時の雫-美音

零度の距離


§5

 8月に入っても、生徒会の用事でちょくちょく登校していた。
それで何度藤田君に会っても、藤田君らしいままだった……。

彼と正面を向き合うのは、疲れが増すだけだと悟った私は、彼の事は受け流すだけにしていた。そうでなければ、イライラした私の態度は、そのムードを悪いものにさせるから。
それほど、藤田君は、私に不快感を与えていた。
 生徒会主催、毎年恒例親睦キャンプが始まると、藤田君は隙あらばといった感じで何かにつけては私の回りに纏わりついていた。
だから、空いた時間になれば近寄ろうとする藤田君を避けるようにして、なんだかんだと用事を見つけてはその場を一人で離れていた。
 一人でこっそりと森の中を散歩に行って、偶然辿り着いた所は高台でテニス部の練習風景が眺められる所に出た。
気分転換にと適当な所に座り、何も考えずに眺めていた。
無意識に、知っている彼の姿を探し出していて、練習している様子を眺めていた。
彼が存在しているその光景は、きっとずっと以前から存在していて私の知らない所にもあったんだろう。
たとえ、私の前に存在していても、その時の私はそれに目を向ける事も無ければ気付く事も無かった。
考えれば分かる事でも、認知していないのだから、知らない事と同じだろう。
そうやって、私は今まで、時間を無駄に過ごしていたのかも知れない。
 その時は、その時間が永遠に続くように錯覚していたけども、実際は……。

いろんな事をぼんやりと考えながら、私の目は彼を追っていた。
彼のテニスをしている姿は、私は見た事が無くて、少し新鮮だった。
彼は、ああいう動きを見せるんだ。とか、クラブメイトにはああいう顔を見せるんだ。とか、普段では見る事のない姿を初めて見たような気がして、知らずと見入っていた。
 中学の時は軟式テニスで、高校生の今は硬式テニスで、入賞を果たす彼のテニスをしているその姿は、素人の私から見ても上手で格好良かった。
暫くすると、コートには笛が鳴り響いた。
すると、プレーをしていた人達はボールを追うのをやめ、ゆっくりとコート脇へと移動する。次のメンバーと交代するようだった。
歩きながら、クラブメイトに笑顔で何か話し掛けている彼。
その笑顔も、普段の生活で見る事はないもので、あんな表情もするんだ、と見つめていた。
 なんか、不思議な光景だった。
フェンス脇に辿り着いた彼は、背をフェンスに預け私のいる場所に対面する格好になった。
そこから私のいる所までかなりの距離がある筈なのに、目が合ったような気がした。
真っ直ぐと向けられている彼の目に、私は戸惑いを感じた。
 それを隠すようにして辺りを見渡す。
だけど、何も変わったものはない。他に誰かがいる訳でもない。
 多分、気のせい、だよね?
そう思って再び彼の方を見たんだけど、やっぱり向けられている彼の目に気のせいだとは思えなくて、勇気を出して試しに手を小さく振ってみた。ぎこちなくも笑顔を浮かべて。
……気のせいだったら、反応、ないと思うから。
 多分、私の気のせいだろうなー、なんて思ったんだけど、彼は手を振り返してくれていた。気のせいではなかったみたい。
「やっぱ、気付いてるー……」
思わず出たそれは照れ隠しだった。
こんな所で眺めていたなんて、恥かしすぎる。まるで覗きみたいではないか。
しかも、気付かれてしまったなんて。
彼が変な事を言ったりはしないだろうと分かっていたけど、でも、それはそれ。
恥かしい事に変わりは無かった。
隠れてしまいたい心境でその場を立ってから、時間を思い出した。
あまり長い時間出ていれば、心配をかけてしまう。
そう思いながら腕時計に目を向けて見れば、戻らなくてはいけない時間。
歩き出してから、気付いていた彼の事を思い出してもう一度顔を向けた。
 そこから見るに、練習風景に目を向けていた彼だったのに、すぐ目を向けてきた彼に、心臓はドキッと声を上げた。
思わず向きをさっさと変え歩き出していく私は、まだドキドキといっている胸に手をあて呟いていた。
「あー、びっくりした……」
そんな独り言、声に出しても仕方ないのに、言わずにはいられないこの心境。
でも確実に、ここに来る前の藤田君から与えられた不快感はどこかへと消え去っていた。


