時の雫-紡がれていく想い

零度の距離 -2


§10

 廊下には人っ子一人見当たらなかった。
放課後の学校は本当に静かだった。
教員室よりも手前にあるコピー室に入ると、冷気が身を包む。その寒さにぶるっと体が震えた。いつもより寒気を感じるのは私だけだろうか。
ただ、機械が動いてないから?
「うー寒い」
寒気を感じだるい体に、まっすぐ下校しなかったことを少し後悔した。
多分、熱まではいかなくても微熱くらいはあるかもしれない。
目が熱く感じていたから。
 機械が立ち上がるのを待ってから、原稿をセットし部数を入力してスタートボタンを押した。
そして、また彼のことを考えていて、自然と足はコピー室から出た。
廊下の突き当たりにある窓の所まで向かって、鍵を開けて外の景色に顔を向けた。
 薄暗いこの時間、テニスコートにライトがあてられているのを見て、まだ練習をしているのだと分かる。
冷たい風が顔にぶつかっていく。本当は震えだしたいくらい寒さを感じているはずなのに、彼の事を思っているとそれすら吹き飛んでいってしまうくらいだった。
だからといって、ここからは彼の姿は見えない。
……そんなこと、分かっているのに。
「……ふう。何やってんだろ、私……」
ばかげてる。もう一人の自分がそう言う。
こんな自分にどうしようもない思いを感じながら窓を閉めた。
だけど、どうしても気になってしまう。見えないと分かっていても、窓の向こうにいるであろう彼が。
そしてさっきよりも重くなった体に気を抜けば意識が離れそうな感覚に、必死になって足を動かしてコピー室に戻った。
印刷はまだ半分も済んでいなかった。他に何もすることはない。だけど、時間はまだある。暇つぶしに刷り上った1枚を取って読み直した。
けれど、そんな些細な暇潰しはすぐに済んでしまう。
そして、また訪れる静けさがあった。耳に聞こえてくるのはコピーを繰り返す機械の音だけだった。冷たさを感じるその音にさえも何故だか不安を感じた。
きっとそれはしんどさによるものだと思いながら。

 ……これが終わったら家に帰ろう。暖かいものでも飲んで今日は早く寝よう。

そんな事を思っていたとき、背後から急に聞こえてきた声があった。
誰かがいるなんて事にも全く気づいていなかった。
「春日さんひとり?」
だから、それに心底驚いた。情けないくらいにびくっとなった。
だけど、必死に笑顔を浮かべて言った。
「あ、うん。片岡君、どうしたの?」
「コピー機の音が聞こえたから、覗いてみただけなんだ。そしたら、春日さんだったから」
「そ、なんだ。バスケ部もこんな時間まで練習なんだ」
まだ驚きに心臓がドキドキ言っていた。
「うん、まぁね」
いつもとは違う片岡君の雰囲気に疑問を感じたけど、今の私には感じるだけで考えることはできなかった。強く感じるのはしんどい体だけ。
片岡君との間にある距離に嫌なものを感じながら、漂う沈黙に不安を感じた。
だけど、どうすればよいのか全く思いつかない。
しんどい体と、重い心と、出来れば遠くへやってしまいたい嫌な空気と、不安な沈黙。
「……」
心に汗が浮かんでいるのを感じてしまうくらいの何かをその時感じていた。

 だけど、私の意識はそこに聞こえてきた声に向かった。
にぎやかな足音。多分、男子生徒二人の。かかとを潰したまま履いている上履きの、引きずるような音に、それより後方から急いでくる生徒の足音。静かな廊下だからよく響いている。
「おい、谷折、部誌忘れてる!」
すぐ分かった。彼の声。後ろから追いかけてきたのは瀧野くん。
それを知っただけで、彼の姿が目に浮かんだ。途端に切なくなった。
軽口を掛け合いながら二人は教員室へ入っていた。
不思議と、目に見えなくても映像が広がっていくように分かる。

