時の雫-美音

零度の距離
その1 美音・学園祭1、2日目


§7

 待ちに待ったという皆の気持ちが天に届いたように、良い天気になった学園祭1日目。
どこまでも青空が広がって、雲ひとつなくて、まるでこれから始まる学園祭を後押ししてくれているようだった。
 この時の私は、いつもよりなんとなく学園祭を楽しみにしていた。
足取りが軽くて、今までの私よりも気持ちが軽くいた。
 こんな自分はまるで初めての様に感じるくらい。

これからもずっとこんな気持ちのままで、楽しい時間が過ぎていくのだと思い込んでいた。


 クラスの出し物で、普段では絶対しない、女の子な服装。ヘアアレンジ。そして可愛らしい化粧。
まるでそれはよそ行きの姿かたちだ。
 それが、周りが見た、私に一番に合う格好らしい。
女の子らしい格好。
 私には違和感しかないのだけど、周りは満足な顔をしている。
中身はそれに程遠い性格をしているのに?

 それが原因なのか、いつも身近にいるはずの人間でさえ、いつもと反応が違った。
あの亮太だって、何かを調子を狂わせていたし。
 いつもだったら、必要な事以外話さない相手からも声がかかるし。
 そして、いつも優しい彼も、今日は何となくいつもにも増して雰囲気が優しくなっていたと思う。
 うきうきした気分のまま、その時の事を思い出してみる。

 私は、自分の格好がすごく不安で、悲観的なことばかり考えていたんだ。
 一歩一歩足を進める度に、ひらひらと布がまとわりついてくる感じが、すごい違和感。
 普段身につけない服装のせいもあるだろうけど。
柔らかい布のスカートがふらりと揺れる。
本当にこんなスカートはいた事はない。だから慣れない。上の服も、肩と袖口、腰の辺りにリボンがついていて鎖骨が見えるくらいにあいている襟口は、レースであしらわれていて、なんて少女趣味な服だろう……。
自分ではその格好が物凄く滑稽に思えて仕方なかった。
周りから浴びる注目も、私には奇々怪々なものにしか感じられなくて心の中は後悔の嵐だった。
もしかして、変?やっぱ、こういう格好はするべきじゃなかったかな。
せめて、服は自分で選べば良かった……
と心の中はいろんな言い訳みたいなのと後悔の念でいっぱいだった。
改めて自分の格好を確認すると顔から火が出そうなくらい恥かしさが増してくる。
 この格好を普段の私を知っている人たちが見るんだと思うと、何を言われるのかと思って、心臓がドキドキ言ってうるさかった。

