時の雫-紡がれていく想い
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§10
彼が朝練でない限り、私が生徒会の用事で朝早くならない限り、駅のホームから一緒に通学していた。それは別に約束をしてじゃない。
だけど、自然の流れのように会えば肩を並べて登校した。
その時間は、まだ早い時間帯で他に登校する生徒の姿は少ないせいもあったと思う。
だって皆に見られて何かを言われる事はなかったから。
その日も、瀧野くんが入る4組の教室の前で別れた。
そのまま私も足を進めて教室に入り、自分の席につく。カバンから荷物を出して机の中に入れる。毎日の作業。それから、1時間目の教科書とノートを一番上に置く。
で、そこで気がついた。現国の教科書を忘れてきたことに。
いつもだったら、彼の所に借りに行ったりはしない。普段の生活の中で彼と一緒に居られるのを他の人に見られるのは嫌だったから。
だけど、この時はまだ早い時間で大丈夫だったから……。
それでも、私は恐る恐るといった感じで瀧野くんのクラスに行った。
本当にまだ人は少なくてほっとしたんだ。
廊下で教科書を借りた。そして、他愛ないことを話していれば、あっという間に時間は過ぎていった。朝の時間が経つのは早くて。
谷折君も登場。口に出した言葉は普通の朝の挨拶だった。
だけど、何か冷やかしの目をしていた……。
その時は作り笑いで挨拶を返したんだけど、谷折君が去った後、どんな顔をして良いのか分からなくなっていた。
そうしたら、急に意識してしまって彼の方を見ることが出来なくなっていた。
そんな時だった。
私の顔を塞いでいた横髪をすいっと後ろへ流すように掬い上げた。
それに私の心臓はどきっと声を上げた。それに本人ですら驚くぐらい。
意表をついたそれに私は素で彼を見つめてしまった。
え?と声にならない言葉を口にしていたはず。顔が赤く染まりあがってしまいそうだった。
だけど、彼は微笑を浮かべたまま動じない。彼の目は真っ直ぐと私に向けられていた。
そうなると、私は何も出来なくなってしまう。
体を動かすことも出来ず、声を出すことも出来ない。心臓だけは動いているのを実感できるのに。
「この前も思ったけど、髪、伸びたよね」
その言葉とともに解放された私の髪。
「あ、そうだね。何となく切らないでいたら、ここまで伸びてたんだけど」
心は戸惑ったままでも口は勝手に言葉を放っていた。
それに彼が言った。
「……そう言えば、昔、ロングヘアの時があったよーな?」
素直に頭は考える。そして出たことを口に出す。
「ああ、あったあった。え、と、中2の時、ね……」
言いながら、当時の光景が頭を掠めていった。
それはどんな時だったか。深くを考える前に簡単に思い出せてしまう事実だった。
途端に私の顔は青ざめたような気がした。
だって、その時って、あの人を好きだった時。彼には話したくない話題。彼だって、その頃がどんな時だったか知っている事。それに関した話が二人の間に出た時の気まずい空気がどんなだか予想はつく。
すぐはっと我に返った。それはほんの一瞬のことだと思う。
私が彼を見る前に、彼が言った。
「何か伸ばしていた理由、あるの?」
それを言い終えた頃に私は彼を見上げていた。
その時、心臓がどきんと嫌な音を立てた。さっきとはまるで違う音だった。
だって、彼の顔がいつもと違っていて、こう、何かを孕んだ様な瞳をしていたから。
「う、ううん! 髪、どれくらいがベストだと思う?」
慌ててそう口に出していた私。それらを一掃してしまいたくて。
数瞬の間があってから彼の手がゆっくりと動いたのを見た。
「これくらい。長過ぎず短すぎず」
そう言われた時には心臓が又声を上げていたんだけど。
だって、私の髪を指に持っているんだもの。この位の長さかなって。
その仕草に心臓がいくつあっても足りないよ。瀧野くんにはどうって事ない動作でも私には心臓爆発しそうなものになるのに。
