時の雫-オモイのはざまで

§1 風の噂とウワサの彼女


Episode 1 / 3


 終礼が終わり、帰り支度を済ませると、この間の席替えで斜め後ろの席になった亮太に顔を向けた。
「今日って役員全員だったっけ?」
「ん? 一応全員の召集かかってたろ」
「じゃー、次期役員選挙の話かな」
「あー、もうそんな時期か。やっと肩の荷が下りるな」
「そうすんなり終わってくれたらいいけどね」
「お前、怖い事言うなよ……」
「期待すると、後が辛くなったりするでしょ?」
「まぁ、ありうる話だ」
言葉を交わしながら一緒に教室を出て行った二人。
扉が閉まると、それまで静かだった教室がにわかに騒ぎ出した事に二人は気づかない。

 廊下を進んだところで、3組の教室前――廊下を挟んだ壁側に圭史が立っているのを見た美音は亮太に言う。
「またすぐ後で」
「おう」
特に気にすることもなく亮太はそのまま進んでいった。

 美音は圭史の前に立つと笑顔で口を開く。
「3組早いね」
「……うん。溝口と出かける用事でも?」
いつもとは違う反応の圭史が、どこか控えめな口調で、それでもじっと見つめてくる目なのに気づいた美音は少し早口で答えた。
「ううん、生徒会で全員召集っていうだけだから……」
続く言葉が見つからず、彷徨わせた視線。
普段からして、放課後は殆ど生徒会室だと知っているだろうに、圭史の口から出てきた、美音にとっては意外な言葉が、反応に困らせた。
答えが出ない美音の視線はそこを通ろうとしていた阿部とぶつかった。
阿部の方はたまたま目を向けた先に二人がいて、美音と目が合っただけだった。
「あ、春日さん。先に教室を出たのにまだこんなところにいたんだ」
「あ、うん。っていってもそんなに差はなかったかと」
「まぁ、そうなのかな。でも、てきぱきしてるから、自分との時間差を感じるんだよね」
「ふうん?」
理解していない美音の様子に、阿部は苦笑した。
 教室から出てくる生徒がまばらになった頃、美音に気づいたクラスメートが言葉を投げてきた。
「あれー、春日さん、溝口はー?」
「生徒会室に行ったけど?」
「置いていかれたのー?」
「え? そんなんじゃないけど」
質問の真意が分からない様子で美音は答えていた。
 美音のクラスメートたちから顔を逸らしている圭史は、目の端に美音を映しながら静かにため息をついていた。
そんな場面に、阿部は少し困った表情をしつつ、心の中で「まぁ気持ち分からなくもないけど」と圭史に呟いていた。
 クラスメートたちが去っていくと、「なんだったんだろう?」という顔をしたまま美音は顔を戻した。
それには阿部は思い切り苦笑し、「まぁあまり気にしないでおきなよ」とだけ言った。
「うーん?」
眉間にしわを浮かべて納得できない様子を見せる美音に、阿部は口を開く。
「単にクラスにいるときに、春日さんが気兼ねなしに声をかけてるのが溝口君だっていうだけで、少し注目を浴びているだけだから」
「えー? 注目って……。亮太とは生徒会の話しかしてないと思うんだけど。だって、亮太だし」
「ふうん」
小さくとも低い声で呟かれた圭史のそれに、一瞬美音はびくっと顔をこわばらせていた。
それを目に映しながらも阿部は言う。
「川浪さんと伊沢さんも、春日さんの友達ということで一目置かれていたりするから。良い意味という事で気にしないでおきなよ」
「うん」
こくりと頷く美音に、二人はなんとも言えない笑みを浮かべた。

 ちろり、と窺うように目を向ける美音に気づいた圭史は「ん?」という優しい表情を向けた。
それで穏やかな表情になった美音。
そんなふたりだったが、黙ってジーっと見る阿部に同時に気づいた。
阿部は真っ直ぐに言葉を放った。
「2人、お似合いだな」
突然の台詞に圭史は少し驚いて目をぱちくりとした。美音は「え!?」と声をあげて頬を紅く染める。
「……それは、どーも」
と静かにコメントする圭史。横で美音は動揺を隠せない様子で声を出した。
「な、何? 突然」
「いやー、実行委員のときは、当たり前に見てたんだけど、今こうして見ると、ホントにそーだなと思ってさ」
さっきより頬を紅くする美音。
「え、えーと」
目をくるくると泳がせている美音の顔が汗を噴出しそうなくらいに赤くなっていく。
何かを思い出したようで、しどろもどろといった口調で言う美音。
「生徒会役員、召集かかってるから、行くね」
ギクシャクした様子でその場を足早に去っていった。
 美音の後ろ姿が小さくなった頃に、阿部が言った。
「あんな春日さん、普段見ることないもんなー。瀧野にとっては、抑えるの大変だろうけど」
「まあ、ね」
否定しない圭史に笑みを見せながら阿部は言う。
「3年でも実行委員?」
「いや? 二年連続はさすがにきついよ。続けてやったら、さすがに部長にシメられる、かな。うちの部長、デスクワーク苦手ですぐこっちによこすから」
「へー。副部長も大変なんだな。二年続けては、そーだよなー。内容濃いもんな」
「それに、三年はもう少しで生徒会退任だし」
違う方向を眺めてそう言った圭史。
「ああ、そうか。早いもんだな。春日さんって言うと、生徒会。っていうイメージが強くて退任するっていう実感がない」
「そーだな。そのイメージでだから、下級生には、名前より生徒会の人って呼ばれる事の方が多い、って言ってた」
何かに納得するようにそう言った圭史に、阿部は自然と笑顔を浮かべていた。