教員室の扉が閉まる音を聞いて、はっと現実に戻った感じになった。
私の目の前にいるのは片岡君だった。
片岡君は何かを探るような目つきで私を見ている。
きっと、今意識が向こうに飛んでいた間もずっと見ていたんだろう。そう思うと、心臓がぎくりと鳴った。
嫌な空気を感じたままの私は、何を言おうか、どうしたらこの場を回避できるのか必死で探っていた。だけど、感じるのは自分の重い体。しんどい心。そして、嫌な予感だった。
「……噂、ただの噂かとも思ったけど、事実、か」
ぽつりと言ったそれに心に何かが翳ったような気がした。
「う、わさ?」
口がうまく動かなかった。そんな私に片岡君はにこりと笑顔を見せた。
初めて見た、隙のない笑顔……。
嫌な感じが私の肌を覆っていくように広がっていく。
うまく言葉に出来ないそれに頭もうまく働かない。何せ、体が凄くだるくて重く感じていた。目も熱くて気を抜けばぞくぞくと寒気が襲ってきそうだった。
「噂って、なに?」
沈黙が怖くて再度そう訊ねていた。
片岡君は笑顔のまま口を開いた。
「うん?春日さんにとってはいつもの事で大した事でもないと思うよ?」
「な、にが?」
怖いのに。
今この場所で片岡君とこうして居る事が凄く怖いと感じるのに、聞かずにはいられなかった。周りが、私の居る前ではあえて触れない話題……。
「春日さん、いろんな奴ふってるでしょ?その話だよ」
「え?」
「瀧野みたいな奴でも振られるんだって俺の周りは話してたけどね。事実、それであいつを避けてるんでしょ。さすがにあいつには気を使ってるみたいだけど」
言っている意味が分からなかった。正直困惑した。
心臓だけがドキドキ言っている。でもそれはストレスを感じる嫌な音だった。
「な……、そんな、フッたなんて……。そんなこと、だれが……」
まさか髪を切ったことでそうなる訳でもないと思うのに、まさかとも思う心があった。彼に避けられていることは、周りから見たら、私が避けてるように見えるって。
そうじゃない。……だけど、まさか……。今、彼はそう思ってる?
私がずっとこんなだから?
言いようのない不安が体を駆け巡っていく。自分がちゃんと立っているのかも分からなかった。地面がぐらぐら揺れているようなそんな気がした。
「まぁ、俺にとったらそんな話どうでもいいんだけどね。……大事なのは、目の前に春日さんがいるって言うことと、……」
すごく嫌だった。それが何かとは説明できないけど、蛇に睨まれた蛙の様に嫌な圧迫感があった。
 丁度その時、印刷機の音が鳴り止んだ。全て刷り上ったみたいだった。
「あ、あの、私まだ仕事残ってるから。他の人も残ってるし、戻らなきゃ」
そう言って背中を見せて機械に寄った。
それでも背中から声が飛んでくる。
「俺と付き合いなよ」
「……今もそういうつもり、ないから」
語尾は掠れそうになった。自由を奪われていくような恐ろしさを背後から感じた。
訳の分からない恐怖だった。
この書類をこの腕に抱えて、早くこの場から離れよう。そう思った。
焦る気持ちを堪えて、プリントに手を伸ばす。指先が書類に触れた時、一変した。
背後から、胸の中に閉じ込めるように両腕を伸ばしてきた片岡君に、瞬時に嫌悪感を感じて感情的に腕を払いのけてそこから離れた。
「やめて!」
その表紙に数枚の書類が宙を舞いひらひらと落ちていった。
その時見た片岡君の顔に笑顔はなかった。

