時の雫-紡がれていく想い

零度の距離 -3


§10-11

何も考えることの出来ない頭でふらふらで帰宅したのが月曜日。
その私のおかしさに、一番に気がついたのは母親だった。頬を触るなり体温計を取りに行き検温させ、その結果に声を上げたそうだ。数字は39度を示していた。
 帰宅した時の事も憶えていない。
そんな私なのに、火曜日、翌朝はちゃんと起きて検温をし、熱があることを確認すると瀧野くんに電話をしたらしい。
「熱があって多分風邪だと思う。本当はずっと体調悪かったから。それで今日はお休みするから」
と話していたらしい。
電話を終えて部屋に戻ろうとした私は、ふらついていてまともに一人で歩けない状態だったから、腕を掴んで抱えるように一緒に部屋に上がったと母親が話していた。
そして、そんな私がベッドに横になっている時に聞いたそうだ。
「どうして圭史君に電話して伝えたの?」
「……昨日、助けて、くれて……、家まで送って、くれた、から……」
「何に?」
と聞いた時にはもう眠っていたらしい。
 その日、母親は仕事を休み私の看病をしていたと聞いた。
殆ど私は眠っていて、目を開けても熱のせいでボーっとしている様子だったらしい。
熱は40度近くあり大分気を揉んだと言っていた。病院に連れて行こうにも母一人では抱きかかえることも出来なかったから、と。
 私が目を覚ましたのは水曜日の午後だった。
無理矢理重湯を口に運んで薬を飲んで再び眠りに落ちた。
そして、瀧野くんの夢を見て目を覚ましたのは夜だった。
その時に、机の上にルーズリーフの束とコンビニの袋が目に入った。
疑問に思っていると、部屋に来た母親が話してくれた。
「今日も学校帰りに圭史君が寄ってくれたのよ。授業のノートと、今日は差し入れと」
「……え?」
「プリン、ヨーグルト、お菓子、スポーツドリンク。何かいる?」
「スポーツドリンク、飲む」
母親が冷蔵庫から出して持ってきてくれたそれを飲んだ。すると、自覚していなかった喉の渇きに、ごくごくとそれは入っていった。
熱を出したときのスポーツドリンクがこんなに体に優しいなんて初めて知った。
 だるい体に、ぼーっとする頭。
私は何も考えられない状態だった。頭に靄がかかったような状態で何もまだ把握していなかった。
 木曜日の午前中に母親の運転で病院に行き、点滴を受けた。
自分の足で歩いたのは物凄く短い距離にも関わらず、帰宅した時には酷く疲労困憊だった。
午後は殆ど寝ていて、夕方にやっと起きた。薬が良く効いたのか、熱は大分下がり、息切れをしながらシャワーを浴び、ようやっとテーブルに座って夕食をとった。
食べ終わってからもそこにいた。階段を上るのがしんどく思っていたから、だらだらしていたんだ。
そこにインターホンが鳴って一番近くに居た真音が玄関に出た。
そして、相手を確認してから呼ばれた。
「お姉ちゃん、圭史さんが今日も届けに来てくれたよ?」
「あ、うん、出る」
体はしんどいけどすぐ行動に移してた。靴を履いて玄関に出る。扉をよろめきながら開けたところで、心配げな彼の顔が見えた。
「お姉ちゃんジャンバー」
「あ、ごめん」
真音が取ってくれたそれを受け取りのろのろと上に羽織った。そして、門扉のところまで降りたんだ。
「ごめん、毎日届けてくれてありがとう」
そう、その言葉を伝えたかった。
「あ、ううん。そんなのは全然いいんだけど。まだ熱あるだろ?無理して出てくれなくても良かったのに」
彼のその声がとても優しくて。しんどいのに自然と笑顔が浮かんでた。
「丁度下にいたから。ようやっと8度までさがって大分楽になったし、顔見せとこうと思って」
だけど、彼の心配顔は変わらない。
「しんどいのに気遣わせてごめん。外は寒いしもう中に入りなよ。ぶり返したら大変だし」
「うん、こっちこそごめんね。土日で熱が下がったら月曜には行けるから」
彼が私を思いやってくれるその心配という優しさに、嬉しさを感じていた私の心は自然と穏やかさに包まれていた。
「うん、お大事にね」
彼のやさしい声。だけど、どこか置き忘れたものがあるような、そんな言い方。
言葉の意味が私に寂しさを呼び起こさせる。
「じゃあ又」
彼がそう言ってもそれは消えない。それどころか増すばかり。
口には出せないけど思う気持ちに自然と無口になっていた。目は彼しか見えていないんだけど。
ゆっくりと背を向けて家に向かう彼の背中に、想いが湧いてくるのを感じた。
不思議な感情。それが何十回とあっても慣れない。だけど、それと同時に何かに痛さを感じて叫び声をあげる心があった。
これは何?
そう思った次の瞬間、頭の中に広がる記憶。

