時の雫-紡がれていく想い Story19

零度の距離 -1


§11

 水曜日は家に帰ってから、どっぷりと落ち込んで、その調子のままいつもの就寝時間に布団に入った。
朝、いいのか悪いのか分からない目覚めで起きると、上半身を起こしてからため息を一つ吐いた。
 また一日が始まる。
自分の中で保留になったままの告白……。
「はぁ……」
あ、又ため息が出てしまった。
……どうして、私ってこう……。
そんな自己嫌悪の真っ只中、今日も学校に向かった。

 テニス部は朝練が始まり、いつもの電車に乗っても彼と会うことは無かった。
会うことは無くても、同じ場所にいるという事だけでも幸せに感じた。
労しなくても、彼に会う機会は自然とあったから。
 そうだ。
昨日失敗に終わっても、次頑張ればいいんだ。
こんな暗い気持ちのままいたら、顔も冴えなくなる。そして、悪い運気ばかりを呼び込んでしまう。
そして、私が暗い顔をしていたら、心配をかけてしまうことになってしまうから。
周りに、友達に、……彼に。
そう思うと、さっきまでの暗い気持ちが浮上していた。


 恋って不思議だった。
恋していない時は、何も思わず通り過ぎていた廊下も、今じゃそこのクラスを気にしている。彼は今何をしているのかと想像もしてしまう。
席にいて、クラスメートと何気ないお喋りをしている姿を目にした時なんかは、嬉しくて顔は勝手に笑顔になってしまうくらいだった。


 今日は言葉を交わすこともなく午前中が終わった。
お昼は教室でとってから残りの時間は図書室にいた。
「最近はどう?」
といういさちゃんが投げてきた台詞に私は頭を少し傾けて言った。
「うーん、意気阻喪って感じかな。こんな自分が嫌になることばっかり」
「色々と気にしすぎなんじゃないの?」
「うーん……」
そううなるように口にした私は黙り込んでしまっていた。
頭の中でいろんな事を考え込んでいたからだ。
 気にしすぎ?気にしすぎなんだろうか?
でも、伝えようと思った事が伝えられていないのは事実で、それは明らかに自分のせいで。
バレンタインに手作りのチョコ、しかもプレゼント付きをあげたら、それはもう気があるって言っているようなもので……。
私はそう思うのだけど、彼の方はどう思っているんだろう、って……。
私、ちゃんとした言葉を伝えた訳じゃないから、別に何もない、今までと変わらない関係な訳だし。
多分そうなのかな、こうなのかなって、勝手に思っているだけで確かめた訳じゃない。
はっきりとした事を口にして確かめてはいないから、何も始まっていない。
そう頭では思うのに、ちっとも行動を起こせない私。
労しなくても会える所に彼はいる。だから、思い切った行動に出れないんだろうか?
 同じことの繰り返し。飽きずに何度と同じ事を頭の中でぐるぐる考えてる。
同じ所を回り続けて目が回りそうになるくらい……。
「……だめだ……。埒が明かない……」
頭を抱え込んでそう言った私に、いさちゃんは小さく息を吐いてから呟いていた。
「それを考え込んでるっていうの。もっと肩の力抜いて気楽に考えたらいいのに」
「うーん、頭では分かっていても、いざその場になるとどうにも出来なくなるんだよね」
「まぁその気持ちは分かるけどね」
「うん……」
「だけど、待ってるだけの方は凄いストレスなんだよね」
「……うっ」
まさにその一言に打ちのめされた、といった感じだった。

それのせいで少し気分は低迷気味になっていた。
図書室からの帰り道、頭で考えなくても数え切れないくらい歩いてきた道順だからぼんやりとしていても足は勝手に進んでいく。
渡り廊下を越えて、校舎に入って階段を上る。
自分の教室へと向う為に、その階に到着したとき、心臓が先にどきんとなった。
教室が並んでいる反対側の廊下、壁側に、今日も瀧野くんは谷折君といた。
彼にどんな顔をされるだろうか、と怖く感じたんだ。
こんな私の事、どう思ってるだろうって、悲観的に思ったその瞬間。
そろり、と様子を伺うように目を向けた私に、私が顔を上げるよりずっと前にこちらを眺めていただろう彼はにこりと笑みを送ってくれ小さく手を上げてくれた。
それにぱっと笑みが浮かんだ私。あまりにも単純すぎるのではないか、と自分でも思ってしまう反応だった。
だけど、喜ぶ気持ちは変えられないし、抑えることも出来ない。
この瞬間に実感するのは、――毎度のことなんだけど、好きだと言う想いだった。
心の中が広がっていくように温かくなっていくモノに微笑を浮かべていた。
 頭の中では彼のその時の姿が何度と思い返されながら。