ゆっくり歩いてきたはずなのに、いつもよりも早く着いた様に感じてしまう。
到着した先は体育館の入り口前。中には皆がいる。
生徒会のメンバー。実行委員のメンバー。そしてその中には、瀧野くんが。
 どうしても足が動かなくて、いつもの態度で中に入る勇気が出なくて、中にそろり、と体育館の扉に身を隠して顔だけを覗き込ませた。
それぞれ分担の確認作業を行っているようで、全員揃えての打ち合わせはまだ終えていないようだった。
 生徒会メンバーの所在地を探していたら、その途中で他の子と話している瀧野くんを見つけた。
途端に、私は今のこの格好を見られる前に顔を戻してしまった。つい、反射的に。
だって、この格好なんだよ?
なぁに、このひらひらしたスカートの裾?!この襟周りのレース!色も淡くて可愛いという形容詞を服にしたこの姿!
私のタンスの中にしまっている物で、こんなぶりぶりの服はないよ。
まじまじと自分がしている服に目を向けて、ため息をついた。
中に入っていく勇気が中々出ない。
再び服装に目を向けて、手に持っている亮太のしおりに気がついた。
持って行かなくちゃ。あぁあ〜反応が怖い……、でも、行かなくちゃ、なぁ。
そう一人心の中で観念して、せめてもの抵抗に、後ろの出入り口から足音を立てないようにして入っていった。用を済ませたら、さっさと教室に戻ろうと思って。
やっぱり恥かしくて、大道具の陰に隠れるようにしながら歩いていて、誰にも気づかれずに済むかも、なんて事を思った時だった。
「姿が見えないと思ったら」
「ひゃっ……」
びっくりして思わず声が出てしまった。
確か、ついさっきは他のメンバーと喋っていたよね?
それが目の前に現れてるから、思いっきり驚いてしまった……。
自分の格好に自信なんてこれっぽちも持てない私は、そろり、と目を向けた。
 瀧野くんはまるで最初から気付いていたような顔で私を見下ろしていた。
それを見て、私は思う。
……なんだ、最初から気づかれていたのかな。
この格好見られたくなかったのに。こんな私らしくない格好。
手にしていたしおりを無意識に丸めていた。
そして、言いたい事が心の中で渦巻いているのを感じて、じっ…、と瀧野くんに目を向けた。
「なに?」
瀧野くんの声は、いつにも増して優しく聞こえた。
だけど、やっぱり気になるの。今の自分のこの格好が。
でも恥かしくて顔が向けられないんだけど。
それでも、聞かずに入られなくて、やっぱり顔を向けられないまま、言ってみる。
「あ、うん。ちょっとこの格好させれるのに時間かかっちゃって。でも、すんごい違和感」
「なんで?」
やっぱり優しい口調の瀧野くん。
こんな事言って、変に思われちゃうかな。困らせちゃうかな。
そんな風に思いながらも、やっぱり聞いてしまう今の私。
「……、格好、ガラじゃないなぁ、と、……」
そう口にしながら、彼の反応を見る為にそうっと目を向けていた。
顔を見れないと言っても、そういう時は顔を向けてしまう私……。
彼は一瞬だけ意外そうな顔をした。
私、何か変な事言った?
そう思った次の瞬間には、優しい微笑みを向けてくれて彼は言った。
「そんな事無いよ。普段もそういう格好したら良いのに」
瀧野くんの目がとても優しげで、なんかやたらとどぎまぎしてしまう。
こういう格好していて尚更小心者になっている私だからかもしれないけど。
「ううん、こんなの学祭の衣装で強制じゃなきゃ絶対しない」
小さく頭を横に振りながらそう言った。
だけど、心の中には嬉しいという気持ちが湧きあがっていたんだ。
たとえお世辞でも、相手が瀧野くんだから、そう言われても嬉しい。
「うーん、それはそれで勿体無いけど、他の奴に群がられるよりはいいか」
そんな彼の笑顔に、不安が消えていくような感じになった。
だけど、すぐさま心に浮かぶ不安に私は念押しするように聞いた。
「あの、ホントに、変じゃない……?」
私の不安を打破するように彼は全く動じない笑顔で言った。
「うん全然。……横で見せて歩きたいくらい。だから空いてる時間一緒に回る?」
瀧野くんのその言葉は素直に嬉しかった。本当に。自然と顔が緩んでた。
瀧野くんにそう言ってもらえたら、なんか自信持てるよ。
大丈夫だと思える。
「えへへ、なんか自信でた。……ありがと。あ、そうだ。お礼にこれ上げる」
照れ隠しにそう言って手渡したのは、クラスのお茶のタダ券。
「良かったら来てね。今日は殆どクラスのほうにいるから。……あ、これ亮太に返さないと。じゃあね」
自然と笑顔になって私はそう言っていた。
ここに来るまでのあの重い足取りが、今では嘘のように軽くて。
頑張ろう、ウェイトレス。
素直にそう思えていたんだ。

 その後、廊下を歩いていて、頭の中にポンと瀧野くんの台詞が思い出された。

 ― 「うーん、それはそれで勿体無いけど、他の奴に群がられるよりはいいか」
「うん全然。……横で見せて歩きたいくらい。だから空いてる時間一緒に回る?」―

 ……え?あれ?
今更ながら、言葉の意味を考えた私……。
さっき瀧野くんが言っていた言葉の意味って……。
かぁっと顔が赤くなるのを感じた。けど、小さく顔を振って一人思う。
 それはない。
私が自分の格好を気にしていたから、瀧野くんはそう言ってくれただけ。
大丈夫だよって。
……それだけだよ。さぁ、校内一周して教室に戻ろう。
 でも、台詞の心意は別として、彼の言葉は私を十分機嫌良くさせた。
浮き足立った私を、背中に羽が生えたように身軽にするくらいに。


