時の雫・風が向かう先
§0 距離の向こうに
Episode 5
「瀧野ちゃん?」
自分を呼ぶ声に気付いたのは、一体彼女が自分の名を幾度呼んだ時の事だったろう。
「あ、ごめん、ちょっと今考え事していた。ほら、…この前出たばっかりの歌、誰だった?」
「えー?どんなの?」
「えー、と」
適当に口にしながら、圭史は歩いていた。
今日は相田の家に向かっている。
通り過ぎた女性を見て、相田が言った。
「今の人、綺麗な人だったよね。どう?」
圭史も通り過ぎる前に目を向けた。それを見て言っているのだろうか?
「まぁ普通?化粧の仕方とかにもよるんじゃないの?」
「へぇー。化粧してる子は嫌い?」
「年相応にほどほどに。ケバイのは引くなぁ」
他愛も無い話をしながら、二人は歩いていく。
クラスでは友人たちが相変わらず美音の話をしている。
ただ、ここ最近は何も変わったことは無い様なので、その話題は長く続かない。
圭史は変わらない毎日を送っていた。
授業を受け、部活に勤しみ、彼女との時間も持っていた。
彼女とはそれなりに順調にいっている。
ただ、自分の中でやけに冷めたもう一人の自分が揶揄するような微笑を浮かべて見つめている。
それと目を合わさないように、圭史は静かに目を瞑る……。
トレーナーを頭から被って顔を出すと、袖に腕を伸ばし通している。
彼女は未だベッドの布団の中だ。
部屋の中は、女の子らしい綺麗な装飾があちらこちらしてある。
「瀧野ちゃんて、人懐こそうな雰囲気なんだけど、結構掴み所が無いよねー?
結構クールだったりするし。感情が先に出るって事ある?」
「そお?本人は至って素なんだけどなぁ」
「時々、違うとこ見てるよね?」
その台詞に内心ドキッとした。しかし、気付かないフリをしながら言葉を紡ぐ。
「そ?多分本人はぼんやりしているだけだと思うけど」
「ぼんやりねぇ」
背をベッドに凭れ、天井を仰ぐように頭をベッドの上に置いた。
そんな圭史の視線に相田が「何?」と首をかしげる。
いたずらっ子のような笑みを浮かべると、胸元を隠している布団をクイ、と捲った。
瞬後、彼女の手が額に飛んできた。ぺし。と良い音がした。
「えっち」
「いたー」
頭をベッドから離して叩かれて赤くなった額に自分の手を当てた。
そう彼の生活は凪いでいる海のようだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それからまもなく、12月に入ってすぐ球技大会が行われた。
圭史は言っていた通りソフトボールの参加者に入っていた。
「次の試合終わったら、俺らだって」
圭史の台詞に友人は聞き返す。
「その試合どことどこ?」
「2組と6組の女子の試合」
今朝クラスで配布された進行表を見て、圭史は答えた。
「見に行こ行こ」
美音のいる2組と聞いて、友人たちは既に足を進めていた。
2組と言えど、それに美音が参加しているかは分らないのに。
そう思いながら友人たちとグランドに向かった。
セカンドを守っている美音の姿が目に入った。肩の下まであった髪が短く切られている。肩上に。
彼らの期待通り美音はソフトボールに参加していたようだ。
ソフト部や打つバッターが打ったのなら、セカンドにはきついボールがよく飛んでくるが、一般生徒の打ったボールは言うほど飛ばないので守備は結構暇だったりする。
あんまり活躍は見られないかな。
そう思った次の瞬間、バッターが放った球がセカンド方向に一直線に向かった。
一塁走者は二塁に向かって走り出している。
塁から足を離さず、腕を伸ばしてその球を受けると、美音はすぐさまファーストに投げた。
ファーストの子も上手にキャッチしてWプレー。クラスの子から拍手が上がった。
食入るように見ていた自分に気が付き、圭史は息を吐いた。
守備交代で戻ってきている2組女子たち。
美音は先程ファーストを守っていたクラスメートの所へ駆け寄り、笑顔で何か話し掛けている。話し掛けられた子も笑顔で返していた。
見物場所に来た美音はクラスメート男子の一人に声をかけている。
「ちょっとそこの野球部員、打つコツ教えて」
