時の雫-紡がれていく想い

零度の距離 -1


§10

いつもと変わらず、学校へ行く。たったそれだけの事が、今まで何事も無く毎日繰り返してきた事が、今では辛くなった。
重たくなった心。それはまるでどんより雲が広がった空のようで、何もする気が起きなかった。
そうすると、笑う事も殆どなくなっていた。
表情の無くなった私の顔は、それだけで不機嫌に見えるらしい。
テニス部ファンクラブの子達も私には近寄らないようにしてるのが見て取れた。
私はそれらを見て見ぬふりをしていた。面倒な事には今何も関わりたくなかった。
もう何もかもが嫌で目を逸らしたくて顔を上げたくなくて何も考えたくなかった。
 頭の片隅では、冷静な自分が言っている。逃げちゃ駄目だ、と。考えなさいと。
だけど、それを私自身が一番拒否していた。何かを考えようとしても考えられない。それは一種の防衛本能みたいだった。
必死で自分を保とうとしていた。

 何かをしていても、心ここにあらず、といった状況が多かった。
生徒会室で皆がいるのに、顔はノートを眺めたまま意識はどこかに飛んでいた。
それはもう思考能力を失っていたみたいだった。
 だから、藤田君が名前を読んでいた事にも気づいていなかった。私の顔を覗き込んできてやっと気づいた。それに対して、私の中で気まずさが生じた。何事も無かったふりをして本棚に立つ。
「何?藤田君」
「何ってそれはこっちの台詞ですよー。ずっと呼んでるのに反応無しで。それともずっと無視してたんですか?」
今は、藤田君のそれにだってイライラが積る。そうではないのに、そういう事にしてしまいたくなる。
「……そうかもね。で、用は何」
自分でもぎょっとするくらい不機嫌な声が出た。
そういった後で、内心しまったと思った。自分の未熟さを表に出したい訳じゃないのに。
そう軽く自己嫌悪を抱いた時、藤田君は気にした様子もなくあっけらかんと言った。
「これまとめ終えたんですけど、次は何しましょ」
それで、詰まりそうになっていた息が救われたような気持ちになった。
入っていた力を抜いて、それで普通に言えた。
「野口君の手伝ってあげたら?」
「はーい」
何も気にした様子の無い藤田君。だけど、皆はそう思っていないだろう。
あの亮太だって軽口を投げてこないのがいい証拠。

……私、何やってんだろう。
そう思っても考えるまで至らない。沈んだ気持ちのまま私はいた。


あれからどれくらいの時間が過ぎたのかも分からなくなっていた。
以前の楽しいと感じていた時間が今では夢のようで。
だって、目も合わせてくれない。顔も向けてくれない。それを思い知る度に胸に痛みは走って気分は尚どん底に落ちていく。
生徒会顧問に呼ばれて教員室に行った時、耳に届いてきた声があった。
「あ、部誌返すの忘れてた。これも持って行ってくれ」
「あ、はい」
それだけですぐ彼の声だって分かった。
耳に聞こえてきた瞬間、私は俯かせていた顔を上げそっちに目を向けていた。
部活中に見るウエア姿の彼。
自分の中で時間が止まったような気がした。そして、思い知らされる。彼に向かう想いに。そして今まで本当に近くにいた彼に。
目が合って、彼がまたいつものように笑顔を向けてくれるんじゃないかって、勝手な期待が湧く。だけど、すぐにそれは壊される。
用を済ませて扉に向かおうとした彼の視界の中に、私が入ったみたいだった。
……そして、困ったように微笑した彼。
その途端、心がはち切れそうになった。見たくない彼の表情をそれ以上目に映さないように顔を伏せた。耳に届くのは彼がここを出て行った後の扉の閉まる音。
その音がやけに心に痛く感じた。
彼の姿を目にしたい。そういう気持ちは確固としてあるのに、彼に会うのは怖かった。どんな顔をされるんだろうと思う度に胸は切なくなって痛むから。
そして、その度に心は周りが何にも見えないほどの霧に覆われる。