暗闇の中助けを求めていた自分と、彼の怒った顔と、彼の温かい胸の中と……。
熱を出しそのしんどさの中、無条件で守ってくれる家と家族に、私は忘れていた。
現実を。
学校に行けば必ず目に曝される現実なのに。
途端に、血の気が引く音が聞こえた気がした。

怖かった。怖かったんだ。
暗い廊下に、暗い教室に。
 あの時の冷たさを思い出して、体がぞくっと震えた。
もうすべてが終わりなんだと思った。
 だけど、彼に避けられている時が一番辛かった。
今までの事が無かった事になったみたいで、それが一番悲しかった。
彼に助けられて、彼の優しさに触れて、彼に包まれて、今までの苦しさに耐え切れず泣いた。言葉に出来ない感情に、整理のつかない感情に、今までそんなに泣いたことがないくらいに泣いていた。
彼の温かさに、堰を切ったように溢れてくる涙。
永遠にそこにいたいと祈りながら泣いていた。すがる様に、しがみつく様に。
他の誰でもなく、彼に。

そう思ったら、また熱が上がったような気がした。
顔が熱く、目も熱くなって、体もふらふらしてきた私は、足元おぼつかない足取りで家に入り、そのまま部屋に上がったんだ。
ベッドに横になって、ボーっとなってきた意識に誘われるように眠りに落ちた。
 そして、長い夢を見た。

 必死で救いを求めても目の前に居る人はことを成そうとすることをやめてくれようとはしなかった。
私が懇願することも無駄だと愁いを帯びた目をしていた。その目の理由も私には分からなくて、ただ悔しさと悲しみが込みあがってきていた。
そして、身を包んでいたのは恐怖。
 もうすべてを諦めなくてはいけない悲しみと望まない事態に震える体。
もう終わりなのだと思ったその時に現れた彼。
覆い乗っていた人を力づくでどかせた音と、そして、耳に聞こえた声に目を向けた。
「ふざけた事してんじゃねぇよ!!思いっきり嫌がってんだろーが!!」
初めて聞いた、彼の、怒りに満ちた声。
それに、抑揚の無い声で相手は言った。
「邪魔してんじゃねーよ」
「この……っ」
それで怒りのまま殴った瀧野くん。その力はすさまじく相手は軽く吹っ飛んでいた。
「ふざけんなっ!!……それに、球技大会の試合で余計な手出ししないって言っただろーが!!」
「あんなもん時効だろっ」
彼の台詞に言い放った相手は片岡君。
初めて見た、彼が本気で怒った姿。そのまま激しい怒りに片岡君の胸倉を掴んで彼は言った。
「近寄るな。もう二度とっ。金輪際!!」
これがドラマとかだったら、本当に夢だったら、助けられた私は彼に感極まって抱きつくんだろう。彼の名前を呼んで。だけど、現実、その時の私はそんな事できない。本当に出来なかった。
「お前にそんな事言う権利あんのかよ」
彼の台詞に、そう静かに反論した片岡君の台詞は、勝手に流れている噂の事を言っているのだと思った。
振られたお前が。
片岡君はそう声に出さずとも言っていたはずだ。
 でも、それは違う。
私は彼を振っていない。そういう仲でもない。周りが勝手に憶測で言っているだけ。
本当は、私が避けられていた。
……ううん、彼の傍に居て他の女子から目の敵にされるのに責任を感じて、ただ彼は距離を置いていた。私に、申し訳ないと。
私は、そんな事どうでもいい。そんな親切欲しくなかった。
瀧野くんの傍にいて被害を被ることがあっても、私はそんなものに屈しない。
一番に思うことはそれじゃないと思うから。
確かに最初は怖いと思っていた。だけど、今は違う。
その頃の私と、今の私は違う。彼への想いだって。
だから、瀧野くんが負い目を感じることは違う事だって言えるもの。

