時の雫-美音


§1 

 初めてまともな会話をしたのは、高校2年生になってからだった。
それまでは何度か言葉を交わす程度の事はあった。だけど、それは『会話』じゃない。
それくらい、お互いの距離は遠い。
お互いの周りで、縁があって近く感じても、本人たちは遠い存在だった。


初めてのまともな会話。
それは生徒会役員が、その年の実行委員と初めての顔合わせの日だった。
 月1回の水曜日、定例委員会の日。

会議室の鍵を開けて、すぐ隣の生徒会室に戻ると亮太はそれまで眺めていた書類をひらりと差し出して言った。
「ほらよ。実行委員の名簿」
「はいはい、どれ」
受け取ったそれを自分の席で眺めていて、見知った名前に気がついた。

 2年4組 瀧野 圭史

硬式テニス部で、最前線で活躍している彼の名前がある事に、その時意外性を感じた。
実行委員会は、学校行事に一番関わっている所なので、一番忙しい。
そして、生徒会とも一番係わりの深い委員会。
「体育会系の人が実行委員なんて珍しいよね」
独り言のように呟いたそれに、亮太が顔を向けて言う。
「それって4組のテニス部の奴だろ?」
「あ、うん、そう」
「クラスの奴が言ってたな。そいつもテニス部の奴で、4組は推薦で決まって機嫌悪くしてたって」
「へー」

 ……どうりで。可哀相に。

「えーと、担当は適当に決めといたから。3年は溝口君、2年は春日さん、1年は橋枝さんね」
「はーい」
はもって言った返事。
 2年担当に決まった自分に、偶然ながら不思議な縁を感じていた。

 委員会の開始時間になると他に用事のある会長を除いての全員が会議室へと向かう。
その教室に入っていくと、少しざわついていた空気が不気味なくらい静まり返った。
それほど生徒会役員と一般生徒の間には隔たりがあるのだとあらわしているようだった。
 生徒会役員1年はプリントを配っていった。
その中で次の列に進みながら顔を向けた先に、回ってくるプリントを手に受け取っている彼の姿が見えた。

 ……あ、いた。

彼がこちらに目を向けて、何かの反応をする訳でもなく、目が合うなんて事もなく、私達はお互いに係わりのない、いや、係わらない存在だった。
 これからも、そうだろう。


 その日の「説明」を終えて役員は一旦生徒会室に戻った。
あとは委員長を学年毎に決めてもらう事くらいだったから。
 その後、委員たちがバラバラと帰って行っているのが音でわかって、片付けに行こうと生徒会室を出ると、丁度そこには帰ろうと会議室を出て廊下を歩き始めたばかりの彼がいた。
 ごく自然に二人の目が合い、不思議なくらい台詞が口からほろりほろりと出てきた。
「瀧野くん、実行委員は別に部活優先でいいよ? テニス部って忙しいでしょ。それに瀧野くんてよく試合に勝って表彰されてるもんねぇ」

「あ……、新歓は担当から外れてるから大丈夫だし、部活の方はやれる範囲でやっているから。何かあるときはお願いすると思うから、その時はよろしく」
一瞬返答に困った彼が、すぐ言葉を口に出した。
その気遣って言ってくれた台詞に、温かい気持ちになり顔は自ずと笑顔になっていた。
「うん、こちらこそ。じゃあ気をつけてね」
小さく手を振ってみせると、微笑を浮かべて一言口にしてくれた。
「うん」

たったそれだけの事だった。
これが片思いとかって言うのなら、浮き足だっているのだろうけど。
……今の私には関係ない。
 頭の中では次にする事に切り替えられていて会議室へと向かって行った。


 彼の活躍を知らない女子はいないと思う。
クラスの子もよく騒いでいるのを知っているから。
ルックスもよいし、理数系なら毎回ランキングされている彼は人気の的だった。
 中学の時は、今ほどではなかったと思う。
もしかしたら、知らない所でちゃんともてていたのかもしれないけど。
 ……殆ど彼のことは知らないのだけど。


 新入生歓迎会の準備が始まると、実行委員会は放課後が殆ど拘束されていた。
その中、彼は朝に自主練習を行っているのだと、クラスの女子テニス部の子が話していた。
「でも、中にはよく思っていない人もいるみたいよ? 部の中で大事な練習が出席できてないんだから」
「半分、……殆ど僻みみたいなものだと思うけど」
 彼はケチをつける事がないくらい、仕事をちゃんとこなしてくれていた。
見ている分では、効率的に先のことを見通して無駄のない動きで働いていた。
そんな彼の姿を見ているから、良く言われていないという事実に少し胸が痛んだ。


