時の雫

零度の距離
その2 貴洋・学園祭3日目


§7

 スポーツウエアを身にまとい、肩にはテニスラケットの入ったバッグをかけている男子2人がそこにはいた。
「おいー、マジで行くのか?」
「おう。折角だし見ていこうぜー。じゃなかったらこんな時間から来ないだろー」
全く引く気のない鷹揚とした態度に、その後方に立つ貴洋はため息をこぼした。

 ― 願わくば、会わん事を…… ―

心の中でひっそりと願い、気が進まない面持ちで足を運んだ。
 校門入った所すぐに来賓の受付があった。
そこにいる生徒の顔を見て、見知った顔でないことに安堵の息を漏らす。

 ― ……俺、今日の事言ってないんだよなぁ…… ―

遠い眼差しを高い空に向けた。
その先には今この場所にはいない幼馴染の美音の顔が浮かんでいた。
 そこがどんな場所であっても、自分が美音に会うのは別に何でもない事なのだ。
ただ問題なのは一緒にいるのが誰なのかという事。
 美音が通っている南藤高校にやってきたのは、別に学園祭を楽しむためでなかった。
地域交流と銘打った練習試合をしに来たのだ。
日程的な都合が合って、南藤の学園祭の日になった。野田高校とのテニス部練習試合。
貴洋と一緒にここに来ているのは、川口と言う名前の男子。
川口も、圭史、美音、貴洋と同じ中学だった。美音以外に至っては、全員中学時代は軟式テニス部だった。

 ― かといって、一緒にいたのがアイツだったとしても、俺は大いに困るんだけどなぁ ―

楽しそうな顔で回っていく川口に目を向けて、貴洋は又ため息をついた。

 ― 最近は違う人間に惹かれているみたいだから、そっとしておきたいなぁ。昔の古傷えぐる様な事、してくれるなよ…… ―

それを声に出して言う事は出来ないのが悲しいところ。
その心配もするだけで終わらないのが辛い所……。
 集合時間近くになったので、テニスコートの方へと向かった。
他のメンバーもちらほらと来ていた。
この時、何事もなくそれを迎えたので、内心貴洋は安心していた。

 川口はあちらこちら顔を向けて落ち着きなくいる。
貴洋はコートにいる在校生に目を向け、圭史の姿を目で探していた。

 中学3年の終わりに一度だけ訊ねた事があった。
「公立どこ受けんの?」
それに圭史は少し驚いた表情を向けたのを見て、思わず言った。
「なんでそんな顔?」
「あ、いや。大抵のやつは、野田受けるんだろ?って言うからさ」
穏やかな表情で圭史はそう言った。
「瀧野は野田って言う柄じゃないだろう」
「……それってどういう柄なんだよ」
「いや。何となく言ってみただけだ。気にするな」
「……南藤だよ」
「……へぇ。部活は?」
「多分入るよ。硬式のテニス部」
「じゃあ、近くの高校の方がいいんじゃないの?通学時間とか短縮になるし」
「うーん。南藤、結構校風がいいんだよな。それに野田高、……高校行ってまで見たくないからな」
「何を?」
「……。いや、……」
「なんだよ、言えよ。気になるじゃん」
「えーと、川口の冷やかしとそれに嫌な顔をする聡とさ」
「あー。いつもは何でも無さそうな顔して、瀧野も実は嫌だったんだな」
「まぁ、あいつの冷やかしはちょっとなぁ」
「そうだよなぁ」

