時の雫-紡がれていく想い Story17
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§11
日曜日の晩、自分の部屋で一人、頭を抱え込んで座り込んでいた。
心底、明日学校に行くのが嫌だと思った。
頭の中に流れる映像はずっと同じ場面だった。
学校では散々な私。きっと明日もひどい一日になるような気がする。
「あぁあ〜、もう」
ため息混じりに言葉を吐き出した。
そうせざるを得なかった。
昨日も今日もタカが家に遊びに来ていた。そして今日、真音がマクドナルドに行きたいと言い出して、「じゃあ」と3人で行った。私はバイトがあったので先に店を出たんだ。
そうしたら、偶然に瀧野くんが道の向こうに見えて。見るからに部活を終えて帰ってきた様子の彼。
思っていなかった偶然にその時は顔を綻ばせたんだ。そして、高揚した感情のまま、話しかけようとさえした。
だけど、彼が一緒にいる人物を見て、私は血の気が引いた思いになった。
なんで?!なんでよりにもよって辻谷君と?!
正直、その時はそう思った。……でも、ほんの少し頭を働かせれば分かること。
別におかしくないことだった、それは。
彼とアノ人は仲の良い友達なのだから。
でも、さすがに二人が一緒にいる所に、姿を現すことなんて出来ないよ。
そんな事をしたら、本当に全てが終わってしまいそうな気がして……。
どうにかなってしまうんじゃないかって思ったんだ。
……多分、アノ人が私の事を瀧野くんに聞くなんてことはないと思う。
そこまで関心はもたれてないと思うから。
そして、彼も辻谷君に私の事を話すなんて事はないと思う。
ない。……そう思い込みたい。
だけど、だけど、あの場面に出くわすなんて、有り得ないでしょー?!
そう心の中で叫んでみても、頭に浮かぶのはあの時の彼の顔。
何とも言えない、あの顔。
胸が痛いよ……、瀧野くん。
そうやって一人の世界に入り込んでいたら、部屋の戸がノックされて無遠慮に開いた。
「また電気もつけないでいるのかよ」
「……るさいなぁ。昨日も今日もうちに来てそんなに暇人な訳?」
「みお坊……、何かある度に部屋にこもる癖直せよ……」
「うるさいよ」
「みお坊が行った後、久々な奴に会ったよ」
「瀧野くんでしょう。さっき真音から聞いたよ」
ふうとため息混じりに言った。
「そうそう」
「それに、二人並んで歩いている所見かけたから」
「ああ、辻谷に彼女とのノロケ話聞かされたってげんなりしてたわ」
「あーそう。そんな話どうでもいいー。もうそれどころじゃない。いいよねー幸せそうな人は」
「んだよ。何があったよ?」
「……別に」
「嘘言うな。昨日も今日もずっとため息ばっかりで話してても上の空。どーせ、みお坊の事だから、同じ事考えて思いつめて。そんで、余計な事まで考えてだるま状態になってんだろ」
「う、うるさいなぁ!」
「なんだよ?言ってみろよ。話乗ってやるから」
「……」
まるで拗ねた子供みたいに口を尖らせていた。それでも言葉は口から出てこない。
「なーに、そんな顔してんだよ。話するだけでスッキリする事もあるだろ」
「……うーん」
それでも言う気にはなれなかった。
「……俺に内緒にしてることあるだろ」
突然そう言ったタカの言葉に、「?」を浮かべて顔を向けた。
そんな私に、タカは意地悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「みお坊がずっと気にしてる男って、瀧野のことだろ?」
「なっ、何を……!」
「最初に話していた痴漢から助けてくれて家まで送ってくれる奴っていうのも、瀧野の事だろ?」
「な、んで……」
「あのさぁ、マジで気づいてなかったと思ってたんか?」
「へ?」
「あれは確か11月だったかな。学校帰りの瀧野と偶然会ったんだよ。俺はきらしたノートか何かを買いに行こうとしていた途中に。暗がりでよく分からなかったけど、最後の方でやっと気づいたよ。瀧野の後ろに隠れてたの、あれ、みお坊だろ」
「……!!」
そうだ。あの時……。
あの後、タカと会った時、構えていたのに何も言ってこなかったから気づいてないんだと思ってたのに……。やられた。こんな風に言ってくるなんて。何もごまかしが出来ないこの場面で。普段だったらうまくかわすことも出来ていたかもしれない。……それを、分かっていてこう仕掛けてきたんだ。この、付き合いの長い幼馴染は。
