時の雫-美音

その３　美音・学園祭の終わった後

§7

　学園祭の全ての事がようやっと終わった。
打ち上げの片付けを終えた頃、私は付き纏う藤田君を交わすようにして用事を済ませていた。何かの用で動いている時はまだ良かった。余計な何かを考えずに済んだから。
でも、一人になった時、ふと私の動きは止まっていた。

無意識に同じ事を考えてしまうから。
　……彼の事を。


　私的には、突然目の前に現れた川口が「あ！聡を好きな女」と言った時、罰が当たったんだと思った。
　身の程をわきまえず浮かれていたから。
自分の事だけで何かを言われるならまだいい。だけど、他者の事で言われるのなら、私にはとても辛い。私のせいで他に人を巻き添えにするの嫌だった。
　今の生活に馴染んでいるけれど、中学の時の過去は消せないのだと思い知らされた。
私の中ではすっかり忘れていた事実だった。
だけど、それを突きつけられた瞬間、目の前が真っ暗になったような気がした。
自分の体が別のものに感じられるくらい、硬直していた。
　その時、彼の顔を見ることができなかった。どんな顔をしているのか知るのが怖かった。
彼に「過去」を触れられるのが恐ろしく感じていたから。


……どうかしてたんだ。

　正直、苦汁を飲む気持ちで、彼の事を「何もない人」と思い切ろうとしている私だ。
だけど、息が詰まりそうに苦しくなって、とても辛い気持ちになる。
出るのはため息。そして胸に痛みが走る。

それでも必死に自分の心に弁明をする。

　彼は良い人なだけ。
瀧野くんはいつだって優しいもの。
だから、彼の手だけは大丈夫なんだ。

そう思うと、今日向けられた彼の目を思い出した。
真っ直ぐな目。
いつもと違っていて熱っぽい目……。
途端に心臓は声を上げる。
私は慌てて冷静になろうとし落ち着かせるように息を吐いた。
　そして、又同じ事を繰り返し思う。

彼は違う。違うんだ。彼は「何でもない」人なんだから。

　不気味に漂う沈黙。
それに気付いた時、私の背には恐怖が走った。
はっとして後ろを向く。明かりは点っているものの人は誰もいない。なのに、威圧感のような何かの気配を感じる。廊下の向こうに明かりはついていない。
そうすると、すぐに恐怖に身が竦む。
忘れているようでもまだ身に染みている恐怖。
怖くて泣きたくなった時、彼の顔が浮かんだ。

そして、はっと思い出した。帰る頃にはもう真っ暗だし送っていくよ。という彼の言葉を。
　こうしちゃいられない。早く行かなくちゃ。
そう思って駆け出した私の心臓がドキドキと言い出した。
それはさっきとは違うもので。
　こんな風に喜んじゃいけないのに……。