書類もそのままにコピー室を慌てて出たのに、すぐ片岡君の腕に取り押さえられた。
「やっ、やめっ……」
片手で口を塞がれ、片腕で簡単に抱えられ、そこから違う場所へと連れて行かれた。
どんなに足掻こうとしても悲しいくらいにびくともしない。襲ってくるのは言いようのない恐怖ばかりでもうパニックに陥っていた。
苦しかった口元から手が外されたと思ったら、教室に連れ込まれていた。
明かりはついていなくて、一瞬何も見えなかった。
その時、力が緩んだのを感じて無理矢理にでも片岡君から離れた。
あまりの事に心臓がドキドキと大きく鳴り響いている。それは痛いくらいだった。
「どうしてそんなに頑なに拒否するの?」
それは静かな声にも聞こえた。
心臓の音ばかりうるさくて、喉の奥が突っ掛かった様に声が出てこない。
必死の思いで首を横に振る。
だけど、片岡君の様子は何一つとして変わらなかった。
「物は試しって言うしさ。もっと気楽に考えてよ」
それに横を振るだけの私。それに片岡君は苦笑した。
「あいつに気兼ねでもしてんの?それとも振って後悔してるとか?」
「……ちが……、……たし、振ってなんか……っ」
悔しくて悲しくて涙が出そうだった。手に力は入っているのに、体は固まって動かせないでいた。
「……」
心に恐ろしく感じた、沈黙がそこにはあった。
怯えを表に出し切ってしまいたいのを必死で堪えて、片岡君の顔を見た。
じっと私を見つめるその顔が怖かった。
「普段、強がって見せるのに、違うところで弱い姿見せられると、男ってどうしようもなくなるんだよね」
何を言っているのか分からなかった。
でも、自分の身に襲い掛かるであろう恐怖に、自然と足は後ずさっていた。
「そ、そこ、ど、いて」
搾り出すように必死でそう言ったのに。
「無理だよ。ここまできて」
「あ、たし、好きな人いる、から」
「……相性ってあるでしょ。体にもあるって知ってた?それってしてみないと分からないっていうのも」
血の気が引いた気がした。足ががくがく言って崩れそうだった。

私の方へ足を進めたのを見て、適当にあった机や椅子を無理矢理押しやってそこから逃げようとした。だけど、そんな事は片岡君にとって造作も無い事で、どんなにもがいても逃げようとしても捕まえられた。
それでも必死に足掻いていたのに、気がつけば、体が感じた痛い衝撃と冷たい床に襲われていて、両手を捕まれ組み敷かれていた。
とてつもなく襲い掛かる恐怖に気がおかしくなってしまいそうだった。
……でも、こんな状況なのに、浮かぶのは彼の顔だった。
そうしたら、胸が苦しいくらいの叫び声をあげた。
「……やめて、離して。やめて、助けてっ」
「……無駄だよ」
そう言って、ネクタイを緩められていた。
「……や、だ。やめて」
そう言っているのに、ボタンが開けられてく。
「今度は又違う噂が広がるよ。……春日さんだって、既成事実があれば、付き合わざるを得ないだろ?」
頭に浮かぶのは彼の顔なのに。
いつも、助けてくれていた彼がここに現れる訳は無くて。
だけど、口に出さずにはいられなかった。私は彼に向かって言ってた。
「助けて……。いやだ、やだよ、こんなの、やだよ」
震えてた。体も声も。心は彼にしか向かないのに。
彼じゃないと駄目なのにって。
もう怖くて怖くて、全部がぐるぐる回っていて、気持ち悪くて。
体も重い。手を動かすのだってひどくしんどいと感じるほどだった。
もう、もう、どうせなら死んでしまいたい。
「助けて……」
「……だから無駄だって」
片岡君の哀れみを含んだような声。顔は首元に埋められて、手はスカートの中に。
走りあがるような寒気と恐怖すら感じる感触に声を上げていた。
「……やだ、助けて、……やめっ、やめて、……いやあ!!」
自分のあげた声なのに痛かった。喉も、心も。

その後、目を閉じていても光が一斉に入ってきたのが分かった。
そして、急にふっと軽くなった体に、凄い音が聞こえた。

私の思考能力は止まったままだった。耳に入ってくる音も判別できなかった。
「ふざけた事してんじゃねぇよ!!思いっきり嫌がってんだろーが!!」
耳に入ってきた怒声に目を開け、片岡君の姿が無いことを知る。
そして、聞こえた鈍い音に震える体を震える腕で起こした。
そして見えたのは、衝撃に床に放り出された片岡君だった。
「ふざけんなっ!!……それに、球技大会の試合で余計な手出ししないって言っただろーが!!」
「あんなもん時効だろっ」
そして、その前にいたのは彼だった。
それが夢なのか現実なのかさえ分からない。
今こうしているのも夢だったのかと思うくらい現実味が無い。
だけど、目に映ったのは見たことの無い彼。
激しい怒りに片岡君の胸倉を掴んで引き上げた。
「近寄るな。もう二度とっ。金輪際!!」
「お前にそんな事言う権利あんのかよ」
その後に聞こえた殴る音に思わず目を閉じてしまう。すぐ目を開けて見れば、又腕を振り上げようとする彼の姿。それに危機感を感じて声を上げた。
「だ、……瀧野くん、ダメっ」
それ以上殴ったら大変なことになる!瀧野くんが!
震える腕に必死で力を入れて上半身を起こした。

