時の雫-紡がれていく想い Story19

零度の距離 -3


§11

 彼、瀧野くんは、互いの存在を確固と認識する前から妙な関わりがあって、視界のどこかに必ずいた。だから、話した事が殆ど無くても、やけに特別な感がある存在だった。
中学の時なんて男性として意識した事があっただろうか?
高2になって、彼の手を見たとき、その男の人の手に少しどきんとなったのを覚えてる。
恋の始まりがいつ、というのをはっきりと自覚する事はないけど、多分、無意識の中でその時に、ありんこほどに小さくても恋が始まっていたのかもしれない。
その直後に見た、彼の気遣いやちょっと照れたような表情が心にくすぐったく感じたんだ。
だけど、中学の頃からある、今はもうあまり思い出したくない過去に、彼との特別な何かを断然と打ち消していた。
私のそれに抗うようにあれは起こったのだと思う。
 一人の帰り道、誰かに後をつけられて怖くなった私は学校に戻った。
気づいてはいなかったけど、引き寄せられるように彼の腕の中まで一直線だった。
あの時、彼でどれだけ嬉しかったか。
一緒に帰っている中も、余計な事は一切聞かず、途中で落ち着かせるようにジュースを奢ってくれて、気を逸らすように身近な話題をかけてくれた。
たとえ、それが全部全くの偶然だったとしても、目に見えない何かを感じずにはいられない。
そして、彼の優しさはスーッと染み入ってくる。彼の言葉も優しくて自然と聞けてしまう。私が慌てふためいてへまをした時でも、彼は仕方ないなぁって感じで笑ってくれる。
 この時、私の中には予感めいたものがあった。
私が私でなくなるような、そんな予感。
それはまるで小さな恐怖感のようなものに似ていた。
だけど、その時の私は何も気づいていなくてすぐそんな事を忘れてしまっていた。
だけど、今なら分かる。あれは、瀧野くんに恋をして、自分が自分でいられなくなってしまう恐怖感。そして、そこまで好きになる、という予感めいたもの。
分かっていなくても、あの時気づいていたんだ。