その川口のお守りを高校に進んでまでしないといけなくなったのは貴洋だった。
聡は高校では部活に入らず、今はバイトに明け暮れている。
 貴洋は、美音と幼馴染と言う事を今も同様川口には必死に隠しているのだ。
貴洋のポジションは実にバランスが取りづらい。
 そして、高校では美音と別になったので、中学の時のような心配事は減った。
中学の時、聡に惚れていた美音は、今はもう違うと言う。
それでも、やはり気にしている様子を見るので強がっているのではないかと思っていた。
だが、今年の暑くなってきた時期頃からだっただろうか?
美音がある男性に心を悩ませている様子を見るようになったのは。
いつもは強くて逞しい性格だが、これが恋愛ごとになると途端に内向的になる。物凄く臆病で自らその芽を潰してしまうほどに。
好奇心からではなく貴洋はずっと気になっていた。
今回はその人物と直接の接触があるらしい、と話を聞いて分かっている。
だから、その人間の事をもしかしたら圭史なら何か知っているかもしれない。
もし機会があったら、聞いて見たいと貴洋は思っていた。
 異性としての感情は持っていないにしろ、美音は大事な幼馴染なのだから。


視界の端にコートに向かって来ている南藤生を目にした。
その顔に「あっ」という表情を浮かべた貴洋が声を出すより早く、隣にいた川口が声を上げた。
「あ!瀧野!」
川口の顔は、ここに圭史がいるとは知らなかったと言っていた。
その川口の呼び声に足を止めた圭史は、二人の顔を見るといつもの打ち解けた表情を向けた。
「よお。2人も硬式やってたんだ」
圭史がそう言うと、貴洋が言う。
「うん。久しぶりだなー。テニスの大会では顔を合わした事なかったけど、名前は聞いてたからさ。
県大会でベスト10入りした南藤高の瀧野って。やっぱお前だった訳ね?」
地元では強い学校だが、公立の進学校でそこまで名を馳せる人間も珍しい。
そう言っても、南藤高は他の部も中々優秀な成績を収めているのだが。
「そーだよ。野田高校からのご指名って聞いてたから、絶対知ってる奴が言ってきたんだと思った」
そう言って笑った圭史だったが、川口の顔を見て思い出したように声を出した。
「で、まだ他の部員は……?」
「俺らは折角だし早目に来てここの学園祭堪能してました」
あっけらかんと言った川口。
何かを思いながら圭史は言う。
「……聡も来てたりすんの?」
「いやぁ、あいつはずっと忙しそうにしてるよ」
「帰宅部だろう?」
「うん、バイトしてるんだよ、あいつ」
「へえ?」
それは今はじめて知ったらしいという圭史の顔。
中学時代は大概一緒にいて親しかったのだが、学校が離れると近況も知りえないのか、貴洋は一人そう思った。
もっとも、聡の話でも、たまにしか連絡をとっていないにも関わらず、圭史は元気にやってるよ。と言っていた。親しい分、内面的な繋がりは確固と持たれているのかも知れない。

ふと思い出して、美音に圭史の事を聞いてみる事もあった。
それに美音は淡々と答える程度。
美音の母親と圭史の母親は親しいという事も聞いて知っている。
その時の複雑そうな美音の表情は今でも消えていない。
かと言って、美音が圭史の事を悪く思っていない事は知っている。
中学の時でも、ちらほらと美音の口から圭史の話を聞いた事があるからだ。
その内容は全部、圭史の事を褒めているものだった。
だから、始めは圭史にそのまま恋心を抱くのではないだろうか、とさえ思っていた。
結局は違ったわけだが。
親同士が親しいと言えど、本人達は社交辞令を言えるほどの仲でもない。
必要に迫られた時に限り必要なだけの言葉を交わす程度のもの。
中学時代はそうだった。
高校では、貴洋は目に見ている訳ではないから予測も立てられない。
だが、通学路も一緒で、親同士相変わらず親しいのだし、当人達が口を交わす事がなくても、どこからか情報が入っているかもしれない。
もしかしたら、些細な事でも知っているかもしれない。
貴洋は、川口と言葉を交わしている圭史を見ながら、そんな事を思っていた。
そして、二人の間に切りの良い間が訪れた頃、貴洋は躊躇いがちに声を発した。
「なぁ、もしかして今って……」
その台詞の途中までは、圭史は聞いていた。
だが、何かを見つけたようで視線を外した圭史に、貴洋は自然と口を閉じその視線の先を追った。
 その目に映っているのは、圭史の所に真っ直ぐに向かってくる美音の姿だった。
雰囲気的に急いでいるのが分かる。ベストの裾辺りには生徒会と書いたリボンがついている。大よそ生徒会の用事だろう。
そんな美音の姿を見て、貴洋は一人思う。