コテージに戻れば待ちわびていたようにいつもの如く藤田君が声をかけてきた。
「どこ行ってたんすかー?」
あまり相手にしないように顔を向けずにさらりとした態度で私はいた。
「ちょっと心のリフレッシュと目の保養ー」
うん、本当に目の保養になった。
テニスしている姿、本当にかっこよかったから。
それ以上相手する気はなく、薫ちゃんの横に座った。
一人で何かを呟いている藤田君の声にも耳を傾けず、私は余韻に浸っていた。

 その日、夜のレクレーションが終わってから、コテージでの自由時間は気軽に雑談を楽しんでいた。普段は委員会の仕事の事しか話しを出来ないけど、他愛もない話をするのは良い意味での意外性があって楽しかった。
普段は気を使って接してくれる人も、少し打ち解けてくれてるその態度が嬉しく感じたりするんだ。
楽しくて多少感じる昂揚感と疲労感。喉が渇いた私は冷蔵庫へと行き、適当に缶を取り出して一気に飲んだ。
オレンジジュースだと思ったそれが、胃に届いた時に違うことに気付いた。
熱さが一気に体中を走り、何とも言えない刺激が喉を襲う。
味が変、と思いながら、茫然としている私。そして、恐る恐る飲んだものに目を向けて見れば、それはジュースではなかった。
……こんな事は初めてだった。
事もあろうに、お酒だった。
それを知った次の瞬間には、今まで感じた事のない感覚が身を襲った。
体中熱くなって、頭はくらくらして視界がいつもとは違って、許されるならそのまま卒倒してしまいたい心境だった。
 でも、微かに残っている理性で、証拠を隠滅して、今のこのヤバイ姿を誰かに気付かれる前に外へと出た。
 山の夜は涼しかった……。
けど、私の顔の火照りは増すばかりで、体中の熱さも引く様子は無かった。
膝を抱えた上に顎を乗せて、ふわふわする頭を感じながらぼんやりとしていた。
一人でそこにいて、どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
 どれだけの時間が過ぎたのか分からなかった。
そのうちに誰かがこのコテージに向かってくる足音が耳に届いてきた。
それは一人で、静かな歩調で確かにこっちへと向かってくる音だった。
それが誰なのかさえも、今の状態では考えられず、くらくらする意識のまま私はぼんやりとしていた。
 その音が止まり、コテージの縁、端にいる私に気付いたらしい事が気配で分かる。
その数秒後、こちらへと近づいてきて、手前でその音が止んだ。
「……春日?一人?」
十分に聞き覚えのある声だった。
頭に浮かばずとも、それが誰なのか分かる。無意識のまま顔を上げれば、そこにスポーツウエアを着た彼がそこにはいた。
それは昼間見た時のままのテニスしている時の姿で、無条件に笑顔になっていた。
だけど、酔っている今の私では気の抜けた笑顔だったに違いない。
そして、思った事を素直にそのまま口にしてしまう今の私。
「制服姿じゃないと、また雰囲気変わるね」
「そぉ? ……って、なんか酒臭くない?」
自分では分からないけど、匂いがするらしい。
「あー、……わかる?」
侵食されそうなふらふらとする何かに抗いながらも目を向けた。でも、その目さえ自由がきかない。そんな感じだった。
「……え?」
驚きの声を漏らした彼に、誤解されていると思った私は言葉を紡ぐ。
「オレンジジュースかと思って飲んだらね、お酒だったの。多分、先生の、かなぁ」
顔の表情を作るにも言う事をきかなくて、力も入らなくて、もうこのまま何かに身を任せてしまいたい気持ちのまま言った。
もう、どうにでもして下さい。……そんな気持ちだった。
それでも、自分の中には、抗おうとする自分がいて、変に力が入り疲れを感じた。
それを抜き去るように、体の熱を吐き出すように、息を吐いた。
「……お茶、貰ってこようか?」
それに私は素直に言った。
「うん、お願い」
私にしては珍しい柔らかい口調で……。
「うん、……」
何かを躊躇うようにして、彼は返事をしてくれたのだけど。
そして、出入り口へと向かう彼が、ふと足を止めて言った。
「すぐ戻ってくるから、他行ったらダメだよ」
「うん、ここにいる」
なんだかその言葉が嬉しくて、素直にそう言っていた私だった。
 耳に届くのは、葉を揺らしていく風の音。それが撫でるように優しく吹き通って行く。それはとても心地よかった。だから、何かに身を任すように静かに目を閉じた。

 今の私に時間の流れは全く分からない。
ふわふわとするその感覚がいつもと違う世界へと誘っている様で、もうこのまま、いつも繰り返される現実から解き放ってくれたら良いのに、と思うようになっていた。
……そうしたら、何の気兼ねも無く自分を解き放つことが出来るのに。

