時の雫-紡がれていく想い Story19

零度の距離 -2


§11

 些細な私の願いも、何かの前では皆無に等しかった。
それは何?と問われても、何なのかうまく説明できないのだけど。



 歩いている間中、ずっと彼の背中を見つめていた。
だから、突然彼がびくっと体を動かしてすぐ足を止めても、そのまま私は彼にぶつかってしまったんだ。
それに反応するかのように落ちていった筆入れが静かなこの廊下に音を立てた。
ぶつかってすぐそれを拾いに動いた私。
「あ、瀧野くん、筆入れが……」
指先がその筆入れに届いた頃だったろうか。
どこからか、彼のものじゃない声が聞こえた気がした。
聞いたことがある声だな、とぼんやり思いながら拾い上げていたんだ。

 だから、次の瞬間に何が起こったのか把握できなかった。

もう少しで体を起こし終えるという頃に突然襲ったのは真っ暗な世界。
彼の片腕、片手が私の背中を支えてる。感じるのは彼の温かさと彼の匂いだった。
私は訳が分からずに、拾い上げたはずの筆入れを落としていた。
耳に聞こえていたのは彼の、ちょっと早い心音。それに重なるように誰かの声が遠くに聞こえていた。
まるで振動が伝わってくるように聞こえた彼の声。
「あぁ、それは悪かったな。すぐ場所変えるよ」
 ええー?!何の話?
そう思ったところで、強く押さえ込まれて声を出す事も息をする事もつらくなった。
余計な事が考えられない状況に陥って、聞き覚えのある声の主が誰だか分かった。
 峯君だ。一番私が顔を合わせたくない人。
私はボーっとしていて気づかなかったけど、何かに遭遇したらしい。だから、彼が回避させようと……。
……そこまで考えて思考は止まった。
「……く、るしい……」
酸欠が頭にまで回り、もう駄目だとやっとの思いでそう声を出した。
そこで覆っていたものが放たれて光が入ってきたように感じた。
まぶしいと感じるのと同時に押し寄せくる空気。
必死の思いで体の中に酸素をいれて呼吸をしたんだ。
呼吸が整うよりも早く、私の手を引っ張ってその場から急いで離れたんだ。彼は。
乱れた呼吸のままでも、引っ張られて足はずんずんと先に行く。
最初はどうにか堪えようと頑張ったけど、それ以上に苦しくてもうギブアップとばかりに声を出した。
「ま、…て、息が……」
「あ、ごめん」
はっとした声と共に止まった足。
この苦しい喉から早く解放されたくて必死で呼吸を繰り返していたんだ。
呼吸を繰り返すにつれ、霧がかかったように真っ白になっていた頭が段々とはっきりしてきた。
それでもまだ余計な何かを考えられるほどの余力は無くて何かを呟いた彼の声は分かったけど、言葉までは聞き取れなかった。
「え?何?」
思わず顔を上げてそう聞いていた。
それに応えるように振り向いた彼だったんだけど、突然彼の表情が変わった。
どぎまぎしたような、ぎこちない反応。
「……あ、えと」
戸惑ったような彼の声が宙を舞う。
そして、その視線は私のと合い、……そこで私はさっきの状況を思い出して恥ずかしさのあまり赤面していた。突然、彼に抱きしめられたという事実だけが頭に突きつけられて。
それに彼もつられたように頬が少し赤くなって、耐え切れず顔を逸らしてしまった。
「溝口が待ってるから、早く戻ろう……」
彼にしては珍しく余裕のない声に、不意に胸はどきんと音を立てた。
くるりと背を向け歩き出す彼の背中さえ見る事が出来なくなっていた。
 この赤い顔は、生徒会室につくまでに治っているだろうか。
体内温度は上昇したまま、彼の後ろを黙々と歩いていた。