「セミロングだね」
どうにか冷静を装ってそう答えたんだ。
油断すれば、顔が真っ赤に染まりあがるんじゃないかって思うくらい。
その時、本当は気づいていたんだ。周りからの視線に。だけど、瀧野くんを目の前にしていて、他に向けている余裕は全く無かった。もういっぱいいっぱいだったから。
教室に戻っても、私の心臓は落ち着かなかった。
彼を好きなクラスメートたちの方を見ることが出来ずに居た。というか、見ないようにしていた。怖くて。
顔では平気な顔をしていたけど。何事も無かったようにしていたけど。
1時間目が終わって2時間目も終わって、彼女たちに何かを言われている様子も無かった。何か特別な視線を向けられていることも無かった。
時間が経つにつれ、頭の中から不安は消えていき、いつもと変わらない時間を過ごしていった。
そして、3時間目を迎えようとしていた。
毎週のこの時間は憂鬱だった。針と糸を使うのが大の苦手だったから。
一生懸命真面目にやって、いくら努力しても。ちまちまと丁寧にやってみても、出来上がったものを見ると最低な品物に成り下がってる。本当に家庭科の被服は苦手だった。
被服室に入れば、1,2時間目に授業していた5,6組の女子がまだ少数片付けていた。視界の端に見知った顔が映る。その人たちとは多分良くない感情をお互いが抱いているのだと思う。だって、彼女たちは瀧野くんのファンだったりするから。以前、松内さんを囲んでいたのも彼女たちのグループ。
普段の生活の中では、彼女たちを殆ど気にしたことはなかった。
……だけど、今回は違った。
一人の横を通り過ぎていた時、トンという軽くぶつかるのを感じた後、はさみが何かを切る音が耳に大きく届いた。
近くに居たクラスメートは言葉を無くしているのが気配で伝わってきた。
その時の私はまだ冷静だったと思う。振り返るまでは。
振り返って目に映ったものは、ぱらぱらと落ちていく少量の髪の毛だった。
「……」
私はまだその時無言だった。現状を把握するのに頭を働かせていたから。
そして、耳に届いてくる笑いを含んだ声があった。
「あ、ごめーん?片付けようと動いた所にちょっと躓いちゃって」
「髪の毛邪魔そうだったから、丁度良かったんじゃないの?」
「目障りそうだよね。髪の毛くらいで関心惹こうとしていたし」
「浅ましいの?もしかして」
それらを聞いている間に、頭の中ではいろんな事が駆け巡っていた。
今朝、廊下での瀧野くんとの事を言っているのだと理解した。
そう言えば、彼女たちのグループの子が歩いていたような気もする。
それを思い出している中でも、「これくらい」と言った彼の笑顔が浮かんでいた。
彼の笑顔を思い出して、切なくなる胸。彼女たちを前にして怒りが込みあがる胸。
私を打ち負かそうと侮蔑した眼差しを向けている彼女たちを目に映した瞬間、カチン!ときていた。
「浅ましい?どっちがよ。浅ましいの意味分かって使ってるの?浅ましいって言うのはね、心や性質が卑しいとかさもしいのを言うの。姿や外見が惨めで見るに耐えない、見苦しいとかね」
そう言い放った後、彼女たちの顔は変わっていた。目を大きく開いて、不服そうな表情だった。きっと私がこんな反応を見せるとは思っていなかったんだろう。
でも、私の目は違うものを見ていた。私の髪を少しだけ切ったはさみ、それだけを目にしていた。
傍から見れば、一瞬の隙を狙って、に思えたかもしれない。
私はそのはさみを取り上げると、この手に持ち構えた。
そして、一瞬静まり返ったこの教室。
彼女たちの目には怯えが見て取れた。だけど、私がする事はそういう事じゃない。
自分の髪を一房掴むと自分ではさみを入れた。
脳裏に彼の顔が浮かんだけど。だけど、私はこの行動を止める事はしなかった。
周りにいた友達の口から声が漏れる。だけど、意にも介さなかった。
じょぎ、という切れた音が辺りに大きく聞こえていた。
ばさばさと切れた髪が落ちていく。それでも気が済まない私は尚髪を掴む。
「春日ちゃん!!」
