時の雫-美音

零度の距離


§6

一年の中で一番忙しいのは学祭の準備期間だった。
 休む暇無く仕事があり、例え仕事が片付いたとしても次から次へと新しい問題が起こる。
だから、いくら仕事をこなしても量はちっとも減らなかった。
毎日家に着く時間も遅くて、夜寝る時間も遅くなっていた。
そのせいで朝起きるのがつらい。
あまりのオーバーワークに、朝起きても体がふらふらでまともに歩けない状態になっていた。それでも無理して学校に行こうと用意をしていたら、お母さんに止められ休む事を余儀なくされた。
お母さんの運転で、車で病院に連れて行かされ点滴をし、その日はずっと眠っていた。
 それで体調を回復はさせたものの、その後も私はおかしかった。
本当に「おかしい」としか言いようがない。


 あと数日で学祭本番。
この頃になって、ようやっと仕事の方も落ち着きを見せてきた。
私自身も少しは落ち着いてきたと思うだけど、でもやっぱりおかしさは直らないでいた。
 ……その理由は、本当は分かってる。

 移動教室からの帰り、ふと目に入った自動販売機だった。
だけど、オレンジジュースを見た途端、私の心臓は「どき!」と鳴った。
それに動揺しつつも落ち着かすように片手を胸に当てる。
必死で顔は平生を装いながら。
 しかし、オレンジジュースを見ただけで心臓が声を上げるなんて……。
ちょっと、重症よね?
でも、女の子として寝顔を見られるのはどうかと思うのよ。
見られる自分が悪いんだろうけど、でもまさかあの時間に彼が来るなんて事考えないから……。
仕事をしている時に襲ってきた眠気に勝てないくらい私は疲れていたんだって事。
あの日は体が重かった。
放課後、山のように積まれた仕事を目の前に机にいた私はしんどい気持ちをどこかへやってしまいたくて、気分転換に皆の様子を見に行こうとした。
 体育館に向かう私の体はひどく儘ならなくて、まるで自分の体じゃないように感じるくらい重くて、いつもと変わらない階段を上っているだけなのに、すごく息を切らしていた。
 生徒会室を出るとき亮太が言った言葉があった。
「おー、無茶はするなよー」
顔は書類に向けたままで言った亮太だった。
その時の私は流すように口にした。
「はいはい」
ただ心の中で思った。
一体どういう意味なんだか……。って。
亮太は時々、私の範疇にない分かっていない事を言ってくる。その時には分からない事が多い。後になって、あの言葉の意味はこうだったのか、と気づく事がある。
だから、それもそうだった。
私はひどく疲れがたまっていて、亮太は私がまともじゃないって事気付いていての言葉だったんだ。

そして、その後の、彼に会うまでの道のりを今でもはっきり覚えている。
今思い出しても、胸が苦しくなるんだけど……。

 体育館に向かう道を進み、本館の階段を上がっていた。
いつもと変わらない進路の筈なのに、私の体はもうねを上げていた。
歩くのもしんどくて、出来ることなら自分の部屋の真ん中で寝転がりたい気分。
こうして階段を上ってるだけでも、息が上がってた。
これは単なる運動不足、なんだろうか?
陸上部だった中学の頃は、駆け上っても息一つ乱れてなかったのに。
でも、ちょっと前まで普通に駆け上っていたような気もするけど……?
普段は何も思わず駆け上っていた場所に違和感を覚えながら必死で呼吸を繰り返している。
階段が、今日はやけに長く感じる。体が重くて膝を折ってしまいそうになる。
 後数段で踊り場に出るという所で、目指している場所から誰かが降りてきたのに気がついた。顔を向けて見れば、それは彼だった。

