時の雫-美音

零度の距離

2

§2 

 その日も先生方から解放されたのは夕暮れ時だった。
今月に入ってから、頭が痛くなる事ばかりだった。
周りは私を次期会長に推す。 だけど、私は会長をやる気はなかった。
轟会長を見ていて、凄いなぁと思う。まぁ、何も轟会長のようになれ、っていう訳じゃないのはわかってる。自分の形でやれと言うのは分かってる。
だけど、私では無理だと、何度も言った。
私が欲しいのはそのポジションじゃない。皆をまとめること、できない。 仕事している時、私は血の気が多い。今までだって、いつだって、亮太と喧嘩みたいになった事は数え切れないくらいある。
毎日のように同じ事を言い、一日のうちに何回同じ事を言っているのかわからない。
  私は悶々としたまま学校を後にした。

 今月に入ってから良くない事ばかりだった。
 校門を出て駅に向かう道はいつもと変わらない光景だった。
ただ違うのは、いつもと違って生徒の姿が見えない時間だという事。
生徒会のメンバーもとっくの昔に帰宅している。
 そして、無意識に出るため息。仕事自体は暇なはずなのに、疲れて沈んでいる心。 ボーっとしていても足は覚えている道を進んでいく。

 ……もしかしたら、ため息がその災難を呼び込んだのかもしれない。

 それは一体いつからあったのか分からなかった。
気がつけば後ろから聞こえてきていたから。 私の歩調に合わせているような足音が。
だから、それを確かめるように様子を伺うように、警戒するように足の速度を落とした。
すると、背後の気配が一瞬そこで停まった。
防衛本能で顔を動かさないようにしつつ、足の速度を速める。
きっと、気のせいだ。と心の中で思うのに、心臓は嫌な音を奏で始めていた。
不安を少しでも打ち消すように足は勝手に早歩きで道を進む。

だけど、後方の足音はぴったりと着いてくる……!

その次の瞬間、背中から戦慄のようなものが走った。
まるで見えない手が伸びてきて巻き付くように私の体に触れるような感覚。
尚、早足になってもそれはぴったりと着いて来ていた。
意識をしっかり保たなければ呼吸するのもめちゃくちゃになってしまいそうで、震えだしてしまいそうな体を必死で堪えて、私は縺れそうな足を懸命に動かしていた。
途中にある、道路の端にミラーで、大きな動作にならないように気をつけて背後の人間を様子見た。けど、顔はよく分からない。
ただ分かったのは、うちの学校の生徒ではないという事。
それだけで恐怖が増すようだった。
パニックになりそうな頭だったけど、私は必死で考えていた。
このまま駅に向かう道を真っ直ぐ行けば、途中細い道が一ヶ所ある。 人気の少ない時間帯。日が沈みかかっているので辺りは段々と薄暗くなっている。 状況は最悪だった。
背中は凍りつきそうな感覚なのに、頬は汗が伝っていた。心臓の音が嫌な音になって体中を駆け巡る。 本当は泣き出してしまいたかった。それぐらい怖かった。
次の曲がり角を曲がって全速力で学校に戻ろう……、誰かしらいる筈……っ そう考えた私は恐怖心で足元を取られないように注意を払いながら、懸命に歩いた。
だけど、気配で少しずつ距離が縮められていくのがわかる それにつられそうになる心。
それは今まで感じた事のない恐怖心。
体中の血の気が引き、堪えても目の端には涙が浮かんでくる。
あまりの恐怖心に足が縺れそうになるのを堪えて何かに縋る思いで必死に歩いた。

曲がり角に差し掛かった瞬間、私は渾身の力を振り絞って駆け出した。
それは本当に寸での差だった。相手も私を捕まえようと足に力を入れた瞬間だったから。
タイミングを逃した相手はバランスを崩したようだった。
私はそのまま一目散に学校に向かって走って行った。
そして、時間を置いて、耳に入った声が脳に届く。 男の悔しそうな声が。

