時の雫-紡がれていく想い

零度の距離 ―2


§8

 彼から貰ったキーホルダー。
それは世界に一つしかないものだけど、鍵につけることが出来なかった。
思い悩んだ挙句、引き出しの中にしまった。


 浮上したはずの気持ちは、休日になれば又元通りだった。
彼が乗っているだろう電車に私は乗った。今日は後尾車両を選んだ。
一番後ろなら、誰かに見られることはない。私がいるって事。
何も考えず、慣れた道をただ歩いていた。
彼の姿に気付いたのは、学校近くになったところでだった。
それは、いつもと変わらない彼の姿。
たったそれだけの光景なのに、私の心は時が止まったように感じた。
他に何を感じたのか自分自身にも分からなかったけど。
目の前に広がって見える光景に、少なからず胸が鼓動を体に響かせていた。
このまま、ゆっくりと時間を刻みたいとさえ思い始めていた。
だけど、それは続かない。

まるで思い知らせるかのように、風が流れてきたのを感じた。
朝の冷たい空気が頬を差していくようだった。
それを起こした人は、そのまま横を走り抜けて行った。颯爽と。
その人は、そのまま向かうと彼の腕に飛びつくようにして抱きついていた。
思わずそれにはっと小さく息を呑んだ。
 まるでそれは、自分との世界の違いを様々と見せつけられたような気がした。
彼女の勢いに瀧野くんは体をよろめかせていた。
 私の心に、羨望の念が浮かんだ。
けれど、次の瞬間、彼女は腕にしがみ付いたままの格好で私を見た。はっきりと。
そして、その顔には笑みが浮かんでいた。例えて言うなら、優越感を持った笑みだった。
 意味が分からなかった。その笑みの理由が。
だから、苦笑した。
すると、彼女松内サンはぱっと顔を背け彼と言葉を交わしている。
微妙に見える彼の表情が本当に困っているもので、なんだかそれが面白くて笑い声が出そうになるのを必死で堪えた。
 見ているうちに二人の変化に気づく。
彼女に目を向けない彼の毅然とした態度。彼の言葉に落ち込む彼女の姿。
その辛さに心が引きずられそうになる。
何度も似たような想いをした事があったから。私はそこで落ち込み、一人殻にこもる様に心の痛みに耐えた。
 けど、彼女は違った。
彼の速い歩きのスピードにも必死で付いていく。頑張って何かの話題を投げて、特別な眼差しで彼を見つめている。
恋をしている表情。それがはっきりと分かるほどの。
 彼女は私とは違った。彼女は強い。
私なんかとは違って。
 そう思った途端、胸が痛んだ。
何もないフリをして足元を見つめる。そこには変わらない現実があった。
私の現実は変わらない。今までも。これからも。