「えー?今更聞いても遅いでしょー」
「いーからいーから。モノは試しっていうでしょ」
それを聞いて、男子はバットを持つフリをしながら教えている。
美音は真面目な顔でそれを聞いていた。
1人目の子がヒットを打ち1塁に出た。
それを見て、美音はバッターボックスへと足を向けた。
「春日ちゃーん、頑張ってー」
クラスメートの声援に美音は笑顔で応えた。
それを見ていた、圭史の友人たち。
何か小声で話していたかと思うと、せーの、という声が圭史の耳に届いたと思った次の瞬間、声を揃えて放っていたのだ。
「春日さーんファイトー」
横にいた圭史は思わず恥ずかしくなって頬を赤くし苦笑い。
言われた美音は足を止め、苦笑しながら顔を向けるとそれでも言葉を放った。
「ありがとー」
友人たちは「おお」と歓喜の声をあげている。
その声援でタイミングが狂ったのか1本目を空振りすると、片手を胸に当て深呼吸をした。
そして気合の入った表情でバットを持つと、真っ直ぐにピッチャーと見つめる。
そして2本目が放たれた。
「あ、打った!」
思わず出た言葉に圭史本人驚いたが、目は美音を追っている。
あっという間に2塁3塁。
そして、さっきの野球部員に目を向けると、彼が一番驚いた表情をしていた。
「さぁすが」
思わず圭史はそう言葉を洩らしていた。
そして圭史が次に美音の姿を目にしたのは、自分たちの試合が終わって後、一人で中庭を歩いていた時のことだった。
部室に置いていたタオルを取りに行った帰り、重々しい空気を背負った美音が沈んだ様子でゆっくりと歩いている。
よく見れば、髪が濡れている。彼女はそれを放置したまま地面を見つめ歩いている。
圭史の表情に躊躇いが浮かぶ。
肩にかけたままのタオルをぎゅっと握った。まだ使っていないこのタオル。
この時、圭史はそこまでの距離をやけに遠く感じていた。
じり……、と砂を踏む自分の足を微かに動かしたとき、向こうの方から男子生徒が1人駆け寄ってきていた。
「春日!」
彼は美音の近くまで行くと、手にしていたタオルを頭にかけてやった。
圭史の動きは止まった。
あれは、生徒会のメンバーだ。
「頭濡らしてどーしたんだよ」
さほど驚いた様子でもなく美音に言った彼を見て、圭史は目線を、向かう1メートル先に向け、何も無かったように彼らの横を通り過ぎていく。
美音はただぎゅうっとタオルを握り、堅く閉ざしていた口を開いた。
「頼まれれば、あんな男くれてやるのに、わざわざご丁寧に水をプレゼントされた。
あの2年ドついてやれば良かった」
怒りを込めた声に、圭史は思わず空に視線を転じてしまった。
高く感じる秋の空に。
今日は一日球技大会なので、昼休みになっても見渡す限り生徒は体操服姿だった。
食堂で圭史は友人たちと昼食を取っている。
そこで、圭史は「水をプレゼントされた」真相を聞いた。
手洗い場で美音が手を漱いでいると、横に2年の女子たちがその場にやって来て居合わせる事になった。他の目撃者の話によると、そのうちの1人が、後夜祭で津田と踊っていた女生徒だと言う。
その場でハンカチを出し濡らした手を拭っていると、笑い声が小さく聞こえてきたので、何気なく顔を向けた次の瞬間、水が出されている蛇口に手を当て、美音の顔に思い切りかけられたと言う。
「あ、ごめーん」
空々しい言い方に、面白そうに笑っている2年女子の数人。
美音は前髪から滴り落ちるものを構うことなく、重々しく口を開いた。
「……偶然じゃないですよね?」
表情の読めぬ美音に、彼女たちは楽しそうに口にする。
「そんな訳ないじゃん」
「おかしいんじゃなーい?」
美音は至極冷ややかな瞳を彼女たちに浴びせた。
彼女たちはその威圧感に閉口した。
「羨ましいですよ?大した勇気をお持ちで。もし、このままこの事態を正当化されて謝りの言葉も無いようなら、私生徒会役員ですので査問委員会に先輩方をお掛けすると思いますけど?どうなさいますか?」
最後の台詞を口にしながら、美音はキツイ眼差しを彼女らに浴びせた。
彼女たちからさっきまでの愉快そうな空気は跡形も無く消え去っていた。
