という表情を浮かべた。
そりゃそうでしょ。作るのは1人1個。薫ちゃんのを作る約束したのだから。
そんな事を言う私は意地悪だ。
でも、薫ちゃんが作ってと言っていなくても、きっと亮太は私のなんて作ってくれないよ。それこそ「バカ言え」って言われるのがオチだわ。
亮太は何か意地悪な笑みを浮かべて言ってきた。
「そこの同じ選択科目の奴に作って貰えよ。そいつは頼んだら作ってくれるだろ」
と、私の横を指差す。
1年の彼らに何を言っているのだろう?亮太ってば。
「えー?作れないでしょー?」
頬杖をつきながらため息混じりに言ったんだけど、その横後ろから聞こえてきた声は、1年生2人のどちらのものでもなかった。
「……俺、そこまで不器用ではないけど」
……え?!瀧野君?!
その声に慌てて彼に振り向いた。
微かに気落ちした顔をしている。
くそう……、亮太のヤツめ。やってくれたな。
ああでも私ってば、何て事を言っちゃったんだろう……。
「あ、ごめ、野口君か藤田君だと思ってたから、ついそう言ったんだけど。ちゃんと瀧野くんだって分かってたら、ほんとー?作ってくれるー?って言ってた。うん」
誤解を解こうとして必死に弁明する私。それでもどうにか普段通りである様に保ちながら。
多分、彼もそうなのだとは思うのだけど。
夏休みでの事を少なからず意識しあっているから、どこかにぎこちなさがあって……。
でも、日常が始まっているのだから、いつも通りにしなくちゃいけない訳で。
反対に変なことして、あの日の事を突っ込まれて訊かれでもしたら、私まともに答えられる自信がない。
心の中では本当に必死だった。
なのに、彼は笑顔で言ってくれた。
「じゃあ、春日の作るよ」
え?
予想外のその言葉に、すぐ声が出なかった。
反対に、気を抜けば心臓が暴れだしそうな気配で……。
そして、彼の顔を直視する事ができなくて、思いっきり目が泳いでいたと思う。
亮太から私の顔が見えないのが幸いだ。見えていたら、どんな顔されるか、何を言われるかたまったもんじゃない。
ああ、いけない、返事しなきゃ。変な風に思われちゃう。
「……え、……いいの?」
でも、気の聞いた言葉が一つも出ない!
思わず自己嫌悪に陥りそうになったその瞬間、彼は言った。
「いいよ」
いつもと変わらない微笑だった。
それで、社交辞令的な嫌々ではないのだと分かった。
だから、心なしか安心して息を吐いていた。
そしたら、亮太が何の気を使ったのか
「瀧野もお茶飲んでいけよ」
って言った……。
亮太にそう声をかけられた彼は視線を外して返事をした。
「おう」
あーー、したくない緊張を私はするわけね……。
思わずため息が出そうになったのを慌てて押し込んだ。
彼に気付かれて、嫌な風に思われてる、なんて思われでもしたらえらい事よ?
あー、でも、今の私、瀧野君と顔合わせづらいんですけど……。
こんな事言ったら、亮太、面白がるから言わないけど。
全員がソファに座っての休憩タイム。
自分が作ったものだからか、あまり食べたい気分でもなかった。
なんとなくクッキーを口に運ぶけど勢い良くは食べられない。
亮太はばくばくと食べている。
この男も甘いものが好きなのだ。
「瀧野はうまいことおやつの時に来るな」
「そうだよなぁ」
そう返す彼。
「もしかして狙って?」
そう冗談混じりに薫ちゃん。
それにも彼は笑顔で答える。
人がいいなぁ。何て事をぼんやり思っている私。
「あー実は、朝小さめの紙袋を持って春日が登校してきたら、今日は生徒会室でお茶会があるなぁと思って」
それには私が言葉を紡ぐ。
「チェックされてるんだ」
「はは、それは冗談だけど」
「あーでも、春日の作るやつは美味いからなぁ。この時ばかりは春日が女だという事を思い出すね」
その亮太の台詞に、私が何かを思うより先に、薫ちゃんがテーブルの端に置いてあったモノサシを手に掴み、亮太の頭に叩きつけていた。
言われた私が反応遅かった。
「あいたたたたっ」
「失礼極まりないなっこの男は」
それに関しては諦めている私は手をひらひらさせて口を開いた。
「私もこの男に女扱いされても気色悪いだけだから。いーのいーの。
まー言われなくても自分の事は分かってるけど、ね」
だけど、薫ちゃんはムキになって声を上げた。
「えー?そんな事ないよー?私男だったら絶対美音ちゃんに惚れてたよ!」
女同士でも恥かしい、その台詞。
「そーそー、今だって橋枝はラブ春日の会会長だから」
半分投げやりな感じで亮太が言うと、薫ちゃんは鋭い視線を投げつけた。
亮太は「あ、やば」とでも言うように顔を背け逃げの体勢を作った。
いつもながらのこのシチェーションに私は言葉が出てこない。
口から出るのは乾いた笑いだけ。
それさえも薫ちゃんは納得できなかったみたい。
「こんなに可愛いのに。ねぇ瀧野君」
ええ?そこに矛先が行くの?