そこに制止の声が飛んできた。いさちゃんの声だ。
一瞬、ぐっと手に力が入ったけど、それでも続けようとした。
「春日ちゃん」
ぐっと私の手を止めたのはナミちゃん。
真っ直ぐと彼女たちに顔を向けて言った。
「勝手に嫉妬して、そんな風に嫉妬をぶつける事しか出来ないから見向きもされないんでしょ、あんたたち」
彼女たちが何かを色々と言い出した。でも私の耳には届いていなかった。
憤りが胸の中を渦巻いていた。でも、その憤りは表に出なかった。
けれど、そういうものに負けたくないという気持ちだけが私を支配しているようだった。その時は。
気がつけば、女子の殆どが彼女たちを相手にしていた。
いろんな言葉が私の上を行き交っていた。
騒ぎが大きくなりそうな状況に、自分を落ち着かせるように息を吐いてから、私は声を放った。
「思ったより短くなって気が済んだでしょ?気が済んだっていうんなら早く教室に戻ったら?」
多分、ひどく冷たい目をしていたと思う。そして、冷たい声だったと思う。
彼女たちはそれに反論せず、慌てて荷物をまとめてこの教室を出て行った。
後もう少しで本鈴が鳴る。そうしたら、先生が来るから。
暫くの間、茫然自失状態だった。
その間に、皆が散らばった髪の毛を片付けてくれて、ばらばらになった私の髪をまとめバレッタで留めてくれた。
「あ、ありがと……」
そのまま力無く席に着く。そして、先生が来て号令。再び着席してから、我に返った私は一人で青ざめていた。
……合わす顔が無い。彼に。
真っ白い心の中に浮かんだのはそれ。
どんな顔をすれば良いのか全く考え付かない。それどころか、事を知れば、幻滅されるかも。
そんな考えが頭の中を過ぎっていく。
ああいう風にしか返せない自分にも呆れるけど、でも、私はそういう行動にしか移せない。だって、頭に血が上ったから。
髪の毛伸びたよね、と言った彼。私の問いにこれくらいの長さがいいと言ってくれた彼。
何故だか、全てを踏みにじった様な気がして、胸が押し潰されそうに痛かった。
不揃いな髪は、間の休憩時間にクラスメートが綺麗に揃えてカットしてくれた。
「春日ちゃん、いくら何でもこれやはやりすぎだと思うよ」
短くなった髪を触りながらナミちゃんが言った。
私は身を小さくして答えた。
「……自分でもそう思います」
「春日ちゃんって、見かけに寄らず喧嘩早いんだね、初めて知ったよ」
それは呆れ口調。そのナミちゃんの言葉に、いさちゃんは言った。
「私は知ってた。変に負けず嫌いなんだよね。でも、ちょっとこれは自虐的だよ?」
「はい、そうですね」
そう答えつつも頭の中はどんな顔をしたら良いのかばかり考えていたんだ。
「……で、あの子達に僻まれる様な事って、何?」
「何?」
少し声を潜めて訊いてきた二人。それにはっと我に返った私。
「え?別にそんな……」
「何々?瀧野君と何があったの?」
「嫉妬されるような事」
にやーっとした笑顔で訊いてくる二人。
「や、そんな大した事は……。ただ、髪の毛が……」
と口ごもる私。顔に汗を掻いた……。
もごもごと言葉の様なものを口して誤魔化す様に作業に没頭していった。二人はそれに諦めた様に自分たちの作業に帰っていった。
昼休みはお弁当を食べてすぐ図書室に向かった。
教室に居づらく感じて。いつもだったら、予鈴が鳴る頃に教室に着くように出るのに、今日はぎりぎりまでいた。
きっと、今日もまた廊下に谷折君といると思うから。
……顔を合わせたくなくて。心の中にはそればかりがあった。
どうか、もう居ませんように。と思いながら教室に向かった。だけど、その祈りは空しく二人はいた。私が彼に気づいた後に、彼が私に気づいて顔を向けた。思わず私の体は固まった。心臓は嫌な音を立てている。そのまま目線を合わせないように顔を伏せて急ぎ足で二人の前を通り過ぎた。
心臓は緊張で根をあげそうだった。
だって、ずっと視線を感じていたから。いつもは嬉しく感じるはずのそれが今はやけに苦しく感じていた。
そのまま教室に行き扉を開けて中に入れば……。