だから、だから、私のことは放っておいて。
誰も何も言わないで。私のこと、彼に言わないで。私に聞いてこないで。

 目の前に見える周りの人間に私は夢の中でそう叫んでいた。

 彼は助けてくれた。
全ての闇の底に堕ちそうになっていた私を救い上げてくれた。
ずっとずっと、襲ってきそうな闇からこの身を包んで守ってくれていた。
落ち着くまで守ってくれていた。最後まで傍に居てくれた。
 彼の温かくて優しい眼差し。逞しくて温かい胸と腕。
独りのときもずっと彼の傍に居たいと私は願っていたんだから。
 ようやっと涙が出なくなった私は彼にくっついて離れようとしなかった。
それでも彼は優しく傍にいてくれた。
そんな彼から、気持ちを離すことはできなくて、ずっと心の中で彼のことを想っていた。
彼への気持ちで溢れていた。自分の中に、こんなに熱い想いが存在するなんて思いもよらなかった。彼の温もりをずっと感じていたくて離したくなくて必死にしがみ付いていた。
もうこの手から零れていかないようにって。
 彼は何も話すことなく家まで送ってくれた。ただ、傍に居てくれた。
それだけの事が物凄く嬉しかった。
家の前についても、この腕を放したくなかった。ずっと傍にいてほしかった。
そんな私に、困ったように微笑む彼。
「体温めて、ゆっくり休んで、また学校で。だから、おやすみ」
声が出せない私は素直に頷いた。けれど、彼から目が離せなかった。
きっと、気持ちの全てが、顔に、目に、出ていたと思う。

彼が好き。
瀧野くんが好き。

その想いがその時は充満していた。
足を止めてこっちを振り向いた彼。そんな私に困ったように微笑した。
そして、彼の口がゆっくりと動いたのを見た。
大きくは無かったけど、どこか控えめな声だったけど、はっきりとした声で。
「……俺、春日が好きだよ。ずっと」
……私、口に出して言っていたんだろうか?
私の気持ちが違うとこから出てきたんだろうか?
でも、目に映って見えたのは、彼のはにかんだ笑顔。
胸がきゅんとする……。

 はっきりと見えていたはずの彼の顔がぼんやりと輪郭を失っていった。
そして、辺りの光とともに彼の顔とダブって見えた、もう一つの顔があった。
意識の目覚めと共にはっきりと見えてくるその顔に、ぼんやりと呟いていた。
「……なんだ、タカ、……」
「……。しんどそうだな、大丈夫か?」
「今、夢?」
「おい?大丈夫か?現実だぞ」
「……ほんと。ずっと寝てるから、わかんないや……」
静かに、私の額に手を置いたその感触は現実だった。
「……大分下がったって言うけど、十分熱いな」
「何が現実か、わかんない。半分、……都合のいい夢だった」
「残りは?」
「嫌な夢。もう、見たくない」
「……なんか現実にあったのか?」
「……もう、あんな……」
何かを思いながら、それだけを喋っただけで疲れた私は再び眠りに落ちていた。
「……みお坊?……また寝たのか」
そんなタカの声が遠くに聞こえた気がした。

もう、あんな目に遭いたくない。
もう、あんな想いしたくない。
もう、あんな自分を彼に見せたくない。

意識が夢の中へと引き込まれても、ずっと同じ思いを巡らせていた。
眠っていても起きていても疲労は増すばかり。
きっと熱を出すのは精神的なもので、眠りに落ちるのも逃避からなのだろう。
それでも、眠るたびに夢に見るのは同じことだった。
何度も何度もあの恐怖を味わう。忘れてしまいたいのに。
だけど、忘れさせてはくれない。心も体も。
……そして、最後に思い出すのは、彼だった。
彼がまっすぐに注いでくれた眼差し。優しさ、温もり。
それで生き返ったような気持ちになる。