かわりにあるのは、畏怖の念を纏った、青ざめた表情。相手が悪い、そう思っただろう。
「あ、手が、滑っただけよ、」
「悪かったわよ」
どうにかそう言うと、彼女たちは罰が悪そうに走っていた。
美音は微塵も動かず、去っていく彼女たちを目にしていた。姿が見えなくなって、その場を離れたと言う。
定食を食べ終えた圭史は、トレーを返しにその場を立った。
返品口に向かう途中、3年の津田に気付いた。
友人たちと昼食を取っている最中のようだ。
1、2メートル手前のところで、彼らの会話が耳に届いてきた。
「で、どー?進展あった?」
訊ねられた津田はあまり面白く無さそうな顔で口を開く。
「いやぁ別に。色々忙しいらしくて、ろくに会えないしな。何考えてるんだか分らない子だし」
「えー?あの子結構可愛いいし人気あるだろう?」
「そう、だけど、確かに可愛いは可愛いんだけど、なんていうか」
圭史ははっとした。彼らの後方に美音が立っていた。
表情から察するに聞こえているようだ。悪い事は重なるものだとぼやいているようにも見えた。
「見かけだけで、中身はやけにあっさりしてて拍子抜けというか、なんか喰えない相手みたいな」
そう言ったところで、津田の向かいに座っている男子が慌てた顔で小声で彼に言った。
「お、おい、後ろ」
「え?」
言われた津田は素直に後ろ振り向いた。そこには美音が立っていたので彼は青ざめた。
友人に言われて津田が振り向く直前、美音は大きく息を吐くと静かに津田に目を向けていた。
そして目の合った彼に、にっこりと笑顔を向けると反論を許さぬ眼差しとともに言ったのだ。
「ええ、よくそう言われます。そーですね、先輩には後夜祭に一緒に踊っていた2年の方がお似合いだと思います。なので先輩、今までありがとうございました。じゃさようなら」
最後に又笑顔を向けると、彼女はそのまま圭史の横を通り過ぎて、友人たちの座っている所へと向かった。
彼らの顔は変貌していた。
圭史は思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えていた。
球技大会も無事終了し、期末テストも終了してテスト休み最終日。
圭史は午後から部活に出る為に学校に来ていた。
中庭では、明日のためにすでにテスト結果上位ランキングが張り出されていた。
主要教科30位までと総合50位まで。他にも数人の生徒が足を止めて見ている。
自分の名前が載っているとは思っていなかったが、なんとなしに見てみた。
主要教科のうち3科目美音の名前が載っていた。
球技大会後、不機嫌な様子だったので、行き場の無い怒りをテスト勉強にぶつけたのだろう。
あ、載ってら。
理数に圭史の名が上がっていた。
足を部室に向け、閑散とした中庭を通っていく。
誰かに会う事もなく部室の前まで辿り着き、ノブに手をかける前に扉が開いた。
「お、早いな」
着替え終わった部長が出てきた。
「おはようございます」
部長が出るの待ってから、中に入る。他の部員の姿は無かった。
ベンチの上に鞄を置きロッカーを開けたところで、扉が開き、行った筈の部長が顔を出して口を開いた。
「顧問の所に行かないといけないんで、そこの冬休み部練届け生徒会室に持って行って。悪い」
「あ、はい」
着替え終えると、頼まれた届けを持って、行った事の無い生徒会室に向かった。
生徒会室に向かうには、下駄箱に行って靴を履き替えなくてはならない。
部活に出る生徒か、補習を受ける生徒の姿が、ちらほら見えるだけの校内を一人歩いていく。
廊下を抜けて角を曲がると、すぐ扉がある。ここは書庫室になっているらしい。
2つ目の扉を開けたその場所が生徒会室だ。3つ目の部屋は会議室になっている。
生徒会室の扉をノックしてから開けると中に入って行った。
「部練届け持ってきたんですけど」
圭史の姿を見て、出入り口近くの席に座っていた亮太が立った。
二人は隣のクラスで体育は合同クラスということもあり顔は見知っていた。
受け取った届けを亮太は確認している。
その間、圭史は視界に入っていた前方に意識を向けた。
そこにいるのは、生徒会もう一人の女子と2年男子。美音の姿は無かった。