 月曜日の放課後、生徒会室に亮太と二人だった。
こう言うと、他の人は何やら意味深な笑みを浮かべる。けど、そんな色気のある話は全くもってない。
 自分の担当分を終えた私は、今もまたぼーっとしていた。
だから、亮太に何度も名を呼ばれてようやっと正気に返った、という感じだった。
 亮太がやっと書き終えた書類を受け取って目を通していると、役目を終えたように肩の力を抜いている亮太だった。
一息空いた間に、亮太は言う。
「今、学年中春日の噂でもちきりだよな」
心の中で、またその話か、と思いながら、嫌気を押し隠しつつ言った。
「周りが勝手に言ってるだけでしょ。……なんでそんなに次から次へと私の噂が出るの?」
「そりゃ、気になるからだろ」
「なんでよ?」
気になる理由が分からない。
「そりゃー、春日が誰に告白されても受ける事ないし、付き合ってるヤツいないからだろ」
「そんな事私の勝手じゃん」
「仕方ないだろ。お前が生徒会役員だってだけで注目浴びるんだから」
「何それ?」
「それだけ人目を惹くって事だよ」
「知らないよ、そんな事」
そうやって言葉が繋がる理由が分からなかった。
「誰かと付き合や、少しは落ち着くだろうによ。どんな人間ならいいんだよ?」
「えー?そんな話はしたくない」
「ふうん?珍しいやっちゃな」
「ほっといて」
ちらりと亮太を一瞥してから又書類に目を戻した。
このところずっと、こんな話ばかりだった。
周りがする話も、周りが訊いてくる話も。
その度に私は不愉快な気分になった。それだけじゃない。いろんな思いが心の中を交錯する。どれもこれも嫌な感情ばかりが。
見ていて、陰鬱な空気が分かったんだろうか。
亮太は空気を変える様に呟いた。
「……あいつら遅いな」
あいつら?誰かと約束でもしているのだろうか?
「約束?時間無いなら先帰っていいよ?」
「いや、……谷折に春日手製のおやつ食べに来いよって誘っておいたんだよ。藤田が来ないって分かった時点で。春日はちゃんと人数分用意してるからな。
この時間になっても来ないという事は忘れているか、終わってから来る気か」
そう言えば、おやつ作って持って来ていたんだ。4人分。
書類の確認も終えた事だし、印刷室に向かおう。
「じゃあ、コピーしに行くついでに、テニス部の様子でも見てきましょうかね」
そう約束しているのなら、一応待ってみないといけないし。
「おう、頼みます」
「戻ってきたらお茶しましょうか」
「おう、待ってます」
やけに機嫌の良い亮太の声だった。
廊下に出た途端、ため息が出た。
テニス部、と言う事を連想するだけでため息を吐いてしまう。
重くなった気分を引きずりながら行くべき所に行った。
休日もゆっくりする時間が合ったのに、ちっとも気分は浮上しなかった。
同じことをぐるぐる考えるばかりで何も答えが出ない。
しかも、何に悩んでいるのか分からなくなると言う有様。
あー、私一体何したいんだろう。
又そう悶々と考えながら作業をしていた。
目はコピー機の画面を映しているはずなのに、何も頭に入ってこない。
そんな状態だったけど、書類を目にして亮太の顔を思い浮かべた。そうしたら、亮太の行っていた言葉を思い出して、テニス部の様子を見ることを思い出した。
廊下に行き、奥の窓を開けてグラウンドの奥にあるテニスコートを眺めた。
そこに見えるはずの光景は真っ暗で、人の様子は見受けられなかった。
「灯りがついていないという事は終わったのかなぁ」
それは独り言だった。
なのに、背後から声が飛んできた。
「何が?」
本当にびっくりして声を上げてしまった。
「わぁあ!」
相手もビクッとしたのが気配で分かった。思い切り動揺しながら振り向けば、バスケ部の片岡君だった。
「あ……、ごめん、まさか人がいるとは思わなかったから」
「いや、こっちこそごめん。まさかそんなに驚くとは思わなくて」
「う、うん。片岡君はこれから帰宅?」
「そうだよ。良かったら送っていこうか?」
そう言いながら片岡君は微笑んだんだけど、私は困っていた。
言い訳みたいに浮かんだ台詞をそのまま口にする。言う事は本当のことなんだけど。
「あ、……まだ仕事残ってるから。それに他の人もいるから」
「そっか。……窓閉めなくていいの?」
「あ、そうだった」
最近の私はこんな事ばかりだった。ワンテンポ遅れているというか、何か抜けていると言うか。
私の気持ちは、まだ驚いた時のが残っていて、近くにいるはずの片岡君の事なんて放ったらかし状態だった。
それはほんのちょっとの時間の事だと思う。
だけど、私の耳に聞こえてきたのは、ひゅんという物が飛んでくる音。そして、すぐばしん!という何かがぶつかった音がした。
この静かな廊下には大きく響いただろう。
それが何なのか分からず顔を向けた。
見れば、片岡君の顔が歪んでいる。ぶつかったらしい。
そして、足元を見れば、部誌らしきものが落ちている。テニス部、と、書かれているように見えて、自然と手を伸ばしていた。
「わり。思わず手が滑った」
途中でそう声が聞こえて、手が止まった。その声は彼のものだったから。
確かめるように顔を向ければ、やはり、瀧野くんだった。
雰囲気的に、彼はその台詞を片岡君に言ったらしい。けど、片岡君を見る彼の顔は険しい表情に見えた。
その理由は私には分からない。
二人は仲が悪かっただろうか?私が判断できるほど、二人が接しているのを見た事がないのだけど。
「……いや」
そう言ったのは片岡君。彼の声もなんかピリピリしていた。
そこは異様な雰囲気だった。二人の間の空気は緊張感が漂っていて、私がいるのは場違いのように感じるほど。
今いる場所から逃げたくなって、部誌を拾い上げて彼の方へ歩き出した。
彼は動かない。目も向けてくれない。それだけで、心臓が嫌な音をたてていた。
私が彼に接するのも、彼の気に障るのではないか、そんな事も思った。
不安をあらわに、おどおどしながら彼に目を向けた。
数瞬後、彼の目が動き、私と目が合った。
そこでようやっと、私が知っている彼の顔になった。思わず安心して肩から力が抜けたのを感じた。
幾分余裕が出来た頭に、片岡君の存在を思い出し顔を向け言ったんだ。
「片岡君またね、」
バイバイ、と言おうとしたら、それを遮るように片岡君が声を放ってきた。
「ねぇ春日さん」
「?」
それは何かを聞こうとしている声だった。訊かれるそれは何だろうと思った。
「今誰かと付き合ってるの?」
その台詞に、頭の中が一瞬真っ白になった。いくら最近よく聞かれている話題とは言え、噂の彼の前で訊かれたくはなかったのだけど。
片岡君はそう私に聞きながら私に目を向けてはいなかった。それが尚私の心を慌てさせた。けど、私は顔を上げられない。
「え? ……ううん、……」
この後、また深くを訊かれるのかと思って構えていた。だけど、片岡君が言ったのは違うことで、内心安心した。
「そっか。じゃあ俺なんてどう?今ならお買い得だと思うけど」
「えぇーと、高くつきそうなのでやめておきます。私仕事残ってるから行くね」
どうにか片岡君に笑顔を向けた。
心がざわついていて、早く彼の近くに行きたかった。
まるで、縋るような気持ちに、この時の私は素直に行動していた。
だけど、現実に返るように知らせの音が飛んできた。
あともうちょっとの距離の所で、コピー室から「ピー!」という機械音。それはエラー音。
「あ!コピー!」
思わずそう声を上げてコピー室に走っていった。

