時の雫-紡がれていく想い Story17

零度の距離 -1


§11

「そういやぁ、昨日の放課後に瀧野が覗きに来てたけど。春日さんに用じゃなかったのかな?」
「え?!」
私にしてみれば突然の台詞に思わず過剰に反応してしまった。
多分、頬が多少赤くなっているかもしれない。
名前を口にされただけで、彼の事を問われただけで、心拍数がたちまち上昇する。
「……誰か探している様子だったし」
そう言ってじぃっと見てくる阿部君。
それに微妙な気まずさを感じながら、額に浮かんでくる汗を感じつつ目をそらして言った。
「あ、ほんと。どうしたんだろうね」
「確かめてみた方がいいんじゃないの?」
「え?あああー、どうせ今日委員会あるし、その時でも大丈夫だよ。きっと。うん。……あ、じゃ私ちょっとお手洗い〜」
あたふたする自分を感じながら阿部君の前からそそくさと立ち去り、教室を出る為に戸を開けた。
そして、廊下の奥に目を向けて、目に入った光景に思わず慌てて戸を閉めていた。
廊下の向こうには、移動教室でクラスから姿を現した瀧野くんがいたからだった。
もうこれは条件反射みたいなもので……。
一人心の中で、苦しいくらいの動悸にのた打ち回る私。
はた、と、視線を感じて振り向けば、阿部君が「じー」と見ていた。
 え?もしかしてずっと見られてた?
そんな事を思って、恥ずかしい気持ちで「あは、あははは、は」と無理矢理に笑いを見せると思い切って戸を開け廊下に出た。
慌てて戸を閉め堪らず息を吐いた。
「はーーーー」
心臓がけたたましくドキドキ言っている。こんなんで私は本当に生活していけるのだろうか。今日の放課後には委員会で顔を合わせるというのに。
……というか、顔を合わせられない……。
切なくて苦しく感じる胸に手を当てるとまたため息を吐いていた。

 そして、あっという間に放課後がやって来てしまった。
これから彼と顔を合わせるのかと思うと、心臓がドキドキ言ってて落ち着かなかった。
生徒会室に向かいながら指先まで緊張している。
そのまま彼と会う事無く生徒会室に辿り着いた。そして、自分の机を見れば書類の山。
「な、に、これ……」
「春日じゃないと決められない仕事」
そうあっさりと述べたのは亮太だった。
「そうは言っても、これ、ありすぎでしょう?」
「まぁそういうな。殆どは最後の確認程度だ。俺だと決めかねるんだよ。春日ならすぐ終わるって」
「そーですか……」
呆然としつつも椅子に座る。どれだけ見つめても変わらない書類の量だった。
 いつもならここに座った瞬間から意識は変わって仕事に集中するのだけど、今の私には無理だった。考えようとしても頭は考えることを拒否している。仕事をしようと思っても、全くこの身が動く気配は無かった。
そして、ずっとボーっとしていたことに気づいて、仕事しなくちゃ、と思い至った。
とりあえず、これから始まる実行委員会の準備をしよう、と机の上を見た。すると右端の上に書類はきちんと揃えられていて、多分亮太が整えていてくれたんだろうと思った。
この案件が決まったと赤丸がしてある。私が休んでいる間に決った事を確認した。
そして気づく。
この種類はあの日、印刷室でコピーしていた物。私が放置したままだった物。
あの日起こった事を感覚的に思い出してぞくっと体が震えた。すぐ顔を振って忘れようとする。
そして、書類を手にすると、小さくため息をして生徒会室の出入り口に体を向けた。
数歩足を進めた所で、廊下を行く生徒の一人とかち合った。それは丁度隣の会議室に向かう所。
ぱた。と足が止まる。思い切り目が合ったのはほんの1、2秒。
多分、驚いて目を大きくしていたと思う。だけど、すぐ振り返り自分の机に慌てて戻る。
「あれ?どーした?」
「わ、忘れ物。筆記用具忘れたから」
どもりそうになるのを必死で抑えながら亮太に言った。
手が緊張に固まっているのを感じながら、必死の思いでカバンから筆入れを取った。
 思い切り顔を合わせた相手は瀧野くんだった。なんていうタイミングだろう。
びっくりしてそんな態度を取ってしまった。
心臓はまだドキドキ言っている……。

 あぁ、私は一体何してるの?