なんて事を瀧野君に聞くの〜?
「あ、え?……う、うん」
突然話を振られて驚きを見せたけど、戸惑いを見せながらも同意してくれていた。
……あ、お世辞だって分かってるのに、なんか意識してしまう私がいる。
すごく気恥ずかしい……。
ダメだ。ここは一つ無言でいよう……。
そう何かを誤魔化すように顔を伏せてクッキーを口に運んだ。
彼の顔をみれないまま、何も変わらないようにしてお茶を飲む。
「……、あんまり食べないんだな春日」
その亮太の声にはっと我に帰ったような気がした。
そう、なんだ。最近食欲がないんだ。これまた不思議と。
だけど、そんな事を言えば、余計な心配をさせるに決まってる。
「あー、今ダイエット中―」
なのに、人の気持ちを無視して、……いや、分かっていない亮太は、彼にとんでもない事を聞いたのだ。
「こいつそんなに重かった?」
心の中で叫ぶよりも先に手が勝手に動いていた。
さっきは薫ちゃんが手にしたモノサシを、今度は私が。
それとともに出る感情的な声。
亮太の言っている事なんて、一つしかない。
他には知る人がいないコト。
夏合宿で、寝てしまった私を彼が抱き上げ運んでくれた事があるからそう訊いているんだ。
「余計なことばっかり!そうやっていつもいつも!」
叩かれた場所に手を当てながら亮太は声を上げた。
「大体、体重でも何でも気にしすぎなんだよ!男から見たら細いだけで抱き心地も悪そうなの、誰がいいって言うんだよ。肉付きがいいくらいで丁度いいんだよ。お前の体型なんて誰も気にもしてねぇよ」
「こンのっ……」
亮太の言いたい事は分かるけど、もっと言い方ってもんがあるでしょう?!
余計に腹が立って、モノサシをこれでもか、というくらい反らして亮太に叩きつけようとしたら、亮太は慌てて言った。
「男なら誰でもそう思うって!なぁ瀧野」
ここで瀧野君に助けを求めるか!この男は!
「巻き込まないで。それに今そう思ってるのは溝口だろ?」
「おい゛ーっ」
一触即発的なこの雰囲気。
私自身、感情的になっていて泣いてしまいたくなっていた。
けど、切羽詰った亮太の様子に、ため息を吐いた彼は、笑顔を向けて言ってくれた。
「まぁ溝口の言う事は忘れて、春日は他の子より十分スタイルもいいし気にする事はないと思うよ」
思ってもいなかったフォローに、どう反応してよいか分からなくなった。
だけど、何か言わなくちゃ。
「……あ、りがと……」
それ以外の言葉は出てこなかった。
ダメだ。顔が赤くなる。恥かしい。
彼の笑顔と台詞に、体から嘘の様に力が抜けて行く。
手から落とす前にテーブルにモノサシを置き、これ以上この気持ちでいる事に耐え切れなくなった私は、その場を立ち出入り口へと向かっていった。
「どこ行くんだよ?」
亮太の問いに、内情を知られないように無愛想に言った。
「お手洗い」
そのまま部屋を出て扉を閉めてから、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。
……おかしくなるかと思った。
瀧野君のリアクションが、今の私には怖い……。
「はーーーー」
思わず口から出た深いため息。
彼の事を思い出すたび出てしまうため息は増えるばかりだった。
瀧野君のあの笑顔で、お世辞だと分かっていても褒められるのは正直クルんですが……。
溶けてしまいそうになっちゃいます……。
過去の出来事を抹消できたら、どんなに良いだろう……。
もし、過去の出来事3つ消してくれるっていうなら、2つはすぐ出ちゃうね。
アノ人に恋に落ちたあの瞬間と、センパイと付き合った過去。
そしたら、そしたらきっと……。
……やめよう、そういう事考えるのは。
考えるだけ、今が辛くなるから。
どんなに何を願ったって、何も消えてくれはしないのだから。
私のこの傷だって。
いまだ燻ぶってる、あの頃の思い。
早く消えてなくなればよいのに。
神様、どうかお願いです。
私を助けてください。
そんな事を思って、私は小さく息を吐いた。
叶いっこないその願いに、胸は尚痛みが増すのだから。
だけど、この場所に彼が現れた事によって、重く沈んでいた心がわずかに上向いた。
心の中に漂う辛さは決してなくなりはしないのだけど、それでも鬱蒼とした何かが引いていくような感じがした。
彼の何気ない一言は、簡単に私を捉えてしまう。
……不思議だった。
なんで私は彼の一言一言に左右されるのだろう。
彼に抱く心の痛みも確実に存在するのに。
私はなにをやっているんだろう……?
2006.2.25
【あとがき】