必死の全力疾走。
今でも迫り来る圧迫される様な恐怖心に目に涙が溜まっていた。
壊れてしまいそうになる心を抱えたまま向かう学校に、救いがあるのか分からないまま私は向かった。
それは、一縷の望みをかけて。
 後ろから追いかけてくる音は聞こえないけど、気を抜いたら後ろから掴まられるんじゃないかって思って、ひたすら走り続けた。
 あともう少しで学校だった。
もう空は薄暗くなってきている。
前方に目を向けられるほど、そんな余裕はなくただひたすら走るのみだった。
 そして段差に思い切り引っ掛かった私の足は、もう体勢を整えるほどの力が残っていなくて、そのまま倒れる事しか出来なかった。
「あ!!」
「きゃああ!」
成す術がなく上げた声と同時くらいに、他の人の声が聞こえたような気がした。
だけど、私の頭は何も考えられない。
襲うだろうと予測していた衝撃はいつまで待ってもやって来る事はなかった。
そして、私の体を包むようにしてある感触に気付いたのは、頭でも心でもなくこの身だった。
衝撃に耐えられるようにしっかりと回された腕と庇う様に支えられた胸。
 それは何故か私に安心感を与えてくれた。
それを離さない様に、私は必死の思いでその腕を掴んでいた。
 目に涙が浮かぶほど苦しい器官。必死で呼吸を繰り返す私の頭は明らかに酸欠状態だった。
頭が一向に働かない。
「春日?」
聞き覚えのある声。
それが誰だか分かるのにも、今の私の頭では少しの時間を必要とした。

……彼、だった。

だけど、今の私では声が出せない。
必死でする呼吸が、私の擦り傷をつけていっているんじゃないかと言う位喉が痛くて、乾いてしまった喉の奥が引っ付いてしまってるんじゃないかと言う位痛かった。

良かった。助かった。 怖かった。本当に怖かった。

そう思うと同時に手に力は勝手に入っていた。
そうでもしなければ、震えだしそうだった。
 もうそれは縋る思いで顔を向けて言った。
「瀧野君、一緒にかえろ?」

 ああ、やっぱり彼だった。

彼の顔を見てそう思っていた。
口では既に彼の名を言っているのに、私は何故だかそう思っていた。
自然と離された腕が私には心許無くて、安心を得るために彼の腕をぎゅうっと掴んだままで、やっと得た救いを離してなるもんかと必死でしがみ付いていた。

 瀧野君だった。助けてくれたのは瀧野君だった。
良かった。 彼がいてくれて良かった。本当に良かった。


怖い目に遭った道を今度は彼と二人で歩いた。
心臓は嫌な音をたてていたけれど、彼は確かにすぐ傍にいてくれたのでどうにかその道を行く事が出来た。
 でも、頭の片隅に、今もこうして後を付けられていたらどうしよう、という思いがあった。
だから、駅に着いても電車に乗っても、地元の駅で降りても彼から離れる事ができなかった。
 そうして、ようやっと一人で立ったのは、駅から家に向かう途中にある公園の前だった。
「ちょっと待ってて」と言った彼が、私の所に戻ってきて差し出してくれたのはオレンジジュースだった。
彼は自分の分を開けて何も言わずに飲んでいる。
 何も聞かず、傍にいる彼。
それだけの事なのに、私の心はようやっと落ち着いてきた……。

「……生徒会長、結構ハマリ役だと思うけど」
彼の口から紡ぎだされたその台詞が、数秒経って彼の気遣いだったと言うのが何となくわかった。
それに答えるべく思考回路が啓かれていく。
「あ、でも、もっと穏やかに人の話を聞けて、なんて言うか、いろんな意見を取り纏めていける人が向いてると、思うんだけど……。私がなったら、……私の性格だと、なんか意見の衝突が原因で不協和音が多くなりそうで」
「生徒会長って、もっと手が空いてそうに見えるのにな」
彼は手に持った缶を揺らしながらそう言った。
「会長は教師とか人を相手にする仕事が多いから……。結構私、食って掛かるところがあるから、そういう面で無理かな……」
それは本音だった。周りからの推薦を受け入れない本当の理由。