 その後すぐ駆け込んできた二人がいた。亮太と谷折君だった。
瀧野くんを止めている映像が私の目に映っていた。
「春日さんが怯えてるから」
突如として言われたその台詞が耳に届いた。それでこっちを見た彼。音も無く言葉無く視線が交差したのを感じた。
まるで、そこだけ時が止まったような、錯覚。
だけど、ガラスが割れて落ちていくように、目の前に現実が広がった。
「また、無防備でいたんだろ。以前何度と注意してやっただろ」
イライラした感情を含んだ、責める声。
泣きたくなってとっさに口にする。
「ちがっ……」
だけど、最後までそれは言えなかった。瀧野くんと谷折君の視線の先が、自分の胸元だというのが分かってギクッと心臓が強張った。
開けられたままの、胸元。たとえそれが拒否したものだとしても。
慌ててそれを隠すようにカッターシャツを握った。
だけど、重く気まずい沈黙が目の前を襲う。なんとも言えない険悪なムード。

見られたくない。こんなとこ。
誰にも。亮太にも、瀧野くんにも。
……最悪だ。
もういられない。前のように、あの楽しかった時間は戻ってこない。
胸が痛い。体中震えてた。喉の奥は焼かれたように熱くて声を出せなかった。
もう、いられない。

彼らの視線が痛くて今まで体を動かせなかったのが信じられないくらいに、そこから走り出していた。
 他に生徒がいない廊下を一人駆けていった。
走りながら、感情が溢れ出して、それに比例して涙がぼろぼろ流れてた。
頭に浮かぶのは彼の顔。信じられないものでも見たという、彼の表情。
 もうどん底だった。目の前の視界は真っ暗だった。
自分が今どこを走っているのかも判別できなかった。
気がつけば生徒会室にたどり着いてドアを開けていた。目に映った見慣れた部屋。自分のカバンを手にとってそこを出る。
もしかしたら、もうここに戻ってこれないかもしれない。
そんな事を疲れた体で思いながらここを出た。
出て、廊下を数歩進んだところで、激しい吐き気に襲われた。慌てて奥にあるお手洗いに走った。胃の中は空っぽ。何かが出てくる訳じゃなく……。
体に残る嫌な感触も全部吐き出してしまいたかった。
全てを白紙に戻してしまいたかった。
「……う、うう……」
出てくるのは涙ばかり。本当は声を出して泣きたいのに、それも出来ない。
もう言葉になんて出来ない感情が体中を渦巻いている。自分でも訳が分からない。
体に、肩に、手に、顎に力を入れて、泣きたい気持ちを無理矢理押さえ込んだ。
どうにか落ち着かせて、帰る為に水道水で顔を洗った。
喉が引っ付くような痛みに襲われて咳が出た。だけど、いくら咳を出してもそれは楽にならず苦しみは増すばかりだった。
目に涙が浮かぶくらいにそれは辛かった。でもどうにか押し止めて、自分が帰れる場所に向かおうと足をのろのろと動かした。

重い体。だるくて重い足。もうこのまま足を止めて横になって目を閉じてしまいたい。
頭も、痛みを帯びて意識がはっきりとしない。目も熱くて、あちこち痛かった。
手に持ったカバンも凄く重たく感じられた。

 顔を上げる余力も無くて、廊下をぼんやり見つめたまま歩いていたら、ぼんやりと誰かの足が見えた。
自分を見ている誰かの足。
 もう何も考えたくなかった。
なのに、それは静かなこの場にはっきりと聞こえた。
「……怖かっただろ」
それに自然と手に力が入る。どうにか堪えて堪えて、やっとの思いで感情を押さえ込んだのに。
……なのに。

悪いのは誰?私?私なの?
全部私が悪いの?付け入れる隙を与えた、私が悪いの?