 コピー室に一人になってみて気がついた。凄く緊張していた。
何に対してなのかは分からない。だけど、心臓がどきどき言っていた。
額にも汗が浮かんでいるのではないかと思うくらい。
 あの場に合った緊張感が何故か怖かった。
瀧野くんの顔もいつもと違って、……怖かった。
でも、私を見てくれた時はいつもの彼だった。
今それを思い出して、ほっと安心の息が洩れる。
理由は分からない。だけど、怖かった。
 どうにか気持ちを落ち着かせて、目の前にコピーの修理にとりかかる。
これはいつもの事で、慣れていればすぐ直せる類のものだった。
カバーをあけて詰まった紙を取っている時、彼が顔を出してくれた。
必死で意識を目の前に向けながら、背中に感じる彼の気配に引きずり込まれそうになりながら、何もないフリをして彼の問に答える言葉を口にした。
「直りそう?」
「うん、紙が詰まっただけだから。
瀧野くんノート持っていく所だったんでしょ?ごめん、そこ置いてる」
「うん。まだかかる?それ」
「うん、もう少し」
「うん、分かった」
顔は向けなかった。だけど、音だけで分かる。
彼が、部誌の置いてある所に行き、それを手に取り教員室へと向かうのが。
……早く、これを直さなくちゃ。
何かの焦りをすり替える様に私はそう思っていた。
その後、彼は再び姿を見せに来た。
会話の延長線で、私は彼をおやつに誘った。
多分、彼もその話を聞いているのではないのかな、とは思ったんだけど、私がそう言った方が、事がスムーズにいくかなと思ったから。というか、生徒会に向かう道のりが気まずくならないかなと思ったから。
その証拠に、彼の返事が少し言葉に詰まっていた。だから笑顔で誤魔化しておいた。