「……で、今悩んでるの瀧野のことだろう。真音から聞いたぞ。寝込んでる間ずっと見舞いに来てくれてたって」
「……!」
「で、何をそんなに頭抱えてる訳?」
「べ、別に……」
「ふぅん?付き合ってんの?」
「なっ、何馬鹿なこと……っ」
「じゃあ、告白でもされたか?」
「さ、されてないっ」
「じゃあ送り狼でもされたか?」
「そっ、そんな事ある訳ない!」
「それはどうか知らんけどな。で、何があったんだよ?」
「……」
「……いいやつだよ、瀧野は」
「……知ってる」
「まだ、辻谷のこと気にしてるのかよ?」
「……してるように見える?」
「見えないけど、一応聞いてみた」
「あっ、そ。……」
「素直に言えばいいだろ。私も好きだって」
「なっ、何をっ、いっ、言ってっ……」
「どもってるどもってる。……俺が話を聞いている分と、以前に見た時の分だけでも、軽く予想できる。……それだけアプローチされてて、本気で何も気づいていないなんて言うんじゃないだろうなぁ?」
「……や、でも、たまーに、そうじゃないのかなぁ、なんて感じる事はあったけど、それは有り得ないって思ってたし、た、瀧野くんって最初からずっと優しかったし、別にそんな直接的な、はっきりした事言われた訳でもない、から……」
「うわー。そこまで気づいていて無反応でいるなんて、鬼よりタチわりぃ」
「だ、だって、そんな、自分が好かれてるとか分からないし、じ、自信もないし……」
「えー?今更何言ってんだよ。男が毎日学校帰りに見舞いに来るってのは、相当だろうが。なんとも思ってない女のところに行ける訳がないだろう。しかも親に面われてるのに」
「うっ……」
「みお坊だって満更じゃないくせに」
「……だ、だって、どうしたらいいのか、分からないんだもん……」
「それ、治ってないんだな」
「な、何?」
「相変わらずだって言ってんの。恋愛には奥手で変に純心。はっきり言ってな、そういうのって男からしたら面倒だぞ」
「……っ」
「好きなら好きって伝えろよ。気持ちが離れてから伝えたって意味ないんだぞ」
タカのその言葉、胸に痛く響いた。
「べ、別に私は……」
「一人で思ってるだけでいいとかいうなよ?そんなの俺からしたら、ホンモノじゃない恋だよ。片思いだって、相手の反応とか態度とか気になるはずだよ。相手の事も思うなら、時に気持ちを伝えなくちゃいけない時だってあるだろう。自分のことばかり最優先させてるだけの恋なんざ、俺に言わせりゃ、ただの独りよがりで中身なんかないね」
「……っ、人事だと思ってそういう風に言えるんでしょ」
「うん」
尚怒りが心に湧いた瞬間だった。だけど、タカが私の為に言っている言葉だと言うのは分かる。中学のとき、ぼんやりとアノ人の事を相談したことがあった。その時は気の乗らない様子であんまり気にするなみたいな事を言っていたと思う。タカからすれば、薦められないということだったんだろう。今なら分かる。頑張ってみれば、という一言もなかったし。
だけど、だけど……。
そう思ったところで、はっと思った事があった。
「……何か余計なこと、瀧野くんに言ったりとかしてないでしょうねぇ?」
「……え?いや、何も?」
「そう言う割には表情がおかしく見えるけど?」
「き、気のせいだろ」
「その顔は何か言ったでしょ。……何を言った訳?」
「い、いや……」
「タカ!!」
その後のタカの行動は早かった。あっという間に部屋から出て行ってリビングへと降りていった。私の両親がいる部屋へ。
親がいる場所で変な話は出来ない。変なところが小賢しいやつだ、あいつは。
そして、また一人になった部屋で考える。
こんな自分が情けないと思った。
彼にあんな顔をさせて、自分はいっぱいになっている。
そう、タカの言う通り、自分のことでいっぱい。自分を優先させてる。自分はそう思っていない行動でも、事実はそうなのだから。自分のことしか考えていなかった。私がそういう態度で、彼がどう感じるかなんて、あの顔を見るまで分かっていなかった。
だけど、必死で普通にしようと思っても、私という意識に飲み込まれてしまう。
ちょっと前まではこんなんじゃなかったのに。
自分だって思ってる。こんなのは嫌だって。
