時の雫-紡がれていく想い

零度の距離


§8

「誤解しないでほしい」と彼に言われて、胸の奥で何かが音をたてていた。
頭は他の事にとらわれていて、心の中は色々な事が交錯していて、自分の感情一つ一つすべて把握できていなかった。
 だけど、あの時のあの言葉が、あの時の彼の顔が、彼の声が頭にこびりついて消えない。
一日の間に何十回と思い出しては、やりきれないような思いになる。
心が苦しい。……いや、そう言うよりも、心が痛い。

あれから、彼の姿を目にするだけで、どうして良いか分からなくなった。
どんな顔をしたら良いのか、何を話せば良いのか、全てが分からなくなっていた。
それでも普通にしようと頑張るのだけど、自分でも無理を感じていた。
そんな時、彼の顔を見ると、彼は困ったような微笑を浮かべていた。
 私の胸に痛みが走る。
それから私は塞ぎこむように部屋にこもるようになった。
生徒会の仕事も、自分の分が済めば暗くならないうちに家に帰る。
「最近しんどくて」
そんな心の入っていない言葉を口にして。


 図書室に行く気にもなれず、机の上に頭を寝かしてぼーっとしていた。何もやる気が起こらず時間を潰していた昼休みだった。
 教室の戸が開いた音が耳に届いてきてすぐ声が聞こえてきた。
「春日さん」
「ちょっとこっち来て」
顔を向けて見れば、同じクラスの女の子たち。
「?」
何の用か見当も付かないまま、言われたとおり足を運んだ。
廊下に出て戸を閉めた途端、囲まれるように彼女たちは移動してきた。
その勢いにも蹴落とされてしまいそうな……。
 目を輝かして頬を赤く染めて嬉しそうに彼女たちは口を開いてくる。
そんな様子を戸惑いながら話を聞いていると、私の顔は引き攣っていく気がした。
 今丁度彼らがこの廊下にいるから、聞いてきてほしい。そう言った。
生徒会絡みでもよく話をするし、相手が私だから彼らも嫌な顔はしないだろうから。と。
「好きな子のタイプ、聞いてきてほしいの」
今まで何度か似たような事を頼まれた事はあったけど、生徒会や何かの用事で避けていた。
遠回しに断っていた。その時は、確か、ナミちゃんの助けもあったと思う。
……だから、彼女たちはここに私だけを呼んだのだろうか。
 少しでも好きな人の事を知りたいという気持ちは分かる。
それがどんな方法だとしても、結果が出ればそれで良い。
恋をする女の子たちは、自分の目の前に広がる視界がすべてだから。
 今、こんな状態でなければ、もっとうまく断る事が出来ていたかもしれない。
この状態では頭も上手く働かず、何て言ったら良いかも分からなかった。
強引に断ってしまったら、きっとしこりが出来る。彼女たちの間に。
そうしたら、教室に居ずらくなってしまうだろう。不機嫌な顔を向けられるようになるだろう。それからもどんな様子に陥るか、容易に想像が出来た。
悪い予想は次から次へと頭に広がる。
不安ばかりが先行して、物事を冷静に考えられなくなっていた。
 はっきりと断ってしまいたいのに、何て言えば良いのか分からない。
言葉が喉に痞えたように出てこなかった。
「あ、じゃあ……、生徒会で居合わせた時に……」
心許無くそう言った。
だけど、それを彼女たちは許してくれる事はなくて。
彼女たちはお構いなしに両腕に手を回し、逃げられないようにして強引に足を進めさせていく。彼らの元へ。
出来る事なら、彼と顔を合わせたくないと思っていた私だった。
そんな事を思っていたから、こんな目に遭うのだろうか。
怖くて彼らの顔を見ることが出来ない。
けど、彼女たちは引っ張られるようにして彼らの傍へと私の身柄を運ぶ。
ようやっと解放されたのは、彼らの前だった。
「じゃよろしく」
その言葉に心の中で呟いた。よろしくって……。

