時の雫-美音
1
§2
その時は何故だか分からなかった。
本当は私、彼の姿はすぐ気付いていた。
だから、彼が私に気付いた頃には、私はもうとっくに分かっていて彼の元へ歩いていた。
実行委員の彼が、この時間にこの教室に顔を出す理由は一つしかないから。
視聴覚室の鍵を取りに来たんだ。
別に不思議な事はない。
だって、この期間は毎日昼になると鍵を受け取りに来ていたから。 だからそれは例外じゃなかった。 生徒会役員立候補募集期間、実行委員は受付場所である視聴覚室に順番で番をしなくちゃいけない。その日毎に当番は決まっていて、鍵を受け取りに来る人は毎日違っていた。
私は彼の目前に辿り着くと分かりきった事を訊ねていた。
「視聴覚室の鍵でしょ?」
「あ、うん」
その返事を聞いて、制服のポケットから束になった鍵を取り出し彼に見せるように差し出した。
ぎこちなく向けられた彼の手の平。
大きな、男の人の割りは綺麗な手。
そんな事を思いながら、彼の手に鍵を置いた。
私が彼に取って貰うように鍵を差し出さなかったのは、彼のその手に触れてしまうのが何故だか気恥ずかしく感じたから。
「昼休み終わっても、そのまま持っててくれていいから。放課後の後は生徒会室に届けに来てもらってるんだけど、瀧野君だったら明日会った時でもいいよ。ちなみに他の人には内緒ね」
その気持ちをひた隠しにするかのように、私の口からはすらすらとそんな台詞が出てきていた。
確かに、他の人であれば、鍵は必ずその日のうちに返却して貰っていた。
彼がその点については信用の置ける人だって事は分かっていたから。
「……うん、ありがと。じゃぁ」
彼のどこかぎこちない返事にも私は愛想よく応えていた。
「うん、よろしくねー」
自分でも本当は不思議だった。 なんで私はこんなに機嫌良く教室に戻っているのか。
彼はいつだって、ぎこちなさを見せていたし、私も彼には必要外のものは抱いていなかった。
私は、彼には近づかなかった。アノ人の事があったから。
……いや、違う。近づけなかったんだ。
それが何故なのかは、分からない……。
その日の放課後生徒会室で、ぼんやりと頬杖をついて外を眺めていた亮太が言った。
「ちょっと様子見に視聴覚室行って見るか」
「……ふーん」
横目で見ながらそう口にした私だった。
立ち上がり扉へと向かう亮太は、一向に動かない私を見て言う。
「おい、何してんだよ」
あ、私も行くのね。 さっきの台詞が私への誘いのものだったらしい。
そう解釈して椅子から立ち上がった。 すると亮太は気が済んだ顔をして再び歩き出した。
あれ? 確か今日の当番って……。
歩きながら思い出した私の頭。
視聴覚室の扉を開け、中に目を向け確認。
やはり彼はそこにいた。
一番近くにいた実行委員のもとで足を止めると、その横に付き添うような形で亮太も足を止めた。亮太は両手をズボンのポケットにいれている。
言葉を交わしているうち、その実行委員は訊ねてきた。
「そう言えば、次の生徒会長は誰が?」
そう、それで私の頭は今いたい……。
「それなんだよねー。今ちょっともめてましてねー」
「もめさせてる本人のくせに」
亮太のそれを耳にして睨みつけながら言い返す私。
「そっちが快諾してくれれば話は済むでしょ」
すると亮太は知らん顔で言う。
「俺は会計志願だから」
「うう〜」
私には会計は出来ない。だからそれを言われると何も言えない。
その後、言葉を交わしているうち、腹が立った私は亮太の足にゲシッと蹴りを入れて、どうにかそこで気持ちを落ち着かせた。 ……はずだった。
こともあろうに亮太はそのままよろめいて行き、彼の所で足を止め、これ見よがしに言ったんだ。
「なぁ、あいつって昔から凶暴?」
「なっ?!」
思わず私の口からそう言葉が漏れた。
そのせいか彼は笑いながら言った。
「どうだったかなー?文句言ってきた男皆ボコボコにしてたって噂もちらほら」
……な!何を言うの!瀧野君ってば!
「あーやっぱりー」
二人とも冗談交じりの表情で頷いている。
「こらこら、してませんって!」
一応そう言っておかないと、他の人が誤解するでしょう。
なのに、他の人の口から出た言葉は、予想外のもので私をフリーズさせるには十分のものだった。
「え?何々?瀧野って春日さんと付き合ってんの?」
「へ?」
思わず口から出た私の声。 なんでそんな話になるのだろう? その理由は私には全く分からない。
彼はさすがと言うべきか、すらりと言葉を返していた。……まぁ、彼も相手が私では困るだろう。
「同じ中学なだけだよ」
「へーそうなんだー」
それで納得してその話は終わったと思ったのに。
「じゃあさ、春日さん生徒会の奴と今付き合ってるって本当?」
また突如として言われた台詞。
「はっ?」
私は本気でそう口にしていた。
何故にそんな話が出る?しかも今ここで。 それはもうチャンスとばかりに。
この時、私は一斉に向けられている視線に気づいていた。
それによって固まっていく私の身体と思考力。
彼も亮太も私に顔を向けている。
だから、何でこんな所で注目してるのよ?余計、うろたえるじゃない。
「……え?わた、し、今?……は?」
……私、今誰かと付き合ってたっけ?え?そんな人いたっけ?