こんな風ではなかったのに。もっと、一緒にいる時間が楽しくて、一日の中でもふとした時に彼の顔が見たくなって、ちょっとでもいいから傍にいたいと思っていたのに。
今は、……今の私はどうしちゃったんだろう。
彼の視線が痛い。痛いくらいに感じる。ちょっとでも、彼に見られていると思うと、息が苦しくなる。冷静な自分が忽ち何処かに行ってしまって、極度の緊張状態に陥っている。
生徒会の演説でも、こんなに緊張をした事なんてなかった。
嫌だと思った。自分も、この状態も。
この毎日変わらない生活、日常の中で、穏やかに彼の傍にいる時間があって、この想いを自分で感じているひと時があれば、それで良いと思っていた。
彼を思う気持ちが、それまで空いていた隙間を埋めてくれたように感じて、それだけで幸せを感じていた。それが、タカの言う独りよがりなのかもしれないけど。
今までそうだった様に、彼もそうだと思っていた。多分、それは殆ど思い込みだった。
私が好きになる人は、私を好きになったりしない。
まして、彼は、アノ人と仲良くて、今までの私も知っている訳で。
親同士も仲良くて、この年頃だったらそれだけで敬遠する事柄な訳で。
今までに遇ったことで、抜けている性格も、どじさ加減も、彼は知っているから私の事を放っておけないという風に思っているんだろう、くらいにしか思っていなかった。
中学の時に目にした彼の対応で、特別な感情を抱くより先に、彼の事を良い人だと思っていた。だから、……元から興味はあった。彼がどんな人を選ぶんだろうって。
その選択の中に、自分が絶対入らないと思っていた。
だから、時々振ってくるきわどい質問にも深く考えたことなかった。自分に対して含みがあるものなんて真に思っていなかった。
無意識に防御線を張っていた。それがどういう事が分からずに。
……全部気づいてしまえば、自分でいられなくなる。
やっと訪れた、安心する場所にいる自分を壊したくなかった。
それに気づいてしまえば、自分を見失うと知っていたから。
時に恋とは底知れぬ恐ろしさを持っている。
今までの自分が簡単に壊されてしまう。目にしたくない自分の汚い感情に惑わされたり、踊らされたりする。そんな自分を知りたくない。見たくない。
嫌だ。嫌だった。こんな状態も、醜い自分の心も。
そう思ったら、もう一人の自分が囁いた。
「嫌なら、最初から全部無かった事にしてしまえばいい」
全部。彼に助けられたことも、救われたことも、貰った温かい感情も、彼との近い距離も、温もりも、すべて。
そうすれば、時間の経過と共に彼も、そして私も感情が薄らいでいってそのうち諦めがついて、何もなかった日常になる。彼も良い人と回り逢ってその人と……。
そう思ったら、胸が張り裂けるように苦しくなった。
嫌だ!嫌だ!
今まであった思考を全て吹き飛ばすような感情の声だった。
胸が苦しくて涙が浮かぶくらい切なくなった。
彼が遠くに行くことを考えて堪らなくなった。
嫌だ。失いたくない。
部屋の中で一人、ひざを抱え込んでいた手に力を入れて何かに耐えるように私はいた。
一人何かを決意して、朝を迎えた。
いつもの電車に乗ろうと家を出たはずなのに、ホームに到着した時間は一本早い電車の時間だった。いつもの電車でも十分早いものなのに。
この一本分の時間を待つ勇気がこの時でなくて、家を出たときの決意はどこへ行ったのやら……。私はその電車に乗っていた。
揺られつつ一人で言葉を吐いていた。
「何やってんだ、私は……」
学校へ向かう為の駅に降りてから、ゆっくりと道を歩いていた。
もしかしたら、この後の電車に乗った彼と会うかなぁ、なんて思って。
だけど、結局会えないまま学校の門を越えて下駄箱に到着した。
上靴を下ろしながら出るのはため息。
うまくいかない何かに気分は沈んでしまっていた。
……なんか嫌な予感がするな。
そう思っていた。
この下駄箱の向こう側に生徒の話し声が聞こえてきた。
「最近元気ないよなー」
「お前が?」
「違うよ、副部長だよ」
「あー、そう言えばそうだよなぁ。ほんと、どうしたんだろな、瀧野」
その名前を聞いた瞬間、飛び上がりそうになってた。靴を履き終えていた私は、名前を聞いただけで緊張した体を感じ、慌ててその場を駆け出していた。
急がなくてもいいのに、走って辿り着いたのは自分のクラス。教室の中に入ってから戸を閉めるととぼとぼと机に向かった。荷物を置き、まだ誰も着ていない事に気づいて暖房のスイッチを入れた。