 生徒会室で顧問からのこれからの予定と説明が終わった後、美音と亮太が書類にかかっていた。丈斗と快は薫に連れられて教員室にいる。
部屋の中は二人が書類を書く音と時計の音が耳に入るぐらいで静かだった。
 区切りの良いところでふと手が止まる。
ちょうどその頃、亮太が席を静かに立ち生徒会室を出て行った。

 美音の目はもう書類を見ていなかった。
一瞬にして心は違うところを見つめている。


 廊下で会っていた圭史が、「ふうん」と小さい声でも低くてしっかりと口にした台詞を思い出して、悶えるようななんとも言えない複雑な思いに美音は駆られていた。

 ― あれは、亮太とは、だって亮太だしって言ったことに対しての反応だ、きっと ―

そう心の中で呟いた後、口からは重いため息が漏れた。
そして、頭の中に思い出されるのは、いつぞやの彼の台詞。


「いつになったら俺、溝口みたいに呼んでもらえる?」


そう言った時の様子が、いつもとどこか違っていて、こちらの方を見ない圭史に胸が締め付けられるような思いだった。
その後の、耳に聞こえてきた彼の小さなため息を、今思い出しても、胸に痛みがはしる。


「じゃ、待つよ。待てるから」


なんでもないように言った彼だったけれど、彼の手に力がこめられていたのに気づいていた。
あれは、きっと、ギリギリだというサイン。

それに分かっているのに、未だに名前で呼ぶ事ができない。
いざ呼ぼうとしても、構えてしまっているのか、抵抗感と照れが一気に押し寄せてくる。

 家族と話をするときは、兄弟の区別をつけるために「圭史君」といつも呼んでいる。本人を目の前にして呼んでみたことは数少ない。
 実は思いが通じる前後くらいから、心の中では彼のことを「圭史くん」と呼んでいたりした。
心の中で思うのには慣れてきたけど、声に出して言うのはまだ無理だった。
顔が赤くなるのが先か、どもるのが先か。といった具合に。
なんとも思っていない亮太や貴洋には平気なのに。

 きっと、今も待ってるだろう。
この瞬間にも名前で呼ぶんじゃないだろうか、と。
このまま知らないフリをして、苗字でずっと呼び続けていたら、きっと彼は、……拗ねてしまうだろう。
彼が、拗ねてしまったら、とても大変なことになるだろう。大変とはどんな具合かはよく分からないが、彼の機嫌を戻すにはものすごく苦労するような気がする。
……たぶん、そんな気がする。


「はぁーー」
重いため息をついて、やりかけの書類に目を向けた。
仕事を進めなくてはいけないのに手が動こうとしない。
そこに響いたドアの開く音に、反射的に顔を向けた。
普段と変わらない様子の亮太が書類の束を持って教員室から帰ってきたのだ。
「……亮太のばか」
驚きに片眉を上げた亮太は戸惑いながらも口を開く。
「おれ? なんかした?」
「……ううん、ただの八つ当たり」
「……あ、そう。深刻な理由がなくてとりあえず良かったよ」
「……すいませんね」
「いえいえ」
空いている机に書類を置いた亮太は、第2弾の書類を取りに教員室に再び戻っていった。
その書類の山を眺めて美音はぽつりと呟く。
「……先生、自分がするのまで回してるな、きっと」
昨年の今頃より確実に増えている仕事の量を考えて、美音はため息をついた。