 その後、谷折君に偶然会って、まるでナンパのように声をかけられて。
いつもの私だったら、一睨みして無言で終わってしまうんだけど、機嫌の良い私は会話をした。その途中で現れた瀧野くんの姿に、私は無意識に喜んでいた。
 偶然なんだけど、偶然とは思えないそれらに、私はいつもの自分ではない姿だった。
見た目だけではなく、中身も。身に着けているものに中身まで影響を受けているのか、ただ瀧野くんの笑顔と言葉のせいなのか、ここのところ続いている心弾む出来事のせいなのか、理由は分からなかったけど。

 その後はずっと一日、クラスの出し物に参加していた。
お昼を過ぎて、小腹が空いてきた頃にやっと人が空き始めた。
足は結構じんじんと鳴り響いていて、笑顔で接客をするものの疲れを感じていた。
 そんな時だった。
お客の中に4組の彼らを見つけたのは。
瀧野くんは端の席に座っていた。池田君と内藤君はいつも楽しそうに言葉を交わしていて、もう一人の子が専ら聞き役なんだけど、時折口にする台詞に彼らは笑いをこぼしていた。
それに瀧野くんは、基本は客観的に眺めている感じで、本当に時折ふっと笑みを溢すくらいだった。 あの中にいる彼は、冷静沈着と言うかクールと言うか、私が目にする笑顔はそこでは見られない。
他のテーブルの用を終えて、作業場でもある奥へと入った時、クラスの子が言った。
「春日ちゃん、5番テーブルの子達が春日さんいるのって聞いてたよ」
「ほんと?じゃあ顔出してきていいかな」
「うん、どーぞどーぞ」
丁度この時、瀧野君ファンの子達は当番ではなくここにはいなかった。
それに内心安堵しながら、彼らが座っているテーブルへと向かった。
その途中で彼がこちらに顔を向け目があった。だから私は笑顔で言う。
「来てくれたんだー。ありがとう」
それに彼は私が知っている笑顔を向けてくれた。それが返事だという事、分かっている。
自然と機嫌指数があがって、少し疑問顔をしていた彼らに笑顔で訊ねることができた。
「クッキークジどうだった?」
ちょうど口に銜えている内藤君が急いだ様子で食べた。思わずその姿が面白くて笑い声を出しそうになって必死で堪える。
「何も入ってないよ」
「あ、それ外れ。残念」
内心安心しながらそう笑顔で言うと池田君が聞いてきた。
「ほんとに当たりなんて入ってんの?」
「あるよー」
そう答えながら、当たりをひいたとして瀧野くんだったら何を言うだろう、なんて考えていたら、内藤君が聞いていた。
「瀧野のは?」
一瞬だけ心臓が飛び跳ねたような気がした。だけど。
「どうやら外れみたい」
実際は外れで。
「ほんとに当たりなんてあるのー?」
と言った池田君がクッキーを口に入れたところで、クッキーから出てきた赤い紙。
「あ、それ当たりー。赤い紙入ってるの。おめでとーございます」
「え?やったー」
本当に当たりがあるとは思っていなかったらしい池田君は、万歳をして喜んでいた。
「何かありますかー?」
「えぇと、えぇと、な、なんでもいいの?」
訊ねてみると、池田君は少し不安そうな顔でそう聞いてきた。
「言うのはただでーす。それに対してこちらが言った条件をクリアしてもらえれば叶えます」
「……じゃあ、今一緒にここでお茶してください」
池田君は何かを妥協したらしい。その反応でそう思った。
「ああ、それくらいだったら、あと一品何か頼んでくれたら」
そう言ってみると、池田君は早かった。半分以上残っていたジュースを一気飲みすると、空になったコップを差し出して言った。
「はい、ジュースおかわり」
「はーい、まいどありがとーございまーす」
 新しいジュースを持ってきてからは、椅子に座って彼らと他愛ないお喋りをした。
どんな話をしたかなんて、もう覚えていない。
ただ感じていたのは、いつもだったら別の場所にいるはずの彼と、彼が日常にいる場所で今席を同じにしているという事だった。
いつもだったら感じられない彼の日常の空気。
それがただ嬉しかった。
 1日目が終わって、帰宅途中に空を見上げれば、雲はオレンジに光り輝いていた。それと反対の空は大好きなブルーで。
 明日も楽しい一日でありますように。と、私は願っていた。
その根底に、知らない彼の一部分を知る事が出来たから浮かれている自分があった。
その時の自分は気付いていなかったけど。
 本当に私は浮かれていた。