 午後の授業が終わり、終礼が終わったクラスから解散となっている。
私のクラスが終わった時には4組はもうとっくに終わった後だった。
帰りに彼の姿が目に出来なかったことにちょっと残念さを感じながら廊下を進んでいた。
向っていたのは図書室。返却しなくてはいけない本がカバンの中には入っていた。
少し無防備の、そんな時だった。
「春日さん、……」
どこか躊躇いがちな、それでもしっかりと私を呼ぶ声が背中から飛んできた。
何度か耳にした事のあるその声に、素直に振り向いた。そこにいたのは松内さんだった。
 丁度その場所は、部室に向うには通ってもおかしくない通りだったから。
そして、彼女を見てすぐ、笑顔で言葉を口にしていた。
「この前はチョコありがとう。凄く美味しかったよー。勿体ないからちょっとずつ食べてるんだ」
それに松内さんは笑顔になってほっとした顔を浮かべていた。
「はい、美味しいのを探してきましたから!」
「あれ?でも、どうして私に?」
深いことを考えずそう口にしたら、松内さんは少し困ったような顔をして口を開いた。
目線は少し下を向けていたけど。
「球技大会の後も、冬休みに入ってからも、時間が経つたびに冷静になっていったんです。そうしたら、自分がどれだけ失礼なことをしてきたのか思い知らされたというか……。前みたいな先入観なく春日さんのことを見てたら、凄い人だなって、凄いいい人だって思って……。勝手な話なんですけど、嫌われたままでいたくないって思うようになっていて」
思ってもいない言葉だった。
「……ああ、でも、前に謝ってくれたし。それに私、本当に気にしてないよ。私のほうが松内さんの事羨ましいって思ってるのに。私なんて全く駄目で……」
そう言いながら頭の中は彼の事を思い出していたんだ。
「春日さん?」
その声でぼんやりと考えていた事から、はっと我に返った。
彼女のような行動力、思いを伝えようとする強い心。
足りないのはまさしくそれ。
ため息を吐くと自嘲した笑みを浮かべて言った。
「ほんと、やんなっちゃう」
「……春日さんは、そのままだからいいんですよ。私がこんなこと言うの、今更何言ってるのって思われるかもしれないですが、春日さんのこと好きですもん」
そんな風に言われて顔がしゅっと赤くなったのを感じた。そんな風に言ってもらえるような人間じゃないと思っているんだけど、こんな風に面と向って言われたら恥ずかしいと思いつつも嬉しい。過去に男子に告白されたことよりも、こちらの方が嬉しいと感じているかもしれない。
「いや、え、と、その、ありがとう。そんな風に言ってもらえて、素直に嬉しい。でも、自分の悪いところは自分がよく分かっているし。松内さんみたいに頑張れるよう努力するね」
そんな私の台詞に、最初は意味が分かっていないような表情をしていたけど、すぐ笑顔で答えてくれた。
「頑張ってくださいね。応援してます」
その後、笑顔でお互い別れたんだ。
やっぱり最初から思ったとおり、松内さん可愛いと思うのよ。ああいう風に自分の思いを伝えるって事、中々出来ないことだもん。特に私は。
 図書室に入って返却をしている間も、ついさっきの松内さんとの事が頭の中でリフレインされて、嬉しさが次々と込みあがってくる。顔は自然と笑顔になっていて。