 瀧野くんの優しさに触れるたび、心は高揚してた。好きになってたから。
校内に入り込んだ暴漢からも彼は助けてくれた。守るように目に入った彼の背中。心配して見つめてくれた彼の目も、彼の声も、温かい彼の手も、心もろとも泣き崩れていた私を支えてくれた。
もう彼への想いが止めようなく溢れ出していくばかりで切なさばかりが心を襲っていた。
でも結局、傷つきたくなくて、全てを破棄したんだ。
彼との繋がりの中にアノ人がやはり存在していたから。
まだ、自分の気持ちはどうにでもなるって思っていたんだ。
だから、彼と接しているとき「普通」であるフリをした。小さな緊張も気づかないフリをしてやり過ごしていた。
彼が私を特別に思ってくれていることはないと思っていたから。
 それでも、偶然は止まなかった。
夏休みのレクレーション。普段と違うあの夜の時間。
「……春日は、春日で充分だよ」と言ってくれたあの言葉も、あの頃の彼だったから言ってもらえたのだと思う。
特別だから、と言ってくれた意味も分かっていなかった。そんな意味だなんて、今の今まで思わなかった。その意味があるから、襲ったりとかしてないから。他の男なら無理だろうけど。が特別な意味になるって事分からなかった。
あの時、動き出す事を恐れ、時が止まってしまえばいいと願ったのだから。
 キーホルダーを成り行き上作ってもらう事になった時、「作るよ」なんていう言葉を貰うなんて思っていなかった。考えておくよ、という言葉を言われるだろうくらいにしか思っていなかったから。
話的に、そう言わざるを得ない状況だった訳で、普段なら頼めることじゃないのに。そして、他の生徒なら、そんな簡単にOKを貰う事じゃないから、余計にあの後も心臓がドキドキしていた。否定しながらも、期待めいたものを抱かずにはいられなかった。彼の何気ない一言に心はずっと囚われているようだった。
必死でそこから逃れようとしていたけど。
 学祭前も危ないところを救ってもらった。タイミングよく現れてさっと助けてくれる彼に胸がときめかない訳無かった。一緒にいるのが凄く心地よかった。
けれど、それを感じる度に嫌な事は起こるんだ。
正面きって川口に「辻谷を好きな女」と言われて、全てが壊れたような気がした。
いま自分はこの時を過ごしているけど、他の人から取ったら、今でも私はそういう人間であるという現実にショックを受けた。そんな私と一緒にいるなんて回りに知られたら、瀧野くんだって何を言われるか……。
泣きそうになってすんでの所で走っていった。いつも誰にも見つからないのに、彼はたやすく私のところに来た。心配して声を掛けてくれる彼に涙が零れそうになった。
なんでだろう?そんなに泣き虫だったわけじゃないのに。
その時もだめな自分だと思っていたんだ。だけど、我慢するなと、言ってくれた。感情を押し殺そうとしなくていいって。一人で無理しなくていいって。心底驚いたんだ。見透かされている事に。誰にも見せた事のない気づかれた事のない私を、なぜ彼が知っているんだろうって驚いた。そして同時に恥ずかしくなった。すべて、分かられていたのかと思うと、もう顔を向けられなかった。何も言えなかった。
そんな私の頭をただ優しくぽんぽんと撫でてくれた彼は、「余計な事を言ってごめん」とだけ言い残して去ってしまった。
彼の優しさに、胸が鷲摑みにされた気分だった。
あの、ほかに形容できない衝撃を今でも覚えてる。
 その後、彼を前にすると緊張してしまっていつもの自分らしくはいられなかった。
ただ、学祭の後片付けが夜で暗くて良かったと思ったんだ。
ダンスを踊ろうって言ってくれた意味も分からなかった。ただ優しいとだけしか思っていなかった。彼のあの眼差しを見て体中が熱くなったのを感じた。彼と離れてからどっと押し寄せた緊張の波に震えていた手……。
だけど、私は相変わらず大事な事は認めようとしないでその場にいた。とてもずるい。
帰り道に彼に聞かれた「俺は春日にとって、どうなのかな」の意味が今なら分かる。
頑ななまでに彼からの好意を否定していた私は、きっと彼をたくさん傷つけてきただろう。
その後も今に至るまで。特別な言葉はたくさん貰ってきたのに、私はそれらを全て流していた。
自分が傷つきたくない為に。

 彼に熱心にアプローチしている子がいると噂は聞いていた。
だけど、気にしないようにしていた。
まさか、熱烈な告白の場面を目の前で見るとは思っていなかったけど。
その時彼が言った台詞を聞いて、胸が痛んだんだ。もし自分が思いを告げたら同じ言葉を言われるのかと思って。
 松内さんの彼への態度を目にするのは辛かった。羨ましいと思うのと同時に目をそむける事しかできなかった。目を向けてしまったら、自分の気持ちを受け入れなくてはいけなくなるから。そうしたら、やがて訪れるものを多分分かっていたから。
松内さんが私に向けるモノにも、受け止めようとしなかった。受け止める権利もその時の私にはなかったから。彼女のように強くなれず、逃げる事ばかり考えていた私は、彼女が羨ましかった。そのくせ、なぜ羨ましいと思うのか考えないようにして。
臆病すぎて心の殻を厚く硬くしていた。だから、彼の言葉も仕草も全て、外に放っていた……。

それでも、私だけは他の女の子に頼まれても彼に聞いちゃいけないって思っていたんだ。
私だって彼に聞いたりとかしたくなかった。あれは全て自分の弱さが招いた事。
怒らせてしまったと思った。
わらにもすがる思いで谷折君に訊いたんだ。でも反対に言われたんだっけ。
谷折君は知らないフリをしている事をずばりと言ってくる。その時の私では気づいていなかったとしても、心の奥底で知っていることを。今の私だから分かる事を。
谷折君の目は鋭くて賢くて、いやだった。心がえぐられる様で。
ううん、それは、心の殻を取り壊されそうで怖かったんだ。
 厚い殻を越えてしまうくらいに、彼への気持ちは溢れてきていたのだけど、谷折君に、他の人に暴かれたくなくて余計に反発心を抱いたんだ。
 今まで心の奥底でひっそりと大切にしまっていた想いは、その後すぐ開封されたんだけど。
それからは彼への恋心でいっぱいだった。彼と一緒にいる時間が幸せで、私は私なりにひたむきに頑張っていたんだ。
だけど、そんな毎日はある日突然失われた。私の髪の毛と共に。
彼に避けられた理由より、避けられているという事実が悲しくて、どうすればいいのか考えられなかった。これ以上にないくらい落ち込んだんだ。
だから、つけいれられた。
思い出したくもないほどの怖い目にあって、助けてくれたのは彼だった。
心を救ってくれたのも彼だった。
彼の胸の中で融けてなくなってもいいと思った。