　打ち上げをしていた部屋はもう戸締りを終えているはず。
そう考えた私は下駄箱へと急いだ。
そのエリアに入れば、やっぱり彼はそこで待っていてくれた。その場所からでも、彼の表情は目に見えた。ぼんやりとしているその様は、疲れから来ているものなのかも。
それだったら、待たせてしまって悪い事をしてしまった。
　彼を見て自然と止まった足に、彼がこちらに顔を向けた。
その瞬間、私の心臓はどきっと声を上げる。
「あの、疲れてるのに遅くなってごめん、ね」
申し訳ないのと、彼に顔を向けにくいのとが一緒になっていた。
だけど、彼は変わらない優しい笑顔をくれる。
何故だか、泣きたい気持ちに駆られた。だけど、こんな所でまた涙を見せるわけにはいかない。ぎこちない動作で下駄箱を開け、靴を履き替えた。
　そして、見慣れぬ物が目に映った。靴の上に置かれた白い封筒。
それが何なのか今の私には分からなくて、疑問に思ったまま手に取った。表書きにただ「春日さんへ」とだけ書かれている。なんとも言えない奇妙な気持ちで手に持ったまま靴を履き替えてから私は思った。これを手にしたままでどうするんだ、私。と。
慌ててカバンに入れ、何事もなかったように顔を上げた。
　自然と歩き出す私達の足。
きっと、この静かな空気は、学園祭の終了と共に襲ってきた疲労感からなのだと思った。
私もいつものように他愛ない事を話す気にもならず、ただ歩いていた。
でも、この沈黙が怖くて嫌だとは思わなかった。
　私の中で、たくさんの思いが渦を巻いていて、彼に気持ちを向けられなかった。
そして、家へ向かって歩いている途中に思い出した。
そして同時に思う。何をやってるんだろう、私。と。
「……あ、そうだ。あの、昨日はクラスの出し物の、願い事阻止の条件で無理矢理頼んでしまったんだけど、その、受けてくれて、ありがとう」
ちゃんと上手く文章に出来なくて、それでも頑張って言った。
「あ、いいよ。それくらいのこと」
何でもないよ、言う風に言ってくれた彼に、心の中で嬉しさが沸きあがる。
「ちゃんとお礼言ってなかったなと思って」
照れくさくなりながらも自然と笑顔になった。
そして、いつもの笑顔を向けてくれた彼になぜだか安心した私は、心に詰まっていたもの吐き出すように口にした。
「あと、今日も、その、色々……、ありがとう」
「色々？」
「うん、色々」
上手くは言えないけれど。
ちゃんと説明をすれば、きっとわたしは涙が出てしまうから。
そして、他にも抑えようとしているものが出てしまいそうになるだろうから。
だって、たったそれだけを言っただけなのに、今目が潤んできているから。
気付かれないようにと必死で堪えながら、見られないように地面を見つめた。
だけど、頭の中で今日の彼の姿が甦る。
真っ直ぐな言葉と一緒に向けられた真っ直ぐな強い眼差しが。
途端に心臓がざわつき始めた。
私の事を捉えていた彼の言葉。
でも、あの後タカは言っていた。でも瀧野はそんなヤツじゃないだろう。結構人間性のあるヤツだし。と。
油断すれば私は又勘違いをしてしまう。彼はただ、人を見る目に長けているだけなのだから。そして、優しいのだから。
だけど、彼の言葉が私の頭の中で思い出された。
そして私は胸の高まりとは逆に思う。

お願いだから、私を捉えないで。心を曝け出さないで。
これ以上、触れられたら、きっと私は自分を見失ってしまうから……。

それは言いようのない不安だった。


「あの、さ……」
突然かけられた言葉に、ビクッと一瞬なった。
「うっ、うん」
思わず声が上擦っていた。なんだろう？何を言われるんだろう。
思わず構えてしまう私だった。
言いにくそうに彼は口にした。
「戸山のこと……」
一瞬、何でタカの事が出てくるんだろう、と思った。
だけどすぐにタカの言葉を思い出した。
彼は今まで幼馴染と言う関係を知らなかったから。
「あ、もう聞いてるかもしれないけど幼馴染なんだ。オムツしてる時からの付き合いだから、兄弟みたいに育ってきてて、今でも普通に家族同士付き合いがあるんだ」
そう、タカの存在は私にとっては気にするものではなく、当たり前の存在だった。
「……そうなんだ。仲いいんだ」
いつもよりは少しトーンの低い声に私は言う。
「昔はよく周りからからかわれてたけど、でもお互い異性として見てないから関係なかったなぁ。それにタカが女の子扱いするのは昔から妹の真音だけだし」
誰に何を言われても、事実そんな感情はなかったから勝手に言っとけば？って感じで。
それは向こうも同じ。それにあからさまに真音と私への態度は違うから。
「そぉ？」
「うん、そう。私のこと弟位にか思ってないよ。タカ、それとも他に何か言っていた？」
何か勘違いされるような事でも言ったのだろうか？タカが？そう思って聞いてみたんだ。
そしたら、彼は少し言いにくそうに口にした。
「あー、取り分け何も。えー、と、かなり親しそうに見えたから、付き合って、る、のかな、と思ったから」
「え？！ないない！それは絶対ない。タカに恋愛感情なんてあり得ないよ」
真顔で言われたらはっきりと否定してしまう。だって、本当にありえないから。
相手が冗談半分で言ってきたら相手にしないんだけど。
それをちゃんと聞いてくれたのか、彼は納得したようで笑みが浮かんでいた。
思わずそれに見惚れかけていた私は、その後段差に躓いた。
思わず声を上げたら、次の瞬間にはいつものように彼に助けてもらっていて。
「大丈夫？」
その優しい声にお礼を言って、バランスを崩していた私は、彼の腕に助けられて立ち上がった。それさえも恥かしくてたまらず口にする。
「……今日は、重ね重ねすみません……、ほんとに助けてもらってばかりで……」
ほんとにそれはもう数え切れないくらい……。さすがに、呆れられてるんじゃないだろうか。自分が恥かしくなりながらも彼を見上げた。
「いいよ。……春日限定だから」
優しい彼が言ってくれた言葉。今までも似たような言葉をたくさん貰った。