 それから足取り軽く廊下を進んでいたんだ。

それがいけなかった。と、後になって思った。

松内さんとの事がよっぽど嬉しかった私は、私らしくなくカバンを振り回しながら歩いていたんだ。もしかしたら、スキップまでしていたかもしれない。
 それが災難を呼んだのかもしれない。と、後になって思った。
ふとした瞬間に手から飛んでいったカバンは全く予想していなかった方向に飛んでいってしまった。それと同時に小さくカシャン、と聞こえた音。
瞬時に、キーホルダーが落ちたのだと理解した。
らしかぬ自分に失笑しカバンを拾い上げたその先の、今は使われていない視聴覚教室の扉が少しだけ開いているのが目に映った。その隙間から見えた光景に「うわ!」と思った。
あまりの光景に体が一瞬固まってしまったけど、中にいる男子がこちらに顔を向けようとしたのを見て、やばいと思った私はすぐさまそこから走り出したんだ。まるで逃げるかのように。落としたままのキーホルダーを拾う余裕も無く。
 心の中でいろんな事を考えながら廊下を走り進んでいった。途中の角を曲がったところで生徒と衝突しそうになり慌てて足を止めたらバランスを崩して倒れそうになった。
けれど、その相手が腕を掴んで引っ張ってくれたのでどうにか難を回避することが出来たんだ。
「あ、ありがとう、助かった……」
そう口にしてから一呼吸して落ち着いたところで相手を見ると、テニス部男子の2年だった。顔は知っている。えーと、誰だったっけ。
そう思いながら言葉を交わしているうちに思い出して、そして、もう一つ思い出していた。
テニス部の峯っていう人は遊び人だから近寄ったらいけないよって、誰かに言われた事があった。誰に言われたのか覚えていないんだけど。
で、さっき見た人の特徴を言って聞いてみた。
「身長、多分これくらいで、髪はクセ毛の柔らかそうな感じで頭こういう形した感じの人って、テニス部の峯君っていう人?」
「あ、多分そうだと思うけど」
「そ、かぁ……。判った、ありがとう」
じゃあ、さっきの光景はそういう事なのか……。
 それにしても、キーホルダーを取りに行かないといけない。
正直、アノ場所に戻りたいと思わない。けど、放置したままに出来るわけがない。
大事なキーホルダー。そして家の鍵。
今日はあと帰るだけだったのに、拾いに行く為に少しの間時間を潰さないといけない。
彼らと顔を合わすことだけは避けるために。
 あーあ、とんだ災難だなぁ。