 ― おーお。色つきリップして色気づいちゃって。それなりに身なりには気を使うようになったか ―

 そんな貴洋に気づかないまま、美音は圭史の前まで来ると足を止めた。
顔には、貴洋があまり目にする事のない笑顔。
それを目にした時、貴洋の胸中には驚きが奔った。
圭史に聞こうとした事なんてすっかり頭の中から消えていた。
 貴洋たちの視線に気づいたのか、美音がこちらに目を向けると、その顔は驚きに満ちた顔に変わった。
そして次の瞬間には貴洋の中でも一番恐れていた事態が繰り広げられた。

「あ!!聡を好きな女!」
そう声を上げたのは、川口だった。貴洋は心の中で「やっぱりか……」と重いため息と共に呟かれた。
この場に訪れたのは奇妙なくらい重く静かな沈黙。
美音も圭史も、動きが止まっている。
貴洋の額には汗が浮かび、そして目は動揺を見せた。
赤ん坊の頃からの付き合いだ。こうなった時、美音がどんな反応を示すのかは嫌と言うほど知っている。
 すぐ我に返ったらしい美音は、手に持っていたバインダーを思い切り川口の顔に投げつけた。それは見事に川口の顔に当てられ、小気味良い音がした。
あとは不気味なくらい静かに地に落ちていったバインダー。
そして漂う不気味な沈黙。
貴洋は身構えた。

「面識ないも同然の女子に中学卒業以来に顔を合わせて開口一番に言う台詞がそれか!?」
予想通り飛んできた美音の声に、思わず身を竦める貴洋。
「な、なんだよ!嘘は言ってないだろう!お前だって散々本人目の前にして好きだって言ってたじゃないか!」
美音の気迫に圧されながらも川口はそう言った。
貴洋は目を手で覆いたい心境になっていた。最悪の予想通りのこの事態。
うろたえる心に止める術が浮かばない頭。
「言ってない!!周りが勝手に冷やかしてただけじゃない!!」
「それでもお前がその原因だろーが!」
「冷やかして困らせて面白がってた一人のくせに!よくそういう事……っ」
そう最後に言葉に詰まった美音の声を聞いて、貴洋は美音の情態を知る。
「春日、注目浴びてるしもうそれ以上はやめておいた方が……」
やめる理由をすり替えて言ってみたものの、頭に血が上っている美音には届かない。
「今ここで口を噤んだ方が誤解を招く!昔の話を今更蒸し返されて、公衆の面前で、しかも、こんなふざけた奴に!!」
美音の中の川口への批判は普通ではない。
それを貴洋は知っている。
中学時代、その場に美音と聡が居合わされば、川口はいつだって面白がって冷やかしていたのだから。
「誤解って何だよ!!事実だろう!?嘘は言ってないだろ!それとも振り向いて貰えなくて恥かかされたとでも思ってんのかよ?!悪いのはお前で…」
そういった川口の言葉に、美音の表情が尚変わったのを貴洋は見た。
それを見て、やばいと直感した貴洋は慌ててその場を動く。
大きく振り上げられた美音の手を見て、尚急ぎ後ろから腕を羽交い絞めするように取り押さえた。そして、内心必死の貴洋は、ついいつものように言葉を口に出したのだ。

「落ち着けって!みお坊!ここで手上げたらさすがにやばいって」
この時ばかりは、貴洋も力をいれる。普段ならこんなに力があると思わない美音だが、こういう時は別だった。
急に自由の利かなくなった体に、それでも美音は必死に力を入れて動かそうとする。
「放して!こんな奴!こんな無神経な奴……」
一瞬でも力を抜いたら殴りかかりそうな勢いの美音を必死で抑えながら声を出す。
言葉の語尾が震えているのに気づいてはいるのだが。
「みお坊は悪くないからっ分かってるから落ち着けって!お前が手を上げたら事は悪化する一方だろ?!もう気にしないって言っただろうが」