 学園祭2日目

この日、朝の実行委員召集の時に顔を合わせたくらいで、後は姿を見かけることはなかった。
 本人気付く事無く無意識で、私は思っていた。さびしいなって。
そんな事を思いながら、クラスの仕事をしていた。ウェイトレス業を。
だからだろうか。
思ってもいなかった事が目の前で繰り広げられたのは。
……きっと、そんな後ろ向きな気持ちが災難を呼び込んでしまったんだ。

 2日目の今日は土曜日。昨日は金曜日なだけあって、学校内だけの祭りと言う感じで穏やかな一日だった。
でも、今日は一般の方も来賓されているので、昨日よりも賑やかに感じられた。
 クラスの喫茶にも昨日を上回る集客で朝から忙しかった。
だから一々お客さんの顔を見る事もなく、慣れたテンポで笑顔を浮かべながら接客をし注文の品を運ぶ。それの繰り返しだった。
その時も、相手の顔を見る事はなくて接客をしていたんだ。
 頭の中では違う事を考えながら。
 これだけ忙しいって事は、瀧野くんの所も忙しいんだろうなぁ。
 4組は確か屋台だったから。
 ……。私も、頑張ろう。
瀧野くんが働いている姿を思い浮べた私はそう思って足を運んだんだ。
 注文されたテーブルに品を置いている時、その客は校内の生徒だというのにようやっと気付いた。そして、何だか彼らが賑やかで私がやけに視線を向けられているという事にも。
 もう一つの品をテーブルに置きながら相手の顔を見るように目を向けた。
そこで気付いた。
彼らはバスケ部員だった。そして、端に座っているのは部長の片岡君。
やっと私が気付いた事を知ったのか、目が合った私に片岡君はにっこりと笑みを見せた。
 このときの私は、嫌な何かが身を襲うのを感じた。
正直言って、すぐさま奥に引っ込んでしまいたかった。
だけど、クッキークジの説明をしなくてはいけない。
 さっさとして、さっさと向こうへ行こう、そう思った。
「これ、本当に当たりがあるの?」
「あります」
「確立は?」
「うーん、低くは無いはずなんだけど」
問われた事に真面目に答えてしまう辺り、根が真面目なのかしら。
その後、質問は出てこず間が訪れた。
これ幸いとこの場から去ろうと身を翻した。
けど、次の瞬間にはがしっという感触が手首を纏った。
突如と掴まれた腕に、この身を襲う嫌悪感に似たもの。
背筋は冷たいものが走っていくのに、体はもわっと熱くて気だるい感覚になった。嫌な汗が噴出すかのような。
普段ならばっと腕を振り払ってその場から離れるのに、声が出なかった。
突然の事に体が固まっていた。
そんな私に片岡君は自信ありげな笑顔を向け言った。
「当たりなら春日さんとキスね」
突然の言葉に、何をどう言えば良いのか分からなくて、言葉にならない声が空を切る。
「え、な……」
それでも、掴まれた腕が嫌で振り払いたい衝動に駆られた。
それに素直に従おうとした次にはもう解放されていて、何も反論する事ができなかった。
そして片岡君は余裕綽々とクジの入ったクッキーを口に入れた。
茫然としたままの私を置いたまま、片岡君はクッキーを確かめる。
最悪にも、その中に当たりは入っていた。
……悪夢だ。
それから彼らは異様な盛り上がりを見せた。
その光景に私は呆然とした……。