「あ、ここ記入漏れだわ。悪いけど、ここに座ってくれていいから書いてもらえる?」
「あ、うん」
指示された通り座って、ボールペンを借り用紙に目を向けた。
奥の二人が話している内容が美音の事だと気付いたのはその時だった。
「結局、駄目になったみたいですよ。津田先輩のほうが美音ちゃんの事避けるようになったって」
「まぁ、普通は無理だろうねぇ」
「清々したって言ってました。もうこういうことはしないって」
「こういうこと?」
「なんか、2学期始まった頃に失恋したから何となく付き合ったのが失敗だったって」
ぴく、と、圭史の手が反応を見せ一瞬だけ動きが止まった。
それに亮太は気付いたが、何事も無いように、又、自分の手元の書類に目を向けた。
「自分自身を見せたり見てもらう事が難しいって嘆いていましたけどねー。
美音ちゃんの良さを分らないなんてつまらない男ですよねー」
「はは、まぁ、あの仕事のデキ具合、潔さ、逞しさは素晴らしいものだからねぇ」
書き終えた圭史は、亮太に声をかけた。
「溝口、これでいい?」
亮太は顔を書類から上げ、指し出された届けに目を向けた。それを確認すると口を開く。
「うん、ありがと。これから帰んの?」
椅子から立ちながら圭史は返した。
「いんや、これから部活。じゃあな」
「おお」
お互い、世間話をするほど交流があるわけではないので、会話はそれで終わった。
生徒会室を出て歩いていると、角を曲がってパタパタと足音をさせて美音が走ってきた。
手にはファイルが抱えられている。
そのまま、圭史の横を通り過ぎて生徒会室へと入っていく。
美音の後を追うかのように、風が圭史の頬を撫でて行った。
そして又静かになるこの廊下。
自分がたてる足音を耳にしながら、心の中に不透明感を感じて苦渋の色を浮かべていた。
例え様の無い、鬱葱とした感情に、圭史は翻弄されそうになっていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
3学期が始まって1ヶ月が過ぎた。
周りはバレンタインの話で浮ついていた。
そんな中、一人だけ沈んだ様子を見せる圭史。
「おーい、行くぞー」
友人に呼ばれて席を立ち、机の上の授業道具を持つ。移動教室だ。
「なんだよ、暗いな。バレンタインの心配いらん奴が」
「あー、そうでもないけど?」
目線を上に向け、口篭るように言葉を返すと、友人は即反応を見せる。
「なんで?」
「別れちゃったから」
簡単に言葉を零した圭史に驚きの色を隠さずに問うた。
「え?いつ?」
「昨日」
何事も無いように言った圭史だった。
昨日、練習が終わっての帰宅前、話があると言われ校舎の外れに圭史はいた。
勿論、呼び出した当人も目の前にいる。
顔をあまり見ようとしない、何か言いにくそうな彼女の様子に、予想はついていた。
「何?気にせずはっきり言ってくれていいよ?」
柔らかい口調の圭史に、彼女は目を潤せた。
「なんか、一緒にいても、私の事見ていてくれる気がしなくて……。それで今、他に……」
内心、どきりとしながら、それでも平生を保って言葉を放つ。
「うん、もっと大切にしてくれる人が現れたんなら、そっち選びなよ。ごめんね」
今にも泣き出しそうな目を下に向け、ぽつりと呟いた。
「…………ずるい……」
それには苦笑するしかなかった。
圭史には他に言葉は言えなかった。
引き止めたい気持ちはあったが、それを出すことを拒んだ。
予想はついていたにしろ、ショックは受けていた。
いろんな感情が複雑に絡み合って、自分の心が幾つもあるように感じた。
彼女の言っていた通り、そういう気持ちも心に在ったのだから否定は出来ない。
…………ずるい……
彼女は気づいていたのだろうか。
自分の心の所在に。
まだ暫らくの間は、落ち込んでいるだろう。
−まぁ、仕方ないか……−
圭史たちの教室のある3階から2階に降りたところで、奥に見える教室に視線を投げた。通る事のない階。
手前から2つ目の教室が、美音のいるクラスだ。
見えぬ姿を確認して、ゆっくりと1階へ下りていった。
第1部 風が向かう先に 終
【あとがき】