時の雫-オモイのはざまで

§1 風の噂とウワサの彼女


Episode 2 / 3


 昼休み終了の予鈴が鳴り響いた校内を、険しい顔をして早足で教室に向かっている。
その迫力ある姿に、誰も気安く声はかけられない。
それは教師でさえも。
 在籍するクラスの扉を、いつもより力任せに開けて中に入る。そして、いつもより力の入った閉め方に、教室中が一瞬、しん……と静まり返った。
今の彼女に、そんな事はまったく気にならない。
 席に着くと、そのままくるっと斜め後ろを向いた。
……その時まで、頬杖を突きながら眺めていた亮太だったが、予想外のそれにたじろいだ。
「ねぇ、私のノート知らない?」
その台詞自体は、簡単な言葉の綴りで、誰でも分かる単語だった。
でも、その明らかに不機嫌で苛立ちを含んだ声に、周りの人間、その場のクラスメートは静かに成り行きを見守っていた。
「どのノートよ?」
少しもおびえる様子も無く、それどころか、普段と変わらない口調でそう訊ねた亮太に、クラスメートたちは内心、驚きに似た尊敬の念を抱いた。
「……生徒会用ノート」
先ほどより小さくなった声に、周りが固唾を呑んだ。
「そのノートって三種類セットのやつだろ。どれ?」
「……すべてがない」
顔を引きつらせながらの低い声での回答。にじみ出る恐ろしさに、周りはさっと顔を背けた。
「はあ? それ、いつもと違うところに置いて忘れてんじゃねーの?」
普段と変わらない、いや、普段よりもふてぶてしい言い方に、周りが祈るように胸に手を当てた。
「最後に触ったの覚えてる! ちゃんといつもと同じ場所の、机の引き出しに入れたもん! それに今の時間ずっと探してたけど一冊も見つからない」
怒りを向ける対象が無く、せめての鬱憤晴らしとでもいうように机をばんばん!と叩いた。
その音にクラスメートはビクッとした。
 クラスの中の様子を目の端に捉えながらも、亮太はいつもと変わらぬ様子のまま言う。
「先生に提出して忘れてるとか?」
「いーや出してないし、三冊とも出すなんてありえない」
ふーっと息を吐くと亮太は静かに言う。
「じゃ可能性としては、誰かが勝手に持っていったとかだな。放課後、教員室に行く用事があるから、念のため聞いてみるよ。お前も他のやつに聞いてみろよ?」
「うーん、そんなもん持って行く物好きなんているかなぁ?」
不可解な顔をしてそう言った美音。亮太は一人あさっての方向を眺める。

 そして、烈火のごとく集中されている視線に、亮太は重い気持ちでため息を吐いていた……。




 2組より早く終礼が終わった3組は、大半の生徒がもう教室を後にしていた。
そんな中、圭史はいつもの場所、教室とは反対側の廊下の壁にもたれていた。
荷物は教室の中、廊下側の机の上に置かれているのが開いている窓から見える。
「あれ? 瀧野いかねーの?」
1組のクラブメートが通りすがら声をかけてきた。
「あ、もうちょっとしたら行くよ。遅れたりはしないから」
普段と変わらない様子の圭史をじ……と見て、何かを思い出した男子は「ああ」と納得したように声を漏らしてから「じゃお先に」と言って足を進めていった。
 それから程なくして、2組の教室の後ろ扉が開いて生徒たちが出てきた。
ようやっと終礼が終わったようだ。
それでも圭史はその場から動かず、そことは遮断された空気のまま眺めていた。
 無表情に見えた圭史の顔に、ふと変化が現れる。何も映っていなかった目に輝きがともった。