 ……そう言えば、あまり気にした事がなかったけど、中学の時も彼の委員長ぶりは担当の先生も信頼していた。
 そうだ。あれは、確か2年の終わりの頃だった。

 職員室で用事を済ませたのを見て、生活委員担当の先生が言ってきた。
「春日さん、あとは教室に戻るだけ?」
「あ、はい、そうです」
「じゃ、ちょっと4組の瀧野君に届けてもらえる?」
「……はい」
手渡された用紙は一つが原稿用紙、もう一つは書かなくてはいけない事がメモされた用紙だった。
「鉛筆でマークされた所を埋めてくれたら良いから。内容は任せますって言っておいてね」
「はい、わかりました」
頼まれたそれを渡すだけの事だから、何も躊躇う事はなかった。
ただ、渡すのに4組の教室に行かなければならない、というのが内心辛かった。
そのクラスには、ずっと片思いの相手がいる。その人は瀧野君と仲の良い人だったから。
 あまり何も考えないようして4組の教室へと向かった。
丁度彼らは廊下に出ていて、片思いの相手はすぐ私に気付くとサッと教室の中に入っていった。
それを気にしないようにして、確かな声で彼を呼んだ。
「瀧野君」
呼ばれた彼は、「え?」というたじろいだ顔をして確認の目を向けた。
「これ、石田先生から。今年度の反省とまとめを書いて欲しいって」
「え? 俺が?」
「うん」
「……マジで」
彼は内心嫌だったんだと思うその、困った顔でそう呟いていた。
「内容は任せますって言ってたよ」
そう言い終えても、彼の目はずっと私の手にある用紙を見つめているばかりだった。
一向に手を伸ばして取ってくれないそれに、私は内心困り始めていた。
この場所にいるのにすごく違和感を感じているのに。
 ……その時、もしかしたら顔に出てたかもしれない。彼は渋々と言った様子で用紙を受け取った。
「……わかった」
手にした用紙を眺めながら、片方の手で頭を掻いている困った様子を視界に映してからその場を去って行った。
 その時は何も思わなかった。
だけど、暫くしてから、私の所には担当の先生は何も言って来なかったのに気付いた時、理解した。
彼は信頼されていて、石田先生に気に入られているのか、と。


 とある日、生徒会室に戻ってすぐ、3年副会長の足立さんの顔を見て、思い立った私は即座に口にしていた。
「あ、そだ、足立さん」
「はい」
「実行委員の瀧野君なんですけどね、テニス部でいつも表彰されてる子なんです」
「ああ、見た事ある顔だなー、とは思ってたんだ」
「それで、仕事もきっちりしてくれているんですけど」
「はい」
「テニス部の部長に言っておいてあげて下さい。どうしたって練習に出られなくて支障きたしてると思うんで、実行委員とのかけもちで不備があったら生徒会の方に言ってくれって。それに試合前は練習優先で構わないですよね、別に。他に委員はいるんだし」
「はい、ご尤もでございます」


 新入生歓迎会の準備も本格的に始動になり、実行委員たちが不慣れな作業の中やたらと動き回っているのを目にしていた。
 その忙しい中でも、彼は毎日朝練習と居残り練習を行っているのだと私は知っていた。
放課後になり生徒会室へ行くと、もう会議室の鍵は開けられていた。
中に入り、進行状態などを確認していると、皆が手探り状態で準備している様子がありありと分かった。委員たちが用意している進行表を見ると、同じ場所へと往復が目立っている。
仕事に慣れてきたら、きっと要領を掴むのだろうけど、初めての仕事では、この無駄は無理もないのだろう。
 一人静かにペンを持つと、進行表に書き足していった。抜け落ちていた事柄や、スムーズな段取りの方法を。
「よし」
多分これで、しなくてはいけない量が凝縮されて皆の負担も軽くなるはず。
 会議室を出ようと席を立った視界に、彼の姿が見えた。
いつの間にやら来ていた彼は書類を手元にホワイトボードを眺めていた。
 何か言っておこうかとも思ったけど、後で見た時に分かる事だからとそのまま出て行く事にしたのだ。

 その後、滞りなく準備は進み、新入生歓迎会当日を迎えた。
1時限目が終了すると、委員は講堂集合で準備にかかる。
新入生の人数分のパイプ椅子出しから、舞台袖に置く備品の数々からさまざま。
委員だけじゃなく、生徒会役員もそれぞれが仕事を分担していて動き回っていた。