 ……だから、逃げちゃいけない。
彼のことを好きな自分の為にも。私を助けてくれた彼の為にも。
恐怖で逃げたくなる気持ちと必死に戦ってた。
そして、次に目を覚ましたのは土曜日だった。
その日はずっと同じ事を考えていた。月曜日に起こった出来事。思い出す度に胸が張り裂けそうに痛んだ。だけど、彼が助けに来てくれたことを思い出すと不思議と気持ちを落ち着かせることができた。彼に包まれて気がすむまで泣いて。
どれだけ私は彼に救われてきただろう。
それを思うと胸は熱くなった。
彼のことを思い出すだけでこんなにも強くなれるのに。
「……ちゃんと、学校行かなくちゃ」
一人でそう呟いていた。

 突然避けられて困惑した。それよりも一番にショックだった。
自分が好んで彼に迷惑をかけた訳じゃなかったし、自分の気持ちが何かで彼に伝わってそれで迷惑だと思われたからという訳でもなかった。
二人の間には、もとよりそんなものはなかったと思うから。
周りの好奇の目と無責任な憶測による噂ばかりが広まっていた。
それらが嫌で意固地として表に出さそうとしなかったせいもある。
だから、根も葉もない噂が広がっていたんだろう。
私の本当の気持ちは、ここにしっかりとあるのに。
 彼が私を好きで私が彼をふった、なんてありえない。
本当は私が彼を好きなのだから。彼の傍に居られるだけで、それだけで良かったのだから。
 ……彼は、いつも、どんな時も優しい。
避けられた理由をいさちゃんに聞いてもぴんとこなかった。だけど、危ないところを助けてくれた彼の言葉と行動に、私にずっとついていてくれた彼を見て、ようやっと解った。彼は私のために距離を置いていてくれたんだって。本当に私の為だったんだって。
彼の優しさ、気づいていなかった。ばかだ、私。彼の何を見ていたんだろう。
 ……あの優しい笑顔をした彼の顔が、悲しみに表情を揺らしたものに変わるのを見たくなかった。見たくないという恐怖だけで視野を狭めていたような気がする。