 仕事を切り上げて帰宅しようと生徒会室を出たときには、外は真っ暗だった。
「あれー? もうそんな時間?」
「結構、今日はかかってましたよ」
「そう?」
時間を感じていない様子の美音に、呆れたように亮太が言う。
「そーだよ。っとに誰かさんは集中するとちっとも手が止まらないからな」
「え? そんなに私やってた?」
そんな美音の言葉に亮太は肩をすくめる。
「途中で申し訳なさそうに帰った橋枝会長、覚えてます?」
「……あ、うん?」
丈斗の問いかけにも頼りない返事に亮太が口を開く。
「お前〜、それ、全く覚えてないだろう」
「え? そんなことはないよ? そう言えば、何か言葉交わしたなーって」
「さよか」
これ以上何かを言っても無駄だと思った亮太はそれで終わっておいた。
「春日さん、駅まで送りましょうか?」
自転車通学の丈斗がそう言うと、暗い外をぼんやりと眺めながら美音は言う。
「そうだねー、真っ暗だし、人通りも少ないしね。送ってもらおうかな……」
そんな美音に、亮太が口を挟む。
「今日はアイツ待ってんじゃないの?」
「んー。どうだろ? さすがに練習終わって時間経ってるだろうし……。約束をしてるわけでもないから」
「え? そうなんですか?」
「うん。……それって意外なの?」
いつもと違う反応の丈斗に美音はそう返した。
それに戸惑う丈斗。
「え? フツー一緒に帰れそうな日は約束しますよ。ね? 溝口さん」
「同意を求められてもなぁ。そのフツーが当てはまるかどうかって事が……」
ジロっと鋭い目を美音に向けられて、はっとした顔で目をそらした。
「でも、まぁ、アイツは待ってるよ」
確信を持った口調に、美音はぱっと顔を前に向けた。
「野口、一人だったら送ってやって」
「了解です」
美音の後ろで二人は小声でそう会話をしていた。

 下駄箱に行くと、美音と亮太のクラスの棚の奥向こうに、スポーツバッグを足元に置いて教科書を片手に持って眺めている生徒の姿があった。
暗がりの、必要最低限な明かりの下でははっきりとは見えないが、背格好で圭史だと分かる。
 さっさと靴を履き替えた亮太は、「じゃあな」と美音に一声かけて歩いていく。
その人影の横で一瞬だけ足を止め同じせりふを口にした。
「じゃあな」
圭史が顔を上げたときにはもう亮太の足は進んでいた。
「おう」
手に持った教科書に視線を向けてからバッグに直した。そんな圭史が体を向けたときには、美音は靴を履き替え終わっていて圭史に向かって歩き出していた。
美音を見た圭史は優しい瞳で柔らかな表情になる。
自分に向けられるそれに美音はドキッとする。
 恥ずかしいと感じるものを必死に心の奥に押しやって言葉を紡ぐ美音。
「練習終わってから大分経ってたでしょ?」
そのせりふを聞いて、ふっと視線をそらした圭史は珍しくボソッと言う。
「まぁ、そうだけど、……かまわないから」
「うん?」
小首を傾げてそう声を出した美音に、鼻の頭をぽり、と掻きながら言う。
「生徒会があっても日が暮れる前に終わって先に帰っているのはいいんだ。日が暮れていて俺が先に終わっていたんなら待つし。暗くなると何かと物騒なのもあるし。
……俺の都合の事は気にしないで言ってくれたらいいよ。どうにもならない時はちゃんと言うから」
「あ、うん。……ありがとう」
頬を赤く染めた美音が俯き加減でそう言った。
それを見た圭史の顔に薄く笑みが浮かぶ。ほんのりと優しいそれは、暗がりの中だから誰の目にも映らない。

頭の中に、「でも、まぁ、アイツは待ってるよ」という亮太の言葉を思い出して、顔がカーッと赤くなっていくのを感じた。今が暗い時間で良かった、と美音は思った。


 電車の中、二人並んで座りながらゆっくりと言葉を交わしている。
「あー、問題集買わないと……」
思い出したようにぽつりと言った美音の言葉に圭史が言う。
「この間買ったって言ってなかったっけ?」
「あれはー、参考書で。良いのが無かったからまた今度にしようって思ったら、まだ買えなくて。この前も学校帰りに近所の本屋に寄ってみたんだけど、気に入るのが無くて。やっぱり大きな所に行こうかな……」
憂鬱そうに言った美音。
「……大きな所って言ったら、△△駅近くの久堂書店とか?」
「ああ、たまに聞くけど、行った事ないんだ。そこって品揃えいい?」
「うん。何度か行った事あるけど、良かったと思うよ。娯楽のほうは少ないけど」
「そっかー」
そう言った美音は何かを考え込んでいる顔をしていた。
 そういう時、圭史はそっと口を噤む。美音の思考の邪魔をしないように。
のんびりと美音の様子を眺めて、意を決した表情になったのを見て穏やかに声を放つ。
「……俺も一緒に行っていい?」
「え? うん」
一瞬、キョトンとした顔をした美音だったが、すぐ笑顔になって返事をした。
「都合が合えば、だけど。土曜日の午後があいていたと思うから、また確認するよ」
「うん。わかった」
それにはにこっと笑顔で答えた美音に、自然と圭史の顔にも笑みが浮かぶ。
 在校生は帰宅し終えている時間に、穏やかで優しい二人の時間が流れていた。

2012.12.4