 彼は踊り場で足を止めて、心配そうに見つめてきている。

なんで、そんな顔をしているんだろう?
彼を見てそう思った私は、どうにかその踊り場に最後の一歩を辿り着けた。
上がった息を落ち着かせるようにして吐いて、少しでも息を整えてから声を出した。
「昼休み、ジュースありがとう」
まだ心臓はどきどきとうるさくて体もしんどかったけど、無理矢理に笑顔を浮かべて言った。
「うん、どーいたしまして」
そう応えてくれた彼だけど、表情はいつものものではなかった。
どうしたんだろう?
そう思いながら、更に段を上り彼のいる踊り場に辿り着かせた。
ここでようやっと落ち着いた息を吐き、心臓のドキドキが頭にまで回っていて苦しいのをひたすらに感じながら、又一つ息を吐いてから手すりを掴んでいた手を離し、顔を上げようとした。
そしたら、急に目の前が真っ暗になった。
自分が立っているのかも、逆さになっているのかも分からない浮遊感に襲われた。
急に何も聞こえなくなって、ただ思ったのは「あ、やばい」だった。
体は後ろへと落ちて行ってる。階段の下を逆さに。
あ、だめだ。と思った。襲い来る衝撃に身を固まらせた。
体が言う事を利かない。この瞬間でさえ手一つ動かせないのだから。
だけど、その次の瞬間には凄い力に引っ張られたのを感じた。
身構えたのに、来るはずの衝撃は少しも訪れなくて、それどころか温もりが私を覆っていた。それは、そのまま包まれてしまいたいくらいの、穏やかに感じる温もりだった。
「……、は――――」
安堵の、深いため息にも似た声、が、聞こえてきた。
けど、呼吸をするのさえ苦しかった私は、必死で体の状態をまともに戻そうとしていた。
それは気が遠くなるくらいしんどい作業だった。
もうこのまま倒れこんで横になってしまいたいくらいしんどかった。
 ……必死で呼吸を繰り返して、苦しいながらもどうにか周りの状況が意識できるくらいに落ち着いてきた。
柔らかい暖かさをこの身が包まれるように感じていた。
それはとても居心地が良くて、もうこのまま全てを手放してしまいたいくらいの。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか判別できなかった。
体はましになったと言っても、まだしんどくて息もあがった状態のままだった。
辺りは、ずっと静かなままのようで……。
……今、私、どうなってるんだろう……?
それを確かめる為にゆっくりと顔を上げた。
そして、目に入った光景は、さっきの目眩のショックを一瞬忘れ去るくらいの衝撃だった。
だって、私は事もあろうに瀧野君に抱き締められてた!!
目の前で落ちそうになったのを助けてくれたというのは頭で分かる。
分かるけど……。
目が合った瞬間、電気のようなものが体中を走りぬけたような気がして、私は飛び跳ねるように手摺の付いた壁に背をくっ付けた。
 それで困惑した表情の彼。
「あ、あ、あの、こ、こういう体勢、な、慣れてなくて」
あ、私、何言ってるの?!そう思いながら忽ち顔が赤くなっていくのを感じた。
それでも必死に言おうとする。
「じゃ、なくて、えぇと……」
言葉に困って、体を壁から起こしたら、軽い目眩が襲った。
視界が歪む。意識が遠のいていくような感じを受けた瞬間、強い力を自分の腕に感じた。
咄嗟に彼が手首を掴んで階段に傾いていくのを引き止めてくれたようだった。
自分の言った言葉に戸惑い、凭れていた背を起こしたら、軽い眩暈が襲った。
私の様子がおかしい事に彼は気付いていたんだろう。目の端に彼の手がピクリと動いたのが見えた。
「あ、ごめん、大丈夫……」
どうにかすぐそれは治まって、そう何とか答えた。

けど、数秒の間があって、彼が訊いてきた。
「……仕事、は?」
無理矢理笑顔を取り繕って返した。
「え、ちょっと体育館の様子を見に行こうとしてた所で」
「……そう。とりあえず、春日、こっち」
いつも表情ではない彼は、私を体育館とは違う方向へ指差した。
反論する勇気も出せず、その後をくっついて行く。
もしかしたら、他の仕事の事かもしれないし。
けど、生徒会室の前まで来てしまった。
意味が分からないけど、彼の様子がいつもと違っていたので、何も言えなかった。
「体育館のほうはスコブル順調だから。反対にそんな疲れた顔で今にも倒れそうな状態でいられたら周りが落ち着かない」
足を止めたと思ったら、こちらを振り返ってそう言った彼。
その表情は、いつもと違って、なんか、怖かった。
声もいつも違う。
初めて聞く声に、何をどう言ったら良いのか何も出てこなかった。
そうして困っていたら、彼は口を開いた。
「それと、これあげる」
差し出されたのは、ポケットに入れてたお菓子。徳用大袋の、個別分。
 これを食べて、休んでいろと?
そんなに私、顔色悪いのだろうか?
「だから、とりあえず他の事は気にせず今日はここでゆっくり仕事すること。……わかったよね?」
最後の台詞はとびきりの笑顔で言われた。
そんな笑顔向けられて、平気な人は何人いるの?っていうもので。
他の女生徒なら頬を紅くして見惚れてしまうほどのものだったけど、同時に有無を言わせない強いものがあった……。
それに逆らう事は危険なような気がして、頷くことしか出来なかった。
「じゃあ、はい」
と生徒会室の扉をわざわざ開けてくれてそう言った彼に、私は抗えない何かを感じて大人しく中に入った。
そして、背中で扉が閉められた音がした。
茫然とする、私に、仕事をしたままの亮太は言った。
「あれ?見に行ったにしては早い帰還だな」
いや、私もこんなにすぐ帰ってくる気はなかったんですけどね……。
ああ、もう、どうでもいいや、そんな事は。
今の私はもう他に何も考えられなくなっていた。
頭の中をぐるぐる回っているのは、先ほどの彼しかないのだから。
「きょ、強制送還されました……」
一気に襲い掛かってくる脱力感に、崩れ落ちるように椅子に座って顔を机の上に預けた。

