時の雫-美音

零度の距離


§3 

 不意に彼が差し出してくれた傘は、雨音を心地よい音に変えてくれた。

 朝急いでいて、母に傘を持っていきなさいと言われていたのに忘れてしまった私は、雨が降り出していた帰りに下駄箱の所で悩んでいた。
止みそうのない空を眺めて、自分の愚かさに怒りを感じていた。
 もう諦めて濡れて帰ろうと足を出そうとしたその瞬間だった。
「これ使って」
急に頭の上から降り注がれた言葉と、目の前に差し出された男物の折りたたみ傘。

急に空気が変わったのを感じた。

「え……?」
思わずそう声が出て、促されるまま傘を受け取って振り返ってみた時には、待っているテニス部谷折君のところへと向かう瀧野君の後ろ姿があった。
  ……本当に借りて、いいのだろうか。
そう思ったら、丁度谷折君が意味ありげな笑みと共に言っていた。
「いーのかよ?」
それに平然と答える彼。
「部室に置き傘あるから」
彼はそう言って、そのまま行ってしまった。
 見えなくなってしまった彼。
それから私は手の中の傘を見つめ、柄にもう片方の手をかけた。
 そして、また言いそびれた言葉。
「……ありがとう」
彼に届くわけではないんだけど、言わずにはいられなかった。

 彼の優しさは、私の心を風のように撫でていく。
耳に届く雨音。視界に映る雫。
 それらが私の心を昔へと誘っていく。

 中学の時、彼と同じクラスになった事もなければ、隣のクラスにさえなった事はなかった。
ただ、1年の時、同じ委員会だった。 私と、彼と、アノ人と。学級委員だった。
ただ、ぼんやりと顔を目に映した事がある位で別に何もなかった。
 廊下を歩いていて、突然後ろから声をかけられたのは覚えている。
多分、アノ人と一緒にいた彼。
「3組の実行委員の人」
「? なに?」
そう言って振り向いた。
付き添うようにいた8組実行委員のアノ人と、私を呼び止めたであろう7組実行委員の彼。
「これ、渡すように頼まれて。次の時間のホームルームの議題」
差し出されたプリントに目を向けて、言葉を口にしながら受け取った。
「あ、わざわざごめん。ありがとう」
目はプリントに向けたままで、ある内容の所で私は目をとめた。
それが分かったのか、当時の彼は訊いてきた。
「何?どうかした?」
「え? あの、この卒業式出席って、男女各1名じゃなかったけ?ここには1名しか書いてないけど」
「え?」
そう言って、プリントを覗き込んできた彼はすぐそれに気付いたみたいだった。
すると彼はすぐポケットに入れていた生徒手帳を出し白紙のページを開いて確認していた。
彼はそこに委員会での事をメモしているみたいで。
「あ、本当だ。 先生に言っておくよ」
「……ごめんね、お願いします」
そう言って私は笑顔を向けたんだった。
 彼らと別れ、私は向かっていた方向に進んでいった。
そこで聞こえてきていた彼らの声。
「向こうが気づいたんだから、向こうに行ってもらえば良かったんじゃないの?」
というアノ人の言葉。少なからずその時はムッとしていた。私。
「んー、そうかもしれないけどさ、教室遠いし悪いと思ってさ」
「ふーん」
彼の優しい気遣い。
 なのに、私はこの後にアノ人に恋をした。 彼ではなくて。