 彼のことを思うたびに、こんなにも体には熱く脈が打っていることを確認できるのに。

ベッドの上で座りながら、いろんな事を考えていた。
動かすにはまだしんどい体。何かを深く考えるには辛い状態だったけど、それでも必死に考えていた。
 物音しない静かな部屋の戸が急に開けられ、妹が顔を出した。
「お姉ちゃん、電話だよ。生徒会の溝口君」
それを耳にしただけで、心臓が嫌な音をたてた。そして、指先に緊張が走る。
「うん、分かった」
そうして、脳裏には最後に見た亮太の顔が浮かんだ。
きっとあの時の顔は忘れられない。
怒ったような口調なのに、顔は一際辛そうな表情だった。辛そうだった亮太の様子。
言葉は悪いけど、その時は頭にきたり傷ついたりするんだけど、後になって知るんだ。
優しさの裏返し。それは不器用な優しさなんだけど、今まで幾度と救われたこともあった。多分、この事件で、あいつはあいつなりに心配しているはずだから。
 私は勇気を奮い立たせて電話に出た。
「もしもし?」
「よぉ、えれー長い風邪ひいてんな。生きてんのか?」
「……生きてるよ」
いつもを装った憎まれ口に、いつもと同じようにむっとした言い方で答えた。
話すのは普段のこと。生徒会での仕事はどう、とか、順調だとか。
「お前じゃないと手に負えないのは放置してあるから。まぁ頑張ってくれや」
「ちょっとー、それをやってくれるのが優しさってもんじゃないの?」
「……とてもじゃないけど、無理。そのほかの仕事で精一杯だよ。皆お前の登場を待ちわびてるよ」
「さいですかー」
「で、どうなんだよ、容態のほうは」
「ああ、熱が中々下がらなくて。今日ようやっと37度台になったよ」
「……大変、だったな」
その言葉の意味はそれだけじゃないのが解っていた。だけど、私もなんて言ったらいいのか分からなかったから。
「……うん」
言葉にならなくても、映像として頭の中を色々なものが過ぎっていた。
何をどう言葉にして言ったらよいのか考えあぐねてしまう。
「……大丈夫、……じゃ、ないよな。悪い」
きっと、大丈夫か?って言おうとしたんだろう。
「ううん。……あの時、さ、……3人が、危ないとこを助けてくれたけど、偶然?」
アノ事件の話を私からして、それに息を詰まらせたのがわかった。だけど、私の心臓も緊張している。自分の指先に目を向けてみれば、震えているのが分かる。手に汗だってかいている。これは熱のせいじゃない。
本当はこの事を口に出すのだって嫌だ。勝手に恐怖心が出てくる。
……だけど、これを乗り越えなくては。
今臆病になってこの話題を避けていたら、この後もずっと逃げ回るだろうから。
受話器を持った手にぎゅっと力を入れた頃、亮太が話し出していた。
「印刷室に様子を見に行ってみたら、散らかった様子で姿が見えないからそこらへん歩いてたんだ。そして谷折と瀧野に偶然会ってな。見てないって言うからいっぺん戻ろうとして歩いてたら、……瀧野が何か声が聞こえた気がするって言って、念の為確かめに行ったんだよ。瀧野だけな。……辺りは静かなままでさ、谷折と何もないんじゃないかって話してたところに、瀧野の怒鳴り声が聞こえて急いで向かったんだよ」
「そ、なんだ」
瀧野くんが。
心の中でそう呟いていた。そして、広がってくる温かい思いがあった。
「……悪かったな。無神経なこと言って。お前が被害者で一番辛いのにな。あの部屋を一瞬目にしただけで何があったかは簡単に予想がついて、第3者なのに、俺も、なんか傷ついた気分になってな」
そう言われて、あの時の亮太の顔が浮かんだ。辛そうだったあの時の顔。
「……ううん。亮太ずっと、一人にならないように実は気を使ってくれていたでしょ。特にここんとこは殊更」
「そうか……。噂が噂だけに変な奴が出てくるかなとは思っていたからさ」
「……噂?」
噂。私にとっては嫌なものとしか感じないそれ。
「前は、瀧野と出来てるっていう噂のご利益もあって、春日の周りの、馬鹿な男は距離を保ってたんだ。それが、瀧野が振られたっていう話が出て、男どもの間がざわつき始めた。なんとなくこれはやばいって思ってた」
「なんで、いつもそういう噂なの?なんかここのところ、瀧野くんとの事ばかりみたいだけど……。前はもっとこう根も葉もなくていろんな人と好き勝手な噂だったのに」
「……まぁ、噂は時として現実よりも事実に近いときがあるからな。現に、委員会絡みで一番近くに居るのは誰の目から見ても瀧野だろう。お前からしたらただの噂、もしくは嫌なやっかみぐらいにしか思えないだろうけど。けど、噂って時として強い威力を発揮するもんなんだよ。……瀧野も、そのご利益が分かっているから噂について否定も肯定もしなかったんだろうよ。あいつが事の真相を聞かれないはずは無いだろうからな。多分。前に何度か、春日との事を訊ねられても、しれっとした顔でいたのを見た事がある」
「……」
まさか。否定する自分が居た。だけど、信じられないという思いでそれを受け入れようとする自分も居た。
……もしかして、ずっと続いていた?彼の優しさ。私が気づいていなかった分の、今までの優しさ。
でも、松内さんと噂になってる時は明らかに嫌な顔をしていたし、私が瀧野くんといてもあんなふうに冷やかされた事もなかったのに。
そして、思い出したこと。球技大会のお昼、谷折君が言っていたこと。
「事の真相を聞かれても、あいつは何も答えないしね」
そして、続いてはっと思い出したことをそのまま訊いていた。
「球技大会っ。瀧野くんと片岡君がなんか話してた。何が二人の間にあったの?」
そうだ。球技大会当日、瀧野くんのクラスと片岡君のクラスの対抗戦は異様な空気だった。だけど、彼は訊ねても話を流して答えてくれなかった。周りも何も言わない。冷やかしみたいなものも言ってこなかった。だから、何があったのかも分からない。予想もつかない。いつも、いつも私のいない所で私の話が出てるみたいな。
今、受話器の向こうで亮太が息を止めたのが分かった。
そして、球技大会の時の亮太の様子が思い出された。