自己嫌悪に陥りながらも心臓は騒がしい。
 落ち着かせるように深呼吸をして気持ちを整えると気分を変えて会議室に向かった。
「はーい、始めますよー。座ってくださーい」
「あ、春日さん、1週間休んでたって聞いたけど、大丈夫―?」
「はいはーい、お蔭様でどうにか回復しました。欠席中は面倒おかけしました」
「いいよー」
と一人が言ったのを聞いて、どっと笑い声が沸いた。
「えー、じゃあ先週の続き、といっても休んでいたので違うこと言ったら教えて下さーい」
「はーい」
数人からそんな返事まで返ってくるくらい和やかな空気なのだ。
 私が作成した案件の間、ところどころに付箋が張ってある。訂正内容と追加内容。他にはここをどうしたら良いか、とかいうものだった。
それらを見つつ変更を加えて進行していた。
「えーと?じゃあこの出し物の準備を2年実行委員A班にしてもらいましょうか。で、あとは〜」
ノートにも決めた事柄を書きつつ、書類を眺めつつ進めていた。ふとそこで気づいて目を向けたら、彼と目が合い思わずぱっとノートに目を移した。
にわかに心臓が騒がしくなる。この場所で動揺している場合ではないのに。
どうにか一通りを決め終わると各班にそれぞれ仕事についてもらった。
私はまだ教壇にいて書類とにらめっこ。
「えーと、……これがここの時間枠で都合悪いという事は……、ん?こっちでも同じか。……という事は?」
傍から見れば怪しいって言うくらいの独り言。今まで眠っていた頭なだけに働きが悪かった。それでも必死に考える私。
「どうしたのー?」
「いやー、時間配分がうまくいかなくて……。皆好き勝手なことばかり言ってくれるから、纏め上げるの一苦労するんだよね」
「へー。いつも簡単にやってるように見えるけど、そうでもないんだね」
「え?簡単に見える?」
「うん。春日さんがやってると」
「うーん、そうかぁ」
「あ、悪い意味じゃないよ、いい意味でだよ?」
「あは、ありがと」
実行委員は男子が多かったりするんだけど、女子も少なからずいた。今話しかけてくれたのは女子。
同性に気さくに話しかけられたりすると結構嬉しかったりする。普段は話しにくい人とかいって敬遠されがちだから。
笑顔でその子が離れていくのを見送ってから、手元に顔を向けようとした。
その最中にふと、こちらを見ていた瀧野くんと目が合って、慌てて書類に顔を向けた。
それだけの事なのに、もう心臓がどきどき言っている。
シャープペンを持つ手が震えてる。もう頭はパンク寸前で何も考えられなくなる。
途端に世界が変わってしまって、まるで私が私でいられなくなるような、そんな気配に怖くなって、荷物をまとめて生徒会室に戻った。
 自分の席に座ってもまだ心臓は元に戻らない。
……まだ手が震えてる。手をぎゅっと握り合わせて息を深く吐いてみる。
どうにか、本当にどうにか少しは落ち着いて、シャープペンを手に持つ。
仕事の事を考えようとしてみるんだけど、頭にポンッと浮かんだのは彼の事で、そうなると体に緊張が走る。
 うわわわわわわ、危ない危ない。もうちょっとで叫びそうになった。
そんな調子で仕事が捗らない。あまりの捗らなさにシャープペンを放り投げたい気持ちにもなる。
……ああ、だけど、現実はそんな悠長な事言ってられない。ここは意地でも仕事を片付けなくちゃ。
無理矢理、シャープペンを手に握り、必死になって書類に目を向けた。
逸れたい気持ちをどうにか抑えて頭を働かせる。普段は簡単にやっていた事が、今は辛く感じた。
だって、気持ちは彼に向いたままだったから。
 その後、暫くの時間を葛藤して、ようやっと手が動き始めて、遅々としてたが書類の量が少しずつ減ってきた。正直、ゴールが見えないことに気が遠くなりそうだった。それでも、その事を考えないようにして、頑張って仕事をしていた。
どうにか波に乗り始めて、このまま頑張れば乗り切れるかもしれない、という頃。
「おーい、春日ぁ」
邪魔にしか聞こえないそれに、ぎゅっとシャープペンを握り感情をあらわにした顔を向けて声を放った。
「何?!」
「……」
その反応に、亮太は面食らった顔をしてた。
漂うのは奇妙な沈黙。
「お前、どした?」
すごいシリアスな顔をしてそう言ったもんだから、脱力してしまった。
「……いえ、ちょっと書類の多さにやられてました」
「ああ。……じゃあ、気分転換がてらに。講堂でちょっと行き詰ってるから。進行上やたらと時間を取るところがあって頭抱えてるんだけど」
「えー?」
何かを考える事に億劫さを感じている私は露骨に嫌な顔をした。
「……やめとくか?」
いつもとは違う亮太の反応に、憎まれ口を叩くことも忘れた。
「……行く」
素直にそう口に出してから立ち上がった。
そこから出て歩きながらふと思う。
亮太の態度がいつもと違う。何がどう違うか説明しろと言われてもうまく言えないけど。
いつもと台詞を言うタイミングとか口にする言葉とか……。
そして、「あ、そうか」と思った。
亮太なりに気を使ってくれているんだ。
 一緒に行動に向かう中、時折言葉を交わしていたけど、どこか奇妙な空気だった。重たいのと、気まずいのと。
だけど、現場に足を踏み入れたら、そんな事を考えている余裕はなくなっていた。
「うわ〜、確かにこれは準備に時間かかりすぎよね」
半ば感心してそう言った私に、薫ちゃんは言う。
「どーする?時間短縮して頑張ってもらう?」
「うーん。……そこで無理させて本番穴開けられたら参るしなぁ」
そう言ったのは亮太。
「余興でもしてもらう?」
と薫ちゃん。
「誰に?」
「えーと、先生方とか?」
「それはいくらなんでも無理だろう」
「じゃあ、生徒会でとか。即興で何か」
「それはもっと無理だろう」
「うーん。困った」
「……どうする?春日」
亮太の声にずっと頭は考え込んでいたのを言葉に出した。
「そう、だなぁ。……練習時間が残り僅かでも出来るところあるから、ちょっと聞いてみてくるわ」
言い終わった途端、急ぎ早にそこから出ていた。後ろで何か亮太が言っていたけどよく聞こえなかった。私が向かったのは軽音部。そこで了承をどうにか貰って再び講堂に戻る。
「OK貰ったよー」
「だからどこに?」
「軽音部。後ろで準備している間、やってもらうっていう事で」
「あ、なるほどね」
「あとは、準備にかかる時間と、軽音部の演奏時間とを調整して、それに伴うプログラムの改変をすれば、とりあえずは」
「病み上がりなのに大した頭だな」
そう言った亮太が私の頭をぽんと軽く叩いていった。叩いたと言うよりは、手を置いたという感じだった。
 それにも、なんとく違和感を感じたんだけど。