彼のあの顔が、目の前に浮かんだ。
なんとも言えない気持ちになる。 理由は分からない。……多分、心配、してくれたのだろう、か?

そして、手にしていた物が視界に映った。
特用サイズで売っているコアラのマーチの、個別分。
おもむろにそれを開け一つ口に入れた。思っていたよりそれを美味しく感じた。甘さが体中に浸透していくようで優しい気持ちになった。
「おいし……」
彼の優しさに今触れて、そうぽつりと声が出た。
それが聞こえたのか、相変わらず仕事を続ける二人が口を開く。

「ああ、疲れてるときは甘い物が欲しくなるんだよな」
「そーですよねぇ、すんごく美味しく感じるんですよね」

そうか。私、疲れてるんだ。
体調、悪いんだ。
この時、そう自分の体のことを認めた。
そして、思うのは彼の事。
……いつも、笑顔なのに。なのに、呆れたような顔、してたなぁ。
まあ、疲れた顔してて目の前で倒れそうになれば、笑顔どころじゃないもんなぁ。
階段から落ちそうになったのを咄嗟に助けてくれて。疲れているから甘い物までくれて。……いつも、助けてくれる瀧野君、……
何とも言えない感情が心の中に広がっていく。
ふと油断してしまえば、自分が自分でなくなるような気配を感じて、その思いから気を逸らした。
「ふぅ」
ため息と共に、私は無造作にじっと机の上を見つめる。
無意識に頭は考えようとしていた。彼の事を。
それに気付いて、止める私の心。
気分を切り替えるように小さく頭を横に振り、ゆっくりと立ち上がり他の机に溜まっている書類を自分の所へ移動させた。
仕事の没頭している時は、何も考えないですむから。

私は逃げるようにそう思ったんだ……。


 あれから大分日にちが過ぎた今も体のしんどさはあった。
今日に至るまで、突発的起こった色々な問題を解決させるため、私は変わらず奔走している。
まぁ、新人というのは慣れない仕事にミスを起こすもので。
1年前の私達だってミスは起こしていた。ただ、数はここまで多くなかったような気がするのだけど。
一番大変だったのは、藤田君とバスケ部男子との間であった意見の食い違いだった。
他の実行委員が私の所へ血相を変えて飛んできた。
「春日先輩大変です!バスケ男子と藤田君がもめてて……」
「え?」
 報告を受けて私はすぐさま彼らのところへと向かった。
予想通り、険悪なムードが漂っている。下手すれば、喧嘩に発展しそうな様子。
部外者は遠巻きに眺めている様子が窺える。
 ああ、もう。何だって言うの?
声に出して言えない不満を胸に問題の解決にと割って入り、いつもと変わらず私は藤田君にお説教をして、バスケ部員にどうにか妥協をしてもらって、事無きを得た。

 ……今気付いたのだけど、もしかして副会長って、一番損な役回り?