 静かだけど耳には聞こえてくる彼の足音に、けだるいけれど目を開け顔を向けた。
やはり、それは彼で何も言わず心配顔でお茶を差し出してくれた。
口に付けてみれば、自分が思っている喉の渇きよりも勢い良くこの身はお茶と飲み干していた。そして、忘れていた息をする。
 コテージから微かに広がる明かりは、二人の間を微妙なものに見せているような気がした。少しの距離の向こうに座る彼が、躊躇いがちに声を放った。
「……大丈夫?」
先ほどよりは何かを考えられるようになった頭で私は言葉を紡ぐ。
「うーん、どうなんだろう。頭がぐらぐらする。さっきよりはマシになったけど」
 それに彼が返してくれることは無くて、何か困っているように見えた。
前方には闇の中に浮かぶ木々たち。そこに昼間見た彼の姿が浮かんで見えた。
日常とは違うその景色が私の心の鎧を解かしてしまったようだ。
「今日、テニスしている所、まともに、初めて見たよ」
だって、今までは違う人を見ていたから……。
彼も、そこにいたはずなのに、ね。
「そう」
そう言った彼の声は、いつも聞くものより優しく聞こえた。
それさえも、私の中では日常とは違うから、普段では言わない言葉が出てくる。
「うん、カッコよくて、他の子が騒ぐの分かるよ」
そう、なんだ。本当は、瀧野君ってかっこいい部類の人なんだ。
私があんまりに無頓着で気付いていなかっただけで。周りの皆は知っている。
そして零れる、自分のコンプレックス。
「なんか、特技みたいな、何か持ってる人って凄いなぁ、て思う。私だめだし」
「……なんで?」
「だって、可愛げの無い性格してるし、負けん気強いし。薫ちゃんのように気遣いが出る訳でもないし」
……私、何言ってるんだろう?瀧野君に。
彼の声があまりにも優しくて心地よいので、甘えてしまってる。
こんな事を言って、どう思われているだろうか?
何言ってるんだろう?とか思われてるんじゃないだろうか?
そして、困ってるんじゃないだろうか?
「……春日は、春日で充分だよ」
……それに、私はびっくりして動きを忘れてしまっていた。
そんな事、言って貰えるなんて、夢にも思わなかった。
彼がそう言ってくれるなんて、信じられなかった。
でも、これは夢じゃなくて。
……そうだ、彼はいつも優しい。
何度、助けられてきただろう。何度、優しさをもらっただろう。
「……いつも、ありがとう……」
こんな時じゃないと言えないような気がして、そう気持ちを言葉にしていた。
「うん、……特別、だから」
彼の優しさが嬉しくて、彼の言った事の意味がよく分かっていなかったのだけど。

何だか恥かしくて、膝を抱えて顔を置いた。
それからは沈黙だったのだけど、それは心地よかった。
何故だか嫌な空気ではなくて、これがこのままずっと続けば良いのになぁとさえ思った。
夜風が頬を、頭を、優しく撫でていく。
その気持ちよさに、私の瞼はうつらうつらと閉じようとしていた。
寝たらダメだと思うのに、瞼が重い。
ずっと、このままでいられたら良いのに……。
そんな事を思いながら、押し寄せてくる浅いけれど強い眠気に誘われそうになっている時、彼の声が聞こえてきた。
「あの、さ、」
そこで止めた言葉に、私は言葉を返す。
「うん」
「え、と、」
だけど、私の方が限界で、力の入らない体は傾いていった。それに抗う力さえ今の私には無かった……。
そこに彼の肩があったから。
「ごめん、肩貸して……」
「う、うん……」
彼のその声を聞いたのが最後だった。

ゆらゆらと揺れる意識の中、不意に落とされた暖かさに少しだけ意識が浮上する。
私には上着がかけられていて、彼がそっと横にしてくれたのが分かった。
その腕さえ優しくて、私は幸せだった。
このまま寝てたらいけないと思うのに、いう事が聞けない自分の体。
今の私の、心も体も、普段の私では信じられないものに支配され促されていたようだった。
耳には、土の上に立った彼の足音が聞こえてきた。けれど、すぐには動き出そうとしない彼。
「……他の男だったら、襲われてるよ……」
それの意味さえ分からない、このままでいたいと思う今の私……。
 そして、朝まで起きる事はなかった。