そう、美音は言っていたのだ。貴洋に。
「もう周りの言う事も気にしない。何か言われてうろたえたら、相手の思う壺だもんね。
それに今はもう、……違うしさ」と。

貴洋のその言葉が届いたのか、美音の体から力が抜けた。
「……タカ、はなして」
いつもと同じ様に自分を呼ぶ幼馴染の声を聞いて、貴洋はそっと離れた。
貴洋が二人に顔を向けた時、川口の顔色が変わっていた。そして、酷く静かな声でありながら何かの恐ろしさを秘めた声が聞こえてきた。
「川口、お前満足か?それで。無神経無責任にも度が超えてるんじゃないのか。以前にもそれで痛い目見てるだろう」
そう言ったのは圭史だった。その顔に目を向けて、貴洋は口を噤んだ。
恐ろしいほどの気迫。
滅多に怒る事のない圭史だったが、本気で怒ったら怖いやつだと貴洋は知っていた。
そして、川口は昔一度怒らせた事があった。
 収拾のつけようのないこの場。遠巻きにギャラリーもいるのに不気味に静かだった。
それを打破したのは他の誰でもない。美音だ。
 口をきゅっと結んで顔を上げたかと思うと、真っ直ぐと川口を見据え言葉を紡いだ。
「次似たような事したら今度はグウで殴ってやる。……分かった?!」
貴洋の所まで伝わってくる圭史からの威圧感。貴洋も非難めいた顔を川口に目を向けている。さすがにこの状況下、川口もぎこちない表情で頷き声を出した。
「は、はい」

すると、美音は微かに震えた声で大きく息を吐くと、きっと川口を睨みつけながら声を出した。
「忘れるなよ」
貴洋は分かっていた。
本当は泣き出してしまいたいのだと。
でも、美音は人前では絶対に泣こうとしない。女の子特有の泣いて弱い立場を主張するなんて事はしない。
「……じゃあ、またねタカ」
美音は貴洋の胸をぽん、と軽く手を置いてから、踵を返しその場を走り去っていく。
貴洋は気付いた。
美音のその手が震えていた事を。
決して顔をあげようとしなかった事を。
美音はもう既に泣いているはずだ。
そう思って「あ……」と声を漏らし、後を追いかけようとして走り出そうとした。
だが、圭史がそれを止めた。制止するように手を向けたのだ。
貴洋はそれに戸惑いを感じた。
だが、圭史は貴洋に南藤高テニス部の部長を紹介し、その場を動いた。
美音が投げたバインダーを片手で拾い上げ、流れるようにして美音が向かった方向に走っていった。
貴洋の心に疑問が浮かぶ。
なぜ、圭史が動く?そこまでする、何かがあると?
やっぱり、高校に入って接点が出来たのだろうか。
もしくは、聡の事で圭史は美音に気を使っているのか。それが分かっているから、美音は圭史にあんな笑顔を向けるのだろうか。
だから、川口の言葉を聞いた途端から、美音は圭史に顔を向けない?
 蒼ざめたまま呆然と立ち尽くして動けずにいる川口を見ても、貴洋は構ってやる気持ちにはならなかった。

そして、貴洋が気付いた時には、圭史はもう向こうのメンバーの中にいた。
クラブメイトに何かを聞かれ、普通に返している圭史の姿はいつもの様子と変わりがないようにも見えた。