「は――――……」
口から零れるのはため息だけ。
今朝の自分の行動を思い返しては出るため息。頭を抱え込みながら一人ぼんやりとしていた。
彼に元気がないと聞いて、うっすらと思った。私のせいかな?って。かなって思うあたり周りから言わせれば、きっと、まだそんな事を言っているの?って言われそうだ。
だけど、本当に思ってしまう。きっと、私の事なんかで彼が気分を左右されたりしないって。私の事なんて、本当はどうでもいいはずだって、思っている。というか、思い込もうとしている。もう今更、なのに。
そんな事、今もう思っちゃいけないことのはずなのに。
「は――――……、ほんと、何してんだろ、私……」
自嘲気味に呟いて、何もない机の上を必死に見つめている。
教室は静か過ぎて時計の秒針の音が聞こえてくるくらいだった。
頭の中には同じ事がずっとぐるぐる回っている。
勇気を出そうと、頑張ってみようと昨日思ったのに。
結局、今している事も何も変わっていない。
益々自分のことが嫌いになった瞬間だった。
又ため息を吐こうと肩を上げて顔も少し上向けた。
一人だと思っていた空間だったのに、誰かが目の前に立っている。視界に男子の足が見えたから。それに心底驚いて相手を確かめるように顔を上げた。
そこにいたのは谷折君だった。
「……たっ、谷折君っ、い、いつから……」
「あー、やっと気付いてくれたー。何か考え込んでたみたいだったから、静かに入ってきたんだけど、ちっとも気付いてもらえなくてさ」
その様子はいつもと変わらない。
「そ、そんなに前からいたの?!」
そう言いながら、不安が心を過ぎっていく。そして浮かぶ不安があった。
だけど、谷折君は平然とまだ登校していない、前の開いている椅子を出してひょいと跨いでから座った。背もたれに両腕を乗せて。
「で、何をしたって? 何々?話に乗るよ?俺」
そう笑顔で言ってきたけど、全然そんな気にはならない。
そして、そんな話を谷折君に言える訳もない。
「え?……や、別に、何も……」
少なからず、動揺していたと思う。
だけど、構わず谷折君は飄々と言ったんだ。
「ふーん? じゃあ、俺の方の話、のってもらっていいかな」
「あ、……う、ん……」
その時の谷折君には、不思議な威圧感があって拒否することは困難に感じた。
本当なら一人でいたかった。誰とも何も話したくなかった。
何を言われるのか、なんとなく分かってはいた。
「俺の友達が、春日さんがずっと元気なくて心配してるんだ」
友達。どっちの事だろう。亮太のことだろうか。それとも瀧野くん?
だけど、それを口にすることは憚れた。何かいやな気配を感じていたから。
それと、自分の首を絞めてしまうことになりそうだと感じたから。
「……まだ、体がしんどいから」
本当は何も喋りたくないのを必死に堪えてそう言った。
それに、谷折君は意に介する事無く言った。
「まだ、熱続いてるの?」
「ううん、熱はもう大丈夫だけど、体力のほうが」
普通だったら、まだその話題を引っ張っていくだろうに、谷折君は違った。
「そっか。そー言えば、明日はバレンタインだけど、春日さんは誰にかにあげたりするの?」
基本は、私の事なんてどうでもいい。この人は。
自分が確かめたいことを聞くために言葉を綴ってくる。
そんな谷折君に嫌悪を感じた。だけど、無意識にぐっと押さえ込んで堪えていた。
答えたくないからと言って曖昧な返事をすれば、きっとこの人は鋭く問いただしてくる。
私の気持ちや立場なんて気にしないで。ううん、きっとこの人の立場からして、私の事なんてどうでもいいんだと思う。
だけど、この人は彼と仲良くて、同じテニス部で、部長で。そして、この間、偶然であっても、私を助けてくれた中に入っていた人。
「……今年は、義理チョコとかやめとこうと思って。……あ、谷折君にはお世話になってるから、本当は贈る所なんだけど……」
「あ、いいよいいよ。別にせがみたくてその話題出した訳じゃないから。それに春日さんから貰ったりしたら、俺友達に恨まれるからさ」
その「友達」という言葉が含みを持っているように聞こえた。
その時、なぜか瀧野くんの顔を思い出して、谷折君がこの早い時間にここにいる事に疑問を感じて聞いた。
「あ、……うん。……今テニス部って朝練してるの?」