 出てきた彼女は、冴えない表情で何かを考えこんでいるようだった。
こういうとき、ただ静かに立っているだけでは、気づかずに素通りされてしまうだけだと圭史は分かっていた。
「春日」
静かだけれどしっかりした声。呼ばれた美音はすぐに反応を見せた。
 どうやらそこまで深刻な内容ではないようだ、と圭史は内心思う。
先ほどまでの表情はすっとどこかに消えて、人ごみをすいっと流れてくるように圭史の元へときた。
「今日は生徒会ある?」
美音を見つめる瞳はとても優しいものだった。
そんな圭史の襟元を見つめながら、美音は答える。
「今日は、……3年役員は召集ではないけど、今から生徒会室に行こうと思って」
「じゃあ、……早く終わる感じ?」
「うーん、どうかなぁ」
それには眉根を寄せて言っていた。
いつのまにかやってきていた亮太が声をかけてきた。
「ノートが見つかるまでいようとか思ってんじゃないだろうな」
「え? なんで分かったの?」
目をぱちくりとさせた美音は亮太に顔を向けていた。
「分かるわい。見つかるときは見つかるし、見つからないときは見つからないんだから、だらだら探したって無駄だろーが」
「そんなこと言ったってさ」
「探し物はふとした時にふとした所から出てくるもんだ。探すだけ探したんだったら、あとは待て。その間に他の事が出来るだろ。他にすることあるんじゃねぇの?」
「……役員選挙の進行予定表作るくらい」
「おう。作れ作れ」
「言われなくても作るよー」
「どーだか。じゃ、俺はとりあえず教員室に行ってくらぁ」
「はいはい」
去っていく亮太の後姿に「いーだ」という顔を向けて、美音ははっとした顔を圭史に向けた。
「え、えーと」
頬を赤くして目を泳がす姿に、思わず笑みをこぼす圭史。
「じゃ、じゃあ、作り終わったら図書室で宿題してる、ね?」
「じゃー、そのまま生徒会室で待ってて。……生徒会室でしてたら問題あったりする?」
「ううん、大丈夫だと思う。じゃ、生徒会室で待ってる」
はにかんだ様な柔らかい表情の笑顔に、圭史は融解してしまうような感覚になった。



 美音は生徒会室で進行予定表を作成していた。
それはまだ下書きのもので、書いたものに線を引いて没になっている箇所や、付け加えられている箇所もある。
「うーん……。こういうとき、ノートがあったらスムーズにいくんだけどなぁ」
一人でぼやきながら、背中を背もたれにかけ用紙を眺めた。
集中力が途切れた様子でぼんやりと眺めていると、教員室からやってきた亮太が扉を開けて入ってきた。
「おう、先生のところにはなかった」
「そっかー」
脱力したようで机に体を預ける美音。
「まぁ、暫く様子見て、出てこなかったら橋枝に捜索願でも出すか」
「あはは」
机にある作成書類に気づいた亮太は、眺めるような顔をして言う。
「もう出来たんか?」
「うーん、一応……。でも、いまいち自信がないから、今日は下書きで終わっておくよ」
「ふぅん。……今回の選挙も荒れそうだな」
どこかを眺めながら呟いたような亮太の台詞に、数秒考え込んだ美音は口を開く。
「会長就任で?」
「荒れそうだろ?」
「そー、かなぁ。二人しかいないから、どちらかになるだろうけど……」
「まあ、周りは当然と言った感じで野口だと思ってるだろうな」
「まぁ、そうなのかな。亮太は?」
「まぁ俺も多数派で」
「ふーん」
「お前は?」
「私? うーん、なんとも言えないのが本音だけど、野口君、たぶん凄いプレッシャー感じてるんじゃないかな」
「……おお」
その台詞で昨年の美音の姿を思い出して亮太はそう返事をした。
「本人にやる気があるなら、藤田君とか結構いいと思うんだけどね。あの子、プレッシャーとか無縁そうだし。乗せられやすいから結構頑張ってくれちゃいそう」
「……何気にひどいこと言ってんな」
「そお? まぁ問題はどうやってやる気を出させるか、だよね。その場だけの調子の良いものだけじゃ破滅は目に見えてるし。……優しくしたら付け上がるタイプは面倒だしね」
「お前やっぱり、ひどいこと言ってるぞ?」
「そお? 事実事実。そんなことより、ノートの行方の方が気になるんだけど」
「……ほんと、藤田のことになると冷たいのな」
ため息をつくように言った亮太の台詞が、美音には少々癇に障ったらしい。
美音の纏う空気がさっと変わった。
「亮太」
低い気迫のある声に亮太は大人しく言葉を口にした。
「なんでもありません」
なのに、美音は殺気の孕んだ目を向けてきている。瞬きもせずそらす事もなく。
「たのむから、……流してくれ」
正視できない恐ろしさに亮太は顔を背けていた。
「クチは災いの元、ってよく言うよねぇ?」
「……うわ、谷折と同類になってしまう……」
気をつけようと口を片手でふさいだ亮太だった。
それには苦笑いの美音だ。
 二人しかいない生徒会室。他に見えない姿に気がついて、亮太は聞く。
「で、2年の二人は?」
「もう隣の会議室で準備してるよ? 今日は二人でやってるみたい」
「へー。いつもなら、手伝ってくださいよーとか言ってるのにな」
「そうだよね。どうしたんだろうね」
頬杖を突きながら怪訝そうにそう答える美音。
二人の間に数秒の沈黙があった。
「ちゃんとやってるのに、こんな心配になる私たちもちょっと問題かもね」
「……俺もそー思う……」
そこには奇妙な沈黙が訪れていた。



