時の雫-美音

零度の距離


2

§3-§4 

 本日が終了して帰る頃は、もう本当に真っ暗だった。
今の私なら一人で帰れないけど、自転車通学の野口君が駅まで送ってくれるから大丈夫だった。いつもなら、一緒に並んで歩いてくれるんだけど、時間が遅いからという事で後ろに乗ることになった。
本当は乗りたくなかったんだ。思ったより重い、と思われるの嫌だし。
だけど、渋っていた私に亮太が言ったから。
「暗くて遅いから乗せてもらえよ。野口もその方が早く帰れるだろう」
全く反論の余地無しのその台詞。そう言われちゃ、従わない訳にはいきません。
私の事、分かってるから言っただろうその台詞。
 大人しく後ろに乗ってサドルの下に掴まるように手を固定させた。
さすがに腰に手を伸ばせません。無理です。
後ろに乗るだけでも、少し心臓がどきどき言っているのに。これが私の限界だよ。
ちなみにときめきではないです。
 そんな中、駅に近い場所で生徒を一人見かけた。
すぐ思った。あれは彼だって。
何故だかはわからないけど彼の姿が分かった。
 駅前で下ろしてもらい野口君とは別れた。
彼を遠目で見かけたからといって、待っていると言うのも変だな、と私は思った。
そう言う事をするのって、本当に仲が良くなくちゃ出来ないと思うから。
 改札口を抜けホームに上がり、到着した電車に乗ったけど、彼の姿を見る事はなかった。
駅に着いてホームに降りても彼の姿は見当たらなかった。
もしかしたら、見間違いだったのかも。
 彼だと思ったんだけど。
ずっと彼の事を気にしていた私だった。
意外に気落ちした私だったんだ。

そっか。あれは彼じゃなかったんだ。
そう落胆した気持ちで思った時だった。
「体育祭お疲れ様」
すぐ後ろから飛んできた声に、本気で驚いた私の体は勝手にビクッと反応した。
だって、それはもう絶対ありえないって思ったんだから。
だけど、心の驚きとは別にその場を取り繕うように口から言葉が勝手に出ていた。
「あ、瀧野君。……駅の近くですれ違ったの、そうだったんだ」
「? え?全然気が付かなかったけど」
そう言いながら彼は横に並んでくれて。
 一緒に歩いてくれるのかな?
そう心の中でひっそりと思いながら、ゆっくりと歩き出した。
 そうすると、彼はごく自然に私の歩幅に合わせて歩いてくれる。
私を歩道側にして適度な距離をその肩でとりながら……。
 彼のその、優しい気遣いが私には分かっていて、凄く穏やかな空気を感じていた。
私にとってそう言う事を初めて感じるのは、この人が初めてだった。とても不思議な気持ちだった。

話題は生徒会役員の1年の子達になっていた。
野口君の話になって、彼の事を気に入っている私はつい素直に言っていたんだ。
だけど、彼はそれを違う意味にとったらしかった。
「あー野口君ね。彼は気のつく良い子だよ。私の部下にしておきたいくらい」
「……部下、ね」
そう言った時の彼の表情がやけに重みがあって口元は笑っているのに目は何だかいつもと違う様子でどこか冷ややかだったから。
 異性を気に入ったと言うと、そういう意味になってしまうだろうか?
私的には「かわいい」っていうマスコットみたいな感じになるのだけど。
 なんて言おう?
そう思って彼の顔を目にした時、どこか気まずそうな顔をしているのを見た。
そんな事を言うつもりではなかった、というような顔だった。
だから、違うよ、という意味も込めて言ったんだ。
「部下だよー?下僕じゃないよー?」
だけど、彼は私の予想外の反応で、なぜだか吹き出していた。
「ええぇえ?なんで笑うのー?」
「あ、ごめん、つい。悪気はないです」
「じゃあどういう意味だったの?」
瀧野くん、私はそこが知りたい。私、何か変な事言ったでしょうか?
「……え?」
え?ってなに? なんでそんなに驚いた顔で見るの?
私がわかってないから?
気になる。すんごい気になる。
「え、と、悪い意味で言ったんじゃないけど、すぐに悪い方向にとったから、さ」
どこか困ったような表情でそう言った彼。
本当にそれだけ? もっと違う意味があったようにも聞こえたんだけど。
「そーかなぁ?」
「そう、だよ」
何か腑に落ちない。
だって、誤魔化しが利いて安心したような顔してる。
何か隠しているような感じがする。
「そう?」
本当に?
念を押すような感じで私はそう訊ねた。
彼の真意が知りたかった。
「そ、そう」
だけど、彼は変わりなく再びそう答えた。
 もう。気になるのに。
だけど、彼はそれ以外答えてくれない。
きっと、彼はこれ以上訊ねても言ってくれないだろう。
そんな気がする。なんか手強そうだもん。
 あーあ、素直に彼の言った事知りたかっただけなんだけどな。
横を歩く彼の顔を目にして、それ以上聞く事を諦めた。
 ……彼が言った事を素直に受け止めよう。
彼がそうだと言うのなら、そうなんだろう。
そう思ったら、素直にそう思えた。