 鳥の声と目覚ましのアラームと朝の光に起こされて、けだるい体を起こした。
いつもと違って、本当にしんどかった。
なんで、こんなにしんどいのだろう?
 夕べ、瀧野君の夢を見ていた。なんか幸せな内容だったと思う。
どんな内容だったかは覚えていないけど。
そして、隣の部屋の薫ちゃんが来て、下に洗顔しに下りた。
 歯磨きを始めると、次第に頭も起きていった。
そして、服のまま寝ていた事実に気付き、私は何かを考えていく。
夕べの事を思い出そうとして。
 ジュースだと思って飲んだら、それはお酒だった。それはちゃんと覚えている。
外に出て夜風に当たっていたら瀧野くんが来て……。
それで、持って来てくれたお茶を飲んで、それから何か二人で話していて、たしか、自分が抱いている劣等感について話をした。普段の自分なら、そんな話しないはずなのに。
そして、突然思い出した彼の言葉、「春日は、春日で充分だよ」って。
途端にドキッと鳴った心臓。
どこか遠慮がちに放たれた言葉は、優しい声音だった。
それにすら、私の心臓はドキッと声を上げた。今更ながら。
それでも、平生を装い、歯ブラシを濯いで、口の中を濯ぐ。
けど、脳みそは、本人の意思と関係なく記憶を呼び起した、みたいだった……。

−「うん、……特別、だから」−

何かを思うより先に私は噎せていた。
 ちょっと待って!!特別って何が?!
「大丈夫?喉でも痛いの?」
「う、ううん、……なんでもない、大丈夫」
何を思い出したかなんて説明できない。
特別、と言われて勝手に思ってしまう心。
だから、私は心の中で必死に自分に言う。
違う違う!そんな意味じゃない、生徒会での私の姿をそう言ってるだけ……!
彼に限って、そんな、変な意味はない!!
でも、彼の様子は普段と違っていたような気がした。
けど、それ以上考えることは私の心が拒否した。
いけない、これ以上はいけない。
あの後、あまりの眠たさに耐え切れず、瞼は落ちていった。そして彼の肩に凭れてしまって、言葉を放った。「肩、かして」と。
彼の温もりが気持ちよくて、……それで……。
彼はいつも私を助けてくれるから、だから、安心してて、……優しいから……。
 でも、彼は何かを言おうとしていなかったか……?
思い出そうとしても、全く何も頭に浮かばなかった。
 だけど、心の中には焦りみたいな、そんな緊張感が巣食い始めていた。

そして、その後会った亮太が変な顔をしていた。
亮太が何でそんな顔をするのか分からない私は、その時は眉を顰めたけど、それ以上気にしなかった。……それどころではなかったから。
 ミーティングが始まれば、彼が来るかもしれない。
それで顔を合わす事の方が、今の私にはオオゴトだった。
……だって、どんな顔をしろって?!
ああ〜〜〜、わかんないよ!!

 結局、私は仕事に没頭するフリをして、彼とは顔を合わせないようにしていた。
きっと、今の私が彼と顔を合わせれば真っ赤になるだろうから。
そんなの、恥かしすぎる……。

 そして、その合宿を終えて翌日から、私は図書室へ行く事をやめ、学校には行かなくなった。
翌週になって、生徒会役員招集日まで。

 その日、時間に余裕を持って向かえば、生徒会室には亮太しかいなかった。
「あれ?1人?」
「おう。休み中だから、皆来るのギリギリぐらいじゃね?」
「そっかぁー。じゃあ先に図書室寄ってきても良かったなー」
別にこれと言って話すことも無く、する事もないので、帰りに返却する予定の本を出してページを捲った。気に入った場面だけを、また読んでおこうと思って。
 クーラーの音が聞こえてくる中、亮太が話しかけてきた。
「なぁ、瀧野の奴、ふつー?」
それが何を言わんとしているのか分からなくて、そう切り替えした。
「別に休み中って顔合わすこと無いし、普通と聞かれても分からないんだけど?」
読んでいたページに指を挟んで、顔を向けた。
すると、亮太はつまらなさそうな様子で言った。
「ふぅーん。なんだ、ホントに何もないんだな」
「何の話?」
思わず眉間にシワが寄る。何を言っているのかが分からない。
それを非難するように、ちらりと視線を向けて呆れたように言ってくる亮太。
「最後の親睦会の夜、1人爆睡だったろ?」
「ああ、ジュースだと思って飲んだのがさぁ、お酒だったみたいで」
「ああ聞いた聞いた」
その話はそれ以上するなと言わんばかりに、手をひらひらと振る亮太。
「途中話していたのは覚えているんだけど、……どうやって部屋に戻ったのか。誰も何も言わないし」
「え!?」
亮太にしては珍しい反応に、私は真顔で答える。
「わたくし、朝まで熟睡してました」
「マジで?」
頬から手を離し、亮太は身を乗り出していた。
でも私には何なのかわからない。反応しようがない。
それに呆れたように小さく息を吐いた亮太は言った。
「瀧野が起こしても起きない春日を、こう抱っこして運んだんだよ」

!! そんなバカな!!