ただ、ちょっと前と違うのは、泣きたいと感じなくなったことだけ。

 体が重く感じるのは、その心のせいだと思っていた。
自分だけが取り残されてしまったような感覚。周りの楽しそうな声がやけに空しく聞こえた。
周りも特に何かを聞いてくることはない。ただ、最初の頃は、私がちょっと席を立つだけでも視線が集まっていた。それを感じていながらも、私は知らない顔をし続ける。
特にそれは、学校生活のふとした瞬間に強く現れた。
それがどんな時かというと、廊下で私と瀧野くんがすれ違うとき。
私の中でも居づらいものを感じる。そして集中する周りからの視線。私は堪らなくなって顔を伏せるのだけど。
彼の方はどんな表情を浮かべているのか分からない。私の方でもこんな感じなのだから、彼はもっと嫌かもしれない。
 学校からの帰り道、私の足は錘でもついているように動きが遅かった。
心にも元気が無いから、それが現れていた。何も考えていないつもりでも、頭は知らず考えていた。彼のことを。そうして、しまいには足が止まってしまう。
こんな寒空の下、気がつけば長い時間足を止めていたこともあった。
体の芯まで冷え切って家に帰り、お風呂に入ってもすぐには温まれないこともしばしばあった。
そのせいもあってか、気がつけば私は風邪をひいていた。
それに気づかされたのは生徒会室で。
のどに引っかかりを感じて出た咳に亮太が聞いてきた。
「珍しいな?風邪か?」
「うーん、そう言われてみれば、少しだるいような気も……」
「早く治せよー?」
「分かってるよ。2月に入ったらお仕事いっぱいですから」
「そうそう。そんで卒業式が済めば、俺らも引継ぎの準備だな」
「そうだねぇ。そう考えると早いもんだよね。2年なんてあっという間だね」
この間、2年生になったばかりだと思っていたのに。時間が経つのは早い。
そんな会話だったのに、亮太は突然違うことを口にした。
私にしてみれば突然の話。
だけど、亮太の様子を見るに、ずっと思っていたことらしい。
「……お前さ、最近一緒にいるとこ見ないけど、瀧野の事振ったりとかした?」
「……はあ?」
思い切り変な顔をしてそう口に出してしまった。
そして、亮太はしまったという顔をし、すぐ顔を逸らした。
これは明らかにまずいと言っている。
それで、納得した。
私と彼が廊下で偶然居合わせた時の周りの反応に。
だけど、実際は全くそんなものじゃない。
そういうものにもなりえない。
正直、どうなのか、どう思われているのかも分からない。
きっと、周りが思っているようなこと、何も無いんだと思う。
「なぁに?今そんな噂まで流れてるの?」
「あ、うん。ま、気にするな」
「でも、亮太がそんな事訊いてくるなんて珍しい。なんで?」
本当にそうだったから。素直に疑問に思って聞いたんだ。
「……いや、いい。お前怒りそうだし」
「そんなの聞いてみなくちゃ分からないでしょーよ」
けれど、その理由を言うことは無く、話はすり替えられていった。
体も重く、頭もいつもよりぼんやりして物事を深く考えられない状態の私は、亮太の言葉たちを深く考えられず流していく感じになっていた。
亮太が結局何を言いたかったのか私には分からない。
体がしんどくて家に帰ってゆっくりしたいなぁ、なんてぼんやりと思っていたんだ。


それからも状況は何も変わらず、鬱々とした毎日を過ごしていた。
友達とお喋りをしていても相変わらず気分は浮かないままだった。
 終礼が終わって教室を出て2組の前を通ろうとした所でそこから部室へ向かういさちゃんと会った。
「いさちゃん」
声をかけると、振り向きながら笑顔を向けてくれる。それにいつも心はほっとする。
彼女は私の大切な友達だった。
1年の時に同じクラスになったのが始まり。出席番号が前後だったのでそれはもう必然的だった。なんとなく話をするようになって、なんとなく一緒に行動するようになって。
話をすればするほど私にとっては良い人で、なんか自然に心を許せてしまう人になっていた。
「もう明日から2月だね」
「うん、早いねー。この間お正月が来たと思ったのに」
「……ほんとだね」
お正月、という言葉を聞いて頭に思い出してしまうのは、映画を見に行ったことだった。
それで、つい、気分は落ち込んでしまった。
いさちゃんは何も言わなかったけど、きっとそんな私に気づいていると思う。
口に出しては言わないけど、いさちゃんは敏い人だから。
下駄箱に向かわない私を知ったいさちゃんは言った。
「生徒会?」
「うん、それもあるけど、先に図書室で調べ物しようと思って」
「そっか」
そう言って笑顔を向けてくれたいさちゃん。
だけど、今の私にはいつものように笑顔で返せないでいた。
 まだ何も考えていない時はどうにか普通でいられた。だけど、一度彼のことを思い出してしまうと気分はずんと沈んで中々浮上できなくなる。
こんな自分が、自分でも嫌だった。どうにかしてほしい。もう今あるこの世から消えてしまったらいいのに。そんな事まで思ってしまう。
 図書室に入って、真っ直ぐといつも座っている所へ向かった。
荷物を置いて椅子に座る。そして、たまらず顔を両手で覆って頬杖を突いた。
口から勝手に零れるのは深いため息。