彼らの視線をひしひしと感じた。
きっと彼らは何事かと思っているんだろう。
もしかしたら、予想ついているのかもしれない。

それでも私には覚悟が生まれない。
空気が重たい。
何とか理由をつけて帰れないだろうか。
そう思って、教室に顔を向けて見た。
そこには様子を見張るかのように彼女たちが揃っている。誰一人教室の中に入ろうとしていなかった。
正直参ったと思った。思わずため息が出る。
これは本当に逃げられない。
前に何とか、後ろに何とか……。挟まれた気分だ。
もうこれは本当に意を決しなければならない。
きっと、彼は嫌だろう。こんな事は。
なのに、今の私は回避する術を持てない。どうして良いか分からないまま、流されてしまった。
申し訳なさいっぱいで、背中から痛いほどの視線を感じながら、前からの視線も感じながら言った。
「え、と……、二人に聞いてみたい事があって……」
片側から重い空気を感じた。
「何?」
それと反対に谷折君は優しい声でそう訊いてくれた。
とりあえず聞こう。断られたら、それでも事は済んだ事になるから。
「あの、好きな子のタイプ教えてくれないかな……?」
「なんで?」
その谷折君の問に素直に答えるしか出来なかった。
他に言う言葉なんてない。
本当は、こういう事、彼は嫌いだと知っているのに。
胸が痛いのに。今の私にはどうする事もできなくて……。
「クラスの子に頼まれて……」
「あーあの子達ね。だってさ。どーする?」
谷折君がそう彼に言葉をかけた。自然と体に緊張が走る。
この瞬間が怖い。
けど、彼から何も言葉が返ってこない。
きっと気を悪くしている。
申し訳なさが心を責めるようだった。
「……ごめん……」
謝るくらいなら、始めから引き受けなきゃ良かったのに。
自分で声を出して、心の中ではそんな事を思って。
逃げ出したくて、泣きたくて仕方なかった。
彼は仕方がないとでも言うように小さく息を吐いた。
それですら、私の心には悲しみが広がる。
「……いーよ」
その声にも彼の言いたい事が含まれている気がして、泣きたくなった。

 彼のその言葉を聞いて谷折君が話してくれた。
「好きな子のタイプねー、俺は女の子らしくて優しくて思いやりのある子かな。気の強い子はパスかな。瀧野は?」
「俺も気が強すぎる子は遠慮するな」
その声にも彼の不機嫌さは出ていた。
「お前はやり手が好きだろ」
間髪いれずに言葉を投げた谷折君に瀧野くんは言葉を詰まらせていた。
「やり手って……」
「えーと才色兼備タイプっての?仕事とかも出来るタイプ」
「……そーだな」
それを聞いてなぜだか心がズキンと痛んだ。
「まぁそんなところかなぁ」
谷折君が丁度そういったところで、彼の教室から声が飛んできた。
「瀧野―、次の授業教室移動だってよー」
「おーわかった」
そう答えた彼が、私をちらりとだけ見た。
「じゃ行くから」
何の感情もない声。
初めて聞いたかもしれない、そんな声。
いっその事、泣いてしまいたかった。
この場にいることを酷く後悔した。

谷折君がこの場に留まっている事に気がついて、顔を上げたら、苦笑して言った。
「最近、機嫌悪いみたいだから。……それだけじゃなくて、なんか落ち込んでるみたいのもあるし」
「そ、……なんだ」
引っ掛かりを感じながらそう吐き出した。
でも、それはきっと私のせい。
自分自身への、何とも言えない気持ちが渦巻いていた。
これをなんと表現したら良いんだろう。
私は、彼の優しさを踏みにじったような気がして真っ暗闇の中にいるような気持ちだった。

それからずっと後悔ばかりしていた。
何で私は動けないんだろう。
迷惑ばかりかけて、きっともう嫌われた。愛想つかされた。
 それからずっと泣きたい気持ちでいっぱいだった。
なのに彼には謝れないまま時間だけが過ぎた。