「俺、副会長と怪しいって聞いたけど」
……副会長? あ、足立さんの事か。
「あ、俺、溝口とって」
は?! 亮太?
私が心の中でそう思っていたら、亮太が感心したように口にした。
「ほー俺春日と付き合ってたのかぁそれは知らんかった」
それで、私ははっと我に返った。ようやっと冷静さを取り戻した私の頭。
「私も全然身に覚えないわー。おかしいな、私は仕事に生きる女の筈なのだけど」
……そう、当分、人を好きにならないと決めたはずだった。
誰かと付き合おう何て、やめておこうと決意した私の心はアノ頃から何も変わっていない。
だから言った私のその台詞。
なのに、亮太はそれがチャンスとばかりに言ってきた。
「ほぉ。じゃ会長決定だな」
「まだ言うか」
「中々強情やね君」
感心して言った亮太。 それに私は力なく言う。
「なんとでも言ってくれ。他所は好きな事言いまくりだし……」
何で私が誰かと付き合ってるって事になってる訳? 私そんな話したことないよ? しかも、そんな話が彼の前で出るなんて。 アノ人の事もあるのに。だから嫌なのに。
勝手に出てしまう溜め息 そんな事を考えているなんで知らない亮太は真面目な顔になって言った。
「でも、このままだと実行委員の中で決採ることになるんじゃないか?」
「うー、実は今日この後先生に呼び出されてるんだよね。先生にまで私は説得されないといけないんかねー」
ああ、もう、頭が痛いことばかり。いやになっちゃう。
それから、ふと気付けば、亮太は他の話題を委員たちと話し始めていた。
あ、いつのまにやら一人。はみっちゃってる。
そんな事を思っても頭の中には、引継ぎの役員の事が浮かんでくる。 すると、私の口からは自然とため息が出る。
それを見てか、彼は珍しく言葉をかけてきてくれた。
気を遣ってくれたんだろう。 お互い一人だったし。
「生徒会、大変?」
「え? ……ううん、そう見える?」
彼の台詞に私は内心戸惑った。
しんどい、とかは思った事はなかった。確かに忙しい時は目が回りそうに忙しいけど。 それに私は生徒会役員である事に満足してる。仕事は楽しいから。 だから、嫌そうにとか見えていて、彼がそう聞いてきたのならそれは私の責任になる。
「あ、お袋が大変みたいな事言っていたから。実際忙しそうだし」
だけど、彼の台詞は違っていた。幾分安心して、自然と笑顔になって私は聞き返していた。
「それだったら瀧野君のほうが大変でしょ?かけもちで」
私はいつも感心していた。 それを誰かに話したりとかはした事ないけど。 だけど、心の中では思っていたから。
「あぁ、まぁ、それなりに」
多分、他の人なら平気で言うんだろうな。すんごい大変だよ、って。 だけど、彼は違った。
だから、それが何だか嬉しくて私は頭に浮かんだ事を言う。
「うちのお母さんも瀧野君のことすごいねーって褒めてたよ」
これは本当。 前にうちのお母さんが瀧野君のお母さんとお茶して帰ってきた時、そう言っていたもの。 学校でのその話を私にも聞いてきて。 だから私もお母さんに言ったんだ。 うん、すごい頑張ってるよ。かけもちでもちゃんと両立させてるよって。
「あ、うん、それは、別に……」
彼は何だか照れているみたいだった。
初めて見た。そんな顔。 一瞬、惚けていた私。
だけど、それを元に戻すかのようにかかった校内アナウンスで、私は現実に返った……。
これから又始まる先生方の説得。
それを思うと、必然的に私は肩を落として重たい足を嫌々進める。
その後ろをついて視聴覚室を出て行く亮太。
廊下をとぼとぼと歩く私。 心の中は嫌々モードだった。
「話の内容がやけに親しい間柄に聞こえたけど」
「え?」
一瞬何の話をしているのか分からなかったけど、すぐ思い浮かんだ。 彼、瀧野君の事だ。母親の話とか出てたからだろう。
「……あぁ、うちの親と瀧野君の親、'つーつー'なんだよ。母親同士仲良くてね」
それだけよ。親しい間柄のうちにも入らないよ。そんなの。子供同士は何も交流ないんだから。
「ふぅん。の割に瀧野の話し方がいつもと違うような……」
「んー、なんか親が仲いいから変に意識して話せないと言うのがあって。向こうもそんなので話し難いみたい。嫌われてるまでは、いってないと思うんだけど」
……多分。 嫌われてない、とは断言できないけど。 彼の反応を見るに、扱いに困る相手、みたいな感じかな。 今日は又、私の反応がいつもと違っていたし。多分、そのせいもあると思う。
「いや、瀧野のあれはどっちかと言うと……」
亮太のその台詞は耳に入っていたけど、私は別に何も思わなかった。
だって、周りは無責任に勝手な事を言うから。
本人はよくわかってる。 私達は相容れないと。
だから、余計なことは考えない。
彼との間に「何か」はないから。