 圭史と言葉を交わしたのは、練習試合が始まり、シングルスの圭史の試合が終わって、次の試合が始まっていた頃だった。
端のほうに立って試合を眺めていた所に圭史が来たのだ。先に口を開いたのは圭史だった。
「川口は?」
そう訊ねるものの、少しも川口を探す気配はない。とりあえず聞いてみた。そんな感じだった。
「大人しいから少しは反省でもしてるだろ。春日は……?」
やはり気にはなる幼馴染の事を、貴洋は聞いた。
「……多分、そのうちいつもの笑顔で現れるんじゃないかな」
「……じゃ、大丈夫だな」
 そんなに付き合いがある訳じゃない圭史がそう言うのだ。
きっと大丈夫だろう。それに、人をよく見ている圭史が言う事だから、信用はできた。
とりあえず、安心しとくか、そんな事を思った頃だった。

「戸山と春日って名前で呼び合うような仲なんだな」
「………………」

突然のそれに、言葉の意味が把握できなかった。
考え込んでから数秒してはっと顔色を変えた貴洋。
小学校一緒の人間なら知っている事だが、他の人間にしてみればそういう訳にはいかない。
しかも、今回の相手は聡の親友といってもいいくらいの、圭史なのだから。
どこからどんな風に話が行くか分からない。
そうなったら、又幼馴染が情緒の安定を崩す事になる。
「いや、幼稚園からずっと一緒で、もっと小さい時から家が近所で、幼馴染なんだよ。中学の時にあっちが引越しして今は離れてるけど。それだけだよ」
焦れば焦るほど、上手く説明できない。
それに対する圭史の反応は。
「ふーーーん?」
信用していないような声と冷たい視線。物凄く愛想が良いという訳ではないが、普段はそれなりに穏やかな表情で相手をする圭史がそんな反応を示し、それに貴洋は動揺する。
「な、なんだよ。兄弟みたいなもんで、サバケタ間柄だぞ?」
それを聞いた圭史は顔を前方に向け両手をポケットに入れると呟くように言った。
「……"みお坊"ね」
含みのある口調。いろんな考えが貴洋の頭の中を駆け巡る。うろたえる貴洋。
「頼むから、み、…春日に何も言わないでくれよ?お前に余計な事言ったってばれたら何されるか……。ただでさえ辻谷関係者には神経過敏なところがあるんだ、あいつは」
本当は、それだけの理由じゃない気はした。だけど、今の貴洋にそれを深く考える事も説明する事も出来なかった。
ちらりとだけ目を向けると、すいっと顔を背けた圭史。
参ったように顔に手を当てため息を吐いた貴洋は何かを諦めた。
「あーあ……」
「なんだよ。ため息なんかして」
「明日辺り家に殴りこみに来そうで怖い……」
「あー殴られろ殴られろ」
冗談めかして言った圭史の言葉に、貴洋はげんなりとした顔をした。
凄い勢いで家に来る美音の姿が容易に想像できたからだ。
その後、隣に立っていた圭史の口からため息が漏れたのを貴洋は耳にしていた。
「?」

 練習試合が終わり、ばらばらとテニスコートを後にしていく中で、貴洋は圭史の姿を探していた。とりあえず、挨拶くらいはしようと思ったからだ。
辺りを見渡してみれば、圭史は川口と対峙している格好だった。
厳しい表情をしているかと思った圭史の顔は、すぐいつもの微笑を浮かべていた。
何を話しているのかまでは分からなかった。
ぼんやりと眺めていたら、圭史の進む先が貴洋の立っている所とかち合っていた。
真っ直ぐと見つめてくるその視線が、何故か貴洋には疑問に感じた。
今までこんな顔をされた事はなかったからだ。
何かを測ろうとしている目が気にかかった。
そして圭史はそのまま言った。
「じゃあな」
それに貴洋はいつもと変わらないように応える。
「おう、また」
次に会うのはどんな時になるのか、予想はつかなかったけれど。


 帰宅するべく校門に向かい、自分とは縁のない校舎を眺めた。
ここに幼馴染が通っている事をひしひしと認識すると、ふと微笑を溢した。
 赤ん坊の頃から一緒のように、兄弟の様に過ごしてきた幼馴染だったのだが、すっかり居場所は遠くなったな、とガラにもなく感傷的なことを思ったのだ。
 何を思ってるんだろう、と自分でも思い、気を取り直そうと意識を現実に引き戻す。