ぼけーとしながら見回した時、丁度バスケ部員の姿が目に入った。
片岡君がそこにいた訳じゃない。だけど、体は勝手に硬直を見せた。まるで凍てつくような冷たさと痛さが体を襲う。その時もしかしたら呼吸もままならない状態だったかもしれない。
「戻るぞ」
強くはっきりとした声で亮太が言った。それで呪縛が解かれたようになったところを強引にぐいっと腕を掴まれて歩き出した。思わず最初の数歩がよろめいたけど、亮太は前を歩く。
その背中は揺らぐことなく前を進んでいた。本当なら、ここで「ありがとう」とお礼を言うべきなのかもしれない。だけど、亮太の背中を見て、それを言ってはいけないような気がした。
「……」
奇妙な沈黙。
だけど、気にしないようにして廊下を歩いていく。
生徒会室に戻っている最中、不意に亮太が口を開いた。
「……今は、どんな、……」
そう言ったきり口を閉じてしまった。続く言葉を待ってみたけど出てこない。
そんな様子に不思議に思って亮太を見る。
何かを考え込んだ様子の亮太は、何かを諦めたように息を吐いて力を解いたようだった。
「いや、いい。何を言おうとしたか忘れた」
忘れたと言った時、やけにあっさりした言い方だった。
「まだボケるには早すぎるよ?」
それにちろりと冷静な、それでも非難が少し混じった目で見るとぼやくように言った。
「仕事が忙しすぎて、脳みそもお疲れ気味なんだよ」
「ふーーーん」
それでその話は終わっていた。