それから、不穏な空気を教室で察知すると、昼休みはすぐ図書室へ逃げ込んでいた。
そうしてやり過ごしていたら、ある日又掴まった。
それは図書室から教室に帰っている時の事だった。
その日はいつもより早い時間に戻っていたせいもあった。
でも、私は廊下の手前にいた彼に気づき、顔を上げられず歩いていたから、教室の前にいた彼女たちに気づかなかった。
けど、気づいたからといって、どうする事もできない。
ただ嫌な予感に心を震わせて、足を止めていた。
額に嫌な汗が流れていくような感覚もあった。
だけど、そう悩んでいる間に、彼女たちは喜々としてやって来た。
逃げられない自分に、情けない気持ちになった。
「春日さん春日さん、今日はねこれお願いしたいの」
「そうそうお願い」
そう言って差し出されたのは使い捨てカメラだった。
「……え?」
まさか、こうくるとは思っていなかった。
さすがにコレは……。そう思う。
呆気にとられた私を他所に、彼女たちはお構いなしに口を開く。
「ほら、今日もあそこにいるから」
「一度で二度美味しいショットだしね」
そんな事を言われても、これは行きすぎだと思った。
出来る事なら諦めてほしい。
出来る事なら、もう教室に入っていてほしいと思った。
「あの、ちょっとこれは……」
「大丈夫大丈夫。ほらあそこ」
一人が指をさして方向に顔を向けた。
彼らはしっかりとこの状況に顔を向けている。
嫌そうな顔をしている彼の目と、合った気がした。
それだけで血の気が引いていく思いだった。
そして体中に走る恐怖があった。

「あの、……こういう事はやめておいた方が……」
指先が冷たくなったのを感じながら、必死の思いでそう言った。
「きっと大丈夫。春日さんだったら」
「あ、でもやっぱり嫌だと思うから……」
だけど彼女たちは少しも分かってくれない。差し出されたままのカメラに、私は手を伸ばす事だけはしなかった。
どうしようか。他になんて言おうか。
分かってもらえるような言葉が浮かんでこない。
それでもどうにかしなくちゃと必死に頭を動かした。
だって、これ以上、彼の嫌がる事はしたくない。迷惑をかけたくない。
彼女たちの表情も、俄かに変化してきた頃だった。
「ねぇ春日さーん」
いつもと同じ谷折君の声が飛んできた。ここへ来ようとしている。
それを見た彼女たちは騒ぎ始めた。
どうなるんだろう、そんな不安が心を過ぎる。
ただ嫌な予感だけが私を支配していたから。
谷折君はそんな様子の私なんてお構いナシに、いつもの笑顔のまま腕を掴み引っ張って行く。
「ごめん、ちょっとこっち来て」
そしてそのまま3組の教室へと連れて行かれた。
その後で彼女たちのもとへ向かう瀧野くんの姿が見えた。
彼の顔がいつもと違う。
なんだろう?何が起こるんだろう?
その後のことが分からないまま、私は3組の教室の中に入りぴしゃんと戸が閉まったのを見た。
不安のまま谷折君の顔を見上げた。
目が合った谷折君は、しようがないなぁという顔をして笑顔で言った。
「ごめんね、俺らのせいで嫌な思いさせて。次からははっきり言って構わないよ。谷折と瀧野に受けないようきつく言われてるからって」
「あ、……うん。ごめん……」
遠回しに注意されているのだと思った。
きっと、彼も怒っているんだろう。
……私、また馬鹿なことをしたんだ。
ずっと優しかった彼をこんなにも怒らせるぐらい。
そう思ったら、もう目の前に広がる世界が色をなくしたように思えた。

5時間目の授業も、ずっと頭の中は余計な事ばかり考えていた。
考える割に答えは何も出ないのだけど。
そんな中でも思ったことは、次の休み時間、彼と顔を合わせたら謝ろう、と。
だって、他に私に言える事は何もないのだから。
一度引き受けてしまったのは事実で、何を言おうと受けたことは変わらない。
だから二度目も起きたんだ。
はっきりと意思表示できなかった自分が悪い。だから、彼も怒ったんだろう。
……ずっと私はこんなんだ。
彼に不快な思いをさせたという事だけが、私の気持ちを落ち込ませていた。