 大方の準備は整ってきた2時限目終了間際、生徒会室に戻ってきた1年生役員は、それぞれが机の上に並べられている缶ジュースを袋に入れていっていた。
「もう適当に早い者勝ちで渡していったらいーよな」
「いーんじゃない。渡すのも担当の学年でいいよね」
「うん、そうしよか」
 講堂に入ってすぐ彼の姿が目に入ってきた。
そうか、2年担当なのだから彼に渡すのは自分なのだ、とこの時思った。
 まるでそれが慣れない事で、違和感を感じているような気分だった。
でも、中学の時に二人の間にあった距離が例えどんなものだとしても、これからの学校行事では彼と係わりを持っていかなくてはいけない立場なのだ。
 だから、こんな所でたじろいでいてはいけない。
小さく唾を飲み込むと、伸びをしている彼の所へと足を向けた。微妙に緊張していたかもしれない。
一番よく働いてくれていた委員のもとへ。
「お疲れ様。ジュース好きなの選んで?生徒会から差し入れです」
それは笑顔で言えていたはず。
彼は腕を下ろしながら口にしていた。
「あ、ありがと。何があるの?」
「えー、とね、リンゴオレンジぶどうコーラ、ポカリ、カフェオレだったかな。何がいい?」
「ポカリかな」

ポカリ。
その単語が頭に記憶されたみたいに、はっきりと残った。

それを取り出すのに片手で袋を持ちながら探していた。中々見つからず苦労していたら、彼はすっと空いている方の袋のもち手に手を伸ばして言ってくれたのだ。
「あ、ごめん、持つよ」
そうして、やっと中が見えるようになって、そのポカリが見つかった。
「あ、ごめん。えーと、ポカリ、これかな。 はい」
彼のさり気ない優しさのお陰か自然に笑顔が出ていた。

「あ、ありがと」

それを聞いてから、他の2年実行委員の所へと向かいながら声を出す。
「お疲れサマー、はーい、ジュース早い者勝ちー」
何もなかったように、何も気にしていないフリをして向かいながら彼に背を向けている私。
だから、今彼がどんな顔をしているのかは分からない。

 本当は、背中に凄く彼の存在を感じていた。
お礼を言ってくれた彼の顔が、何だかやけに印象に残ったから。
 ……不思議な表情だった。
なんでそんな顔をされるのか分からないけれど。
 何だか、少し困ったような、辛そうとも言える、微妙に淋しげな表情だったから……

 ……やっぱり、彼にとっては、話しにくい「相手」なのかな。

そんな事を頭の片隅で思いながら、舞台中央でマイクの微調整をしていたら、亮太の声が飛んできた。
「進行表この舞台袖に貼っておくんだったよな?」
その問いに、顔を向けて口を開く。
「そーだよ。生徒会室に置きっぱなしだから、今から急いで取ってくるよ」
「じゃあお願いな」
「うん、じゃ行って来る」
そう返事をして、舞台の端につかつかと歩いて行った。
ここから飛び降りた方が早いから。決して低くはない高さだったけど、別に無茶な高さではないから。

 もしこれが、中学の時で、彼と一緒にアノ人がいたのなら、そんな事は出来なかっただろう。
 今、ここに、「アノ人」という接点はない。
あるのは、『距離』。
彼の表情がそれを物語っている様な気がしてならなかった。

タンッと着地をすると、複雑な気持ちを抱いたまま走って講堂を後にした。

 私の心は、過去へと引きずられていくように渦巻いていった。

「アノ人」
私の、中学時代の片思いの相手。
ろくに口を利いたことがなければ、同じクラスになった事もない。
1年生の時、同じ委員会だった。
2年生の後半から3年生の前半は、お互い委員は違えど委員長をやっていた。
アノ人と、瀧野君は2年生の時同じクラスだった。
2人とも軟式テニス部で3年間在籍していた。2人は傍から見ても分かるくらい親しかった。
2年生の時は、2人はいつでも一緒にいた。休み時間は一緒に遊んでいた。
アノ人を見ていたから知っている。
 だから、彼はずっとやりにくかったに違いない。
その時はまだ私は気付いていなかったから。
彼が、お母さんがよく話をする「タキノさんの所の2番目の息子さん。美音と同じ年の子」だなんてこと。
彼も聞いていたはずだから。「同じ学年の、春日さんの所の一番上のお嬢さん」って。

 後でそれを知って、余計に顔を見れなくなったのは、多分私だけ。
本当に必要な時に必要なこと以外は話した事はなかったけれど、彼にとっては、すごく気を使ってしまう相手だと思われていたはずだから。
だって、気を遣ってくれているのが分かっていたから。


 これから、実行委員で接する機会があっても、彼との間には、あの頃のような気まずさが纏わりついていくんだろう。

 それほどまでに、私にとって彼は遠い存在だった。


あとがき