「今週、後半から始まるんだ。放課後に送別会の練習するから。なんで?」
「谷折君がこの時間にここに来るから、練習あったのかなぁと思って」
「夕べ姉貴と喧嘩したもんで、朝顔合わしたくなくていつもより早く出たんだ」
「へぇお姉さんいるんだ」
私が疑問に思って訊いても、きっとこの人は答えてくれないんじゃないかと思っていた。だけど、今すんなり答えてくれたので、それだけで少しほっとしてそう言っていたんだ。
「うん、気の強い人使いの荒い姉上でね、カレシと上手く行ってないもんだから俺に八つ当たりしてきてさ。春日さんも八つ当たりとかしたことある?」
話題が次々と変わって、問いを投げられる事が分からなかった。
分からなかったから、素直に答えた。
「うーん、私は結構悲観的に一人で考え込むタイプだから、……どうだろう?」
軽いものなら、仕事の時に亮太にするけど。そんな事を思いながら言っていたんだ。
心に重さを感じながら。
「今も何か考え込んでたりするんじゃない?」
「……え? そんな風に見える?」
「うん。なんか暗いよ?いつもはもっときびきびしてる」
「そっかなぁ?」
普段の自分がどうだったかなんて、考えたことなかった。今の自分に必死すぎて。
「うん、最近自信無さそうだし。……まぁ無理もないと思うけどね。
それにあと他にやけに暗く落ち込んでるのも若干いるんだけど」
そう言って、この人は真っ直ぐと目を向けてくる。私が悪いんだと、責めてる。
それに一瞬言葉を失った。だけど、それを表に出さないように堪えて、このまま無言のままいたらいけないと思って必死に紡いだ。
「……、……そう」
そう言った途端、いろんな言葉が浮かんできた。それらが一斉に出ようと喉元にひしめき合った。
だけど、それはただの言い訳にしか過ぎない。言っていいものじゃない。現実逃避しようとする自分の弱さだ。どんなにあがいたって、現実は変わらない。責められる機会を増やしているだけだ。
本当は泣き出したかった。無性に辛かった。自分はこの世の中に一人取り残されてしまったのではないだろうかというくらい、心もとない感情に飲み込まれていた。
次から次へと谷折君は私に言葉を浴びせていた。
だけど、頭にちっとも届いてこなかった。今の私はそれすら拒否している。
何も聞きたくないと。他人の話なんて聞きたくないと。
早くこの人がここから去ってくれないかとさえ思っていた。
嫌だった。
この人を目の前にして、何も言えない自分も、ただ堪えるだけの自分も、足元を見つめたままの自分も。
周りの事象が全て、今の私には畏怖するものに思えてならなかった。
私の意見なんかどうでもいいような、周りの思う通りにコマを進めればいいんだ、という雰囲気も、何もかも私の存在を責めているようにしか思えなかった。
今の私に、何も言う資格がないような気すらして、……何か言葉を言うのが怖かった。
谷折君は追い討ちをかけるように言ってきた。
「……春日さん、何で無理に突き放すの?
俺が見てる分では、充分に心を許していてお互いが同じ気持ちだと思うのに。
それじゃあ蛇の生殺しだよ。あいつが、可哀相だよ……」
それはタカに言われたことと変わらなかった。
胸が苦しくなった。
最後の言葉、それは今までのどの言葉よりも、谷折君の感情が込めれていた。
可哀相だと。彼が、……瀧野くんが可哀相だと。
……そうさせているつもりはなかった。だけど、私の行動全ては、結果としてそうなってるんだ。
その事実が私をひどく混乱させ、胸を殴打されたみたいに苦しくなって悲しみの感情と共に涙が浮かんできた。
泣きたい訳じゃない。
だけど、この悲しみは堪えようとする感情よりも勝ってどうにも出来なかった。
だけど、こんな状態になっても何も言えなかった。言える言葉なんてなかった。
何かを言おうとしてやめた谷折君は、さらに残酷な言葉を投げかけた。
「本当は瀧野の事なんてどうでもいいの?」
勝手に手に力はこもる。
どうでもいいなんて、そんな事はない。思ったこともない。
だけど、谷折君にはそう見えるから、そう聞いてくるんだろう。
そんな谷折君に、私が何を言える?
何を言ったって無駄でしょ。私に、谷折君が納得できる説明は出来そうにない。それに何もこの人に言いたくない。
こんな言い方をしてくるこの人に自分の心のうちを吐露したくない……!