― あーあ、ホント明日殴りこみに来るだろうなぁ……。みお坊の事だから ―

そう思って顔を校門に向けてみて、ぎょっとした。
そこには、恨みがましい顔でじーっとこちらを見つめている美音の姿があったからだ。
もしや明日まで待てなかったのか。そんな考えが頭に過ぎる。
「み、みお坊……」
ふとした時にはいつもの呼び名が口に出てしまう。あ、やばいと口を塞ぎ、恐る恐る美音に目を向けた。
美音は「いーよ、もう」と言うように呆れた様にため息を吐くと、気を取り直した様子で貴洋を見上げた。
「私、野田高が今日練習試合に来るのは知ってたけど、アレがテニス部だとは聞いてなかったんだけど?」
非難が入っている眼差しに、貴洋は言葉を喉に詰まらせた。
美音が「アレ」と呼ぶのは川口の事だ。
名前で呼ぶのも嫌なくらい……。それを貴洋は十分知っている。だからこそ言えなかった。
「あー……、まぁ、言うような事でもなかったし……」
「ふーん?」
冷たい目に嫌な汗が貴洋の背を伝う。
「…………」
何も言えないまま、貴洋は沈黙を保った。
その様子に美音は深くを追求はせず、小さく息を吐いた。

「周りからすれば、今でも私はそうなんだね」
貴洋に顔を向けず、遠いどこかを眺めながら美音は言った。
突然のそれに、すぐに言葉が浮かんでこなかった。一瞬、何を言おうか悩んだが素直に言った。
「アイツだけだよ、しつこく思ってるのは。気にするな」
「気にするなって言われてもね。……やっぱ気になるんだよね。ほら、瀧野くんいるし」
「あー。でも瀧野はそんなヤツじゃないだろう。結構人間性のあるヤツだし」
「……そう、か」
顔を俯かせながら、呟くように言った美音を見て、ふと貴洋は思い出した。
「あ」
「……何?」
その反応に美音は顔を上げ聞いた。
「……いや」
「何?」
はっきりとした強い口調。貴洋は素直に言う。
「いや、思わずいつもの調子でみお坊つっちゃったから、後で瀧野にそれ、突っ込まれて」
「は?」
「ちゃんと説明はしたけど。……悪い」
「うん?別にいーけど。……あーあぁ、瀧野くんに変なトコ見られちゃったなぁ」
「……すんません」
思わず身を小さくして謝ってしまう貴洋だった。
「いーよ、もう……」
そうして、口を噤むと、美音は小さくため息をこぼした。
 顔を俯いた美音を見て、貴洋の脳裏にあの場から去ろうとしていたときの美音の姿が浮かんだ。
ぽんと自分の胸に置かれた手は震えていた。決して顔を上げようとせず、特に圭史には顔を向けようとせず走り去った美音。
そして、それを追いかけた圭史。
「なぁ、みお坊」
「ん?」
何?と言わんばかりに顔を上げた美音。その顔は貴洋が知っている美音の表情だった。
「……なんでもない」
「は?」
「何言おうとしてたか忘れた」
聞こうと思ったが、何をどう言えば良いのか分からない。心に浮かぶ疑問が何なのかさえ貴洋自身分かっていないのだから。
「そう。……私もそろそろ戻らないと。生徒会の仕事が山積みだし」
「へいへい、頑張ってください」
その場を去ろうと動き出した美音だったが、数歩歩いた所で足を止め、上半身だけを向けると静かに言った。
「……あと、あの時止めてくれてありがと。とりあえず助かったから」
美音の顔は見えなかった。どんな表情なのかも分からない。
「ああ」
「じゃ、そういう訳で」
そう言うと、今度こそ美音はその場から今在るべく場所へと戻っていった。

 貴洋の頭に、美音の震えていた手が浮かんでいるままだった。
心には、浮かんだままの疑問が解消されぬまま在って、何とも言えない気持ちになっていた。

2006.7.12


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