「はあ……」
同じ事を考えて私はまたため息を吐いていた。
そして、気分を変えるように見上げた空を目にして、吸い込まれるような青空に私は又トリップしていった。

その問題が済んだ後、私は個人的にバスケ部部長の所に行って頭をさげた。
「うちの問題児1年が迷惑かけてすみません」
「まぁ、若いうちは元気があっていいんじゃない」
そう言った部長の片岡君はにこりと笑顔を見せた。
 ……そう、それからだ。残りの学祭準備期間中、何かあれば声をかけられるようになったのは。
それまでは、呼び止められるのは全部学祭の企画の話だったのだけど。
最初のうちは、仕事の話だったから嫌な顔する事無く対応していた。
けれど、今は他愛のない話でも声をかけてくるようになった。
 顔では普通に接していたけど、忙しいこの時期に時間をとられる事に内心嫌だな、と思っていたんだ。
本音は、気付いてくれないかな、なんて思っていたけど、そんな虫の良い話がある訳も無く、その嫌な思いは消えない。

そして、片岡君に言われた言葉はもっと私を困らせた。

 その日も学祭の準備で忙しかった。
その時はたまたま会議室に一人でいた。
実行委員が山積みにしている書類の中から探し出さなくてはいけないものがあったから。
 開けっ放しのドアからこっちに向かって声が飛んできた。
「あ、ここにいた」
それが誰のものによる言葉なのか気になった私は目だけを向けて見た。
その人が片岡君だと分かった私は、少し気が沈んだんだ。
別に嫌ってるわけじゃない。でも、私はこの人と一緒にいる事に困惑している。
そんな心情だった。
 でも、彼はそんな事はお構い無しにこちらへとやってくる。
私の都合なんてどうでも良いかのように。
私にはそれが何だか怖く感じていた。
作業をしている私の元に来て、片岡君はじっと動きを止めた。
「……なに?」
自然と警戒心が声に出ていた。
だけど、片岡君はにこっと笑っただけで何も言わない。
「……」
何も言わないのだから、私もそれ以上何も言わない。黙って仕事をする。
 静かなその状態が少しの間続いた。
私の心はその場に居づらいという気持ちに染まっていた。
 ……生徒会室に戻ろうか。
そんな事を思った時だった。
「あのさ」
片岡君が口を開けた。
私は声で応える代わりに視線だけをちらりと向けた。
この部屋に他に人はいない。ただ静かだった。
「春日さんって、今誰とも付き合ってないんでしょ?」
「……。それが何?」
「だからいーでしょ?俺と」
何故そう言葉が続くのか分からない。
だけど、動揺したりして反応を見せるのが凄く不愉快な事に感じた私は、平生を保ったまま手を動かしつつ言う。
「何が?」
言っている意味が分からない。そう言う様に。
すると片岡君は呆れたように小さく息を吐くと口を開いた。
「付き合って欲しいんだけどさ」
「……」
その言い方が私には不快だった。
巧くは説明できない。だけど、言葉には見下した言い方が含まれているような気がしてイライラが積もる。
「俺別に問題とかないし、相手には申し分ないと思うんだけど?」
高飛車な物言いに感情が一気に高くなるのを感じた。不機嫌を目に現していた私は顔を上げた。
そして、その先に見えた、この部屋に入ろうとし聞こえてきた台詞に足を止めていた亮太の戸惑う顔が見えた。
それで噴き出しそうになっていた感情がピタリと止まる。
そして、全ての感情を込めて言葉を口に出した。
「ごめん、無理」
「今なら俺、お買い得だと思うけど?」
丁度目当てのものを見つけた私はそれを手に持つと椅子から立ち上がり、会議室を出ようとしつつ言う。勿論、顔は笑顔で。
「高くつくからやめておく。それに今の私は生徒会で頭いっぱいだから」
その後は顔も目も片岡君に向ける事無く会議室を出た。
廊下に立っていた亮太に、何事もなかったように私は言葉をかける。
「ごめん、やっとあった。待たせてごめん」
「……いや、言うほど待ってない」
何かを言っている亮太の目だった。
だけど私はそれに気付かないフリをしたまま生徒会室へ入って行った。