心の中で思っているだけのそれらを谷折君が分かるはずもない。
だけど、心の中で勝手に、分かってよ!と言っているわがままな自分がいる。
そんな思い、絶対ぶつけちゃいけない。
必死で堪えるだけの私に谷折君は言った。
「そうなの?何も言わないのは図星だから?」
感情が迸りそうになった。それでも思いとどまる。自分勝手な思いをこの人にぶつけたくなくて。
「……っ、私に、何を言えっていうのっ?」
油断すれば泣き出しそうだった。
彼の前では何度も感情に負けて泣いてしまった。だけど、この人の前で泣きたくなかった。この人の前で泣いたら意味が変わる。
けれど、私と変わって態度の変わらない谷折君が言ってくる言葉はきつく感じた。
「さっきから訊いてるのに?」
そして、さっきから変わらない台詞に苛立ちさえ感じる。
この話題になる前までは、ころころと変わっていたのに。相手がいるのに、まるで相手を無視したような話の流し方だった。
それが今度は執拗に返答を求めてくる。
この怒りのような感情は、それまで思っていなかった事を口に出させた。
「……頼まれたの?そうやって訊くように」
言ってから胸が痛んだ。感情に流されて言った言葉だった。本当にそんな事は思っていない。
「誰に?」
そう問われても何も言えなかった。
私の反応に谷折君は呆れたようにため息を吐いていた。
もうどこかに行ってほしくて、一人にしてほしくて、せめてもの抵抗に言った。
もうこれ以上の言葉は出てこない。
「……私のことは、放っておいて」
そして、口を閉じた谷折君。あたりの静けさが耳に痛いくらいだった。
震える手をぎゅっと握り締めて、口を噤んで、目を伏せて。
……自分が滑稽に思えた。
普段は生徒会でバリバリ仕事して、一般生徒に大きな態度でいて、そんなもの全て何の意味もなさない。
こんな風になってしまう自分には全て無意味のように感じた。
もうどうでもいい、そんな事を思い始めたとき、私の横から声が聞こえた。
「谷折君、ちょっと来て貰える?」
それはいさちゃんの声だった。強い意志を持った声。
それに素直に従った谷折君。
二人がこの場から去って、教室の扉が閉められて静かになった時、目から溢れた涙が頬を伝って机の上に落ちた。
それでも、何も言える言葉はなかった。
感情の塊だけが、心の中に置き去りにされたままだった。
休み時間になるといさちゃんが私の所へ来ていた。心配してずっと傍についていてくれたんだ。
そんないさちゃんに何も聞かなかった。何も聞きたくないと、心の中で耳を塞いでいたんだ。
悪いのは私、私の行動が悪い。私の心なんてどこにも届きはしない。
それは絶望にも近い思いだった。
昼休みになって、丁度お弁当を食べ終わった頃、いさちゃんが図書室に行こうと迎えに来てくれた。
一緒にお弁当を食べていたナミちゃんはそれに全く気にした様子を見せることはなかった。
多分、ずっと暗い私と、休み時間になる度に来ていたいさちゃんを見て、分かっていたからなのだと思う。
何も言わずとも、様子だけで分かられているそれにも、気は重かった。
まるで、全ての事が丸見えのようで。
……見られたくない。見られてもいいと思うのは決まった相手だけなのに。
土足で上がられるような事を望む人間がどこにいるだろうか。
向こうには向こうの言い分がある。立場が変われば見方が変わる。
分かってる。そんな事は分かってる。だけど……。
なんで、彼との事に、他の人からとやかく言われないといけないの?
なんで皆放っておいてくれないの?
そんな事を思う自分すらも嫌だった。
だけど、思うことは止められない。それらは感情だったから。
頭で思うのと心で思うのはまるで別物だった。
私がもっと、……違う人間だったら良かったのに。
そうしたら、今ここで、こんな思いに囚われていなかったかもしれない。
全てが矛盾していた。思うこと、感じることの全てが。
……しんどかった。心がもう疲れ果ててた。
教室を出て、廊下を進んでいく。谷折君がいる3組の前を通る。
それすら嫌だと感じていた。谷折君に偶然でも会いたくなかった。
そして彼にも。
こんな自分を彼に見られたくなかった。
だけど、こういう時の神様はいじわるだ。
俯いたまま歩いていたのに、無言のシャットアウトを無視して声が飛んできた。
まるで、胸を突き刺さったような痛みが走った。急に体の自由が利かなくなって、息をすることも辛くなって。
「春日さん」
反応がなかった私なのに、谷折君は諦めることをしなくて再びはっきりと名前を呼んできた。
本当は谷折君と関わりたくなかった。この人の、こんな無遠慮なところが、多分初めから嫌いだった。
だけど、反応を見せなければ、更なる痛みが襲ってくるような気がした。
何かを諦めるのと同じような気持ちで顔を上げた。
「朝はごめんなさい。俺が言い過ぎました」
そう言ってはっきりと頭を下げた谷折君。
思ってもいなかったそれに驚いた。
それと同時に胸に鈍い痛みが走った。
私には違う意味に聞こえたから。弱いものいじめをしてしまった、そう聞こえたから。
ぐっと込みあがってくるような形容できない思いがあった。
とても自分が惨めに思えた。
その、谷折君が言った言葉を今の私には素直に受け入れることは出来なかったんだ。
そして、視界の中に教室から出てきた瀧野くんの姿が見えた。
見られたくないし、会いたくない。そんな気持ちが心の中で充満する。
この場に居ることがとても辛かった。
「謝らなくていいよっ、結局悪いのは私なんだから気にしないで」
そう言った後で激しい後悔。自己嫌悪。
素直じゃない私。可愛くない私。
人間的に余裕のない私。
……最低だ。
まるで逃げるように、顔を伏せていさちゃんの手を握ってその場を駆け出した。
「いさちゃん行こう」
俯いたまま彼の前を通り過ぎて階段に向かう。
全てのことが嫌で嫌で仕方なかった。
……自分が招いたことなのに……。
「……嫌われたな……」
歩きながらぽつりと言った。
それにいさちゃんが声を出した。
「え?」
何?聞こえなかった。なんて言ったの?