 風邪でなのかショックでなのか分からない熱で数日間気を失ったように眠っていた。
そんな中でも夢を見たのを覚えている。
彼に告白された夢。目が覚めたとき、なんてご都合主義な夢だろうって思った。そんな夢を見た自分が悲しくなった。
 彼は毎日学校帰りに家に寄ってくれていたみたいだった。
熱が引いて、物事をちゃんと考えられるようになったとき、気がついた。
私が生活している中、全てに彼は存在していた。まるで息をするのと同じくらい自然に。
だから、怖く思ったんだ。それが消えたときの事を考えて。
だけど、想いは止まらない。消えてなくならない。ただ増すばかり。
 彼が好きなんだという想いばかりが私を苦しめる。自分で自分の思いにがんじがらめになって身動きできなくなってる。
彼に嫌われたくないと思いながら、嫌われる事ばかりしてる。

 もうこんな私、嫌われちゃったよ……。



 ずっと落ち込んだまま、毎日を過ごしていた。
気がつけば、もう卒業生を送る会の日は迫っていた。
瀧野くんとまともに顔を合わせないままだった。
同じ場所に顔を合わせると、私は反射的に反応してしまって顔を向けられないでいた。
それにため息を吐くように彼は顔を逸らす。その顔は渋い表情だった。
彼に会うのが怖くて怖くてたまらない。嫌われたのだと思い知るのが恐ろしくて。
 殆ど仕事はなかった。だけど、集中できない私は机の上も片付かないまま生徒会室を後にした。もう、心は飽和状態。限界で話を聞いてほしかった。
 いさちゃんの顔を見ると堪らずに言葉を口にしていた。
「……こんな、面倒な女、誰だって嫌だよね……」
もう泣き出してしまいそうだった。
いさちゃんは驚いた顔をしていた。

 図書室の片隅で心うちを吐露した。
このぐちゃぐちゃな気持ちを聞いてほしくて。ここから抜け出したくて。……辛くて。
思っていたことを全部いさちゃんに打ち明けたんだ。

 いさちゃんはずっと話を聞いてくれていたんだ。
そして、口を開いた。ハッキリとした事を言う為に。
「……それって、本当は前の恋引きずってるだけなんじゃないの?」
その台詞に頭が固まった。その後の台詞を聞くに、前の恋の傷を引きずっているということみたいだった。言われて、そうだと思った。
あの頃は小さい傷で済んだ事でも、今だったら、大きな衝撃になる。
そして、多分二度と立ち直れないくらいになって、誰かを好きになるなんて事出来ないかもしれない。
そう思えるくらい、今の私にとって彼は大きい存在になってる。

「瀧野君は、きっと春日ちゃんの良い所も悪い所も分かってる。うわべだけでそこまで優しくなんて人間できないよ。それに、前に男子たちが話してるの聞こえてきてた時、瀧野君が言ってた。怖がりの子ほど強がりを言うって。臆病な子ほど必死に我慢しようとするって。あの時は誰の事を言ってるんだろうって思ったけど、今思えば、あれはきっとそうだったんだって思う。春日ちゃんはどうなの?」

瀧野くんに似たような事を言われたことがある。
ほんとは泣き虫だって事知ってる。感情を押し殺そうとして無理してでもなんでも一人でこなそうとする。……もっと頼ったらいいのに。一人で無理しなくていいのに。
そう、言われた。
多分、同じ意味……。そんなに、そんなに前から……。