「嘘っ!!」
口から出た声の大きさに自分さえも驚いた。だけど、それ以上に驚いたのは亮太の言った言葉で……。

「紛れも無い事実だよ。おい、……本落ちたぞ」

私の珍しい反応に、亮太も驚いているようだった。
声を出した拍子に落ちたらしい本に、屈んで手を伸ばした。
「襲うのか、それとももう襲った後かって聞いたら、しねーし、してねーよって言った瀧野は中々面白かったけどな」
その時の事を思い出すように言った亮太のその台詞に驚いた私の体は勝手に身を起こそうとして頭を机にぶつけた。
「あいたたたたた」
それは結構な衝撃だった。
それが功を成したのか、頭の中にあの晩のことが思い出された。

 温かい居心地の良い肩から固い板に寝かされて少し意識が戻った時の、
−「他の男だったら襲われてるよ……」− 

心臓がどき!と高鳴った。それに反応するように頭を上げてしまって、再度机にぶつけた。
あまりの痛さに動けない……。
「おーい、大丈夫かぁ?」
「……いたい」
ぽつ、とそれだけ言うと、元の場所に座り机の上にうつ伏した。ぶつけた頭を抱えるようにして。
もう、それ以上訊いてくれるな。そんな思いで。

ぎゃあ〜〜〜、もうやめて〜〜。
頭の中で同じ台詞が彼の声でぐるぐる回っている。
もう、パニック状態。
頭はぶつけて痛いし、胸は激しく音をたてているし、恥かしいし、……。
もう顔合わせられないよー!
絶対私、変になるー!

……あ、今、夏休みで本当良かった……。

「あ、そうそう、他の奴は誰も知らないからな。安心しろ」
そんな亮太の言葉が、今は何の慰めにもならない。
「……そう、ですか……」
だからと言って、問題が解決したわけでも無く、何の力も湧いてこなかった。

 生徒会の用事が終わり、一人で図書室への道を歩いている。
向かう途中で、彼に会ったらどうしよう、なんて思って心臓は落ち着かなかった。
だけど、途中、校庭まで目が届く場所に出て、運動部がそれぞれ活動を行っているのが見えると、私は小さく息を吐いた。
その光景の中には、テニス部も練習をしている。あの中に彼もいる。
安心したような、どこか寂しいような気持ちになって、そのまま図書室への道を進んだ。

 その日は、いつものように何か面白そうなのはないかと探す気にもならず、次に読もうと思っていた本を1冊だけ借りて、長居はせずに静かなその空間を後にした。
その通り、下駄箱に向かう道は静かだった。他に生徒が来る気配も無い。
それに、私の予想は外れたのだと知る。
今日は彼と会うことは無い。
そう思って、安堵の笑みが浮かんだ。
辺りは静かで他の生徒がいる気配も無くて、今は夏休みだと言う事を改めて知る。
ああ、良かった……。
そう、思った時だった。

耳に土を踏む音が届いて、……誰かが来たようだった。
それは図書室に用事のある人なのだろう、程度にしか思わなかった私はそのままゆっくりと歩いていた。
だけど、その人はそこで足を止めたまま動かなかった。
何故か呼ばれているような気がして顔を上げ、その場所に目を向けた。
すっかり安心しきっていた私は、その相手を見て動きが止まった……。
 それはテニス部の練習に参加しているはずの彼だった……。

なぜ、彼がここに?

思っても声に出せないその問。
今はどこも練習を行っているはずで、コートから図書室に向かう途中の道が見えるといっても、気付くことは皆無のように思っていたのに。
 いつもなら、自然と言葉が頭に浮かんできて、笑顔でそれを口に出来ているのに。
なぜだか、今は何も言葉が浮かんでこなかった。
何か言わなくちゃ。でも、何を言おう?何も浮かんでこない……!