 生徒会室に戻った私は言葉を発することなく自分の席に座った。
やけに疲れ果ててしまって顔を机にくっつけてしまいたかった。
 いつもだったら皆と一緒に応接セットに座って楽しくお喋りしながらおやつの時間。
なのに、今の私は瀧野くんに顔を向ける勇気が出ず、一人自分の席で静かに食べる……。
あーあ、変に思われてるだろうなぁ。
でも、今日ばかりは勘弁して。
油断すれば、さっきの彼の胸の中を思い出してしまって顔が火照ってきちゃう。
いや、単に助けてもらったんだっていうのは分かってるんだけど、変に意識してしまって……。
彼に助けてもらって、胸の中。というのは今まで何度もあったのに……。
 一人でいる私はおやつを食べ終わり、ちょっと辺りを見回してみた。
他にする仕事はなく、あとはこの原稿を出しに行くだけ。
ここで椅子から立ち上がって、彼の視線を浴びるのを、妙に恥ずかしく思った私は、もう一度見直しをする事にした。
彼の存在を感じるだけで心臓がドキドキ言う。……これはちょっと重症だ。
下手したら、何も手につかなくなってしまうんじゃないだろうか。
そんな不安さえ頭の片隅に浮かんでくる。
けれど、それを頭の奥底に押しやって見えないようにした。これ以上余計な事は考えないように。
 見直しも終わってしまって、本当に私の仕事は終わってしまった。
これが一人だったら、カバンも持って教員室に行き、そのまま帰るんだけど。
今日は違う。瀧野くんがいる。瀧野くんがいる時は、部活が無い限り送ってくれるから。
一緒に帰るときの事を考えると、異様に緊張してくるのはなんでだろう?
今更、の、はずなのに。
どうしちゃったんだろう。
 でも、いつまでもちんたらしていられない。
覚悟を決めて椅子から立ち上がり、書類を手に持ちながら声を出した。
「これ出しに行ってくる」
そのまま扉へ向う。後方からは亮太の「おー」という声が飛んできた。

生徒会室を出て、廊下を進んだところで大きく息を吐いた。
なんか、肩に入っていた力が少し抜けた感じがした。
「……何してんだろ、私……」

 教員室からの帰り道、彼と二人で帰る事に一抹の不安を感じていた私はため息を繰り返していた。
不意にそんな自分に呆れてしまう。
ただ、いつものように、一緒に歩くだけじゃないか。今日の私はおかしい。
少しでも元気を取り戻そうと、キーホルダーを出して見る。だけど、浮かんでくるのは彼の顔で、余計に不安が増す。
 ……心配なんだ。また何かポカをやってしまいそうで。彼を不快にさせるような事してしまったらどうしよう、って。こんな状態の時は……。

「あれ?それって」
小さく足音が聞こえたと思ったら、突然降ってきたその声にぎくりと硬直した。
もう声を聞いただけですぐ分かる。峯君だって。
一番会いたくない人と会うって、どれだけ今の私って運が無いんだろう。
しかも、鍵を持っているところを見られて。……あの時落としていったこれ。
ばれてるかな……。今日だって変なところに遭遇しちゃったみたいだし……。
今日はきっと私だってばれてない?
そう思ったのに、峯君の目は私の頭から足先まで調べるように見ている。
これはきっと、今日のあの場面での背格好を確かめてるんだ。
気づかないと思いたい。だけど、峯君のあまりに静かな様子に思わざるを得なかった。
もしかして、気づいてる……?
恐る恐る顔を上げてみた。それがどうなのかと思って。
そうしたら、峯君がこっちに寄って来ていたのでぎょっとした。もう体は勝手に後ずさる。
私の反応を見てなのか、峯君は足を止めた。
私にしては奇妙で気の重い空間だった。
こっちの気持ちとは反対に、峯君は微笑みながら言ってきた。
「生徒会の人だよね?同じ2年で」
「あ、うん……」
それは私にして見れば、今更の質問だった。けれど、それが何だと言うんだろう。
理解は出来なかった。
そう不可解な思いに囚われていたら、突然言われた台詞。
「そのキーホルダー、君のだったんだ」
他の女子だったら、のぼせ上がっただろうその笑顔。
だけど、私には物凄く黒い思惑のある笑顔に見えた。……心臓に冷たい汗が湧き出たのを感じた。
そう言う事は、「あの時少しだけ空いていた扉から見えてしまって、慌てて落としていったキーホルダーの持ち主」という事がハッキリした訳で。
……目撃しちゃったのもろバレですか?
うなだれた気分でそう聞きたかった。いや、聞けないけど。