 男子テニス部部室では、開始時間までまだ時間があるため、準備が終わった者はのんびりとしていた。
副部長の圭史が、部誌に目を通そうと置き場所に目を向けて、あまりの汚さに動きを止めた。
プリント類が乱雑にノート類とともに置かれていたからだ。
「きったねーなぁ、おい」
誰に言うのでもなくぼやいた圭史。
部誌を横に置いてから、プリント類を揃えていく。束からはみ出て見えたプリントの件名が、生徒会より各部部長へという文字が見えて、それを手にとって読んでみた。
それは新入生歓迎会の打ち合わせのお知らせだった。
「……おい、部長はどこにいる?」
静かとも取れる副部長のはっきりとした声に、傍にいた2年生が答えた。
「着替えながらくねくねダンス踊ってます」
頭を抱えたい気分になったが、堪えつつ声を放った。
「おい谷折」
その声に練習着の上を被って腕を通しながら、圭史の元へ来た谷折。
「なんだーい?」
「ここに山積みになっているプリント類はちゃんと目を通してるんだろうな?」
「え?」
そう声を出した谷折が圭史の手に持っているプリントに目を向けた。
件名を目にして谷折の顔が引きつりを見せる。
「お前、その様子だと全く見てなかったな」
「え、えーと、いつもはそんなことないんだけど、ここんとこ忙しくてさー。で、それ、いつ?」
「今日じゃねーか! しかも集合時間もあと10分程じゃねーか! へんな踊り踊って着替えてる場合か?!」
「は、はい。すぐ用意します!」
圭史の空気に威圧された谷折は素直にそう返事をして瞬く間に用意を終えた。
「出来ました! さあ瀧野副部長行きましょう!」
予想外の言葉に、圭史は固い表情で言った。
「……は?」

「一人じゃ心細い〜。一緒に行ってー。副部長も行ってー」
くねくねと動きを見せながら言う谷折に、気持ち悪さも加わって圭史の腕には力が入る。
「しょーもないこと言ってないで、さっさと行ってこい」
「えー? 瀧野君、最近つめたいー。ひどいー。前はそこまで冷たくなかったー」
耐え切れなくなった圭史は一発殴っておいた。
それで少しはすっとした圭史だが、谷折は一向に部室を出て行く気配がなかった。
殴られたところを両手で抱えながら、捨てられた子犬のような目で圭史を見ている谷折。
相手が谷折だと苛立ちが増すのはなぜだろう。
なんていうことを思った圭史が次はどうしてやろうかと考えたとき、笠井が冷静に言った。
「谷折一人に行かせて、問題起こさず無事に済む確立ってどれくらい?」
部室の中は一瞬にして静寂に包まれる。
その言葉に、圭史の表情が変わった。
脳裏にふと美音の顔が浮かんで、当初とは不本意な結果に深いため息を出した圭史は静かに言った。
「……分かった。行ってくるから時間になったら先に練習始めといて」
その言葉に安心した部員たちは一斉に良い返事をしていた。