 ……こんなことなら、以前のままの方が良かった。
不用意に親しくなんかなるんじゃ無かった。
そうしたら、……そうしたら、今こんな思いになっていなかったかもしれないのに。
こんな風になるんだって知っていたら、気付かないままで良かった。
 ……全部、間違ってたんだ。きっと。
中学の時にアノ人を好きになったのも、高校に入ってから彼を好きになったのも。
「……」
考えても仕方ないことを、気分が沈んだ私は考えてしまう。
そして、泣きたい気持ちに駆られる。
どうにか、それから離れていたのに、結局、行き着くところは同じで。

どうにか気分を変えようと、調べ物を始めた。
何かをしている時がまだ楽だった。
そうして、静かな時間を一人で過ごしていた。
「春日ちゃん」
練習着に着替えたいさちゃんだった。
気が向いてきてくれたいさちゃんに嬉しくなって笑顔になっていた。
「あれから大丈夫?」
あれから。それは被服室での一件を言っていることはすぐ分かった。
きっと、部室で何か聞いたのかな。それに関係する話でも。
それとも気分が変わったから、さっきは聞けなかったけど今聞いてきたのかな。
「うん、何もないよ。ナミちゃんが一緒にいてくれるし」
「そっか」
そう、あれから教室にいる時は、ナミちゃんがずっと傍に居てくれる。気にしてくれている様子は分かっていた。だけど、何も言わず、聞かずに、いつもと変わりなくいてくれるナミちゃんはありがたかった。
そして、少し沈黙が続いてからいさちゃんはおもむろに言ったんだ。
「瀧野君とはどう?」
はっきりとそう聞かれて、彼の顔を思い出して、私の手は自然と止まってしまう。
本当は何も答えたくない。それにどう言葉に表してよいか分からない。
自分のこのめちゃくちゃに不安定な感情をどう話せばよいか私には分からなかった。
「……別に何も。いさちゃんの方が同じテニス部だし私より様子知ってるでしょ」
言いながら、可愛くないと思った。
でもそう言ってしまう。皆、似たようなこと聞いてくるから。遠まわしにでも「そうなんでしょ?」と言うように。だから、感情は過剰反応してしまって、いさちゃんにもそう言ってしまったんだ。言った後で後悔するくせに。
「まぁ、テニスをしている時の様子なら目にする事はあるけど。最近は黙々と練習してるよ」
至って普通に笑顔で言ったいさちゃん。
顔は正面に向けてるから、きっとこんな私を察知してるんだろうね。
「……そう」
彼の話を聞いて、また気分が沈んだ。彼は毎日普通に練習をこなしているんだ。 その事実だけでも胸が痛んだ。
こんな自分こそ、浅ましいと思う。情けないくらいに。
泣きたくなる感情に気付いた私は、それを振り払おうと手を動かした。
本当は心のすべてを全部いさちゃんにぶちまけてしまいたかった。
だけど、今の私には何をどう話せばよいのか何が話したいのかも分からない。まとめられない。あまりにも情緒不安定すぎて。
気分も重い。それにつられるように体調も優れない。こうしている今でも体はだるいのに。
だけど、訪れていた沈黙が、私の心を撫でていくように感じた。
私は思い切って言ってみた。
「……あれから、喋ってないんだ。避けられてるみたい」
「責任、感じてるんじゃない?」
責任?
「瀧野くんが悪い訳じゃないのに」
「それでも罪悪感感じてるんだよ」
「私、一つも迷惑とかかけられてなんてないのに。……反対に私の方が嫌な思い、させてるよ……」
それは本音だった。ううん、事実だと思ってる。
「多分、又こういう事が起きるの怖いんじゃないかな」
そう言われてみて、あの女の子たちの顔が浮かんだ。確かに小さかれいろんな事があったのは事実だった。だけど、私は思う。
「……。私、女同士の揉め事にへこたれるほど弱くなんかない。それに、相手が違う人でも似たような事は今まで何度もあったよ」
そう、私だけに限ったことじゃない。
「……春日ちゃんは、どうするの?」
いさちゃんのその言葉はいろんな意味に取れた。
だけど、一番強い意味は、彼女たちを前にしてどういう態度をとるの?だと思った。私に対して罪悪感を感じている瀧野くんを今のままにしておくの?とも言っているように聞こえた。
急にそんな事を言われても、正直私には分からない。
彼と話すことさえも出来ないのに。避けられているのに。
もう今じゃすっかり嫌われているんだと思ってる。
「……そんなの、わかんないよ」
どうすれば良いのかも分からない今なのに。
どうしたいのかも分からない。
「そっか。そのうち、生徒会の方でまた前みたいに喋れるようになるよ」
「そうかなぁ」
その望みは薄いような気がしてそう口にしたんだ。
だけど、いさちゃんは笑顔で余裕たっぷりに言ったんだ。
「そうだよ。だって、毎日マフラーしてるもの。春日ちゃんが選んだあの茶色の」
「……!」
決していさちゃんに話さなかったこと。バレバレなそれに恥ずかしくなった。
でも冷静に考えればすぐ分かることだった。同じテニス部なのだから、帰り姿くらいいつも見かけてるんだから。
 そっか。あれ、気に入ってくれたんだ。
だた、それだけ、思ったんだ。