奇妙で気の思い空間の濃度が増したような気がする。
峯君は相変わらず笑顔だったけど、私には恐ろしく感じた。
まるで得体の知れないものを相手にしているようで怖かった。
 学年で誰がかっこいいという女子の話題の中には、必ず名前が上がる人。それが峯君だった。だけど、そんな話は私には関係なくて、峯君の別の話のほうが頭に残ってる。
 私には、「この人を相手にしたくない」という気持ちのほうが強く出た。
この人の私を見る目が怖い。今まで怖い目にはあったけど、そういう類のものじゃない怖さがあった。
どうやってこの場から穏便に去ろう。そう思っていた時、思いもよらない言葉を耳にした。
「取り引き、したいな」
「……え?」
それは意味不明だった。
「口は軽くないって聞いてるけど、でも確かじゃないしね」
何のことを言っているのか明らかなそれに、血の気が引いた。
いや、別に私が目撃する前に、そんな噂は流れてるでしょう。今これから流れてたって、それは私のせいじゃありません。
って、口に出して言えないけど。
目を逸らすことなく観察するかのように向けているその目が怖かった。
 危ない。そう告げてる。
だけど、この人に背中を見せる事が怖くて走り去る事もできなかった。
出来るのは、せめてもの抵抗に後ろに下がる事だけ。
「あ、あの、テニス部の峯君とは、何も取引することなんてないから……」
「でも、僕のほうがね」
明らかにその目は狩りをする時のもの。今まさに捕らえられようとしているのが自分しかいないのだとこの目は言っている。
こちらが怯えを見せるほど、この人は楽しんでいるように見えた。
言いようの無い恐怖に、汗が伝っていくのを感じたとき、この空気を避くように声が飛んできた。
「春日!」
瀧野くんの声だった。
思わずそれに振り返った。言葉に出さなくても、顔に出ていたはず。助けてって。
 庇う様に間に入り、私を背中に隠してくれた瀧野くん。
今まであった空気が遮断されて、安心してこっそりと息を吐いた。
だけど、峯君からの視線はずっと向けられたままで止まなかった。それがとても居心地悪かった。
まるで、好奇の目だったから。
それまで遮断するように、彼が言った。
「この子に手を出すなよ」
彼の、強い意志がこもったハッキリした声だった。
思わずこっちが赤面してしまいそうな……。心臓がどきりと鳴る。
 峯君は、まるで何もなかったように、部活の事を聞いて去っていった。
この場からいなくなり、姿が遠く見えたのを見て、彼の後ろでこっそり胸を撫で下ろした。
やっと解かれた緊張に息さえ出る。
「カバン持って来てるから、このまま帰ろう」
「あ、……うん」
さっきとは違う意味で心臓がどきりと鳴った。
彼の声がいつもと違った。機嫌の悪い声に聞こえた。そろりと見た、彼の表情もそう見えた。
そんな彼に何も言葉をかけられないまま、ただ後ろを歩く事しか出来なかった。
……私に、呆れているんだろうか。
毎度毎度良くない場面に遭遇するから。
怒って、いるんだろうか。
 頭に浮かんでくるのは不安要素だけで、気分はずんと沈んでいくばかりだった。
彼の背中を盗み見て、不意に思い出した台詞。「この子に手は出すなよ」という。
また心臓がどきりと鳴り、顔は勝手に赤くなる。
その恥ずかしさに必死で顔を俯かせて。