 足取り軽く、機嫌よさそうに前方を歩く谷折を見て、ため息をつく圭史。
サクサクと練習を進められれば、早めに切り上げられることも出来るのに。
「打ち合わせって言っても、当日の順番をくじ引きで決めて、進行予定を聞くだけなんだから一人でも十分だろう」
「あ、そーなの? じゃあ瀧野に行ってもらえば良かったなー」
「あほ。お前だお前」
「いやー、オレ本当書類とか書かされるのダメでさ。この間のレポートも書き直し判定されちゃって」
「お前、それで修学旅行無事で済むのか?」
「え? なに?」
何も分かっていない様子を見て、圭史は半ば哀れに思いながら話してやった。
「修学旅行中にも課題があって、グループ研修としてレポート書いて最終日に提出だぞ。毎日グループ日誌も書かないといけないし」
「ええ?! そうなの?」
「そうだよ。今度ある、学年一斉ホームルームはその話だと思うぞ? その研修のグループも決めるんだろう」
「自由行動とかって、ないの?」
「さあー?」
あさっての方向に目を向けながら圭史はそう返事をした。
忽ち肩を落として歩く谷折に、圭史は噴出して笑っていた。

 生徒会室の隣にある、会議室に着くと、大方の各部長が揃っているようだった。
その他に実行委員も集まっていた。
「あ、瀧野じゃん」
圭史のクラスの実行委員だった。
「よ」
「どうしてここに?」
「頼りない部長の付き添い」
「頼りない言うな! 頼りないって」
抗議の声をあげる谷折に、圭史がチロリと細めた目を向けると、慌てて顔を背けていた。
それに笑いをこぼすクラスメート。
そして、何事もなかったように圭史は口にする。
「実行委員の仕事はどう?」
「まー、今のところ生徒会の進行どおりに動いているって感じで。そんなに言うほど大変ではないかな」
「まあ出だしはな。それが段々と忙しくなんのよ」
「へー。大体どこらへんから?」
「そうだなぁ、体育祭が始まって、学祭が終わる頃まで、がピークかな」
「……だよなぁ。……あ、そう言えば、途中で部長が変わったりすることってあんの?」
突然の話題に、圭史は一瞬口を閉じたが、すぐ開いた。
「どうだろうな。転校とか、退部とかならあり得るかもな」
「ふーん? それ以外は?」
「まぁそこの部の事情とかあるんだとは思うけど」
「事情、ねぇ……」
怪訝な顔をしてそう口にするので、谷折が訊ねた。
「やけに掘り下げて聞いてるけど、どして?」
「いや、この間の委員会でそういう話を聞いたから不思議に思ってさ」
「うん?」
「バスケ部部長は片岡っていう奴だったと思うんだけど、違うやつになってるみたいでさ」
その台詞だけでおどけた表情を消し、圭史の空気が微かに変わったのを感じ取った谷折は言った。
「まー、そういうこともあるのかもね。どんな理由にしてもよくない理由だろうから」
「……だよな。でも、片岡って……」
そうクラスメートが言葉を口にしたとき、言い終えるの待つより先に圭史は口を開いた。
「アイツは嫌いなんだ」
にこりと笑って言った圭史の言葉は、見えないシャッターがぴしゃんと降りたように感じさせる冷たさがあった。背中が寒くも感じる空気に、クラスメートは圭史の笑顔につられるように笑顔を返した。
谷折もそのクラスメートも血の気が引く思いだったが、それを表に出さないように唾を飲み込んだ。話を続けてはいけないのだと理解した。

 その後、生徒会役員の号令で打ち合わせが始まった。
役員の姿が二年の二人だけなのを見て圭史は実感する。もうすぐ3年生は任期を終えるのだと。
後ろの方の席に座っている圭史の視界に、静かに戸が開かれていくのが映って顔を向けた。
入ってきたのは美音だった。美音の方もすぐ圭史に気づき、笑顔を向けて小さく手を振っていた。
圭史も笑顔で小さく手を上げた。
 隣に来ることはせず、隅で立ったまま美音は前方に顔を向ける。
2年役員の様子を見に来たようだ。
そんな美音の様子を見て、圭史も静かに顔を前に向けた。