5時間目終了のチャイムが鳴って休憩時間、私はのろのろと廊下に出た。
4組の人たちが戻ってきた頃、偶然を装うようにそちらに向かって歩いて行った。
顔を見て一言謝ろう、そう思って。
緊張に汗が浮かんで、心音だけがやけに大きく聞こえていた。でも、嫌な音だった。
私の目はすぐ彼を見つけた。そして、一歩一歩ゆっくりと彼に向けて歩いていったんだ。
彼との間があと何メートルという所で、彼が顔を上げた。そして、目が合ったと思った。
だけど、その次の瞬間、彼の顔はふいっと反対の方向へ向けられた。
 思わず足が止まった。多分、顔も凍りついていたかもしれない。
……避けられた……?
それがあまりにもショックで、謝ろうと思った事さえ頭の中から飛んでいった。
今確かに、彼と目が合ったのに。
だけど彼は目を逸らした。
私は、取り返しの付かない事をしてしまったのかもしれない。
一度失った信用は、もう戻せないというのと同じで。

きっと、嫌われたんだ。


そう思っても、都合の良い事由が頭の中に浮かぶ。
本当に気づいていなかったんじゃないか。
疲れているだけで、そんな事ではないのかもしれない。
谷折君が言っていた。ここの所ずっと機嫌悪くて落ち込んでいるって。だから……。
……だから?
だから、私の事を怒っている?
瀧野くんは怒っているんだろうか?以前から。

 終礼が終わっても、真っ直ぐ家に帰る気にならなかった。
のろのろと足を運ぶ。
丁度そこに、教室から出てきた谷折君に会った。
「あの、谷折君……」
気がつけば、そう声をかけていた。
「ん?」
何事もなく振り向く谷折君は、それが私だと分かると体も向けて言った。
「あ、昼休みはごめんねぇ。教室戻ってから何か言われたりした?」
「え?ううん、別に何も言われなかったよ……。あの、こっちこそ、ごめんね?」
「え?なんで?」
「あ、だって、前に断りきれなかったから、今日あんな風になって……」
「え?いいよ、そんな事気にしなくて。別に」
「……だって、瀧野くん、私のせいで怒ってるんじゃ、ないかと思って……」
そう言いながら泣きたい気持ちに襲われた。でも、こんな所で泣き出したら、今度は谷折君に迷惑がかかる。
それに、一人じゃない時以外で泣いたりしちゃいけない。
「え?……」
そう言って口を閉じた谷折君を思わず見上げた。そして、じっ……と見つめていた。
 明らかに様子の変な谷折君だった。何故だか頬が染まってきて、目が動揺している。それでも落ち着かせるように手の甲を口に当てている。
「あの……?」
たまらずそう声を出した。
「え?あ、いや、あいつは大丈夫だよ。うん。それにあいつの性格だったら、嫌いな人間には優しくなんてしないから」
そう話し出しながら谷折君は歩き始めた。だから、私もその横を歩き出した。
「でも、瀧野くん、基本優しいよ?」
「んー。でも今あいつは怒っているという訳でもないよ。案外その理由を一番分かっているのは春日さんかもね」
「え?何?」
「だって、俺も詳しくは知らないからさ」
「そんな……」
見つかったと思ったものが見つからなかった。そんな絶望感に襲われた。
「でも、どうでも良いと思っている子の事なんて心配しないよ。相手が気にするほど怒ったりもしないでしょ」
谷折君の言っている事は尤もだった。
だけど、分からない。私が知りたいことと繋がらない。
「……あいつはいつも気にしてるよ」
大きな声ではなかったけど、谷折君は確かにそう言った。
「何?」
不安になってそう訊いた。
私に顔を向けた谷折君が、真面目な表情だったのにすぐ動揺した顔になっていた。
「……っ、えぇと、ちょっと待って」
また赤くなった頬で天井を見上げる谷折君。
それから数秒して顔はこちらに向けないまま言ってくれた。
「……心だよ」
心?なに?
瀧野くんがいつも気にしてる、心?
不可解な顔を私はしていたと思う。そんな私を谷折君はチラリと見てから、すぐ顔を進行方向に戻してから言った。
「あいつの優しさ、通じてるんでしょ」
「え?何?」
その時、分からなくてそう言っていた。
それに谷折君は「駄目だコレは」と言わんばかりに片手を顔に当てた。
「……春日さんって、天然?」
「え?」
「はぁ……。春日さんが怒ってると思う態度は、単に気にしているだけだよ。君の事をね。俺が、……あんまり人の事だから言える事じゃないし。……後が怖いし。じゃ、そういう事で」
そう言い切って谷折君は行ってしまった。部活に。
私は下駄箱に向かおうとはしていなかったから、その前の廊下で別れた。
 ぽつんと残された気分だった。
谷折君の言った言葉が私の頭の中で繋がらない。彼は何を言っていたんだろう?