そんないさちゃんの声が聞こえていた。
だけど、これは本当に独り言だったから。
「ううん、なんでも、ないよ……」
きっと、嫌われた。
きっと、もう、嫌われた。
涙が浮かんでくるような思いに、耐え切れなくなって、そっと目を閉じていた。
図書室に着いて、空いている席に座っても、なんかもうどうでも良かった。
本を読む気にもならなかった。何かを喋ろうという気にもならなかった。
ぼけーっと窓の外を眺める。雲が風に流されていく風景をぼんやり見つめていた。
その時、やっと少しだけ心が軽くなったような気がして、隣にいるいさちゃんに言葉をかけた。
「あのね」
「うん?」
いさちゃんは、不安定な情緒を醸し出している私の声に、優しく反応してくれた。
「瀧野くんのこと好きだったみたい……」
「知ってる」
「……そうだよねぇ。多分、周りが気づいていたより遅くに自覚したと思うんだ」
「だってねぇ、瀧野君といる春日ちゃん、いつもの時よりも、どんな時よりも可愛いんだもの。瀧野君と話しているのを見てると、なんか嬉しそうに見えるから。勿論、一方的ではなくて」
反射的に頬が赤くなった。
そしてすぐしてそれは治まった。
「でも、きっと、……」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない……」
きっと、もう嫌われたと思う。
こんな私、好かれる理由ないもの。
なんとく、という感じでお互い本を読み始めた。
手元に持ってきた本だったけど、ページを開けてみたら読む気にはならなくて他の本を探しに歩いた。
何を読もう?
なんかもう実用書とか読みたい気分だった。
暗い気持ちは変わらないままだったから、何か救いになるようなものを求めていたんだと思う。
これなんかはどうかな。と一冊を取り出して中身を確かめていた。
本棚を背にしてその場所にいると、一人の空間に思えた。丁度そこは辺りと隔離されているような棚の配置だったから。
このままでいいとは思わない。
だけど、前まで彼の傍でいた私という姿は、もうこれから先望めないような気がしていた。もう無理だとも思っていた。
きっと彼は、こんな私を呆れているはずだ。
特別に想ってくれていた私が、実はこんな人間だったって知って軽いショックを受けているかもしれない。
幻滅されてるから。
あんな私じゃ嫌われても当然だと思うから。
全てを失った気分でそこにいたんだ。
そこへ人の気配を感じたような気がして、なぜか呼ばれたような気がして顔を向けた。
そこには彼がいて、はっとした。
まるでドラマか何かのようにそこに立っている彼に心臓は思わずどきんと声を上げた。
目が合って体ごと彼から逸らしてしまった。
合わす顔がない。あの事の後でばつが悪い。そんな心境だった。
そこに彼がいるだけで、もう体の動きは制限されたようになってしまう。
私はやっぱり、彼が好きなんだ。
なんかもう胸が痛くて、早く彼がここから去ってくれないかと思っていた。
だけど、背後から感じる彼の気配がここから去る様子はなかった。
それだけでも心臓がけたたましく鳴る。
このままでいいとは思っていない。
だけど、今はまだ……。
無力すぎて、涙が出そうだ。
いつかきっと、いつかきっと、必ず、あなたと正面向き合えるようになるから。
だから、今はまだ待ってほしい。
絶対に、好きだって伝えられるように強くなるから。
たとえ、もうその時には遅すぎていたとしても。
祈るように、心の中で彼に届かない約束をしていた。
だけど、彼はそのまま近づいてきて、彼の腕で本棚に縫い付けられてしまった。
その行動にはっと息を呑んだ。
思いも寄らないそれだったから。
それだけで顔が赤く染まりあがっているのに、彼は顔を近づけてきた。
もう心の中で叫び声をいっぱいあげている。必死に声には出さないようにして。
「谷折に何か言われた?」