 打ち合わせが終了した頃には美音の姿はそこにはなく、隣で谷折が機嫌良くいた。
「トップバッターは免れたし、あとは部活紹介書くだけ〜」
「冊子になる部活紹介のほうはマネージャーに書いてもらうとして」
一枚目のプリントを下に回して二枚目を確認すると、谷折は再び口を開く。
「あ、当日の紹介予定の用紙よろしくねー」
最初から書く気のない部長に圭史は閉口した。
数秒の沈黙の後、諦めたように目を瞑りながら息を吐いた圭史は言葉を漏らす。
「……いや、そうだろうと分かってはいたけど……」
そして、顔を上げたときには谷折の姿はなくなっていた。
辺りをさっと見回しても会議室にはいないようだ。
何かを考える前に、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「りょうっちーん! ひっさしぶりー」
「うわ! もうちょっと静かに入ってこれないのかよ。びっくりしただろーが」
「今日のオレは波に乗っているよーだ」
「バカの波にか? 乗ったままこことは違うところに流れていってくれ」
「ひでー、りょうちんひでー。クラスが離れたら俺は用なしー?」
「気持ち悪いわ!」
それに「あはは」と声をあげて笑う美音。
半ば呆然と立っていた圭史は、ため息をつくと足を動かした。

 圭史を見ても、亮太は普段と同じ様子で、谷折も話をやめる様子もなかった。
「座る?」
と言って隣の席の椅子を出してくれた美音に「ありがと」と言って素直に座った。
「うちの2年二人の進行はどうだった?」
笑顔のまま聞いてくる美音に、さっきの時間を思い出しながら口を開いた。
「うーん、別に悪くはなかったかな。普通に出来てたと思うよ」
いつもなら、姿を見ただけで露骨に嫌なそうな顔をする快が、今日は仕事に専念していた。
気づいていないだけなのか、気づいていても仕事の方に意識を向けていたからなのか、分からないが。
「今まで、あの二人だけで進行するところ見たことないから、良いのかっていう判断はつかないけど」
「そうだねー。でも、まあ普段の仕事ぶりから見たら、今日はまじめにできてたと思うよ。ちょっと安心」
「いいなぁ。俺にもその安心を分けてほしい」
「え?」
不思議そうな顔をした美音に、ちょいちょいと親指を谷折に向けた。
ああ、と納得した美音は笑顔で言う。
「多分、谷折君の方はずっと安心してるんじゃない?」
楽しそうに亮太と雑談をしている谷折を横目で見た圭史は深いため息をついた。
「苦手だって言って、提出書類が全部こっちに回ってくるんだ」
「ああテニス部の書類、全部瀧野くんの字だもんね」
「そうなんだ。全部回ってくる」
「谷折君がうらやましいなぁ」
笑顔でそう言われて、圭史は何かを抱きながら聞く。
「……、なんで?」
「そんなに安心して任せられる人、中々いないよ?」
「……谷折にそう思われててもなぁ……」
違う方向を見て「はー」と息を吐いた圭史に、途中から二人の話を聞いていた谷折が口を開いた。
「オレの何が不満だって言うの?! ひどいわ!」
「そのハイテンションは何なんだ」
隣にいる谷折を呆れたように見ながら言う亮太に、圭史は苦笑しながら答える。
「それが分からないんだ。部室にいるときからこんな感じ」
「大変だな、瀧野。教室でも部活でも」
「うん。溝口は3月まで大変だったな」
「おう。長い一年だった……」
遠いどこかを眺めながらそう呟いた亮太に、ぎゃあぎゃあ喚く谷折。それを見て美音は声を出して笑っていた。
口では呆れたように息を吐きながらも、楽しそうな美音を目に映している圭史は優しい微笑を浮かべていた。




 圭史の当初の予定よりも練習は遅めに終わった。それは谷折と打ち合わせに出席することになった時点で予想はしていたが。
解散となってからの圭史の行動は早かった。足早に部室に向かうとさっさと帰宅準備をし、すぐさま部誌を書き上げた。やっと部室に入ってきた谷折に、ふてぶてしい顔で「ほらよ」と部誌を渡す。
こういうとき、谷折はおちゃらけたりせず、素直に受け取り「お疲れさんです」とだけ言葉を返す。余計なことを言って足止めさせたときの恐ろしさといったら……、まだ体験した事がなくても分かるというもの。
だから、そっと見送る谷折だった。
 逆流するかのように下駄箱に向かい、靴を履き替えて校舎に入っていく。
途中、部活を終えた生徒たちとすれ違っても、まったく気にすることなく早足で進んで行く。
 最後の角を曲がったとき、ようやっと圭史の足は速度を落とす。
その足は生徒会室の扉の前で止まると、大きな息を一つしてから軽くノックをする。