念じるようにそう考えて必死で足を動かしていたのに。
「……あ!髪の毛!」
突然背中から飛んできた声に、体はビクンとなった。足は勝手に止まる。
そして、私は恐る恐ると彼の様子を確かめるように振り向いていた。
彼の、驚いた顔。
それだけで心臓が飛び上がりそうになった。それ以上何かを言われる前に慌てて体を戻して教室に向かった。
会いたくなかった。見られたくなかった。彼にだけは。
そんな気持ちばかりが心の中にこだました。
午後の授業はずっと泣き出してしまいたいのを堪えていた。
どんな風に時間が過ぎたのかも分からない。
終礼が終わり、ずっと落ち込んだ気分のまま教室を出た。
その気分が顔に出ていたと思う。顔を上げる元気もなくて足元を見ながら廊下を歩いていた。
「春日さん、なんか色々あったみたいだけど、大丈夫?」
そう中山君の声が耳に届いた。本当に心配してくれているんだとその声だけで分かった。
でも、それと同時に分かること。
「え?もう話が広がってるんだ。参ったなぁ」
それまであった泣きたいと言っている感情を押し込んで言った。
それでも顔は歪んでいたかもしれない。ちょっとでも力を抜けば本当に涙が出てしまいそうだった。
それを尚押し込んで、ぐっと強気で言った。
「でも、なんて事ないから。心配してくれてありがと」
余計な何かを聞かれないように。
そして、そのまま帰るはずだったんだ。
ふ、と、呼ばれるように顔を上げた。何でだか分からない。
その先には彼がいた。
何とも言えない表情をしていた。胸がツキン、と痛んだ。
何か言いたげな彼の顔。
私を見るその目が、起こした事を非難されているような……。
堪らなくなってその場を駆け出していた。
そのまま彼の前を通り過ぎて行った時が、一番泣き出したくて仕方がなかった。
泣くのは家に帰ってからでいい。
必死になって家に向かっている間に気持ちも落ち着いて、きっと泣かずに済むはずだから。
そんな事を考えながら帰っていったんだ。
家に帰ってから、取り立て用事がない時は、ずっと部屋にこもっていた。
鏡で自分の顔を見てみる。急に短くなった髪。
こんな長さは、小学生のとき以来。気分ばかりが滅入ってしまっていて、勉強をしていてもいつもの調子が出なかった。気がつけば、思考も手も止まっていた。
明日、どんな顔をして彼と会おうか、そんな事ばかり考えていた。
他の事を考え出していても、いつのまにか彼の顔ばかり浮かんでいて、辛い感情に襲われていた。本当に気がおかしくなってしまいそうだった。
そして夜、家のインターホンが鳴った。
インターホンが鳴るには珍しい時間だった。
タカだったら鳴らさずに入ってくるし。
そんな事をぼんやりと考えていたら、真音が部屋に来た。
「お姉ちゃん、圭史さん」
「え?」
予想にもしていなかった事に何も考えられなかった。
その一瞬の間があって、頭は考え出していた。
今駄目だから、帰ってもらって。そんな事を言おうかと思ったけど、実際にそんな言葉言える訳がない。
会うのが怖い。出来る事なら今この場から逃げ出してしまいたい。
そうしたら、お姉ちゃん今いないから、で済むのに。
そんなばかげた事を考えてしまう辺り、どうかしてる。
怖かった。彼に会うのが。
だけど、今この場から逃げ出す事は出来ない。そんな事、出来る訳がない。
そんな事したら、もっと変ではないか。
「お姉ちゃん?」
「あ、うん、今行く」
そう言って椅子から立ち上がった。と同時に心臓がけたたましく鳴り出した。
階段を降りている時も心臓がどきんどきんと言っていて、それで体が揺れている様な気さえした。異様な緊張感に呑まれてしまいそうになっていた。
この時の私は全く何も考えられなかった。彼が何でうちに来たのか。何を話しに来たのか。悪い考えしか抱かなかったけど。
震える手を必死で止めようとしながら玄関の外に出た。
緊張に震える体のまま、彼の前で足を止めた。
必死な思いで上げた顔。