 でも、瀧野君も言うんだろうか。
私に生徒会長を薦めるんだろうか。
他の人と同じようなこと、言うんだろうか。

 そう思った私の心は暗く沈んでいた。 それは何故なのか分からないけど。
「まぁ、周りが思うより、本人がしんどいと思う事って色々あるから……。 でも、周りは評価してるって事だから。春日の事」
そう言った後、彼はふんわりと微笑んだ。
彼の台詞に、私は自然と顔を向けていた。

それは、春風のように私の心を撫でていった。まるで包まれていくかのように。

「……うん」
零れるように自然と出た返事だった。
「空き缶入れに入れてくるから、飲み終えたんなら一緒に入れてくるよ」
ジュースを飲み終えた彼がそう言って手を差し出してくれた。
「あ、ありがと」
何故だか私は素直に差し出していた。 いつもなら自分でする事なのに。
……彼の声を、魔法のように感じた。

そこから家まで、彼との時間は穏やかだった。 何故だか居心地が良かった。
今まで、彼と面した時はこんな感じではなかったのに……。
「じゃ、又明日学校で」
家まで送ってくれた彼が優しい声でそう言った。
「うん」
不思議と素直にそう返事していた。
心の中で広がる不思議な感情。
心地よいそれに身を任せたまま、あまりにも疲れきっていた私の体はお風呂に入ってから、ベッドに倒れ込むように横になると速攻で眠りに就いた。 私の心も頭も体も活動限界にきていたから。


 その夜、不思議な夢を見た。
真っ暗な中を必死に走り逃げる私。
荒い呼吸で無我夢中に足を動かしてひたすら前に向かっている。
私にあるのは焦燥感。それと恐怖。 じわりじわりと私を蝕んでいくような何か。
それから逃げるために走っていた。
必死に走って、必死に走って、ようやっと前方に光が見えた。
私は顔を輝かしてその中に入ったんだけど、手は暗闇から伸びてきた手に掴まれた。
大きいけれど綺麗な手だった。

 あれ?どこかで見た事ある……?

夢の中でそう思った時、夢の中の私は振り返りその手の主を見た。
 ― 瀧野君?! ―
そう、その手の主は瀧野君だった。
夢の中の彼は私と目が合うと、にこりと微笑んで言った。
 ― 「春日」 ―
 ― 助けて、怖い。助けて ―
 ― 「……俺でいいの?」 ―
 ― うん。瀧野君助けて ―
 ― 「じゃあ大丈夫だよ」 ―
そう言って私を捕まえようと伸びてくる彼の腕。

 はっと、そこで目が覚めた。

 夢? そっか、夢か。 まるで、現実みたいな……。

そう思い始めたときだった。 頭の中で昨日の出来事が走馬灯のように思い出されていく。
 そして、私の顔は蒼ざめていった……。

転びそうになったところを助けてもらって、私は抱きついたまま感謝の言葉すら口にしていない。
帰宅中も怖くて怖くて仕方なかった私は、彼にくっついたまま黙々と歩いていた。
何も聞かず、ジュースを差し出してくれた彼。
余計なことは言わないで話を聞いてくれた彼。
そして、彼だけが「言葉」をくれた。私が心の奥で望んでいたものを。
家まで送ってくれたのに、私は何一つお礼を言えていない。
「私、……私、何してんのー?!一体―……わー!」