 もう少しで生徒会室のある校舎に入るという所で数人と一緒にいる彼を見つけた。
その一瞬で足が止まってしまう。たとえそれがほんの数秒のことでも。一秒も無い時間の間でも。心臓はたちまち高鳴りを見せる。それと同時に襲ってくる緊張みたいなもの。
でも、彼から目が放せなくなってる。まるで囚われたみたいになって。
本当はそれに言いようの無い不安を覚える。だけど、抗うことが中々出来なくて。
 そうしているうちに、彼が気づいてしまう。
まるで私が呼びかけたみたいにこちらを振り向いて、思い切り目が合ってしまう。
合った途端、無理矢理に顔を背けるんだ。赤くなった顔を見られたくなくて。
さっきよりも心臓が激しく鳴っている。
頭の中に残っている少しの冷静な部分が「何やってるの」って叱咤してる。だけど、今の私にはどうすることも出来なくて、何かを考える余裕も無くて、逃げるようにそこから足を急いで動かした。
その場所から離れても、心臓の騒がしさは治まらないのに。
急に歩調を上げて先に行きだした私を見て亮太が少し驚いたように声を放った。
「おい?」
だけど、彼からの視線を感じている私は、それにも答えることが出来なくて足を進める。
距離が出来た間を亮太はすぐ追いついてきた。何も言わず、ただすぐ傍に居た。
 ……胸が痛い。
 何も言葉を交わさないまま生徒会室まで戻った。そのまま自分の席に腰を下ろす。
すると、どっと体の疲れを感じた。やはり中々体力は回復しない。
「ふう」
息を吐いてから、たまっている書類に手を伸ばした。
とりあえず、急ぎのものから片付けよう。まだ時間があるものは後回しにして。
そう思うと、前に向かっていた時と比べて幾分気持ちが楽になっていた。
 それから、無言の時間をずっと過ごしていた。それは仕事に集中できていたからという事もある。
亮太も何も話しかけてはこなかった。気を使って遠慮しているのか、ただ他意はないのか、私には図れないけど。
 一通り目を通して、急ぎのものだけを片付けたら、目眩のようなものが襲ってきた。思わず額を机につける。多分、緊張の糸が緩んだからだろう。
「あー……」
力なく出した声に、こちらに目を向けている亮太の様子が気配で分かった。
「しんどいから、今日はもう帰っていい?悪いとは思うんだけど」
そう言ってから今度は頬を机に引っ付けて、亮太を見た。
それに少し意外そうな顔をして、少し間があって言った。
「もっと早く、無理する前に言えよ。……ちょっと待ってろよ」
椅子から立ち上がると生徒会室の扉に向かう。そして、出る前に振り向きながら言った。
「野口に駅まで送ってもらえ。今言いに行ってくるから」
「え?いいよ、悪いし」
「遠慮するなバカ。今にも倒れそうな青い顔してんのに。途中で倒れたら洒落にならないんだからな」
反論する時間を与えることなく亮太は行ってしまった。
 心に、不思議に感じる風が吹いていた。

 野口君は笑顔で来てくれた。そしてすぐ駅前まで送ってくれた。
「ほんとごめんね。ありがとう」
「いいえ、いいっすよ。体大事にしてください」
「うん。じゃあお先に」
言葉を交わしてから別れた。
改札口を通ってホームへと向かうのに、自然と顔は俯いていて足取りも重い。心もすっきりとしなくて憂鬱だった。
 私は、何を思っているんだろう?
空いている座席に座って、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
だけど、目に映っているのはまったく別のもの。
環境がめぐるしく変化していって、まるで別の場所に立っているようなそんな気持ちだった。
 ううー、何も考えたくない……。
心の中でそう言葉を零すのに、頭の中では色々なことが巡っている。

 家で一人、ぼんやりとしていても、結局思い出すのは彼のことだった。
思い出しただけで胸がどきんと高鳴る。けれど、それと同時に勝手に顔が赤くなってきて恥ずかしい気持ちになる。
自分を彼に見られているというだけで物凄く恥ずかしい。
理性は、普通に接しなくちゃと言っているのに、いざその時になると全てが無駄になってしまう。何も考えられなくなってしまう。
 ああ、これからどうしよう……。私、どうしちゃったんだろう。