体が重くて、もう何も考えたくなかったんだ。


 いさちゃんは時間になり部活に行った。
また一人になった私は、調べものを終わらせると物を片付けた。
手を動かしながらも、いさちゃんの言葉が頭の中をぼんやりと浮遊していた。
それと同様に彼の顔が浮かんでいた。
そして、無性に思うんだ。彼の姿が見たいって。本当に無性に。
こっちに向けている彼じゃなくて、どこかを向いている彼の姿を。
そう思っていたら、頭の中に思い出したものがあった。

あ、そうだ。この間途中で終わらせたままの折角だからやっていこう。

本当は重い体だった。
多分、ずっと引いている初期の風邪のせいだろう。
本当は、早く家に帰って暖かくしてゆっくりした方がいいんだって分かってる。
だけど、そんな気にはなれなかった。一人で部屋に居ても結局は同じ。
同じ事ばかり考えて気分は最悪になる。休んでいるのか、疲れさせているのか分からない。
なお体調は悪くなるような気がした。
今も一人でいるのに、部屋で独りになるのが嫌で私はここにいた。
風邪を引いていると分かっていて、私はまた寒空の下で足を止めた。 
図書室を出て、そのまま真っ直ぐ進んで行くとグランドが眺められる場所があるんだ。外の風は思い切り吹き付けていく場所。
そこにいると、部活動の声が微かに聞こえてくる。
夏休みのある日も、確かここで部活動の声を聞いていたっけ。
そうしたら、彼が前にいたんだ。
でも、今は違う。
ここから遠く向こうに見えるテニスコートに目を向けた。
他の誰も分からないのに、不思議と彼の姿だけ判るような気がした。
だけど、もっとはっきりと分かりたくて、場所を移した。
自分でもばかげてると思う。だけど、そうせざるにはいられなかった。
いつも通る場所から道をそれて中庭の方へ向かっていく。生徒会室に向かうにはかなりの遠回りだった。他に生徒が見えないその場所で足を止め、グランドの奥に位置するコートに目を向けた。
そして、さっきよりはっきりと彼の姿が見える。練習している彼の姿が。
……いつも、危ない時助けてくれた。
いつも、気がついたら傍に居た。
いつも、気がついたら、実は目の前にいて変なところ見られていたりとかした。

なのに、今はもう近くに彼の姿は無い。
いるのは向こう側。
1年前の今頃は全くもってそうだったのに。
あんな、練習をしている時の真剣な表情だって知らなかったのに。
だけど、今の私は知ってしまった。
……そう、アノ晩だって。
彼なのに、知らない彼だった。だけど、それさえも彼なのに。
 あの晩、あの胸に抱きしめられた彼の鼓動は早かったのに。
彼はただ「ごめん」とだけ口にしてそれ以上何も説明せずに行ってしまった。
それが一体どういう事なのか、分からないまま、彼は目の前に姿を現してくれない。

幾度と考えるそれ。いくら考えても分からないそれ。
考えるだけ無駄だとも思うのに、迷路のようなそれから私はずっと抜け出せなかった。
彼から避けられているという現実が私には辛くて、考える気力を奪っていっていた。

これ以上考えても無駄だと感じた私は諦めたように小さく息を吐いてから生徒会室に足を向けた。
「あれ?今からか?」
「うん、先に図書室で調べものしてたから」
「そうか。じゃ、俺ももう少しやってくか」
生徒会室の手前で、今まで生徒会室にいた亮太と会った。帰ろうとしていたのに、また戻って仕事を付き合ってくれるらしい。

そして、必要な書類を書き上げた私はコピー室に一人で向かった。
向かいながら、亮太の言った言葉を思い出す。
「おー気をつけてな。変な男の誘いにほいほい乗るなよ」
「乗る訳ないでしょっ」
突拍子のないそれに、思わずそう返した。
あんな事を言う亮太も珍しい。
……だけど、それだけだった。
今の私は余計な何かも考える余裕がなかったから。

2007.1.31


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