 残暑の残っている今、だけど人の行き来の激しい今、生徒会室は扉と言う扉を開放していた。風は良く通っていたから。
だけど、会議室で用を終えた私は扉を閉める。
すると先に入ってた亮太は、片手を頭に当て小さく息を吐くと奥の窓を閉めに動いた。
それを見て私はエアコンのスイッチを入れて、自分の席に着いた。
その座り方は不機嫌さが出ていたかもしれない。
 席に着いた亮太は何もなかったように仕事の話を始める。
それにいつものように応える私。
そうして、その仕事が終えた時、亮太との間に沈黙が訪れた。
いつもだったら別に何も気にしないのに、何故か今は微妙に重くて気まずい。
他のメンバーだったら何も気付いていないかもしれない。それくらい小さな事。
だけど、私は亮太のそれに気付いていた。
「…………」
ひたすら続く沈黙。
このまま知らないフリを決めこもうと思っていたんだけど、チラリと亮太に目を向けてみてその意思は崩れ去った。
さっきのアレを気にした、何とも言えない顔をしてる。聞こうとは思うのに迷っている顔。
その顔が何だか可笑しくて私は笑いをこぼしていた。
「……変な顔」
「……はぁ。あのな……」
参ったようにため息をつく亮太を尻目に、何も気にする事はないと平気な笑顔を向ける私。
自分から何も喋る気配のない私を見て、亮太は観念したように口を開いた。
「さっきのヤツに呼ばれていたから、あっち行ってたのか?」
どうしてそういう台詞が出たのか分からなかったけど素直に答えた。
「え?偶然だよ。向こうが勝手に来ただけ」
「ふーん……。あれって、バスケ部のヤツだろ?」
「うん。って、また名前覚えてない訳?」
「俺はお前みたいに一度で名前覚えられねーんだよ」
「覚えなさいよ。せめて、仕事で関係ある人くらいは」
「そう言われてすんなり出来たらラクっつーもんだよ」
「……。まぁ、そうね」
結局、亮太が本当は何を言っていたのか、言いたかったのか、私には分からなかった。


 教室に戻ってきて席に着こうと向かっていれば、もう戻って来ていたクラスの女子は楽しそうに雑談をしていた。
「でね、6組の……さんが申し込んだけど断られたって」
「先約アリとか?」
「ううん、そうじゃなくて完璧拒否されたみたい」
「へー。誰か決まってる子いるのかな?」
「そんな話きかないけどね」
「じゃあ、私もダメ元で言ってみようかな」
「え?言ってみるの?」
「うん、言ってみよう、瀧野君に」
その名を耳にした途端、私の心臓が飛び上がったような気がした。
慌てて椅子に座り、クラスメートに顔を見せないようにする。
誰かに注目されている訳ではないけど、そうしないではいられなかった。
「ふー……」
落ち着かせるように息を吐くと私は両手で頬杖をつき自然とぼーっとしていた。

 そうなのだ。
彼みたいな人、もてない訳がない。
見た目も申し分ないし、勉強もスポーツもできる方だし、それに優しい。
彼の気遣いは、同じ歳なのかと時々思うくらい大人だったりする。
彼の事を知った、最初の頃から彼は優しかった。今でも変わらず。

 他の子だったら、勘違いしてるよ……。きっと。
彼は、優しい人なのだから。


 放課後になり、学祭の準備に時間を費やし、そして慌しく動き回っているうちに最終の下校時間は過ぎていた。まぁ元々生徒会役員、他の役員は寛大に見てもらっているのでお叱りを受けたりする事もないんだけど。
生徒会メンバーと下校。途中で自転車通学の野口君と二人になり、駅に送ってもらった所で一人になる。
駅の構内に入っても、さすがにこの時間じゃ同じ学校の生徒もいない。

 さすがに瀧野くんももう帰ってるかな。
ふとそんな事を思って、辺りを見回してみる。
やっぱり彼の姿はそこにはなくて、小さく息を吐いた。
静かなホームに一人ベンチに座っていると、段々と体と意識が重くなってきた。
こうやってゆっくりしてしまうとその日の疲れがどっと押し寄せてくる。
眠気に負けないように必死に意識を保ちながら、電車が来るのを待つ。
 どうにか到着した電車に乗り席に着くと、もう自然と眠りに落ちていた。
電車の揺れが私の体を撫でるみたいに心地よさを与えてくれていた。
こんな風に電車に座っている時に眠ってしまうのは珍しい事で、後数日で忙しいのも終わると言う安心感で気が緩んでいるのかもしれない。

 だって、学校に居る時は忙しさで気が張っている。
自分では普通のつもりでもイライラしていて空気にも棘がある。
 本当は、そんな自分にも気付いていた。
自分が嫌う自分に、忙しさを理由にして顔を背けている私はきっと今一番可愛くないだろう。
眠りながら、そんな事を考えていた。
 なのに、心は無性に彼に会いたいと言っていて。
……ばかだな、私。
 そんな自分に心の中で呟いて私は目を開けた。

視界に入ってきたのは、制服のスカートから出ている自分の膝元と、隣に座る男子学生の足。すらりと伸びた、ある程度の身長のある人の足。

 ……あれ?