 それから浮かない気持ちで、図書室で時間を潰したんだ。
あーあ、とんでもない場面に遭遇しちゃったなぁ。
頭の中はそればっかり。
本を読もうと広げていても、ちっとも頭に入ってこない。
 どーせなら扉をしっかりと閉めて欲しいもんだわ。
なんて事まで考えてしまっていたり。
 適度な時間を見計らってアノ場所へと向ったんだ。
そこへ向っている時は、もういないよね?と変な汗が浮かんできているようだった。
緊張を隠せない顔で現場に到着して、窓が大きく開け広げられているのを確認。
その場所には誰にもいないことに安心の息を吐き、キーホルダーの捜索を始めた。
 ……暫くして、私は顔を青ざめていた。
隅から隅をいくら探しても見当たらない。念の為と教員室に行って落し物が届いていないか確認したけどなかった。
 参ったなぁ、どこにいったんだろ……。
そんな事を呟きながらまた現場に戻って、一通り探した。だけどやっぱり出てこない。
 こんな時間じゃ家に帰っても誰もいない。真音だって部活で帰っていない。
タカの家にでも寄ろうか、と思ってみても、あれも部活だった。
 ……大事なキーホルダー。大事にしなくちゃいけない家の鍵。
もう最悪な気分だった。
しゃがみこんで額に両手を当てたままの格好で動けなかった。
「……はー、参った」
もうそれしか言葉は出てこなかった。頭の中はいろんな考えが過ぎっていたけど。
実はこの教室にいた彼らに見つかって持っていかれた、とか。
あのキーホルダーで家の鍵じゃなかったら、知らない振りしたままでいたけど、物が物だけにそれは出来ない……。
もう一度ため息が出そうになったその時、予想もしない冷たい感触が頬に当てられ、全く油断していた私は声を上げた。
「ぅきゃあ!」
即座に振り向きその物体を確かめてみれば、ずっと必死になって探していたキーホルダーがそこに。
「あ、これ探してたの。どこに……」
と相手に顔を向けて、……青ざめた。
だって、瀧野くんなんだもん!
なんで?どうして?
頭の中は疑問符でいっぱい。
貰った物を落としたなんていうだらしない所を知られたくなかった。
だけど、目の前にいる瀧野くんは笑顔で余裕を見せていた。
鍵の部分を指で摘まむように持ってキーホルダーを見せて。
「探し物、お届けに来ました」
「……あ、れ?」
頭の中で尚増すばかりの疑問符。
「これを偶然拾った奴が、運良く俺に持ち主知らないかって聞いてきたから」
「……あ、そうなんだ。ないからてっきり……」
峯君が……、そう口に出そうとしてすぐ思いとどまった。あれを説明するのだけは避けたい。そんな話を瀧野くんにしたくない。
「で、何を目撃して驚いたって?」
誰からか聞いたような口調。……頭の中には峯君が浮かんでいたけど、まさかそれを話せるわけも無く……。他に思い当たる人といえば。
「え?……それは、……笠井君から聞いたの?」
「そうだよ。 座りっぱなしだと体冷えるよ?」
驚いた時に床にお尻をつけてしまっていたらしい。言われてからだが冷え始めている事に気づいて素直に立った。
至近距離で向けられる彼の視線に意識が集中してしまいそうになる。だから、顔を向ける事が出来ずにいた。心臓だってにわかに騒がしくなってきているのに。
「はい」
その彼の声に顔を向けると、私に向けられた彼の手のひらにはキーホルダーが乗っていた。
どうぞって差し出されているのが分かる。だけど、この時躊躇ったんだ。
彼の手に自分の手を伸ばす事に。
何故だか分からない。彼の手に触れる事が恥ずかしいとも思った。だけど、いつもと違う、とも思っていた。
……いつもなら、彼がひょいと手に持って差し出してくれていたのに。
 彼は笑顔のまま、その体制を崩さない。
こういう笑顔の時は、何を言っても動じないのだと無意識に感じ取っていた。
何かを感じながら恐る恐る手を動かしたんだ。
彼の手のひらに乗っているキーホルダーに向って。
 自分の心臓がやけにうるさく感じた。指先にまで心臓があるように感じるほど、ドキドキ言っている。力を抜けば、指先が震えてしまいそうなほど。
 その指先に冷たい感触が伝わった。キーホルダーに触れたんだ。
ほっと、したのはほんの一瞬。
次の瞬間には、暖かい彼の手に包まれていた。
ぐいっと小さく引き寄せられた気もした。それは本当に小さくだったけど、強い力に感じた。
私の口から、飛び上がった心臓が出そうと感じたほどで。
驚きで彼に目を向けた。だけど、彼の目は真っ直ぐに注がれていて、強い眼差しに背けることはできなかった。
「……、ぁの……」
何が言いたかったのか分からない。だけど、声を出さないではいられなかった。
あまりの緊張に。
彼の手の温度を感じて、体中が熱くなっていくのを感じていた。油断すれば、それに全部を飲み込まれてしまいそうなほど。
なのに、彼はそんな事を全く意にする事もなく輝かんばかりの笑顔を見せたんだ。
それだけでも心臓が高鳴って周りの景色さえ忘れてしまいそうになるのに。
その後すぐ彼の口から聞こえた言葉。
「隙だらけなのは俺の前だけにしてね」
「……え、……あ、……え?」
すぐに頭は働かず台詞の意味は分からなかった。
だけど、顔は真っ赤になっていたのが熱で分かる。
どんな顔をすればいいのか、何を言ったらいいのか、どんな反応をすれば良いのか、全く分からなかった。
なのに彼は、微笑みを浮かべると手をそっと離して、私の頭にぽん、と触れてから、歩き出していった。
全く何がなんだか分からない。
だけど、いつまでたっても鳴り止まないこの心臓と、冷め遣らないこの顔と。
……彼に翻弄されるばかりの自分が、もうこれ以上おかしくならない事だけを祈る事しか出来なかった。
 ……正直もう、爆発してしまいそうです……。