 でも、瀧野くんは最初から、中学の時に初めて会った時からずっと変わらず優しかった。人として。今は男性として?
だけど、その優しさに私は困ってしまう。どう反応してよいのか分からなくて。人に優しくなんてされた事ない。今まであんな風に女の子扱いなんてされた事ないから分からない。
「……優しすぎて、どうして良いのか分からなくなる。
そして、辻谷君の事聞かれて……。一番に気になるのかって訊かれたから、ちゃんと違うって言った……!でも、その後、遠慮しないからって言われて、正直分からなかった。待ってるからって言われて、何で?って思った。どうして、何を待てるんだろうって思った。……前に送って貰った時に、俺の事、どう思ってるて聞かれて、私頭の中真っ白になって言おうと思ってた事何も思い出せなくて……。焦れば焦るほどテンパって。そしたら丁度妹が家から出てきて、瀧野くん帰っていったよ。それから、もう顔もあわせてくれなくなっちゃって、……もう、呆れられちゃったよ……」
 いつか絶対自分の口で好きだって言おうと思っていたのに。
いつも大事な場面でへまばかり。聞かれたこと、何一つ応えられなかったまま……。
彼の気持ちを踏みにじってきた。自分のことばかり優先して彼のこと考えていなかった。
こんな私、もう嫌われちゃったよ。
「そんなのっ、ちゃんと聞いて見なきゃ分からない事でしょ。好きだった人の事、そう簡単に何も思わなくなんて出来ないんだから。他の事には前向きに頑張るのに、なんでこういう事には臆病になるの?!もう!怒るよ?!」
「~~~もう十分怒ってるよ~、だって~……」
「……もう、ほんとに」
呆れたようないさちゃんの声。
自分でも十分分かってる。だけど、どうしてもコレばかりは……。

「それで、夢を見たって言ってたけど、どんな夢を見たの?」
その質問に思わず閉口してしまう。
なんで?さっき話したのに?
でも、いさちゃんの顔が怖くてとりあえず言ってみた。
「え?えーと、……夢、です」
再び言うには恥ずかしすぎる。
だけど、いさちゃんの顔は怖い……。
「ちゃんと言わないとマジで怒るよ」
「……うう。いさちゃん怖い」
半分おどけながらの泣き真似にも動じない。
「春日ちゃん。」
言わないと許して貰えないらしい。言うしかない。
「はい。……えとね、告白される、夢だった。……熱出してる時に見たんだと思う」
「それで?どうするの?何も答えないまま、言えないままで嫌な思いさせたまま、前のように勝手に諦めて、そのうち相手に彼女できて、そして又良かったねって一人納得させるの?」
いつになく厳しい口調にすぐ言葉は出てこなかった。
だけど、何度考えても出てくるのは同じだった。
「だって、だって、もう呆れられてる!もう顔も見たくないくらい嫌われてる!最低な態度とってる私の事……、いくら、瀧野くんが優しいからって、もう、……」
もう本当に泣き出してしまいたかった。
でも、泣いてもどうにもならない。自分がしてしまったことなんだから。
「……そんな事、分かんないでしょ。だって春日ちゃんが一人で勝手に思ってる事だもん。本当にそう思われてるのか、訊いてみたらいいじゃない」
「……そんな簡単に……」
聞ける訳がない。どんな顔して聞けって言うの?無理だよ。
そう思いつつ顔を向けた。
いさちゃんはひょいっと指をある方向に指してさらりと言ったんだ。
「春日ちゃん、ほら」
何だろうと思って顔を向けたんだ。そこに見えたものに驚愕した。
人生でこんなに驚いた事はないだろうって言うくらい驚いた。
ハッキリ全てが見えなくても分かる。そこに見える学生服が彼だって事。
体を形作るそのラインは彼のもの。見間違えるはず、ない。
 ずっと、聞かれていたんだろうか?
恥ずかしい、情けない告白を。

「ちゃんと言葉で伝えないともういい加減本当に愛想尽かされちゃうよ。じゃ、後はヨロシク。私、もうしーらない」
そう言いながらいさちゃんは私を置いてけぼりにして行ってしまった。
そして耳に届く、図書室の扉が閉まる音に茫然とするしかなかった。