 体の中で、今にも噴出してしまいそうな怒りのような感情が渦巻いていた。
でも、それを言葉にする事が出来なくて頭も口も動かなかった。
ただ指先だけが震えていた。底知れぬ不安に怯えるように。

 呆然と固まったままの私が我に返ったのは、この様子にやってきたクラスの実行委員の阿部君の声でだった。
「春日?どした?」
何かを思うより先に大きく息を吸うと、彼らに向かって声を放っていた。
勝手に盛り上がり、勝手な約束をした彼ら。
思い通りに全てが運ぶわけない、そう主張するように大きな声を出していた。
「じゃあ!条件だすから!実行委員の阿部君が立会人ね!」
「うん、何?」
片岡君のその動じていない笑顔にさえ苛立ちは積る。その他のメンバーから注目されているのを重々感じながらも私は言い切った。
「4組の瀧野君にテニスで勝負して勝ったらね!!」

何でそう言ったのか。
頭の片隅にずっと彼の顔が浮かんでいたから。
……きっと、無意識に助けを求めていたんだ。彼に。
いつも助けてくれる彼に。
だから、私はそう言ったんだ。

「うん、わかった」
何も通じていないかのような片岡君の笑顔での返事だった。
押さえ込んだはずの感情が昂ぶろうとしたのを感じて踵を返して奥へと引っ込んだ。
何で私はこんなに不愉快な思いに駆られているんだろう。
自分の指先が震えている事に気づいて、落ち着かせるためにお茶を飲んだ。
喉に引っ掛かるように流れていくお茶は痛く感じた。
溜まった何かを吐き出すように息を吐きいつもの自分を取り戻そうとした。

らしくない自分。
今までとは調子の違う自分。
胸の中で痞つかえている何か。
それはまるで、勢いに調子付かせてしまった足取りを野放しにしてしまったよう。
心の中を不安がちらちらと掠めていく。
だけど、臆病な心はそれを気付いていないフリをする。

そして、自分がわからない。


クラスの当番を終えてから、空いた時間に生徒会室に一人向かった。
次の当番は1時間後に。
最終日は殆どクラスの方に顔を出せないから、今日までの使える時間はクラスに使う。
今はもう休憩時間でのんびりとした時間。
途中、2年5組の催し会場の前を通ったので寄っていったんだ。
前に協力した心理テストを思い出したから。
 一通り見て回ったところに、協力をお願いに来ていた子に会って、売れ行きが好調だと喜んでいた。そして、協力したお礼にと有料のはずの冊子を貰ったんだ。
それは、後でゆっくり見よう、と生徒会室に持って行き自分の机に置いた。
とりあえず、片付けたい書類を済ませたかったから。
目を通していたのは学園祭1日目の、実行委員記入の書類。
そして数枚目の書類で私の手動きは止まった。
もう、字を見ただけで、彼の書いたものだと分かっていた。
そして、確かめるように書かれたクラスと名前を見る。
自分のそれはちっとも間違ってなんかいなくて、不意に苦しいような痛みが胸を襲った。
自然と止まっていた私の手。
そして、思いを繰り広げる頭。

その時、思い出していたのは、あの時のこと。
腕を握られて、感じたのは嫌悪感。
人の事を無視して話を進めていく光景に、憤りを感じながらも身の危険を感じていた。
もしかしたらこのまま向こうの都合の良いように全て持っていかれるかもしれない、と。
心は恐怖に駆られ、嫌な汗が額に浮かび始めていた。
そして足元が宙に浮かんでいるような錯覚を受けて辺りが真っ暗になっていくような気さえし始めていた。
 もう無意識に、救いを求めていたのは彼だった。彼の顔だけが頭に浮かんでいた
だから、阻止するために出した条件は、瀧野くんとテニスで試合をして勝ったら。