「……覚えてる?」

困っていたら、先に彼が声を出した。
何かを探るように、何か躊躇うように、何かをすぐにやめることが出来るように言った彼。
その時の私は、余計なことは何も考えられなくなった。
だけどそれが、あの晩の事を聞いているのだと言う事はすぐに分かった。
でも、どれの事を聞いているのか、わからない。
頭の中でぐるぐる回っている台詞は1つじゃなかったから……。
あの晩の事を又思い出して、心臓は騒がしく鳴り始めた。
体も強張ったように動かない。何をどうしたら良いのか分からなくて、そんな自分を隠すかのように、取り繕うように言葉を並べた。
「あ、えと、私、話の途中で寝ちゃったんだよね?凄く眠くなって、……あの、ごめんね」
話せば話すほど、恥かしくなって顔が見られなかった。段々と俯いていく顔。
それでも、彼の返答は何も無くて、不安になってそっと彼に目を向けて見た。

 困っているように見えた。いつもと、何かが違う。
いつもの日常が壊れてしまうのではないか、という不安が私を襲った。
自分さえも普段と違う。それさえも気まずい。
どうにか、この状況を打破しなければ。
「あと、部屋まで運んでくれたって聞いたんだけど、重かったでしょ。あのごめんね、ホントに……」
話題を変えようにも、変えることの出来ない私。
こういう時、本当に自分が情けなくなってくる。
言っていて恥かしい……。
「それは、いいよ、気にしなくて」
言葉だけを取れば、いつもの彼の台詞だったのかもしれない。
だけど、いつもと雰囲気が違っていた。
何か他に言いたげな様子。
だけど、今の私にそれを汲み取る事はできなくて。
心臓はばくばくと騒がしいままで。
間にある、変な緊張感が、私を圧迫してくるようだった。
彼のそれが、本当に言おうとしていることを聞くのが怖く感じていた。

「あと、何か、言いかけてた時、だったよね・・・・・・?」

何度も思い出しては一人恥ずかしさに悶絶していた。
だけど、その度に最後に思うことは変わらなかった。
そう聞いて、やはり気になっている私はちろっと目を向けた。
 彼は何かを言おうとして口を開けたが、すぐ閉じた。垣間見せた躊躇いと共に。

な、なんだろう……?
奇妙な沈黙がその場を包んでいた。
返答してくれない彼に、私はこれ以上聞くことは出来ないでいて、それでも次から次へと襲い来る緊張に目が回りそうになっていた。
 その場は静かなのに、彼は何か言いたげに、じ……、と見つめてくる。
なんなんだろう?私、何か言ってはいけない事を言ったんだろうか?
分からない。……どうしたら良いのか分からない。
出来る事なら、この場から逃げ出してしまいたかったのに、その彼の瞳から不思議と目を離すことが出来ないでいた。カバンを持つ手に自然と力が入っていた。抗うことの出来ない強い何かに、そうすることによって自分を必死で保っているかのように。
 自分の頬が紅く染まっていくのを感じても、それでも動けなかった。
なんでこんな状況でお互い無言になってるんだろう……。
頭の中には、あの晩の事がちらちらと浮かんでいるのに。
たまらなく恥かしかった。

先に動いたのは彼だった。
彼は、す……、と目をそらすと、洩らすように言葉を言った。
「……ごめん、なんでもない。うん」
一人納得させるように言った彼。
そして、ゆっくりと校庭に向かう道に向け足を進めた。

彼はもう背中を見せているのに、もうそこから解放されて良いのに、目が離せなかった。

数歩歩いた所で、彼は何かを思い出したように足を止め、振り向き言葉を放った。
「……無防備な寝顔だったけど、襲ったりとかしてないから。他の男なら無理だろうけど」

きゃーーー!!
心の中で溢れる自分の叫び声。
決してそれは声に出せないけど。
そして、それに反応するかのように顔がこれ以上に無いくらい真っ赤に染まったのを感じた。
もう、茫然自失状態だった……。
心臓だけが動いているのを主張していた……。
私、なんでこんなに、おかしくなっているんだろう……?

自分に問いを思い浮かべてみても、頭は何も考えられない。
彼の言葉の意味も考えなくてはいけないのかもしれないけれど、今の私には無理だった。
彼の姿が見えなくなっても、私はまだ動けずにいた。
目はまだ彼の背中を追っているような、そんな感じだった。

ああ、今このまま時が止まってしまえばいいのに。
もう何も考えなくてもいいように。
また彼に会ってしまって、何かを言われないように。

だって、私は自分が思っている事を彼には言えないのだから。

 この次に彼と会った時に平生でいられる勇気が欲しい。
私はそっちを強く思った。

2006.2.18