 そして、時期的にはその後。
中2になってすぐの頃か記憶は定かじゃないけど、お母さんから初めて聞いたんだった。
「美音、瀧野君って知ってる?」
「? 知らない」
「知らないの? 3人兄弟で真ん中の子が美音と同じ歳なんだけど」
「知らないよ。その人が何?」
「役員で一緒になったんだけどね、気が合ってよく一緒に出かけたりしてるのよー」
「へぇ。そんな歳になっても友達なんてできるんだねー」
「……。あんた、何さらりとひどい事言ってんのよ」
「で、タキノ君って下の名前なんて言うの?」
「圭史君」
「けいし?やっぱり知らない」
委員会が同じでも、彼らの名前まで私は覚えていなかったから。
 友達に教えてもらって、アノ人の名前を教えてもらったんだ。
だから、中2の1学期始業式では、必死になってクラス発表を見ていた。
アノ人は、4組。そこにお母さんが言っていた名前を見つけた。
 私は7組で3クラス離れている事に少し落胆したんだった。
だけど、姿見たさに私は毎日、休み時間になるとそのクラスの友達の所へ通っていた。 友達とお喋りしながらずっとアノ人を盗み見していたんだ。
アノ人はいつも同じメンバーと一緒にいた。 それは勿論、瀧野くんと川口君という子と。
その頃はまだ二人の名前なんて知らなくて。

 5月、中間テストが終わったその日、私が所属していた陸上部は練習がお休みで家で一人ぼーっとしていた。 家にはお母さんがいて出かける準備をしている様子だった。
 名前を呼ばれて下に下りていくと、お母さんは機嫌良さそうに言った。
「暇だったら、美音も一緒に行かない?」
「どこに?」
「前言っていたお友達の所に行くのよ」
「……じゃあ、暇だし行こうかな」
 そう、向かったのは彼の家。 おばさんは笑顔で迎え入れてくれた。
リビングに入ると、おばさんが座る横の位置に小学生の男の子がいた。
テーブルに置かれているお菓子を食べていたその手が、私と目が合うとピタリと止まっていたんだ。
「?」
不思議には思ったんだけど、とり合えず挨拶を口にした。
「こんにちは」
だけど、その子は目を伏せてしまって返してくれなかった。
「こら、ご挨拶なさい」
「……ちわ」
それからその子は伏せ目がちのままゆっくりと手をお菓子に伸ばして時折ちらっと私のほうを見てきていた。目が合うとすぐに逸らされてしまうんだけど。
 どうやら私は人見知りをされているみたいだった。
時間が経って、その瀧野3兄弟の末っ子、広司君がゲームに誘ってくれた。
リビングにあるテレビでしたゲームはすんごく楽しかったのを覚えている。
 結局、その日は彼とは顔を合わせなかった。

「顔を合わせた」のは、それから暫くしてからのことだった。
部活中、教室に忘れ物をした事に気付いた私は、練習が終わってすぐ取りに行った。
だけど、鍵は閉まっていて扉は開かなかった。前後両方の扉とも。
今週当番の生活委員(他の学校で言う所の風紀委員)は、ちゃんと見回りを行っているみたいだった。
 うわ〜、どうしよう〜 内心困って両手を顔に当てたとき、同じ廊下にいつから立っていたのか分からないけれど、彼が声をかけてくれた。
「忘れ物?」
はっとして顔を向ければ、体操服を着て生活委員の腕章をつけた彼がこちらを見て立っていた。その体操服には学年クラス名前が書かれたゼッケンが付けられている。
それは学校の決まりごとだった。
 2−4 瀧野
「う、うん」
「じゃ、ちょっと待って」
そう言うなり手に持っていた鍵の束から一つを外してくれた。
「はい」
「あ、……」
差し出されたそれを少し躊躇いながら手を向けて受け取ると、彼はすぐその場からいなくなった。 とりあえず私はその鍵で扉を開けて教室に入り忘れ物を取ったんだ。
だけど、鍵を返そうにもその後彼の姿が見つけられなくて。
必死で探し回ったけど見つけられなかったんだ。
そこへ丁度通りかかった、私の幼馴染でもある戸山貴洋、タカに声を放った。
「タカー、4組の瀧野君って知ってるー?」
「おー知ってる」
「じゃ、これ渡しといてー。教室の忘れ物取りに行ったら閉まってて、丁度通りかかった生活委員の瀧野君が貸してくれたんだ」
「おー、わかった」
「助かった、ありがとうって伝えておいてね。ちゃんとよ?」
「了解。ちゃんと伝えておきます」
 たった、それだけの事だった。
でも、1年のに委員会の事で呼び止めて、そして疑問を確かめに行ってくれた、あの時の彼と、その時の彼が同じ人だったって事に気づいたのは少しの時間が経ってからだった。そして、その人が母の話していた子だなんて。すごい偶然だとも思った。
彼は私の中で「優しい」というイメージに固定されていた。
 彼はいつだってアノ人と一緒にいた。 でも当時の私の目に映るのはアノ人だけで、……彼の事は知らない……。