「ねぇねぇあそこのソフトやけに盛況」
居心地悪く感じて慌てて本部席に行った私は気持ちを誤魔化す様に亮太にそう声を掛けたんだ。
「んあ?……ああ、あそこな」
そう言った亮太。明らかにあれは何かを知っていた。表情を変える事無く淡々と言ったあの様子がそうだと物語っている。その後にだって。
「まぁ、試合前に何か揉めてたみたいだからなぁ」
「……。それって4組と7組の?」
確認して聞いた私に素知らぬ顔をして「あー、そこらへんのクラスか」って。
知っている事が見え見えのそれに追究しても言ってくれなかった。
「……知らない方がいいってこともあるだろ」
不機嫌になった私だったのに、亮太は絶対言わなかった。顔すら向けなくて言えない何かがあるようなそんな感じだった。その時の事、覚えてる。

「……教えてよ、亮太」
その言葉に強い意志がこもっていたのを感じ取ったのだと思う。普段、余計なことは話さない亮太が口を開いた。
「球技大会の、ソフトボールの7組と4組の試合前の時だよ。丁度俺も近くを通りかかったから」
「……何か、賭けかなんかしてたんでしょ?誰も何も言わなかったから、何も知らないんだけど」
「まぁ、な。4組と7組が顔を合わせた時、軽く揉めてたんだよ。春日の事でな。お前、自分の事、全く把握してないけどな、春日と噂になってる瀧野には、そりゃあやっかみなんて一つや二つじゃないんだぞ?」
「……え?」
「その時もそうだったんだよ。でも、瀧野は最初から相手になんかしてなかった。いつものあいつはそうだよ。普段、何もなかったような顔して何考えてんだか分からないタイプだ。俺からすればな。その冷静沈着さが片岡には鼻にかかるんだろうな。実際、瀧野は自分の事で何を言われても動じなかった。それが春日の話になったら途端に口を開く」
「わ、わたし?」
「春日を本気で落としにかかるって言った片岡に瀧野は反論してた。あんな姿を見せた瀧野も、意外だったけどな。力づくでと言った片岡を阻止するのに、結果として賭けになったんだよ。4組、瀧野が勝てば、余計な手出しをしないってな。7組が勝てば、瀧野が片岡に協力する。瀧野が気に入るような行動でってな。多分それは、変なことをさせない為に監視下に置くという瀧野の計算が組まれていたと思う。そういう事も頭に入れて話の流れを持っていっていた筈だ。本人に聞いた訳じゃないから断定はできないけどな。お前に話が行かなかったのだって、瀧野の算段だろう。春日はそういう賭けが嫌いだって言ったら周りも一発だからな。わざわざ憧れの的の生徒会の春日さんに嫌われる様な事は普通の男子生徒だったらしない」
「……」
亮太が話する瀧野くんは、私の知らない姿だった。そんな姿前にしたこと無い。いつだって、彼は穏やかで、表情も笑顔も優しくて……。
私が知っている彼は氷山の一角の、一部分でしかないんだって事分かってる。だけど、そう考えずにはいられない。
そして、周りの、私という存在の認識も信じられなかった。
「なぁ、片岡に反論した瀧野が何て言ったか分かるか?」
「え?知らない……。分かんないよ」
「……俺がどんな立場でも、ふざけたことをしてもらう訳にはいかない。春日も俺もお互いの親には認識されてるからな。俺とお前とじゃ端はなから重さが違うんだよってな」
言葉が出なかった。あまりの、頭に無い台詞にびっくりして何も考えられなかった。
「片岡が言うような、そんな簡単な女じゃないって言ってたな。そういう台詞を正面きって言えるあいつはつわものだな」
「つ、つわもの……って」
多分、今赤面してる。受話器を持つ手が震えてる。さっきとは違う意味で。
「春日と瀧野の間に何があるのかは知らないし、全く考えもつかないけど、……けど、明らかにあいつだけは違う位置にいるよな。お前本人は気づいているのかどうかは知らないが」
「……」
何も言えなかった。亮太になんて言ったらいいのか分からなかった。だけど……。
「全部偶然だったんだよ、最初から。怖い目に遭ったとき、通りかかった瀧野くんが助けてくれた。3回、今回で4回目。お互い、そういう範囲に入ってなかったはずだよ。普通に喋れる様になるまでは、私を相手にする時すんごく気を使って話してくれてるって分かってたから」
自分でも何を言いたいのか分からない。何を亮太に言おうとしているのかも。
だけど、涙だけが浮かんできていた。それは悲しい気持ちからではないとだけ分かるのだけど。
「多分、あいつに敵う奴はいないんじゃないか。見た目と違って手強そうだしな。俺も無理。今回で片岡の奴もこっぴどく分かっただろう。それに、……谷折とバスケ部顧問にだしてやったからな。無理強いしようとした女子の名前は言ってない。とりあえず、部活時間は自宅謹慎。それ以上の罰を望むならお前が前に出ないといけない。どうする?」
「ううん、もう関わりたくないから」
「分かった。今回のこと、誰にも言ってないし、言わないからな。……色々と辛いと思うが頑張れ。……出来る事は何でもしてやるから。お前も、一人で堪えずに言えよ。俺、気きかないからさ……」
「……うん、ありがと……」
胸が痛かった。何でだか分からない。だけど、亮太の気持ちが伝わってきて本当に胸が痛かった。いつもはこんな風に言わない奴なのに。
「……じゃ、学校でな」
「うん。……亮太、ごめん」
やっとの思いで言った言葉だった。受話器の向こうから亮太の返答はなくそのまま静かに通話が切れる音がした。
今ここにあるのは静寂だった。
だけど、ちっともそれは気にならない。心臓が脈打っている音がしているから。
 私って、ほんと、気づくのが遅いんだ。大事なことは全部。
こんな自分に嫌気がさして、また、涙が零れた。