だけど、私の中のもう一人の自分が冷静に言う。
鵜呑みにしたら痛い目見るよ。って。

彼にはドジなところばかり見られているから。
いつも弱い時の私を見られて、それでもいつも彼は助けてくれて。
だから私は無理矢理言葉を紡いだ。
「それって、ほっとけない位抜けてるってこと？」
そうでなければ、こんなに世話を焼いてくれるはずがない。
きっと、そうなんだ。瀧野くんにとって私は放っておけない存在なんだ。

私はそう思うことにした。

だから、彼の静かな笑顔にもなんら疑問を抱かなかった。

再び歩き出した彼との間には、静けさがあった。
だけど、心地よい静けさだった。
今までの生活の騒がしさが嘘のようにそこにはなかった。
そして、今までの落ち着きのなかった心も不思議と消えていた。
　もう、このまま時間は終わるのだと思っていた。てっきり、私は。

この道を行けば、この並びに家がある。もうそんな場所に来ていた。
だから、心はもう思考を解いているも同然だった。
けど、彼の足がゆっくり止まった。
素直に、どうしたんだろう、と思った。
だから、無造作に彼を見つめた。
そこにあったのは、こちらを真っ直ぐと見つめる彼の顔だった。
思わず、私の中で時が止まる。
そして、手に彼の温もりを感じて動揺が走った。
私の手は彼の手に包まれていたから。

「……俺、……」
不意に聞こえてきた彼の声に、もう凪いだはずの心がざわめきたった。
だけど、すぐ私は思った。
きっと彼が今言おうとしている事は大事な事なんだ、と。
それは何かの期待や不安ではなく、「彼の言う事だから」とただそれだけ。
数秒の間があって、彼は目を逸らしゆっくりと手を解放した。
それが何なのか私には分からなかった。
「……瀧野くん？」
どうかしたんだろうか？
「……ごめん、なんでもない。忘れて」
その声に彼からの拒否を感じた。
だから、何も訊ねたりはしない。
それでも自然と体の中では痛いほどの緊張が走っているのだけど。
彼が何でもないと言うのだから、何でもない事なんだろう。
深くを考えず、それを受け入れ、先に歩き出した彼に歩調を合わせた。
家の前に到着し、言葉をかけてくれた彼に私は笑顔で言った。
「うん、明日は振り替えで休みだから、火曜日だね。今日もありがとう」
すると彼は笑顔で返してくれて、自然と私の心はほっとする。
次の瞬間、捕らえられた私の手。短い時間に２度彼に握られた手。
予想外の行動に、さすがに驚いた。
それを知ってか知らないでなのか、彼は楽しそうな笑顔を向けて言った。
「……おやすみ」
そんな顔が返って来るとは思っていなかった私。
時間が止まったような感覚に陥っていた。
そんな私を置き去りにしたまま、彼は帰って行った。

外は静かだった。そよ風が私の髪を揺らして行った。
風が通り過ぎた後は、なんとなく寂しい気持ちになる。
そんな気持ちのまま私はもう小さくなった彼の後ろ姿に呟いた。
「……いろいろと、ありがとう」
そして思い出していた。
勝手に騒ぎ立てていたこの心臓。彼に向いてしまうこの心。
それと同時に拡がる言いようのない不安。
もっとたくさんの感情を彼だけに抱いた。
「……忘れよう。……もう忘れる」
たとえ、それがどんなに苦しくても。
どんなに切なくても。


　思いがけない彼の行動、それは不意の出来事だった。
それに慌て、うろたえたのを表しているのは、今もう震えた指先だけだった。
それに囚われまいと平然なフリをする。
――自分自身に。

　たとえ嘘つきになっても。

もう、誰かを好きになって苦しい思いはしたくないから……。

2006.7.14

投票です。宜しければﾎﾟﾁと。