 いっその事、逃げ出してしまいたい。
この味わった事のない重い緊張感。言葉の出ない息苦しい空気。
伝えろと言われて、何をどう言えばいいんだろう。何から話せばいいんだろう。
顔は暑くて汗が流れてくるようだった。激しい緊張に彼のほうを見れない。
動けずにいたら、先に彼が動いた。足をゆっくりとこちらに動かしながら、はっきりと。
「……何を、訊きたいの?」
静かな声なのに、彼の意思がこもった低く落ち着いた声。
それに背をそむける事はしてはいけないのだと無意識に悟っていた。
「え、……あ、……あの、待ってるって、なに、を……」
訊きたい、と言われて、浮かぶのはそんな事くらいだった。
いろんな光景が頭を過ぎってはいくのだけど、何をどう言葉にすればいいのか分からずパニックに陥っていた。
「じゃあ、春日は何で俺が待ってると思う?」
反対に聞かれた。余計な言葉を考える余裕のない私は素直に言う。いつも思っていたことを。
「……だって、瀧野くん、優しいし……」
周りにいくら違うと言われても、最初からそう思っていたから今更違う考えを抱けない。
「……俺の事、優しいただの同級生だと思ってるの?」
「……え?」
けれど、彼の言葉は違った。他の誰の言葉よりも。
いつもと違う、彼の声。何かを抑えたような声。心臓が低く音を立てた。
その怖さに目を向けた。
真っ直ぐと向けられている彼の目は真剣な眼差しだった。目を背く事を、逃げる事を許さない目。その強い眼差しに気がつけば後ずさっていた。いくら距離をとっても無意味のように感じた時、背は壁に当たりずっと手に持っていたファイルを落としてしまった。
「あ……」
落としてしまった事にそう声を漏らしても、動けなかった。着実に近づいてくる彼から目を逸らせなかった。まるで、捕らわれてしまったように。
目の前に立ちふさがった彼の瞳の色が変わったのを見た。
「俺を優しいと言えるのは春日だけ。それが何故だか分かる?」
「え、だって、いつも助けてくれるし、……笑顔が優しい、から……、だから、皆だって」
冷静になって客観的に考える力なんて今の私はなかった。
しどろもどろになりながらそう答えつつ、彼との近さに顔がこれ以上にないくらい真っ赤になっていくのを感じていた。心臓だってずっと音を立てているのに。

 ふと、彼の目が変わった。細められたその目は、男の人のそれだった。
「優しくできるのは春日限定。……俺だって、れっきとした男だって分かってる?」
それは今まで見た事の無い彼だった。
心臓だけが声を上げている。もうはち切れそうなほど。苦しくて胸を押さえつけたいほど。だけど、体は縫い付けられたように動けなった。ただ、頭の中で漠然と思う。
なぜ、彼はそんな事を言っているのだろう、って。
「……え?た、瀧野くん……?」
その戸惑いをよそに、彼の手は私を捕らえた。顔の横に、壁を支えるようにして置かれた彼の手と、至近距離にある彼の顔。
こんな激しい心音を聞いた事はない。きっと彼にも丸聞こえ。そのうち心臓は壊れるんじゃないだろうか。手だって震えてる。でも、逃げる事は許されない。だから必死に握り締めて震えを止めて言葉を口にした。
「な、なんで……?」
だけど、台詞は最後まで言えなかった。今の私にはそれが精一杯だった。
「ずっと、待ってたんだ。……返事を。あの時、春日はもう熱が出ていてうろ覚えなのかもしれないけど、夢じゃないよ。あの告白は」
一瞬、何のことを言っているのだろうと思った。数秒の間を得て理解した。
夢だと思っていたあの彼の告白は現実だった……?
「…………え」
もう何も考えられない。そんな、まさか。