「……って、おい、聞いてるか?」
「んー」
頭ぶっ飛び状態のまま水曜日を迎えていた。
なんとなく聞こえてきた亮太の言葉通りに動き、荷物を持って図書室へ向ったんだ。
幸か不幸か、余計な事は何も考えられない状態だった。目の前にあるやらなくちゃいけない事をただこなしているだけ、といった感じだ。
 図書室のいつもの場所に座って、少しの間ボーっとしてた。
あれ?何するんだっけ?
はた、と正気に戻って目の前にある物を目に移して仕事を知る。
校内新聞の校正を頼まれていたんだ。
まだぼんやりとする頭を感じながら、のんびりと仕事を始めていった。
何かをしている間は、まだ平気だった。
だけど、ふとした瞬間に彼の事を思い出して取り乱す自分がいる。
思い出しただけで、この心臓の騒ぎよう……。
彼を目の前にして、普通でいられるのだろうか……。そう浮かぶ疑問にも深くは考えられない。考えてしまうと、なんかもう、全て台無しになってしまいそうな気がして。
だから、あえてここは知らないフリをしておく。
 他に生徒がいない図書室で、静かに自分の世界に浸っていった。
そのお陰か仕事は結構すらすらと進んでいた。だから、何も気づいていなかったんだ。
図書室に他の人が入ってきて、こちらに向って歩いている事にも全く。
一文を手直しするのに、書き換える文章が浮かんでこなくて必死で考えていたんだ。唸ってようやっと浮かんだそれを書いていった。それが最後の所で、仕事が終わった私は、ペンを下ろして一息ついていた。だから、本当に気を抜いていたとき。
「春日」
突然の、近い彼の声に心底驚いて声を上げずにはいられなかった。体もびくんと反応してた。
「ぅひゃ!」
間抜けな声に自分自身が驚いた。すぐ我に返り本当に彼かどうかを確認に振り向いた。
ああ、本当に驚いた……。
目に映った彼を見て胸を撫で下ろしてたんだ。
「……あ、ごめん、今すんごいびっくりして」
「あ、うん。溝口がお茶にするから呼んで来てって。打ち合わせの方は終わったよ」
「あ、うん。今行くね」
机の上に広げていたものを纏めながら椅子から立ったら、傍に彼は来てすっと荷物を手に持ってしまった。
いつも彼はそうだった。
少しはっとしながら顔を向けても、彼は表情を一つも変えずに普段どおりの優しい表情で言う。
「持っていくのはこれだけ?」
意識するより先に顔は赤くなる。今の私にはただ頷く事しか出来なかった。
 彼は絶対、「良かったら、持っていくよ?」という言い方はしない。少なくても私に対してはそうだった。もっとも、そうだから自然と彼に甘えてしまうのだけど。
 彼がそんな風に、言葉一つさえに気を使ってくれることも、今だったらほんのりと分かる。
きっと、彼は知ってる。普通の人が言うような言い方だったら、私が突っぱねてしまう事を。
何故なのかは分からない。だけど、そう思う。
 ……違う。そう思おうとしているだけ。分からないって。
本当は心の奥底で気づいている。
何故なのか。
……多分、おもわれているから?
 そう思うだけで心臓がまた騒がしくなった。
今すぐ傍には彼がいる。忽ち緊張してしまって、次はどちらの足を出すのだったかさえ分からなくなってきた。
この緊張が彼に伝わっているのだろうか。
彼も何も言わない。私も何も話せない。彼の事を見ることだってままならないのに。
 そして、ふと思う。
彼は今何を感じているだろうって。
 知りたいと思うくせに、知ろうとしない……。知ってしまうのが怖いと感じているから。だから、今も何も口に出来ないでいる。
それよりも優先してしまうのは、一秒でも長く、今こうして彼が傍にいてくれることだから。
彼の背中をそっと見つめて、ふっと自然と笑みをこぼしていた。
それが、とても幸せで。

 ……だからまだ気づいてなかった。立ち止まったままだという事に。

2007.6.3