 私は彼の傘をこの腕で抱きかかえる様にしてぎゅっと握った。
何故だか、その事が無性に悲しかった。
 私は、何を見ていたんだろう。 優しいのは彼の方だったのに。

 私がアノ人に恋をしたきっかけを今でも覚えている。
本当に何気ない一瞬だった。 優しくしてもらったとか、特別な事をしてもらったとか、そういう事じゃない。  ただ、アノ人のいる教室の前を通っただけだった。
そのクラスの扉は開けっぱなしになっていて、そこから見える教室の様子で分かった。
そこのクラスはまだホームルームが終わっていなかった。
学級委員のアノ人が教壇に立っていたから。
「静かにして!立候補いないんだったら抽選にするけど異見ある人!」
それはきびきびとクラスを纏めて進行する姿だった。
 私の周りにそんな人はいなかった。 だから、恋に落ちた。

 それは高校に入学して夏が終わるまで気持ちを引きずった。

私がアノ人を好きだという事は同じ学年では公然となっていた。
 何故広まってしまったのか、その理由を今でも覚えている。
クラスの同じグループの子が「春日美音が好きだから」という理由で振られて、私は当時散々な目に合った。 友達だと思っていた子達に嫌がらせを受けたりして、理由を知らなかった当時まだ幼い私は、感情が抑えられなくなると、人があまり通らない校舎の裏の隅っこで一人でよく泣いていた。
嫌がらせが次第にエスカレートしていくと、「負けたりするもんか」という気持ちになって堪えて頑張っていた。次第に慣れてくると、性格上、いつまでも大人しいままでいられない私は、ある日、反撃の烽火を上げた。 それが言い合いになってそもそもの理由を知った時、私ははっきりと言ってしまったのだ。
「ばかじゃないの?!その男子がそんな事言ったって、私がその子の事好きなわけないじゃん!そんなの八つ当たりじゃない!それに私が好きなのは4組の辻谷くんだもん!」
今思えば、バカだと思う。何もそこまでバカ正直に言わなくても良かったのにね。
……でも、そういう事繰り返して人間て成長していくんだよね。
あの時の私がいなけりゃ、今の私はいないもんね。
 それがきっかけで、あっという間に噂は広まった。
本人目の前にしてからかわれた事もあった。
 その辻谷君と2年の時同じクラスで、3年間同じクラブで、仲の良かった瀧野君が知らないはずが無い。当時、私は周りの子に冷やかしをかなり受けていたから。
 それに、瀧野君が私を相手にする時は、すごく気を使ってくれているのが分かっていたから、本当に必要な時に必要なこと以外は話せなかった。