― 「瀧野くん」 ―

彼の笑顔を思い出し、無性に名前を口にしたくなって、心の中で名前を呼んだ。
そうしたら胸にまた痛みが奔った。
無性に泣きたくもなる。
だけど、どうしてよいのか分からない。
どうしたいのかも分からない。
あの時、どうしておけば良かったのかと問うてみても、全く何も考えが浮かばない。
この胸に広がるこの感情はなんだろう?
勝手に指先ばかりが震えていて、どうしたら良いのか分からない……。
落ち着かせようと深くため息をついて、思わず声に出した言葉は謝罪の言葉だった。
「瀧野くん、ごめん……、また、迷惑かけちゃう」
今、私は生徒会室で一人なのに。
彼はここにはいないのに。
今呟いても彼には届きはしないのに。
だけど言わないではいられなかった。

 彼に迷惑をかけたい訳ではないのに。
ただ、彼と楽しい時間を共有したいだけだったのに……。

そう思えば思うほど、私の指先は震えを見せた……。


 休憩時間の間は、生徒会室で過ごした。
浮かない気持ちでクラスに戻り、引き続きウェイトレスの仕事を始める。
ちゃんと笑えているかどうかも分からない。
自分の事なのに。
 視界の端に、阿部君の所に先程の彼らの中の一人、バスケ部の子が来ているのを見た。
……多分、私が言った「瀧野君にテニスで勝負して勝ったら」を実践すると言う報告に来たんだろう。
……本当にするなんて……。私、からかわれてるんじゃないだろうか?
思い切りため息をつきたいのをどうにか堪えて接客をし、奥へと引っ込んだ。
そして出てしまうため息。
頭の中は、瀧野くんの顔と片岡君の顔が浮かんでは消えの繰り返しで気分もろともぐちゃぐちゃになっていた。
楽しく過ごせると思っていた学園祭……。
今、ものすごく気分が沈んでる……。

そんな私の所へ阿部君が来た。
「春日?今からテニスの試合するって言うから立会いに行ってくるけど」
「あー、うん。……いってらっしゃい」
「行かないの?」
「う……ん、なんかしんどいかなぁ。来るかどうか聞かれたら、今クラスにはいなかったと言っておいて」
「ふーん」
「……気が向いたら行くよ」
気の乗らない声。そして表情に、阿部君は怪訝そうな顔をしていたけど、今の私には何も表情を繕う事が出来なかった。
そして阿部君はテニスコートへと向かう。
私は顔を俯かせたまま用事をしていた。

 それを見に行く気はなかった。
相手は瀧野くんだから万が一の可能性もないし、私が姿を見せて片岡君に変な事を思われるのは嫌だったから。
 頭を切り替えて仕事をしよう。そう思うのに、ちっともそれは頭から離れてくれない。
気がつけば、気になって手が止まっている。
相反する二つの考えが私の中でぶつかっている。
 気になって仕方ないのは、片岡君ではなく……。
「迷惑、かけちゃったな……」
こんな面倒押し付けて、嫌な思いしてるよね。
思うのは彼の事ばかり。
心の中はモヤモヤしている。その状態がどれだけ続いていたんだろう。
たった数分かもっと長い時間か。それともほんの数秒の事か。
 心の中に積もっていくその感情に耐え切れなくなって、私は堪えきれずその場を動いた。
もう余計な何かは考えられなくなっていた私は、真っ直ぐと向かったのはテニスコート。

 私がテニスコートに到着した時にはたくさんのギャラリーだった。
コートに近いフェンスではもう見えないくらいの。
少し離れてはいるけれど、ベンチの所に腰を下ろした。そこからでも眺める事ができたから。
 実は騒がしい心臓を感じながら、そっとコートに目を向けた。
一番に目に入ったのは、黄色いボールをラケットで打ち返す瀧野くんの姿。
思わず、胸の所で片手をぎゅっと握っていた。