 その水曜の実行委員会を経ると、毎日の放課後は卒業生を送る会の準備にかかりきりになった。そうなると絶対に彼とも顔を合わすことになる。
頑張って、平生を装わなくては。心の中ではそう強く思っていたんだ。
 だけど、いざ放課後になって、仕事で彼を見ても心臓はいう事を聞いてくれなかった。
「はぁあ〜」
手の甲を額につけて大きなため息を零していた。
「おい、なんだ、そのやる気のない態度は」
書類を丸めて片手に持った亮太が言った。
「えー?いや、そんなつもりじゃないんだけど……」
片眉を上げて非難げなそれに適当な言い訳をした。
「この残ってる書類の分がさ、ちゃんと書けてなかったりだとか、他にも色々あるんだけど」
「いつもみたいに行ってきたらいいだろーよ」
「そうなんだけどねー、歩くのもしんどいだよ……」
そして、ほんの少しの時間沈黙が訪れた。
実際、いつもだったら立ちながらする仕事でも、今は座りながらする。そうじゃないと体がしんどくて重くて耐えられないからだ。
「……どれだよ」
「え?」
思ってもいなかった亮太の返答に思わず聞き返していた。
「行ってきてやるよ」
「え、ホント。じゃあ、これと、これと」
私が出してみせる書類を覗き込んでしかめ面になりながら言ってきた。
「えー?これ、俺が確認した時は別に……」
「ここが抜けてるのよ。これじゃ、これとこれ、どっちにするのか分からない」
「……。いってきます」
「はい」
素直に亮太は書類を手にし生徒会室を出て行った。
部屋に残ったのは私と薫ちゃんの二人だけ。
 お互いがひと段落着いたとき薫ちゃんが話を振ってきた。
「美音ちゃん、今年のバレンタインどーする?」
すっかり忘れていたそのイベント。
「……あー、そう言えば来週なんだよね?」
「そうだよー。火曜日だよ」
「実行委員に差し入れでクッキーでも作ろうかとは思ってるけど」
思っているというか、先月の時点で思っていたことだった。
「亮太たちには?」
「今年は義理とかしないでおこうと思ってたんだけど、亮太にはあげないと、……まずいよねぇ?」
一応お世話になってるし、一応あげて当然の仲間なわけだし。亮太は言わなくても待ってるだろうし。
「うーん、どうなんだろうね。無かったら口には出さないけど文句ありありの顔はしそうだよね。甘いもの好きだから」
「そーだよねー」
おやつに持ってくる、私が作ったお菓子を嬉しそうに食べてるんだ。甘さ加減も丁度いいと。
話を聞いていると、家でも結構甘いものを食べているらしい。母親が喫茶店を経営しているから自然と美味しいものを口にしている事もあって味にはうるさい。ちょっと失敗したかなって思ったやつは見事言われるくらいに。
「美音ちゃんの手作りだったらお金出しても欲しいって言う人たくさんいるだろうね」
「えー?そうかなぁ」
そこらへんの話は実感が湧かない。
「今までの本命チョコってどんなのあげたの?」
普通の女の子なら話題に上がるそれ。だけど、私は今までそういうものをあげたことがなかった。小学生の時も、中学生の時も。……ただ、片思いのヒトに渡す勇気がなかっただけの話なんだけど。
「あー、……本命にはあげたこと無いんだ。バレンタインに手作りもしたことない」
「へー、そうなの?」
「うん」
もしかしたら、そこまでする想いではなかったのかもしれない。
「今年はどうするの?」
「え?」
「あげたい人、いるんでしょう?」
「うーん、それはそうなんだけどね……。でもなぁ」
そう言葉を口にすると、薫ちゃんはふふっと笑みを零して言った。
「しない後悔より、した後悔の方がずっといいよ」
そう言われて、素直にそうだと思った。
「そうだよねぇ。……だけど、なぁ」
「何?」
「ううん」
渡そうとしても、今の私がちゃんと出来るかは疑問だ……。
そんな事を思った後で、ふと思ったのを聞いてみた。
「それでもさ、そういうので手作りって重くない?」
「うーん、どうなんだろうねぇ。全く知らない子から急に貰ったら困るだろうけど。例えば、手作りマフラーとかセーターとか」
「そっかぁ……。うーん」
そう口にして口を噤んだ時、廊下から声が聞こえてきた。
野口君の声と、瀧野くんの声。
 え?!と思ってまだ姿が見えないドアを凝視していた。
もしかして、今喋ってたのを聞かれてたりとか……?
そう思うと、心臓が慌てた音を立て始める。
だけど、私はすぐ顔を伏せていた。戸惑う中でドアの開いた音がして思わず顔を向けた。
まるで、疑問に思った答えを探るように見つめたんだ。
だけど、彼の視線は真っ直ぐに私に注がれて、それに心臓が声を上げて逸らすように顔を伏せてしまったんだ。