いつもと変わらない彼の声に、心臓は尚ドキドキ言う。
それだけで何も余計な事は考えられなくなる。
「あ、ううん、そんな、あの、些細な事だから……。は、反対にこっちが悪いし……」
言っているだけで恥ずかしくなってくる。自分の存在そのものが恥ずかしくて堪らない。
「嫌な思いさせてごめん」
なのに、彼が言った言葉は私をはっとさせる。
「ちが……、私が、迷惑かけてばっかで、不愉快な思いさせてるから……」
もう、嫌われたのだと思っていた。まさか、そんな風に思われているとは考えていなかった。普段の何事もない私だったら、少しくらいは「瀧野くんの方が気にしているかも」と思ったかもしれない。
だけど、今の私は……、自信が無さ過ぎた。
なのに、瀧野くんはちっともそんな事を思っていないとでも言うように口にした。
「誰に?」
「た、瀧野くんに……」
そう答えるのも恥ずかしくて。
「なんで?」
「い、いろいろ……」
もう何を言えばよいのか分からない。自分の中が激しい動悸で煮えたぎっているようで冷静な思考が出来ない状態だった。
もう過度の緊張に目が回りそうだった。
そんな中、彼がはっきりと言ってきた台詞。
そんな事言われるなんて少しも思っていなかった。そんな台詞これっぽっちも頭に浮かばなかった。
「春日にだったらいくら迷惑かけられてもいいよ。でも、目の前から逃げられるのはつらい。……昨日だって」
彼の口からそう言われて怯えたように体がびくっと反応した。
昨日、辻谷君と一緒にいた瀧野くん。
「今でも、想ってるのは聡のこと?」
「……っ」
それはもう言葉には出来なかったけど、必死で首を横に振った。
彼にだけはそう思われたくない。
「でもやっぱり一番に考えてしまうのは聡のことじゃないの?」
確かめるようにそう言われて、泣きたい気持ちを必死に抑えながら首を振った。
そして、精一杯の気持ちで言葉を口にする。
「……違うっ、違うよ……」
「ほんとに?」
優しい声にまた泣きたくなりながら言った。
「……うん……」
それでも心臓はどきどきしてた。
彼がこんなに近くにいる事にも。
「じゃあ俺、……遠慮しないから」
その言葉に頭が真っ白になった。心臓はどきん!と高鳴ったけれど。
何でそんな言葉を言われるのだろうと、その時思ったんだ。
そして、私の口からは何も言葉は出てこなかった。
何も言えなかった。内心、とてつもなく動揺していたから。
「それでも、待ってるから」
彼の感情のこもった声。こんな声を今までに聞いたことがあっただろうか、と思うくらいのそれに、体中の力が抜けていくような思いだった。
ちょっとでも気を抜けば足の力が抜けてしまいそうで。
何を、待ってくれてるというんだろう。
こんな私を。
こんな、どうしようもなく弱くて汚い心でいっぱいなのに。
自分が情けなくて、どうしようもなくて、いっその事泣いてしまいたいと思うのに。
だけど、彼は、待ってるって。
ここから静かに去っていった彼の気配が消えると、私はもう力が入らなくてその場にへたり込んだ。
顔はこれ以上に無いくらいに真っ赤になっていて、どうしようもなく恥ずかしい私は必死で熱が取れないかと両手で当てていた。
心臓はドキドキとどうしようもないくらいうるさくて、その音が私を全部飲み込んでいきそうな勢いだった。
まるで、この場から違う世界へと飛ばされそうなくらいに。
心臓は確かに言っている。
彼が好きだって。
たまらなく好きだって。
想いを消すことはもう出来ないくらい。
想いを無かった事には出来ないくらい。
彼が確かにここにいた。そして確認せざるを得なかった。彼が好きだと。
そして、伝えてくれた。私が思っていたようには思っていないって。
それだけで、心が救われたような思いだった。
だから、伝える。
今すぐは無理でも。
だから、まっててほしい。
絶対、好きだって言ってみせるから。
2007.3.17
修正2007.3.20