 なんだろう?今日の瀧野くんはいつもと様子が違うような?
いつも活き活きとした様子を見せる彼が、今は鋭さを発しているような……。
 そう思ったら、胸が痛んだ。自分の所為かと思って。
でも目の前にいる彼は、又私の知らない彼の顔で、目は彼から離す事ができなかった。
胸の痛みがさっきとは違う痛みになっていても何も考えず、気付くこともなく、ただ彼を見ていた。
私が知っている彼は、彼の一部分でしかないことは分かっている。
きっと知らない彼の方がたくさんで、彼からすれば、私なんてほんの少しの関わりでしかない。
 そう思うと、また手が微かに震えていた。
今のままがいい、と思う。今のままでいいと思う。
 でも、そう思う私は泣きたいような気持ちになっていた。

そんな事考えていたら、試合は終わったようだった。
スコア見たら瀧野くんの圧勝で、片岡君の願い事は阻止されたのだと知った。
大丈夫だと思っていても、やはりそれが分かった瞬間、ほっとしたんだ。
 そして、コートを出た彼はいつもの表情に戻っていた。
それで尚私は安心したんだ。私が知っている彼だったから。

その彼は真っ直ぐにこちらへとやって来た。
きっと、片岡君の願い事について聞かれるのだろうと思った。
目の前に来た彼は見上げるようにしてしゃがんだかと思うと、向けられたのは笑顔だった。
そして言われた言葉が……。
「キスできるのってアイツが勝った場合にだけ?」
知っているその内容にはっと驚いた。
「う、うん」
どうにか答えたけど、突然の台詞に固まってしまっていた。
笑顔のままの彼の口から出た言葉。
「残念」
そう言った彼はゆっくりと立ちコートの中に戻って行った。
 今の言葉の意味はなんだったんだろう……。
そう思っただけなのに、顔がかーっと熱くなっていくのを感じた。
止めようにもその術を知らない。尚赤くなるような気がした。
言葉の意味を思うのに、考えられない私は無意識に彼に目を向けた。
けど、思い切りあった目に、恥かしくて目を逸らしてしまった。
 心臓がバクバク言って手まで震えてる。
ああ、もう、どうしちゃったんだろう、私……。



 彼の事を思い出すたび、心臓は飛び跳ねるように音を鳴らした。
それを幾度と繰り返しているうち、クラスの仕事を終えていた。
 学園祭限定のウェイトレスの格好からいつもの制服姿に着替えると、なんだかいつもの自分が戻ってきたような気さえする。髪形もいつものストレートヘアに梳かし直してようやっと落ち着いた感じだ。
 気の抜けた顔をして生徒会室へと向かった。
今日のこれから明日が終わるまで、後は生徒会の仕事をこなすだけ。

 4時くらいから各実行委員及び各部長が1日の報告書を提出しに来る。
4時10分前になって、亮太と藤田君が姿を現した。
そして4時を過ぎると、ばらばらと報告書を持った生徒が姿を見せ始めた。
学園祭の一日が終わるための最後の忙しい時間。
それも40分を過ぎると殆どは提出を終え、生徒会室はあっという間に元の3人になった。
だけど、まだ彼は来ていない。
特別室の戸締り確認に亮太は藤田君を連れて行った。
そして、生徒会室に一人きり。
なんでだかため息をこぼしていた。
他に仕事をする気にもなれないで、何気に頬杖を突いたまま、暫くぼんやりとしていた。
 なんだか、自分が思っているより疲れているみたいで、視線は一点に定まらない。
何もないなぁ、と思いながら机の上に視線をおろした。
そして、置きっ放しになっている冊子に、ようやくこの時に気がついた。

5組の子に貰ったものだ。
学園祭準備期間中に、協力して欲しいと答えた心理テスト結果が載っているというもの。
今、ここには誰もいない。
何か変なことが書いてあっても見られて困ることはないと思いページを捲り始めた。

 色でその人をどう思っているか分かる心理テストです。
 黒、怖いと思っている人−内藤君
 青、憧れている人−轟さん
 赤、お兄さんのように思っている人−足立さん
 黄、嫌いな人−溝口君