 中3の頃、周りは私が野田高校を受験するものだと思っていたらしい。
まぁ、殆どの生徒は野田高校を受験したんだけど。 アノ人が野田高校を受験するだって事は雰囲気的に分かっていた。 だから、多少なりとも迷ったけれど、冷やかしていた子達の殆どが野田高校に行くのだろうし、今まで同じ生活を送るのもどうかな、と思ってやめたんだ。
担任の先生に「春日さんは野田高校にランクを落とす必要はないよ、十分に挑戦してみる価値はあるよ」と言われた。 そして、南藤高校は学校行事の殆どが生徒の手に委ねられていると聞いて、それなら今までと違うことに頑張ってみようと、そこを受験することに決めたんだ。
 今までと違う世界に飛び込んでいきたかったから。
 中3の時に受験する高校が全て決まり終わってから、初めてお母さんから聞いた。 瀧野君も南藤高校を受験するんだって。 お母さんから聞いて数学が出来るのは知っていたけど、他の教科もそれなりの成績なのだと、その時初めて知ったんだ。
南藤は学年でも数えられる位の人数しか受験しないから。
大概の人は、この中学に通っている人なら徒歩で行ける野田高校か自転車通学の出来る深山高校を進路先に希望するから、瀧野君も野田高校に行くのだと思っていた。
 高校に入ると、私は生徒会に立候補した。無事当選してからは、毎日忙しいけれどそれなりに楽しい生活だった。
でも、それでも、辻谷君のことを思い出すことは止まなかった。
そして、たまに瀧野君を見かけると、今でも交流あるのかな、とか、思ってしまう自分がいた。
 結局、野田高校の文化祭に行ってみて、ホントに諦める気になったんだけど。
その後、気分で付き合ってみた人のお陰で、辻谷君の事は頭からすっぽり抜けていったんだけどね。
 今、思えば、私はアノ人に理想の塊を向けていた。 ぐいぐいと違う世界に連れて行ってくれる人を望んでいた。 自分よりもしっかりした意見を持った人を、一緒にいて肩を並べて進んでいける人を。
 それに気付いた時、不思議なくらい私の中から今まで在った想いは消えていた。


 傘を借りた翌日の朝、晩に拭き取って部屋で干していた傘を丁寧に畳んでいた。
それをカバンに仕舞い、学校に向かった。 向かいながら、どうやって返そうかと考えていた。
 本当は手渡しでお礼を言って返すのがいいんだろう。 だけど、なんでだか憚れた。教室に持って行けば、注目を浴びる。 特に、彼とよく一緒にいるあの男子たち。本音を言えば、少し苦手だった。
 ……下駄箱に入れておこう。
貸してくれたお礼をしたくて、頭に浮かんだのは、彼がいつも選んで飲んでいたドリンク。 スポーツドリンク。それを下駄箱に向かう前に自動販売機に行き買った。
それを傘と一緒に下駄箱に入れて教室に上がっていった。
 だけど、結局後悔の念に囚われていた。 結局、傘を差し出してくれた時も、返す時も、お礼をちゃんと言えないままになってしまったから。
 なんで私ってその時にちゃんとお礼が言えないんだろう。
休み時間もそんな事を考えていて私の眉間にはしわが寄っていた。
廊下を歩いていると、耳に聞こえてきた声。
「あ」
その声は彼だった。
反射的に顔を上げると、微笑を浮かべた彼が前にいた。彼も1人で。
「アレ、わざわざありがと。別に良かったのに」
笑顔のまま紡がれたその台詞だった。
それを、私は思わず見つめていた。
数瞬後、はっと気付いて、朝からの胸の痞えを外すように口を開いたんだ。
「ううん、こっちこそ、ありがとう」
やっと言えたお礼。
今手に持っているものを思い出し、私は聞いた。
「え、と、瀧野君て飴食べる?」
「? うん、食べるよ」
少し不思議そうな表情だった。
私は笑顔になって手首に巻き付かせていた布巾着の中から飴玉を2個ほど取り出し、「はい」と飴を握ったままの状態で差し出したんだ。
彼は促されるように手の平を向けた。だから、その上に飴をコツンと落とした。
そして、すぐ笑顔になって言った。
「これもお礼。傘貸してくれてありがと」
自然と出た笑顔。それは自分でも分かった。
気持ちが軽くなった私は軽くなった足で教室に戻った。

中学の頃だったら、考えられなかっただろう。
 彼とこんな風に接するなんて。
これもまた、彼の気遣いなのかしら?
私の口から自然と零れる笑み。

「瀧野くんって、やさしい」
声に出した、私の思いだった。


 【あとがき