 その後、また軽く熱を出して、日曜日は殆ど横になっていた。
月曜日、朝熱を計ったら38度に近い微熱だったから、母親から休めという命が下った。
だけど、天井を見上げてボーっとしていても、すぐ頭は同じ事を考えていた。そして決まって最後は彼の顔ばかりが浮かんでいた。

 本当は何度も「もしかして?」と感じたことがあった。だけど、それは量にしてみれば少量たるもの。元々、そんな事は有り得ないという頭だったから、片隅にも残らず心の中から削除していたんだ。
 だって、まさか、瀧野君がそんな……。
松内さんが私を目の敵にするのも、今一番傍にいるから。ただ、それだけだと、思ってた。瀧野くんが優しいのには認識あった。だけど、別に自分だけが特別だなんてこと思いもしなかった。他の子が、このポジションだったら、今の私と同じように瀧野くんは優しいと、思っていたから。
家が割りと近くて、親同士親しくて、委員会で顔合わすし、帰りの時間が遅くなって一緒になれば送ってくれるとか……。
……手、つないだりとか?
それを思い出して自分で質問して「ぎゃー」と心の中で声を上げてしまった。
今まで深くを考えなかったこと。
そうだ、前聞かれたことあった……。
「……バイト先で、気になる人、とか、いる?じゃあ、学校でとかは?」
うわー!うわーうわー!!
ぱふ……、と顔を布団の中に埋めた。もうそれ以上何も考えられなくなって沈黙。
もしかしたら、熱が上がったかもしれない。
 ……ああ、何やってんだろう、私。