そこにはいつもと違う顔をした彼がいて、私の胸が尚緊張で声を上げた次の瞬間だった。
「俺、迷惑かけたみたいで、……ごめん! 何も考えてなかったから……」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
私がずっと気にしていたのは、それじゃなく……。
というか、思いもしなかった。そんな事。
反対に私が思っていたのは……。
違うのに。
そう思って彼を見ても、彼はずっと顔を伏せたままだった。厳しい表情をして。見たことがない顔。すべての問題の責任は自分にあると言っているみたいな顔に見えた。
このままじゃ、届かない。口にしないで思っているだけでは伝わらない。
そう思った私は必死の思いで言葉を声に出した。
「あの、……もしかして、この髪のこと、気にしているの?」
こう言っている時も胸が苦しくてどうにかなってしまいそうだった。
ほんの一瞬顔を上げたけど、彼はすぐ伏せてしまった。
「反対に瀧野くんに嫌な思いさせたんじゃないかって思ってたんだけど……」
本当にそう思っていた。
まさか瀧野くんがそう思ってるなんて思いもしなかったよ。
反対の意味で泣けてしまいそうだった、私。
「私、瀧野くんには一つも迷惑なんてかけられてないよ。だから、謝られる覚えもないよ」
そう言っても、彼は顔を上げてくれなかった。何も言ってくれなかった。
それだけで、涙が浮かんでくる。悲しくなってくる。
髪に触れて「このくらい」と言ってくれた彼の笑顔がとても胸に残っているのに。
こんな事があっても、彼が一言言ってくれたなら……、もうそれで私は……。
「……この髪型、もしかして、似合わない?」
だから、そう言ってみた。
でも、この髪を見て又謝られたら、私、もう泣き出してしまうかもしれない。
自分の弱い心にもう少しで負けてしまいそうな、そんなぎりぎりの状態だった。
前にいる彼の存在でどうにか今を耐えている。
たすけて。
たすけて。
そんな思いが心の中を浮遊している。
やっと顔を上げて、私に目を向けてくれた瀧野くんだった。
私はじっと彼を見つめていた。多分、祈るような心境で。
口を閉じていられなくて思いついたまま言っていた。
「クラスの子でね、美容師志望の子がいて上手でね、この髪もやってくれたんだけどね」
「……うん、よく似合ってる」
少し悲しげだったけど、微笑とともにそう言ってくれた。
悲しげだったのは、髪の長さの所以のせいか、それとも本当に短い事にか。
分からないけど、その一言が私を大分ほっとさせた。
「良かった」
心から零れたかのような言葉だった。
彼にそう言って貰えたら、もう他の事はどうでも良くなって納得できるから。
それぐらい、それぐらい私は……。
そんな事を思っていた時だった。突然、暗闇に襲われたかのように視界が変わっていた。
服の冷たさを強引に感じた。こんなにも外の寒さはあったのかと感じさせられるくらいの冷たさだった。でも、その上から憶えのある温もりが私を包み込んでいた。
突然の事に何が起こったのか把握できないでいた。
「……え?」
視界に映るのは、学生服の彼の胸元。そして聞こえる早鐘のような心臓の音。
それはどっちのもの?頭の中はパニック状態だった。
でも、心のどこかで、そのまま彼の胸の中に埋もれてしまいたいという思いもあった。
そして、ぎゅうっと抱きすくめられて知る。
そして、彼を思う気持ちでどうにかなってしまいそうな自分を。
彼をすぐそばに感じる今。
だけど……。
離さない彼が出した声は……。
「…………ごめん……」
初めて聞く、余裕のない、掠れた声だった。
それだけで私の中に動揺が走る。
「……ど、して、謝るの?」
分からなかった。
謝る彼が、私の頭を優しく撫でて。それは壊れ物を扱うように。
それなのに、私を解放した彼の腕が、私には分からなかった。
突然、身も心も襲う虚無。心の中で叫び声があがる。
行かないで。
行かないで。
何か言って。
「……今日は、ごめん。 …………おやすみ」
なんで?