 モヤモヤとする気持ちのまま図書室に行った。
いつもの席に座って、カバンの中から数学のノートを出した。
今日の授業中に解けなかった問題。
……まるで、自分の心のようで嫌になった。
 この間からずっと解けないでいる数学の問題は、どこからどう間違っているのかも分からなくて、ずっと躓いたままだった。
 はかどらない勉強に私の手は止まっていて、頭も目の前の問題から遠ざかっていた。

 心の中に広がるのは後悔ばかり。
頭に浮かぶのは、気分を害している様子の彼の顔。
そうすると胸が押しつぶされそうになって苦しくなった。
 谷折君は言っていた。
私が気にする、瀧野くんの怒っていると思う態度は、私の事を気にしているからだって。
……でも、それは違うと思う。きっと反対の事だ。
あれは気にしている態度じゃない。
どちらかと言うと……。
 そう思ったら、一つの考えが浮かんだ。
途端、地の底に落ちような感覚になった。目の前が真っ暗になった。

 もう嫌われた。
瀧野くんに嫌われた。
 きっとそうなんだ。

……そうか、そうなんだ。

 もうやり切れなくなって、手にしていたシャープペンを放り投げるように転がした。
悲しみだけが次から次へと心の底から上がってくる。それはすぐいっぱいになって、私は机の上に組んだ両腕の上に顔をうつ伏せた。
暗くなった視界に安堵したのか、勝手に涙が浮かんでくる。
 こんなにも一人でショックを受けて落ち込んで……。
彼の態度に痛みを覚えて苦しむ私は愚かだと思った。
元はと言えば自分が悪いからなのに。
 ……きっと彼だって、私の態度で気を悪くしたのに。
なのに、私はこんなに落ち込んで。
 自分の情けなさにも涙が浮かんでくる。

 けど、もう一人の自分が言った。
この状態でいたら、もっと収拾つかなくなるよって。
こんな所で一人泣いていたら、またどんな噂が流れるか……。
 頭を上げ、落ち着かせるように息を吐いてから、ハンカチを取り出した。
そして、そっと目頭を押さえる。
どうにか気持ちを落ち着かせようとした。
泣くのは家に帰ってからでいい。
数学の問題に取り掛かろうと思うのに、ノートに向けた目には何も映ってなかった。