 廊下を歩いていき、下駄箱で靴を履き替え、出入り口に近い所で自然と待つのだけど、やはり手が自由だと行き場に困ってしまう。
そんな思いも加わって、彼がその場に来て不意に目が合った時、口にしていた。
「あの、カバン……」
「持ってるよ」
「あの、なんか、手に持っていないと落ち着かないから……」
そう言っているだけで申し訳ない気持ちになってくる……。
しまいには泣き出したい気持ちになっていた。
 言わなければ良かったかな。手元が不安なの我慢すれば良かった……。
そう思った頃、彼からカバンを差し出された。
何も言わない彼に顔を向ける事は出来なくて俯いたままだった。
 彼の顔を見るのが怖いと感じていた。
帰り道はもう暗くて、お互いの顔ははっきりとは見えない。その事に少し救われたような気持ちで、先程よりは肩の力が抜けて歩けていたと思う。
でも、以前は平気だった彼との距離が、今は凄く近くに感じられて、落ち着かなかった。
ふとした時に触れた手にさえ心臓は高鳴る。思わずぱっと手を離して胸元に置いてしまう。
緊張が止む気配は無かった。
 無言のまま家に辿り着いてしまった。
彼はなんだか機嫌が悪そうに見えた。
「あの、今日も送ってくれてありがとう」
彼の顔を見る事が出来ずにそう言った。彼が今どんな顔をしているのか、そう思うだけで心臓が音を立てる。
 少しの間があって、頭から声が落ちてきた。
「……うん、あのさ、一つだけ聞いてもいい?」
それは少しも不機嫌な声ではなかった。今までのは私の思い過ごしだったんだろうか?
どこか控えめな口調。思わず「なに?」と顔を上げた。
「思ったこと正直に言ってほしいんだけど」
「……うん」
思いがけない台詞だった。何を言われるんだろうと緊張もした。
彼がそんな風に言ってくるなんて今までなかったから。
今日の事だろうか。それとももっと別の事だろうか。
何を言われるのか全く予想はつかなかったけど、心臓だけが不安な音を立てていた。
そんな中、届いてきた彼の声。
「……俺の事、どう、思ってる……?」
それは決して大きくはない声だった。ふとすれば掠れて聞こえるくらいの。
この場は他に人がいなく静かだったから、それははっきりと聞こえてきた。
……そう認識できたはずなのに、頭の中は真っ白になった。
 どう、思ってる?
一瞬、何を問うているのか分からなかった。分からなくなってた。
まさか、そういう事を聞かれるとは夢にも思っていなかったから。
どうして、そう聞かれるのかも分かっていなかった。
だから、何をどう言葉にすれば良いのか分からなかった。
でも、彼が答えを待ってる。
「……え、と、……その、……私、……」
でも、依然として言葉が出てこない。
普段、色々と彼に思っていた事が、このときには出てこない。
頭の中、パニック状態。突然の事に対処し切れなかった。
何をどう言えばいいのか分からないまま、気まずく時間だけが流れていく。
それでも必死に声を出そうとした時、玄関の扉が開いた。
「あれ?お姉ちゃん、寒い中何してるの?」
「え?あ、何でもない。真音こそ何?」
「回覧版を回しに」
「あ、そう……」
真音がいたんじゃ大事な事は何も口に言えない。どうしよう、そう思ったんだ。
「……また、学校で」
彼はそう言うと、返事を待つことなく背を向けて行ってしまった。
その時の声が耳に残る。今まで聞いたことの無い低い声。
それは、今日の中で最も私を青ざめさせた彼の声だった。
取り返しのつかない何かを、感じたのだから……。

 翌日、足取り重く学校へと行った。気の重いまま過ごしていたんだ。
朝の登校時に彼と会う事はない。朝練があったから。
でも、学校の中を歩いていれば、必ず会うときがある。普段はそれを楽しみにしていたのに、今は怖かった。彼がどんな顔をするのか、どんな反応をするのか、知るのが怖かった。
だけど、その時はやってくる。
 昼休みの図書室から教室に帰るとき、廊下にいる瀧野くんと谷折君を必ず目にするんだけど、いつも目が合って笑顔を向けてくれたり、小さく手を上げてくれたりしていたんだ。だけど、今日は違った。昨日を経た今は、確実に違った。
私自身、彼に会うのを怖いと感じるくらい緊張して廊下を歩いていた。
そして、いざ、彼のいる場所に足を伸ばしたとき、……私に気づいた彼は眼を逸らした。
ふいっと下方に目を転じていた。私も顔を俯かせてその場を通り過ぎる。
血の気が引いた気分だった。目の前が、世の中が、真っ暗になった気分だった。
 自分ではそういうつもりではなかった。でも、これは現実として、彼の気持ちを踏みにじった事になるんだ。昨日のあれは。
ただ、驚いて、頭が真っ白になって何をどう言えばわからなくなっただけだったのに。

 ……もう、愛想着かされた。もう嫌われた。
いくら優しい瀧野くんだって、もう……。

 彼と遭遇して同じ反応を見る度に、心が叫び声を上げた。泣きたい気持ちになって、それを必死に堪えていた。心はもう苦しくて、息をするのも辛いほどなのに、頭の中では、彼に関連する事ばかりが思い出されていった。

2007.7.20