 火曜日にはかろうじて微熱くらいになっていた。
母親はもう一日休んだらって言ったんだけど、もう1週間も休んでる。いい加減に行かないと授業についていけなくなる。生徒会の仕事もきっとあるはずだし、皆心配してる。
学校に行く事を考えたら、心臓がドキドキと言って痛い位だった。重いほどの緊張に押し潰されそうになってる。片岡君に会うのが怖い。会いたくない。本当は片岡君がいる所、会いそうな場所には行きたくない。怖い。
だけど、そうしてしまったら学校に行けなくなってしまう。
家を出る時、多分すごい顔をしていたと思う。私自身決死の想いだったから。
母親はただ心配な顔して見送ってくれていた。
 一週間の欠席はかなり辛い。体力的にも辛くて、カバンを持っているのも辛かった。駅までの距離、いつもは何も思わずに歩き慣れている距離なのに、今はすごく遠く感じてしんどかった。ホームに上がったら、全てを投げ出してしまいたい気持ちでベンチに座った。
学校までの距離がひどく遠く感じてしんどかったんだ。
しんどくてため息を吐きながら、ぼーっとしていた。
「おはよう。熱の方はもういいの?」
聞こえてきた声にその時は普通に返せていたんだ。
「あ、おはよう。昨日やっと平熱までさがったから」
「それは良かった」
そう言った彼の笑顔に、心臓は高鳴った。思わずそれにどうしてよいか分からず目を伏せてしまった。ドキドキと言い続けている心臓を感じながら、言葉を続けた。
「あの、ノート、……ありがとう。あと、差し入れとかも」
「ううん、そんな事くらいしかしてあげられなくて」
「いえ、充分、助かってマス……」
彼のやさしい声に、やさしい言葉に、体が萎縮されていくような感じになってた。それと同時に彼の顔を見れなくなっていて、そう返した台詞は私にとっていっぱいいっぱいだったんだ。
 ホームに電車が到着して立ち上がったんだけど、体はふらついた。そうしたら彼の手がすっと腰に伸びてきて、心臓だけが反応を示した。
「大丈夫?」
「あ、うん」
心臓がバクバク言ってる。顔がどうしても上げられなかった。
彼にしては強引にだったけど、カバンを持ってくれた。
お礼を言うのも精一杯。彼に勧められるまま空いている席に座った。
ずっと俯きっ放しの私。彼の存在を目の前に感じて、心臓はずっと変わらず音を立てている。
「……」
二人の間は静かなままなのを感じて、そーっと前に立っている彼に目を向けてみた。つり革を持って外の景色を眺める彼の顔に、胸がときめくのを感じた。
今までと違う光景に見えた。彼がこっちを向くのを感じて慌てて顔を伏せる。
心臓はどきどきしてる。息を潜めるようにして私は緊張の中にいた。
 彼の視線がこちらを向いていない時は、堪らず彼を見つめていた。それは引き寄せられるようにで止められなかった。そのくせ、彼と目が合いそうになるとすぐ伏せてしまうのに。
彼のことを意識しすぎてどうしてよいのか分からない。いつもの私はどうしていたのか分からなくなってた。彼のしぐさの一つ一つに私は過敏に反応していた。自分でさえどうすればいつもどおりに出来るのか分からなくて、心臓が騒ぐ緊張の中で頭もパンク状態だった。

さすがに1週間ぶりに登校すると、クラスの友人たちは周りによってきて色々と言葉を掛けてくれた。それらが引いた頃昼休みにナミちゃんが来てくれて話をしたんだ。
「これ、昨日のノート。昨日は放課後までに準備できなかったから」
「あ、ううん。ありがとう、助かるよ」
「今までの分……」
「あ、うん。ちゃんと貰ったよ。ほんとありがとね」
「ううん。……最初の日に瀧野君に頼まれて。まぁ頼まれてなくてもしてたと思うけど。あ、違うか。ノートやプリントあったら届けるから渡してって言われたんだ」
「え?」
「家、近いんだってね」
「あ、まぁ、中学同じだし、ね。うん」
「学校出てきたら助けてやってって言ってたけど、二人って……」
そんな事を聞いた瞬間、心臓が音を立てて体が一瞬硬直した。その途端手に持っていた紙がばらばらと落ちてしまった。
「あわわわわ」
慌てて身を屈めて拾う私。
「え、と、ちょっと図書室行ってくるね?借りっ放しの本返さなくちゃいけないし」
と慌てて口にしてその場から逃げた私だった。

彼の名前を聞いただけでこんな風になってしまう。
緊張して指先が震えてきてしまう。顔だってしんどいはずなのに赤くなってくるし。
一体、平生な私はどこにいってしまったんだろう?
図書室にたどり着いて、ほっと安心の息を吐いた。手に持っていた本を返却して、適当に本を探していた。
何となく題名を見て惹かれた本があって、必死に手を伸ばしていたんだ。
手を伸ばせば届くかなと思って。だけど、必死につま先立ちしても届きそうに無かった。
やっぱり駄目か、なんて思った時、入ってきていた光が翳ってすっと腕が伸びてきたんだ。取ろうとしていた本がいとも簡単に届けられた。
「はい」
彼の声と共に目の前に差し出された本を、緊張で固まったままの私はどうにか手を動かし受け取った。
すぐ真後ろにいる彼。どうにかすれば、彼の胸の中に隠れてしまう位置。
胸から聞こえる激しい動悸と、緊張に固まる体。勝手に熱くなる顔。
「……あ、りがと……」
それでもどうにか言ったお礼。
でも緊張ではっきりと言えなかった。

ああ、どうしよう。彼の方を見れないよ。
おかしいよ、どうしたらいいだろう……。

彼の優しさの全てに気づいたとき、私は過剰な意識に全てを奪われていた。

2007.2.12


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