明日、朝会ったらちゃんと挨拶をして、……声かけてみよう。
それで無視されたら、それはもう自分が悪いのだから。

なけなしの勇気を搾り出してそう思った時だった。
「……何してるの?宿題?」
その声に驚いた。
彼の声だったから。私が座っている周りに、他に人はいない。
だけど、まさか、と思って顔を向けた。
そこには、昼の彼ではなくて、そっと見つめてくれている彼がいた。
知っている彼に、昼の時とは違う空気の彼に、一瞬で入った肩の力が自然と抜けた気がした。
「うん、時間内に出来なくて、答え合わせ次の時間だから」
普通に話せているだろうか、私は。
せめて声だけでも。顔はそれ以上彼に向けられなくてノートに向けていたから。
心臓がどきんどきんと言っていた。不安に揺らぐ緊張の音だった。
彼の手が、隣の椅子に手をかけたのを見て、心臓が鳴る。今度は違う音だった。
そこに座った彼は、ノートを覗き込むと優しい口調で言った。
「どれ?」
たったそれだけの事に、涙が浮かびそうになった。
「これなんだけど、全然分からなくて……」
きっとそう言った声は震えていたかもしれない。
「ああ、これは……」
何でもない事のように、彼は解き方を丁寧に教えてくれた。
彼に教えてもらうと、自分がどこで躓いていたのか分かる。そして、答えへの導き方も素直に理解できた。
それが、素直に嬉しかった。
今まで苦しんでいたのが嘘のように次に出す式が浮かんでくる。
それが嬉しくて、笑顔で言っていた。
「解けた!ありがとう」
そして返ってきた彼の優しい笑顔に、何かが溶けるような温かさをこの身に感じた。
それは不思議な感覚で、自分が違う所にいきそうになった。
 けど、すぐ私の頭は思い出した。
ずっと彼に謝りたかったことを。
言わなくちゃ。
そう思った途端、緊張が走った。出来る事なら、このまま柔和な空気に流されてなかった事にしてしまいたい。
だけど、それをしてしまったら、私はずっと気にしていくだろう。
そして、お互いの中に言葉に出来ない気まずい雰囲気が残り続けるかもしれない。
 言わなくちゃ。また後悔しないために。
顔を真っ直ぐに向ける勇気は持てなかったけど、必死に自分を奮い立たせるように手を膝の上に置きぎゅっと握った。
「あの、今日の昼休み、前もそうだけど、ご、ごめんね」
力を抜けば声が震えてしまいそうだった。
「え?」
「ああいう風にされるの瀧野くんは嫌いだって知ってたんだけど、クラスの子に頼み込まれて、断りきれなかったから、嫌な思いさせてしまって……。私悪いことしたなってずっと思ってて」
「あ、いや、……気にしなくていいよ。春日が悪いわけじゃないし」
思ってもいなかった言葉に、思わず顔を上げた。
彼は何とも言えない顔をしていた。それを見たこっちが心をくすぐられるような……。
私の視線に気づいた彼は、そっとこっちに目を向けると優しく微笑んでくれた。
それに勝手に胸が大きく鳴った。
そんな自分に慌てる私。どうしてよいか分からなくなって、目が合っている事も恥かしくなって、どぎまぎした。
そして頭に浮かんだ谷折君の言葉。

嫌いな人間には優しくなんてしないから。気にしているだけだよ。君の事をね。

また心臓が大きく鳴った。思わず息をする事も忘れてしまいそうそれに、まさか、と思う自分がいた。
 そして、それを打ち消そうとする自分。

違う、違うよ。瀧野くんは最初から優しかった。
ずっと優しい。どんな時だって。どんな人にだって!
それは私一人じゃない。

 まるで何かの言い訳のように……。
じゃないと私、変に誤解してしまいそうになる。

「瀧野くんって、優しいよね。誤解されたりしない?」
だから、そう言ったんだ。

そしたら、瀧野くんは間を計るように窓を見つめた。
どうしたんだろう、と思った矢先、微笑みながらこっちに顔を向けて彼は言った。
私は強い引力に引っ張られるように目を逸らす事ができなかった。
「んー、俺は人を選ぶよ。春日みたいに正義心が強い付き合い方しないし。特別に思ってない人にまで優しくしようとは思ってないから。だって誤解されたくないから」
そしてまたにこり、と笑顔を向けた彼は、時計に目を向け椅子から立った。
「じゃあ、練習始まるから。また明日」
顔が勝手に熱くなっていく。きっと、真っ赤に染まりあがってる。
口から出そうになる位、心臓も鼓動を響かせていた。
それでも彼の言葉にどうにか返す。
「あ、うん、頑張って、ね」
「うん、ありがと」
知っている彼の声。笑みを含んだ声。優しい声。
今までと変わらないはずなのに、心臓だけがやけにうるさかった。

 「あいつの優しさ、通じてるんでしょ」

頭に響く谷折君の言葉が今の私の思考能力を奪っていくようだった。

 違う。違うよ……。瀧野くんは、最初から優しかったもの。
泣きそうになりながら、何かの抵抗のようにそんな事を私は思っていた。
 顔の火照りはまだ治まりそうになかったけど。

体中が心臓になったのかと思うくらい鼓動が響いてうるさかった。

2006.8.25


投票です。宜しければポチと。