 小さくもしっかりと聞こえてきたノックの音に、美音は声でだけ返事をする。
そして、扉が静かに開く。
丁度問題が解き終わったので、手を止めて顔を向けると、笑顔の圭史がそこにいた。
自然と美音も笑顔になって口にする。
「待ってね。今帰る用意するから」
「ゆっくりでいいよ。その間、座って休憩しておくから」
「うん」
隣にある椅子に座ると、落ち着いたように息を吐いた圭史は、片づけをしている美音の姿を穏やかな気持ちで見つめていた。
「谷折君、テンション高かったけど、練習中もあんなに高いの?」
「それが不思議と、練習が始まると結構普通になるんだ。合間合間にあのノリは見せるけど」
「そうなんだ。谷折君って、不思議なテンションだよね」
「……まぁ、ある意味そうなんだろうけど。優しい表現方法だと思うけど」
「そうかな」
と言って圭史の顔を見て美音は噴出していた。
「すっごい顔、してるよ?」
「……そう?」
「うん」
感情が顔に出ていたのだと知り、隠すように頬を手で覆った。
美音は机の上の片づけを終えてから鞄のチャックを閉めると椅子から立ち上がった。
あとは室内の戸締り確認。それはすぐ終え、元いた場所に戻ってくると、鞄を手に持ち笑顔を圭史に向けた。
「お待たせ。かえろ」
それだけで、圭史の心の中は喩えようのない程の想いがあふれ出す。
「うん」
そう言った自分の顔は満面の笑顔だろう。もしかしたら、……もしかしなくても、緩みきった表情になっているに違いない。

 時折、突き動かされそうになる感情がふっと沸くことがある。
けど、それをどうにか自分の中でやり過ごしていた。
馬鹿な事をしないようにと言っているみたいに、理性が美音の泣き顔をちらちらと見せてくるから。
このまま、思うまま願うまま動くことができたら、楽になれるかもしれないのに。なんてことも頭の隅で考えてもしまう。
まるで堂々巡りのそれに、自嘲気味に口端をあげながら立ち上がり荷物を手に持った。

 ゆっくりと進む美音の後を行く。
美音の片足が生徒会室の外に出たところで、すぐ後ろにいる圭史は電気のスイッチに手を伸ばす。
「あ、そうだ」
と顔を横の方に向け伸ばされた美音の手は、圭史の手に触れる。
一瞬ではっとしてすぐさま離される手。すぐ胸元でぎゅっと握られて、美音の頬は赤みを増していた。
「ご、ごめん」
その様子に、可愛いという気持ちとなんとも言えない気持ちとでひときわ優しい瞳を浮かべたかと思うと、すぐ表情を変えて圭史は言葉を放った。
「どーせなら、そのままぎゅーっと握ってどこぞに引っ張っていってくれても良かったんだけど?」
「ええ?」
赤い顔でそう口にした美音に、圭史は笑いながら「ジョーダン」と口にした。