今の私が彼の視線を受止める事は、心臓が壊れてしまうのではないかと思う。
そう思うくらい、彼が現れただけで心臓はばくばくと音を立てるのだから。
 顔は必死で逸らしているのに、私の体全てが彼を意識していた。
まるで、見えない何かに括り付けられて身動きを封じ込められてしまったような感じだった。周りにある空気までも重く圧迫していて、窒息してしまいそうだった。
 彼に自分を見られるのが恥ずかしい。
自分の意識にいっぱいいっぱいで、顔を上げられず赤くなっている顔を見せられずこの場から逃げたい衝動に駆られる。
 それでも、動けずにいた。
野口君は薫ちゃんに用事。
瀧野くんは実行委員会の仕事で私の所に来ていた。
赤くなっている顔を見られないように必死で隠しながら、質問に答えていた。
冷静に見れば、私のこの体勢はおかしい。だけど、分かっていてもどうにも出来ない。
頭の中は混乱に陥っているのに、冷静な対処なんて出来ない。
気がつけば部屋に二人きりで心拍数は上がりっぱなし。
必死に自分を保とうと密かに努力は続けているんだけど、それは叶いっこない願いになった。
私は根をあげた。
 もう駄目だ。
そう思ったんだ。
だからペンを置いて椅子から立ってこの部屋から出ようと思って行動に移そうとした。
だけど、私が腰を上げたのと、彼が話しかけてきたのが同時になった。
それでも私は聞こえないふりをしてそのまま行こうとしたんだ。
彼に背を向けてドアに向かって歩き出した。
「春日」
はっきりと飛んできた、彼が呼び止める声。
一瞬、止まらなくちゃ、と思った。だけど、今の私では無理。
そのまま行ってしまおう、そう思ったのに。
彼の手が私の腕を掴んで引き止めた。
その感触にさえ、私の体は反応する。まるで驚きに飛び上がったように。
それでぱっと離された彼の腕。
不思議な感情が、心の中を走っていく。
矛盾な思いだった。掴まれて逃げたくなる気持ちと、離れた手を見てさびしいと思う気持ちと。
それでも、頭の中はパニック状態。どうすればいいのかなんていう事も考えられないくらい動揺していた。全神経は彼に集中しているのに。
ううん、全神経が彼に集中しているから、彼の一挙手一投足に過敏に反応してしまうんだ。
「俺が、迷惑……?」
私にとっては突然だった。その台詞は。
そう言った彼の声に心が絞り潰される様な思いになった。
そう言われて初めて思った。私の態度は、彼から見ればそう見えるんだって。
だけど、私は動けなかった。
「俺の事迷惑?」
もう一度、ハッキリと聞こえてきた。
違うのに、違うと言いたいのに口は動かない。それでも必死になって首を横に振った。
背を向けたままで。
「春日……」
彼の、辛そうな声だった。
駄目だった。それで尚のこと駄目になった。その場から逃げようと、体をずりずりと移動させていった。
だけど、それを彼の手が阻もうと私の手に伸びてきた。
触れた瞬間、痺れみたいなものが体を走っていって、思わず払いのけるように手を引っ込めてしまった。そうした後でしまったと思った。
「あ……」
そう声が出て、彼に目を向けた。
そして、後悔した。全てを後悔した。
見たことのない、彼の顔。ひどく傷ついた表情だった。
「……ご、めんっ、そうじゃ、な、くて……、ごめ、ん、ごめんなさい……っ」
必死の思いで謝っていた。でも、何をどう話せばよいのか分からない。
悪いのは私で、瀧野くんじゃないのに。
「……じゃ、ど、して?」
そう言った彼の目がひどく悲しみに染まっていた。
胸が痛い。心が締め付けられそうに。
だけど、どう言って良いのか分からなかった。
私自身、何がどうなってこうなっているのか分からないのだから。
違うのに、言葉が出てこない。そんな自分の不甲斐無さに情けなくなって涙が込みあがってくる。ふとすれば、自分の感情で埋もれそうになる。
「……ごめん、もういい……」
ふと耳に届いた彼の言葉。聞いたの事のない声。
胸が凍りつきそうになった時、彼はもうこの部屋からいなくなっていた。

 私が彼を傷つけた。
その事実に胸が痛くなって、何も考えられなかった。
浮かんでくるのは涙ばかり。そして、目から溢れて零れ落ちていく。
 今は部屋の中は不気味に感じるくらい静けさが漂っていた。

違う。
こんなことを望んでるわけじゃない。
だけど、体がいう事を聞いてくれない。
 どうしよう。
嫌われた。彼に嫌われた。
きっと嫌われた。

ごめん、瀧野くんごめん。

生徒会室で一人泣きながら、必死で心の中で謝っていた。
そんな事、無意味でしかないのに。

2007.3.10


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