「俺、殴らずにはいられなくて、それも怖かったろ? ごめん」
それにはっとした。私の前にいる彼は、自分を責めていたから。
それに違うと出ない声の変わりに顔を振った。

だけど、彼が何かに躊躇っているのを空気で感じた。
けど、そうしてすぐに私にまっすぐにそっと伸ばされた手を見て、反射的に体が硬直した。それだけで目の前が真っ暗になった気さえする。
「……大丈夫だから」
彼の方が辛い声を出していた。
何も考えられなくて、必死で耐えていた。自分を襲ってくるまだ生身の恐怖に。
だけど、彼の手は違った。
留める事を忘れていたボタンを留めてくれ、そっとネクタイを締めなおしてくれた。

 ……私は、今何を思った?
そんな自分にさえ失望する。もう嫌だった。嫌だった。全部。
もう辛くて辛くて。それが堪らなく哀しくて。
今まで彼を思って落ち込んでいた自分も嫌で、彼は違ったのに。
きっと違う。私が思っていたのは……。
 何度、心の中で助けてと言っただろう。目の前にいるのは違う人だったのに、私の目に見えていたのは彼ばかりだった。なのに……。

「……大丈夫だろ?」

もう止められなかった。
涙が溢れて零れ落ちていた。もう、止める術を失ってしまった。
彼のその言葉が胸に響いたから。
辛いのと切ないのと苦しいのがごちゃ混ぜになって一気に襲ってきた。
 止まらない。この苦しさも、涙も。

「……、俺のことも怖い?」

違う、違う!
声に出して言いたいのに、自由にならない。渦巻く感情のあまりの激しさに。
けれど、言わなくては。言わなきゃ届かない。
また届かないまま行ってしまう。
それが怖くて、必死で震える口を動かした。
片岡君と瀧野くんとじゃ違うんだって。
「……逃げたけど、捕まって、……こ、わくて、……体がすくんで、動けなくて。でも、……何度も、やめてって、言ったのに……」
「……春日……」
彼のその悲哀のこもった声を聞いたら、今までの思いも溢れ出して言わずにはいられなかった。
「瀧野くんの、顔、浮かんで、……でも、ずっと、避けられて、たから、……もう、私のことなんてっ、……っ、……ぅでも、よくなったんだって……」
そう必死で話しながら、感情が噴出そうとするのを必死に堪えていた。
「でも、でも、瀧野くんの顔しか……っ、……こわ…た、いや、で…、うっ……、だから、…だから、……瀧野くん、瀧野くん……っ」
もう何を話せばよいのか分からなかった。感情ばかりが噴出してもうそれ以上何も言葉に出来なくなった。ただ、ただ瀧野くんが目の前に居てくれるのは悪い意味ではないんだと思いたかった。
だって、だって、本当に辛かったから。
あんな目に遭っても、瀧野くんのことしか考えられなかったんだもの。
そう思ったら、もう何も言えなくなっていた。言葉より感情ばかりが出てきてもう苦しくて辛くてどうにかなってしまいそうなくらいに押し止めよう無く涙が溢れてくる。
それでも必死に抗おうと懸命に堪えていたんだ。
瀧野くんを困らせたい訳じゃないのに。
必死で泣き止もうと……。

そして、その後に感じたのは、包み込むような温もりだった。
その感触だけで、全てから今守られているような感覚になった。
やっと救われたんだという気持ちが生まれた。
彼がどんな顔をしているのかも分からない。自分が立っているのかも分からない。
ただ、彼の体温だけが私の体に浸透していた。
それを放したくなくて、ずっと感じていたくて必死にしがみ付いてた。
彼に傍に居てほしかった。
彼が傍に居てくれればそれで良かった。
他に何かを求めた訳じゃなかったから。

 そして、やっと私は体の力を解けたんだ。

まるで自我を無くしたように、それからの事は殆ど憶えていない……。

気がついたら、彼の膝の上、彼の胸の中にいた。
ようやっと涙がおさまって、じんと痺れる様な痛みに襲われている頭と熱くてぼんやりとした目になっていた。
そして、憶えているのは、頭を優しく撫でてくれた彼の手の感触。
それと、この腕に感じていた、彼の腕の温もりと逞しさだった。
彼の元で、何も考えられなくなっていた。何も他の事を感じられなくなっていた。
ただ在ったのは、彼の存在だけ。
他には何も憶えてない。

次に気がついたときは、自分の部屋の、ベッドの上だった……。

2007.1.31


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