亮太の名前は、他に浮かぶ顔がなくて、目の前にいたから書いただけだった。
そして、最後の項目。

白、好きな人−瀧野君


それを目にした次の瞬間すぐに、生徒会室の扉が開いたので咄嗟に冊子を思い切り閉じた。
心臓が、爆発するかと思った。
そして反射的に扉に顔を向け、その人物を見て硬直してた。
なんというタイミング。
もしやコレ読んでるのばれてる?中身知られてる?
そんな訳ないのに、そんな事まで考えてしまう自分に情けなさも感じてしまうのだけど。
私のうろたえが顔に出ていたみたいで、彼は気を使った表情で言った。
「あ、ごめん、驚かした?」
「あ、ううん、大丈夫」
瀧野くんの言葉に、私は顔を向けることが出来なかった。
変に緊張している。心臓がどきどきと落ち着かない。
これはやばいんじゃないだろうか、と思ったら、テニス部部長の谷折君も彼と一緒に来ていた。
それで、内心ちょっとほっとしたんだ。
冊子をそっと机の端に動かして。彼の視界から外れるようにと。
でもその安心も束の間で、谷折君の口から片岡君の話が出た。
内心ぎょっとしながらも、顔では平気なフリをして答えた。
なのに、彼は尚訊いてくる。
「何か無かったの?」と。
瀧野くんのいる前で余計なことを聞いてくれるな。そんな気持ちと口を塞いでという気持ちで有無を言わさないよう重圧をかけた笑みを向けた。
「元々片岡君とは何も無いから。はい、ここ抜けてるから今書いてね」
「え?書かないと駄目ですか?」
「駄目です」
それで谷折君は静かになった。
その流れで、書類を渡してくれた瀧野くんのに目を通してから言ったんだ。
「いつも瀧野くんはちゃんと記入してくれてるので助かりますー」
「それはどーいたしまして」
笑顔で言ったら、笑顔でそう返ってきた。
その彼の笑顔が、今の私にはなぜか気恥ずかしくて、まともに顔を向けられなくて、顔を逸らしてしまった。
 普通に接しようと思うと、そう出来なくなっていた。
慌てふためく心臓に翻弄されそうになっていたら、彼は気付いてしまったらしい。
「あ、それ、前に頼まれて書いてたヤツ?」
ぎくっとなる自分。でも、ここで変な反応をしたらもっと変に思われる。
「あ、うん。今日貰ったんだけど」
普通を装って言ったつもりだったんだけど、もしかしたら声が上擦っていたかもしれない。表情がぎこちなかったかもしれない。
だって、彼は即座に言ってきたんだもん。
「見せて」
そう口にした彼の手が冊子に向かって動いたような気がした。それを見た私はもう必死になって、冊子に手を伸ばし、絶対に取られまいと抱え込んで声を上げた。
「駄目!だめだめ!」
もうそれは夢中だった。
そこから見たら、彼の動きが止まっていた。
それを見て、しまった、と思った。
つい必死になってしまった。あからさまにおかしい私の態度。
彼は、それがあったからただ素直に見たいと思っただけだったんだ。
もっと軽く流しておけば良かった……。
もっとも、今の私じゃそうする事も出来なかっただろうけど。
なんとか言い訳を、と思って出た言葉は、説得力なんか全然なくて……。
「え、えぇと、まだ見てないし、は、恥ずかしいから、また今度」
けど、彼は嫌な顔一つせず、いつもの笑顔で言ってくれた。
「じゃ次にそれ見つけたら見させてもらうよ?」
「う、うん」
そう返事をしながら、見られない所に何がなんでも隠しておこう、そう思った。
彼にだけは、見られないように。
抱き込んでいた冊子を膝の上に置いて手が震えている。
彼の方を見ることが出来ない。

ああ、私は一体どうしたんだろう……。

楽しく過ごすはずの学園祭だったはずなのに、私はずっと見えない何かに翻弄されている気がした。

2006.7.9


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