普段の自分なら、弱い自分を決して見せたりしないのに。
事もあろうに抱きついたままで助けを求めて。
震え上がる心臓に堪らず、両手で顔を覆った。

会わせる顔がない。 どんな顔して今日学校で会えばいいの? 穴があったら入りたい。時間が巻き戻るのなら巻き戻して欲しい。 ……よりにもよって、彼に。

 不意に頭の中に浮かんだのは、彼が差し出してくれたオレンジジュースだった。

あれ? 彼は知っていたんだろうか? 私がオレンジジュース、好きだって事。 ……偶然、かな。

 そして、頭の中は、昨日の彼の笑顔が思い出されていた。
見ているこちらの心が和むくらいの優しい笑顔だった。
クラスの子達がいつだったか言っていた。 彼の笑顔はたまらないと。あの、どこか人懐こそうに見える顔がたまらないと。
 ……彼は、優しい。 彼の言葉も、態度も、仕草も、……空気までもが。
 だから、ちゃんとお礼言わなくちゃ。

まるで決意のようなそれを抱くと、私はベッドから降りた。
 それはとても、不思議な感情だった。 ある種のやる気が見えていた。
いつもより早い電車に乗って学校に行き、荷物を置くと廊下に出て彼が登校してくるのを待った。
なぜだか、うるさい鼓動を必死で落ち着かせようとしながら、静かな廊下でひっそりと待っていた。

 だけど、何て言おう。 何て言ったらいいんだろう。 満足に会話なんてした事ないのに。 どうやって話していったらいいのかなんて、分からないよ。 何言ってるんだろう、この人。とかって思われてたらどうしよう。

 考えれば考えるほど頭の中はパニックを起こしていく。
何故なのか不思議な事に、私は、彼にだけは悪い印象をもたれたくないと思っていた。
よくよく考えてみれば、中学の時の私なんて、彼からすれば良い印象でもないのに。
 静かな廊下にやって来た足音が聞こえて、顔を向けてみれば彼だった。
途端に緊張しまくる自分に、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうになっていた。
逃げ出してしまいた気持ちを必死で抑えながら彼の元へと向かった。
そして勇気を振り絞って言う台詞。
「あ、あの、昨日は、私おかしくてごめんね。その、行動とかで迷惑かけたんじゃないかと思って、……すんごい反省してて……」
「いや、別にそういうのは全然……」
見るからに挙動不審な私に彼は冷静な対応だった。
昨日の事もあって、尚の事自分が恥かしくなる。
だけど、どうしてあんな様子だったのか説明しなくちゃ。
「一緒に帰ってもらって、すごく助かったから。あの、最初一人で帰っていたんだけど、知らない人に後つけられていたみたいで、それで怖くて学校に戻ったんだけど……」
何をどう言えば良いのか分からなくて、自分が何を言っているのかも訳分からなくなってきて。
だけど、彼が言ってくれた言葉は優しかった。
「1人になったときは、いつでも言ってくれていいよ」
それに私は素直に答えていた。
「うん、昨日は本当に怖かったの」
ちゃんと、お礼言わなくちゃ。 きっと、今の私、顔が真っ赤になってる。
だけど、必死の思いで顔を上げて決死の思いで言った。
「だから、本当にありがとう!」
そしてすぐにペコンとお辞儀をして、恥ずかしさのあまり顔が見れないままの私。
「あの、そ、それじゃ」
耳まで真っ赤だというのが分かるくらい顔は熱に覆われていた。
とりあえず、言わなくちゃいけない事は伝えたので、私は最後の力を出して自分のクラスへと小さい歩幅で走っていった。

 すっごい、緊張した。 すっごい、恥かしかった。
 だけど、瀧野君は優しかった。
それを思うと、恥かしい気持ちはあったのだけど、胸は不思議な気持ちに包まれていた。

 彼と私の距離は、何かあったものではなかった。
決して温かい何かがあった訳ではなかった。
だけど、まだ私の心臓はドキドキとうるさかった。
彼の言葉は、彼の声は、私を不思議な感情に沸き立たせる。

 この時、私の中には予感めいたものがあった。
私が私でなくなるような、そんな予感。
それはまるで小さな恐怖感のようなものに似ていた。


だけど、まだこの時は何なのか分かっていなかった。


あとがき