同じ学校の人のものだという事に気付いた私は、そっと目を向けてみた。
その人の顔を見て思わず声を出していた。
「あ!」
だって、それは彼だったんだもん。
電車に乗った時まで彼はいなかったのに。という事は、私が眠っている間に、という事でしょ?
……という事は、寝顔見られた?私、また?
「瀧野くん……」
こちらに顔を向ける彼を見て、私は顔を両手で覆って膝の上に押し隠した。
 うう、恥かしすぎ……。
一度ならず二度までも。あ、違う、3度目だ。……恥かしい事に変わりはないって。
「え?なに?」
戸惑った様子の彼の声が聞こえてきた。
それでも恥ずかしさは増すばかり。顔がかーっと熱くなっていくのを感じる。
「も〜、それ反則―。又私寝顔見られたー前の昼休みにだって起こしてくれたらいーのに。また今だって寝顔見られてー」
うー、寝顔見られたなんて恥かしい。
「うん、気の抜けた可愛い顔してた」
その台詞に力が抜けていくような感じがして、不満をぶつけるように言葉にした。
「うー、なんで瀧野くんって、私が気の抜けている時に限って目の前にいるのー?」
「なんでと言われても……」
だって、ほんとにそうなんだもん。いつも気を張り詰めているのに、彼がひょっこり姿を見せる時って間が悪く気を抜いている時。
「今まで人に見せた事が無い所ばかりを見られているような気がする」
自分であろうとする自分がまるで無意味のようにも感じるその一瞬。
卵の殻が壊れると柔らかいのが出てくるように、中身を知られているのではないか。という考えが頭を過ぎる。
母親同士仲が良いから、何を話されているかわからない。瀧野君だって、おばさんから私の話を色々聞いているかもしれない。瀧野君のお兄さんだって、弟君だって。
そういろんな事が頭を過ぎってまだ顔を上げられず言葉を続けた。
「なんか知らない所で、春日って実は〜ってバラされてそう。それで笑われていたりして」
「してないしてない」
その彼の反応は、誤魔化しとかではなくて、本当に否定していた。
それでようやっと顔を上げることができた私は、縋るような思いで訊ねた。
「……ほんと?」
それに一瞬詰まった様子の彼は、神妙な顔を正面に向けてただこくりと頷いた。
それが本当だと分かっていても、念押ししてしまう私。
「ほんとに?」
「……言ってない」
「誰にもだよ?広司くんとかおばさんとか、あと……仲良い友達、とかにもだよ?」
そう、もし瀧野くんの口からアノ人に話をされていたら、きっと私はショックを受けるだろう。その不安を拭い去りたくて、私は聞いた。彼の様子も窺うように真っ直ぐに見つめて。
「言ってません」
真剣に答えた彼。だけど、顔はずっと前に向けたままで。
彼はそれ以上何も言わず、何かを堪えるかのようにいた。
私にはそれが気になって、全く動こうとしない彼の顔を覗きこむように顔を向けた。
それだけではバランスを崩しそうになったので、ごく自然に彼の膝に手を置いていた。
はっとした彼と目が合ったのだけど、動いたと思った彼の動きが又止まった。
「?」
そう頭に浮かんだ次の瞬間にはもう降りる駅に着いて扉が開いた。
まぁなんというタイミング。
頭の中で冷静に、降りなくちゃ。カバン持たなくちゃ。そう思ったら、彼は慌てた様子でカバンを持ちあたふたとホームへと向かっていく。
私はその後をくっ付いていくように歩いて行った。
 そして、彼の背中を前に感じながら、私は笑みを溢していた。
彼のうろたえた姿を見てしまった。なんとなく頬が赤くなっていたような気がする。
女の子として意識されたのかな、と思ってしまって、心の中にはくすぐったいような感情が湧いてきてにやける顔を抑えられなかった。
 それは不思議な時間だった。

 家へと向かうこの時間、道はもう暗くなっていて、小動物が道を横切っても何の生き物かしっかりと確認するのは難しい。
そんな中、彼は隣にいる。視界には彼の肩が見えるくらいで、日中の騒々しさも今のこの道にはなかった。お互いの表情もはっきりとは分からないくらいで。
 だからなのだろうか?
今こうしているのが心地良いと感じてしまうのは。
 学校にいる時はもう必然的にぴりぴりしている。なのに、不思議と今は穏やかな気持ちだった。