 そう思うこと自体、私には不思議な事だった。

何故だか彼の事は素直に受け入れられる。
彼といるこの時間がとても居心地が良かった。
いつまでもこの時間に浸っていたいと思うほど。
 一人でいる時の、あのつらさが嘘のようだった。

 瀧野くん。

心の中で彼の名前を呼んでみて、私の中には何とも言えない感情が渦巻いていくようだった。心が躍るような嬉しい気持ちとどこか切ないけど穏やかになる気持ち。

 なんでだか、この気持ちを全部彼に打ち明けてしまいたい気持ちになっていた。
伝えてしまいたい思いが、確かにこの時はあった。

 私、瀧野くんのこと……

 なんて言葉にしたら良いんだろう。
どうやって気持ちを言葉に代えたらいいんだろう。
 伝えなくちゃ、という気持ち。伝えたい、という気持ち。
それに相反するかのように、心臓は少し賑やかになっていた。
なんだか、手に汗もかいているような。

 そう、このとき私は何かを彼に伝えようとしていた。
この時までは。

 ふと私の頭に、学校で昔の話が噂されない事を思い出した。
次の瞬間、私は口にしていた。
「そー言えば、同じ中学の子って他にいたっけ?」
微妙な沈黙の後、彼は言った。
「男子は後4人いたと思うけど」
「そんなもんだっけ?」
「結局受かったのがその人数みたい。まぁ、殆ど野田高校に行ってるから」
「あー、そうだようねぇ」
そう言いながら私は頭の中でぼんやりと考えていた。
 あー、だから、噂されないのか。昔のこと。
ああ、その理由もあって、ココ受けたんだっけ。忘れてた。
 そして、頭の中にリフレインされる、彼の微妙な間と、「野田高校」。
「……うん」
彼の、どこかぎこちない声。

 それで私はアノ人の顔を思い出していた。
忘れていた事実。途端に心臓は嫌な音を奏で始めた。
今はもう望まない現実に視界が狭まれて行くようだった。
 ああ、そう言えばそうだったんだ。
突きつけられた現実に、私は目がかすむような感覚になっていた。
 そうだった、みんなの中で私はそうだったんだ。
今はすっかり忘れていたけど。
だからタカも、この間、学校での事を話してくれていたんだ……。

だけど、少しの望みをかけて、私は聞いたんだ。
「今でも、中学の子と付き合いある?」
 だけど、それはすぐ打ち砕かれる。
「えと、たまに電話きてるみたいで。……まぁ、いろいろ」
彼のその言葉と、その顔が、アノ人の事を言っているのと分かった。
 彼がアノ人のことを私に対して気にしているのが十分わかったから。

「そう」
やっとの思いでそう言った。

 冷たい水を頭から被せられた気分だった。

彼とアノ人は友達。
凄く仲が良い。

「……仲良かったから、知ってて当たり前、だよね……、私の事……」

それに彼は何も答えてくれなかった。
呟くように言ったため、もしかしたら彼の耳には届いていなかったのかもしれない。
 だけど、私は沈黙を肯定だととった。
だって、それ以外ない。
 彼にとって私は特別な何かになる事はない。
彼は優しい人だから助けてくれるだけで、今までの事をちゃんと分かっていて知っているから、知らないフリをしていてくれるだけなんだ。
だから、彼と私はどうにかなるって事はないんだ。そうなんだ。
彼の中で、私という存在はアノ人との繋がりみたいなもので……。

 私は、芽吹いていたそれを無理矢理箱の中にしまい込んで蓋をした。

家の前に到着すると、彼は笑顔を向けて言ってくれた。
「じゃ又学校で」
「送ってくれて、ありがとう」
自然と私も笑顔で言っていた。
私が手を振ると、彼もそれに答えてくれて軽く手を挙げてくれた。
それが何だか凄くさまになっていて、少し胸がドキッと鳴った。

段々遠くなっていく彼の後ろ姿から私は目が離せなかった。

 さようなら。

心の中でそう呟いた。
それは、花開こうとしていた自分の心の中にあった想いに。

 意識の奥底で、私は気持ちをなかった事にした。
きっとこれは気付いてはいけないものだから。
 何もなかった事にしよう。
 そうする事以外、私にはないのだと諦めるように静かに目を伏せた。

 彼との間に「何か」は、ありえない。
それが現実なんだと、私は感じていた。この時に。



 そうして私は思い知る。
この後に。

一度芽を出してしまったそれを種に戻す事はできないのだと。
生まれた気持ちをなかった事にはできないのだと……。

2005.11.17


あとがき