美音は何か言いたげな顔のまま前を向いた。反論しても敵わないことを分かっていたから。
「……忘れ物ない?」
「……ないと思う。……あ! 鍵」
言われて思い出した美音は唐突にそう声を上げ、くるっと振り向いた。
それは突然の動きだったので、圭史はよける事も反動を緩める動きもできなかった。胸元に美音の顔がぶつかった。
「あ……、ごめっ」
「いや、……大丈夫?」
「う、うん、圭史君こそ大丈夫?」
自然に出たその台詞に美音自身は気づいていなかったが、圭史は自然と笑顔になって答えていた。
「大丈夫だよ」
その笑顔にどぎまぎしてしまう美音は、「ご、ごめんね」と口にするとギクシャクしながら向きを変えようとした。
ぶつかった時に手放していた鞄のことを忘れたまま。
平常心ではない美音は見事にそのまま鞄に躓き、バランスを崩して倒れそうになった。
圭史はとっさに美音の腕を掴んで自分の中に引き寄せたが、その反動で踏ん張れずゆっくりと地面にしりもちをつく形になった。
とりあえず、安堵の息を吐く圭史。
美音は圭史の胸の中で一人呟いていた。
「もー恥ずかしすぎる。ほんと恥ずかしすぎる。穴の中に入ってしまいたい……」
顔を突っ伏したまま動けない美音。
身を任すように体を預けている体勢。守るように背に回されている圭史の腕。
 ふっと鼻腔をくすぐる美音の匂い。
意識とは別のところで沸きあがる感情に敏感に反応したのは手だった。
ぴくっと動いた圭史の手。すぐ、躊躇うように軽く握られてそっと下に下ろされた。
圭史の中では理性が総動員してブレーキをかけている。
上昇する体温と早足に駆けていく胸の鼓動。
どうにか落ち着かせなければと圭史は一人必死に闘っていた。
「あ、あの、ごめんね? 本当に、何度もで、ごめんね……」
そっと顔を上げ、救いを求めるような潤んだ瞳を向けてきた美音の顔は赤かった。
その可愛らしい唇が再び開かれる。
「どっか、怪我とかしてない?」
「……うん」
精一杯の力でそう口にした。
違うところが重傷を負いつつある、と圭史は思いながら。
「あの、ほんとに?」
そう言った小首を傾げながらの上目遣いに、圭史の目ははっと大きく開いた。
「瀧野くん?」
それに反応するかのように、ピクリと動いた圭史の手は近くにあった美音の手首を握った。
 熱い圭史の手にどきりと反応を見せる美音に、圭史はぼそっと言葉を漏らす。
「……れはムリ」
その言葉に彼を見つめる美音。
「え?」
一人考え込むようにしながら圭史は言う。
「それは反則に近い……」
「な、なに、が……」
しどろもどろになった美音の言葉に、圭史はそっと目を向けた。

 向けられたそれが、さっきまでの穏やかさとは打って変わって熱い眼差しだった。
自分の意思とは関係なく胸がドキッと音を立てる。それは痺れにも似ていて指先にまで伝わっていく。忽ちうるさく鳴り響く心臓にすべてがとらわれそうになる。
その苦しさと恥ずかしさでたじろいだ一瞬後、圭史にぎゅうっと抱きしめられていた。
びくともしない彼の腕の中、美音は声を出すことしか出来なかった。
「く、るしい……、少し、弱めて」
それにはっとしたかのように、腕が緩められた。
ほっとして彼の胸におでこをこつんとくっつけると、圭史の腕は美音を優しく包み込む。
頭のてっぺんまで鳴り響く鼓動と居心地の良い彼の胸の中で、今までとは違う空間にいるような感覚に陥っていた。
そして、実感する。触れられて幸せな気持ちになれるのは彼だけだと。
 圭史の手がそっと頬にかかっている髪を避けるように伸ばされた。
それで顔を向ける美音に、圭史は真っ直ぐ視線を注いでいた。
自分の事を安心しきっている瞳を見て、圭史もまた安心する。
 逃げ場をなくすかのように、美音の頬にあった手は美音の背に伸ばされた。
そして、圭史によって重ねられる二人の唇。
優しくて愛おしい恋の時間に二人の心は支配される。

 離れた唇が、名残惜しそうに美音の頬に口づけすると、美音の肩に圭史はおでこを乗せた。
自分の中を未だ燻るものに吹っ切るような思いで長いため息をつくと、顔を上げて言葉を紡いだ。
「こんなところで限界きても仕方ないから、帰ろうか」
「? うん?」
理解していないそれに、圭史は苦笑を見せて彼女からそっと離れた。
 勿論、そうだと分かっている。もし、分かられてしまうのなら、圭史は決して口に出さないだろう。



 生徒会室を後にして次に向かったのは教員室。
美音が生徒会室の鍵を返却しに行っている時、圭史は廊下の窓を開け、桟に頬杖を突きながら暗い外を眺めていた。
「……耐えるよなー、俺。つくづく感心するよ」
まるでぼやくように言ったそれ。
心の中では絡み合うようにさまざまな思いがひしめきあっていたけれど。
外の風の冷たさが、今の圭史にはちょうど良かった。
「おまたせ。帰ろう」
背中から可愛い声が聞こえて、圭史は振り返り返事をした。
この一瞬前まであった感情が嘘のように思えるくらいの笑顔で。


2013.2.14