 でも、不思議と落ち着いた気持ちでいる自分に、多少の疑問を抱きつつだった。

学校で生徒会としている時は、こんな自分ではないという事は気づいている。
不思議と、彼といるとそれまであった棘棘した気持ちがすーっと消えていく。
他の誰でもなく彼だけ。
けれど、そのことを自分の中で追究する事より、彼とこうしてお喋りをする事の方を今は選んでいた。
 普段、自分はこんな穏やかな気持ちで人に接していた事があっただろうか。
学校では、いつも何かに負けないように無意識に肩に力が入って必死に前を見ていた。
頼りになるのは自分しかいないし、自分が動かなければ何も前に進まないし、見た目や性別だけで見下されるのは屈辱を感じた。だから何にでも頑張っている。
強い自分を崩さずやってきたつもりだった。
 ……なのに、この人にだけは……。
そして、いつだって、手を差し伸べてくれるから、素直にその手を取ってしまう。
幾重にも絡まった思いでどうしようもなく泣きたくなる気持ちに押し潰されそうになりながら。
 心の中に、彼に頼ろうとしている気持ちが生まれてくるのを感じて、彼を見つめてしまうと、過去になったはずのの人が目の前をちらちらする。すると、なぜだか不安になって少し悲しい気持ちになる。
なんだろう。もう、あの人のことは思い出になっているはずなのに。


頭の中で違う事を考えながらも、口では他愛もない話をしていた。
その話の続きでだったかよく覚えていないけど、彼が躊躇いがちに口にした。
「……じゃあ、……」
そう言い出したのに、中々次の言葉が聞こえてこない。様子を窺うようにこちら向いた彼。
それが何を意味をするのか分からなくて「ん?」と見つめ返していた。
「……やっぱ、いい……」
そう言ってスタスタと歩き出す彼。
珍しいその反応に私は気になる。
「え?何?教えて」
「いい。やっぱやめとく」
尚顔を向けようとせず、すたすたと歩いていく彼。
そんな様子では余計に気になる私は、彼のシャツを掴んでそのスピードを落とさせるようにしながら言葉を投げた。
「言い掛けて止められたら気になる!ちゃんと答えるし教えて」
そう言っても彼はスピードを緩めようとしない。私は必死になって引っ張った。
そのせいでシャツがズボンから引っ張られ出てきてしまった。それでやっと足を止めた彼は、少し恨めしそうな顔を向けて、一言。
「えっち」
!!
そんな事を言われて恥かしくなって掴んでいた手を離した。顔が勝手に赤くなる……。
だって、瀧野くんが逃げるから。だから気になって……。
声に出せず、言い訳を思う私に、彼は言った。
「えぇと、俺は春日にとって、どうなのかな、と思って」
言われてもすぐにその質問の意味が分からなかった。
話の流れ的に「後夜祭……?」かと思ったんだけど、私のその声に彼は即座に言った。
「そういう事じゃなくて普段」
 普段?
尚頭の中に?が浮かぶ。
私にとって瀧野君は普段どうなのか?と?……えーと。
「瀧野くんがどんな女の子を選ぶのかは興味があるな。
きっと凄く大事にするんだろうなと思うから。でも、彼女になる子は大変だね。
同性を敵にまわす事になるだろうから。私がその子の立場だったら嫌になっちゃうかも」
きっと嫉妬や嫌がらせとかすごいんだろうなぁ。前の彼女は年上だったから、皆手出せなかっただけだろうけど。
とまぁ私は思った事を素直に言った。