「見ていても聡を好きだっていうのは解っていたから、ずっと諦めていたんだ。特に俺じゃ駄目だろうって。……だけど、今は……」
そう言って、辛そうに俯くように目を閉じた。
何かを決したように熱い眼差しを彼に向けられて、心臓は反応する。
「忘れられないんなら、それはそれでいい。そのまんまの春日に、……俺は惚れてるから」
そうして見つめてくる彼の瞳は、とても熱くて、私の固い殻を溶かしていくように感じた。
 彼が言っているのはいつのことか分からない。だけど、そのまんまでいいと言ってくれてる。不思議な感情が心に流れてきていた。とても熱くてふわふわしてる。
 今までの礎を解消してほしくて言葉が口を伝う。
「……でも、中学の、皆思うよ、私と瀧野くんじゃ……」
「……構わないよ」
「私、中身は皆が思ってるような子じゃないよ。可愛げないし、すぐ深みにはまるし」
「……いいよ」
彼の優しい目が私の心を撫でていくようだった。
いいんだろうか、本当に。こんな私でも。
壁から手が外され、かわりに一歩近づいて彼は言った。
「春日の、気持ちが聞きたいんだけど」
言いたかった言葉はたくさんあった。だけど、何も言えずじまいだった。
その言葉たちを今言おうとすれば、また失敗するかもしれない。
今までの重さに耐え切れなくて。
変わりに、率直な私の気持ちを。
ちょっと躊躇ったけど、そっと手を彼の手に置いた。ちょっとでも伝わるように。
「……すごく、嬉しい、デス……」
今の私にはそれが精一杯だった。震える心臓に震える手。そして、震えている声。
もう泣き出してしまいそうだった。感情が心の中で溢れ出しすぎて。
そんな自分の感情にいっぱいになっている時、気がついたらぐいっと引き寄せられるような衝撃を感じて、気がついた時には彼の胸の中で抱きしめられていた。
それに心臓は再び激しい音を響かせる。熱い彼の行動にどぎまぎしてる。
……けれど、温かい彼の体。心音だって早く鳴っていた。
だから、気づいた。彼も同じだったってことに。
自分のことは、彼が好きな分不安で普段分かる事も分からなくなってた。きっと周りから見たら、バレバレなことなのに。……彼もそうだったのかもしれない。
 ああ、私はばかだ。
本当に大事なものを見落とすところだった。
彼と一緒にいたいと願っていた心は確かにあったはずなのに。
 温かい胸に目を閉じれば、彼の鼓動がより聞こえてくる気がした。
今までこの音を何回聞いただろう。そして、落ち着かせてくれた音。

 ふと、この音の奥に一筋の光が見えた。
そして思い出した。ずいぶん前に見た不思議な夢を。
いろんな負の気持ちから逃げる私がやっと見つけたのは光。
だけど、知っている手に掴まれて足を止めたんだ。それは瀧野くんで、救いを求めたんだ。
そしたら、彼の腕は私を捕まえようと伸びてきた。「大丈夫だよ」って。
 どんなに激しい感情が辛くても、彼から逃げてしまっては光の中に行けないんだ。
彼とだから行けるんだ。
……瀧野くんじゃないと駄目だから。

自分の為に、じゃなくて、彼の為に変わっていこう。
そのまんまの私をもっと好きになってもらうために。
彼にだけは、見せてもいいのだから。
今まで出逢った人の中で、彼だけはそのまんまの私を受け止めてくれるから。
……だから、私も彼を受け止めてあげられる人間になろう。
彼の為なら、頑張れる。……きっと。

そう思いながら目を閉じていた。
心の中には、満たされたような不思議な想いでいっぱいになっていた。


ふと彼の手がすいっと私の髪をすくい流した。慣れない仕草に恥ずかしさはあったけど、その感触に心地よさを感じていた。そして頬に落ちた彼のキスにくすぐったくて思わず目を閉じていた。
本当に幸せなひと時だった。
 その後、ゆっくり顔を近づけてくる彼に、押し寄せてくる緊張に耐え切れなくなって逃げの言葉を口にしたんだけど、彼は許してくれなかった。
諦めて目線を落としたら、訪れる緊張の沈黙。
 彼を待つそこに、邪魔はぴしゃりと入った。

その時の彼の何とも言えない、拗ねた様な参った様な表情は忘れられない。

2007.7.20