分からなかった。何故だか分からなかった。
彼の言った言葉も、意味も、すべてが。
そして彼は行ってしまった。
残ったのは私ただ一人。
最後の言葉を言った彼に目を向けた時、ほんの一瞬だけ彼の顔が見えた。
辛そうな彼の顔が。
それだけで、私は胸の痛みに襲われた。
分からない。分からない。
行かないで。
私はもう考える力は残っていなかった……。
目に浮かぶのは、辛そうな顔をした彼ばかり……。
そして辛く痛む胸しか感じなかった。
こんなにも彼を求めて止まないのに。すべては闇の中に消えていくようだった。
これからもずっと続くのだと思っていたものが夢だという事実が、今私の目の前に広がっていた。まるで絶望のように。
「…………どうして?」
誰にかける訳でもない疑問だった。でも、そう言わずにはいられなかった。
それでも、次の日。私は祈るような気持ちで駅に向かったんだ。
ホームに彼の姿を見たくて。
彼を見たら、またいつもの生活が始まるのだと思っていた。ううん、願っていた。
だけど、彼の姿は無かった。
電車に乗って、発車しても、このホームに彼の姿を見ることは無かった。
気持ちが何かに攫われた様な思いに駆られた。
願いは夢でしかないのだと思い知らされたようで、泣きたかった。
そして、ぱたりと学校でも彼と顔を合す事はなくなっていた。
私の心だけがどこかに置き去りにされたように。
そして、もっと辛い現実を思い知らされたのは数日後だった。
家をいつもの時間に出たのに、気が進まなくてゆっくり歩いていたら、一本遅い電車になったんだ。やっぱり、瀧野くんの姿は無くて。
重い足取りで学校に向かった。そして、下駄箱を開け履き替えようと手を伸ばした時、声が聞こえてきた。すぐ分かった。彼がそこにいるんだって。
「あ、そう言えば、部室の鍵閉めたっけ?」
ふと思い出したように言った谷折君の声の後に彼の声が聞こえてきた。
「あー?……閉めてただろ?ストーブの火の確認してから」
「そうだったけ?」
「朝練で一日に使う脳みそ使い切ってるんじゃないって」
「ぬわに〜。一体、誰に付き合ってると思ってるんだー」
「あー、はいはい、それはすいませんね」
……それだけで分かった。個人の朝練。それは自主的なもので瀧野くんが言ってやってるんだってこと。
何かで頭を殴られたようなショックを感じて、震える手を感じながら、彼らに気づかれないように静かに靴を履き変えてその場を走って後にした。
心臓がどきどき言って、なんかもう泣いてしまいたかった。
彼に、避けられてるんだ。
その事実だけが私をどん底に突き落としていた。
考えないようにしようとしても、胸の中はそれでいっぱい。
教室に向かっている間に、堪らなくなって涙が浮かんでいた。
慌てて人の通らない場所に身を移した。
「……うっ……」
勝手に溢れる涙に思わず声が漏れる。
そして、私はすべてを後悔した。
この時間に着く電車に乗った事を。
彼女たちにああいう反応をした事を。
あの朝、彼に教科書を借りに行った事を。
もう戻らない。
ずっと続くと思っていたあの時は、もう。大好きだったあの時間は。
悲しくて悲しくて勝手に涙が零れていった。
2007.1.21