「そ、そんなにもてないよ、俺」
いや、それは違うよ、瀧野くん。
「テニス部の谷折君と瀧野くんは競争率が高いんだよ。隠れファンが多いから分からないだけで」
「春日も、ファン多いよ?」
「私?そんな事ないない。それに寄って来るのは変なのが多いし。男運ないんだよね」
「そーかなぁ」
その時の私は、何故か口が軽くなっていて、普段なら言わないような事をぺらぺらと話し出していた。
「そうなのよ。もう別に良いけどさ。瀧野くんと仲の良いとある人の事だって忘れて欲しい事だし、帰りが遅くなって怖い時は、優しい瀧野くんがこうやって送ってくれるし。他の子にばれたら総スカン食らうだろうけど。……まぁ他の男の人に、興味も無いし。こればっかりは仕方ないよね。だってね、電車とかでも駄目なんだよね。男の人にくっついたりとか?でもいつもの身近な人はまだ大丈夫。咄嗟に手を出されたりしない限りは。時々亮太とかでも駄目な時あって、そういう時、すんごい嫌な気分にさせてるだろうなぁって思うもん。あ、でも、瀧野くんには平気だよね。いつも助けてもらってるからかな?きっと、手とか繋ぐのも平気かも。不思議だね」
そう言って私は自然と笑顔を向けていた。
けれど、彼が寄越したのは何か意味ありげな視線で、私はそれが何なのか分からなかった。
そんな私を分かってか、彼は言った。
「平気?ホントに?」
それに私は素直に答える。
「うん、多分」
「ふーーん?」
けど、彼が返したのは疑惑の目。途端に私はむっとして足を止めて言う。
「えー?何でそんな目で見るの?!」
すると彼も足を止め疑いを向けてきた。
「そんな目ってどんな目?」
「なんかすごい疑いの目だった!」
心外だと言うように言葉にしたのに、彼は意地悪な事を言う。
「だって多分とか言うから。多分って言葉はあてにならないんだよね。で、ホントはどう?」
「平気だってば!」
まるでそれは売り言葉に買い言葉の様に私ははっきりと言ったんだ。
そしたら、次の瞬間彼はにっこりと微笑んだ。私ですら見惚れて動きを止めてしまうそれ。
 そして次に気がついた時には彼は何もなかったように歩き出していた。
けど、何でだか手が繋がられていた。
自分の手に比べれば大きな手。男の人のちょっと骨っぽい手。思ったとおり彼の手は何も怖くなかった。いつも助けてくれた彼の手。
「平気ですか?」
いつもと変わらない彼の声に、私は素直に答えていた。
「うん」
まだ暑さが残っている時期なのに、彼の熱い手は嫌じゃなかった。反対に心地良かった。
……安心していた。
視線に気がついて顔を向けると、目が合った彼は微笑みを見せた。
多分、他の子が見たら骨抜きになって思わず地べたに座り込んでしましそうなものだった。
けど、彼がそれを何故向けたのか分からなかったのだけど。

 今、この瞬間、私は彼だけを感じていた。この心に。この身の横に。
その他には何もなかった。そして、他にはいらなかった。

彼が隣にいてくれる理由。
分からないけど、知りたいそれ。
彼が平気な理由。
知りたくないけど、知りたいとも思うそれ。
……でもやっぱり分かりたくはないそれ。

それを今彼に問うてしまえば、この手を離してしまわないといけない気がして、口を開く気にはなれなかった。
 今のこの空間を壊したくはなかったから。
今だけに存在する、たった瞬間の事だと分かっていても……。

 そして、私はその思いに蓋をして、そっと目を閉じる……。
何も分からないフリをして。


 明後日にはもう学祭だった。
学校に来ればまた変わらなく忙しい時間が私を待っている。
最終の確認に動き回っている私。
書類を眺めながら次の場所へ確認に向かっている所に声が飛んできた。
「あ。」
そのさも探していた、という声に顔を上げてみれば瀧野くんだった。
その途端、心の中に不思議な感情が広がっていく。
まるでそれまでぎすぎすしていた感情が、さーっと静まっていくような。
「うちの企画に変更があって、問題ないか確認して欲しいんだけど」
そう言ってから、手に持っていた書類を広げて説明しようとしたのだけど、私はそれを聞くより早く顔を覗きこませていた。
ぐっと近くになった彼との距離だったけど、忙しくてそれに気をかける余裕もなかった、と言うよりはあえて気にしなかった。
なんとなく、彼が息を詰めたような気はしたのだけど。
 心の中では包み隠さない本音がタンポポの綿毛が風で舞った様にふわふわしていた。
彼と接しているこの時間が好き。
彼と一緒にいるこのひと時が楽しい。
 今忙しい毎日で、この一瞬を私は心の潤いにするように楽しみにしている。
話を聞いている途中、彼の視線を感じて何気なく顔を向ける。
すると彼は小さくはっとした顔をして目を逸らした。
そんな彼から目を離さずじっと見つめてみる。
ほんの1、2秒して、顔を戻したと思った私に彼は再び目を向ける。
だけど、私は目を離してなんかいなくて、今度ははっきりと彼と目が合った。
「え?あ?……」という妙に恥ずかしそうな顔をした彼に私はにっこりと笑顔を向ける。
それだけでうろたえを見せる彼。
それはまるで昨日の仕返しのような。

そんな些細な事も私は幸せに感じで、この瞬間さえとても大事なものに思い始めていた。

2006.5.3


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