 生徒会室で一緒におやつを食べているとき、彼の様子はいつもと変わらなかった。
だから、無意識に私の心は安心していた。
そして、何も考えないようにした。片岡君の事も松内さんの事も。
心が少しでもそれに囚われそうになると、無性に泣きたい気持ちになるから。


 松内さんの事は知っていた。
3年生に松内さんのお兄さんがいる。柔道部部長で典型的な体育会系な人だった。
その人からたまに話は聞いていた。可愛い妹の事を。
それに、藤田君と同じクラスで、松内さんの噂が学校中に広がる前から聞いていた。
テニス部に好きな人がいるって騒いでいた、と藤田君が言っていたから。それはどうやら瀧野くんらしいって事も言っていたっけ。
だから、図書室で目の前に告白の現場に居合わせても、特別驚きはしなかった。
それもアリだろうと。

彼は、どう思っているんだろう。
ぼんやりとそんな事を思っていた。



おやつを食べながら雑談に話を咲かせていた。
谷折君が結構面白くて何度も笑いをこぼしていた。谷折君の言葉に瀧野くんは顔では嫌そうにするけれど、なんだかんだと楽しそうな様子だった。クラスの人たちといる時はまた違った彼だった。
おやつも全部なくなり、お茶も全部飲み干して空になったコップ。
自然と片付けになり、書類の片付けも戸締りも終えた時、私は自然と彼に目を向けていた。
すると、彼はすぐ私に気づき笑みを向けてくれた。
言葉はなかったけど、それは「帰ろうか」と言っている様に聞こえたんだ。
二人で帰る事は当たり前のようにその場が進んでいく。
これに甘えてよいのだろうか、と不安も翳る。だけど、彼は二人と言葉を交わしながら笑顔を見せ自然に隣にいた。このまま居ても良いのだろうか、そう思って安心と同時に不思議な胸の高鳴りを感じた。
特別な不思議な時間を私は感じた。

帰りながらいろんな話をしていた。
今日あった話。川浪さんの事や、授業であった面白かった事。
話しながら時折彼を見ると、ちゃんと話を聞いてくれていて優しい表情に安心する。
そして、何回かに1回はこちらを見てくれて目が合う。
たったそれだけの事だけど、ほんのりと嬉しかった。
その時は、そんな自分の感情に気付いていなかったけど。

一緒にこうして歩きながらも、心の中ではチラホラと直接彼に聞けない話題が姿を見せていた。
去年の球技大会の事や、今流れている二人の噂、それに松内さんの事。
どの話も全部、今日生徒会室では話題には出なかった。
多分、皆避けてクチにしないのだろう。
痞えるように、息苦しさを感じていた。心の中に色々な感情があって、バラバラになってしまいそうな苦しさがあった。
だけど、こうして歩くこの時間は嫌じゃなかった。
自然と目を彼の横顔に向けていた。この位置から見える彼の横顔も好きだった。
ひっそりと佇むような今だけのこの時間が好きだった。
誰にも見られない、薄闇の中。一人なら恐怖に覆われるけど、今は違う。
ただそれだけで違う自分が居るようだった。今までの自分とは違う……。
そんな事を思っている途中、丁度それは大きな通り道を横切る前、予想外の人物を見つけて思わず声を出してしまった。
「あっ」
出してからしまったと思った。瀧野くんもつられる様に顔を向けるのを見た。
「あ……」
彼の口からも漏れた声。
その先には私服姿でどこかに向かおうとしているタカの姿があったから。
こんな所をタカには見られたくない、と思った。
何かを訊ねられたくないと思った。
だから、そのままこちらに気づかずに通り過ぎて欲しいとも願った。
だけど、私の願いどおりにはならなかった……。
声が聞こえたらしいタカは足を止めた。
それを見た瞬間、彼の背中に隠れていた私。
隠れてみて、何をやってるんだろうとも冷静な自分が言っていたけど。
こんな事をして、彼はどう思うだろうか。
こんな事をして、タカにばれたら何て言われるだろうか。
そんな事を思って、私は尚動けなくなっていた。

こちらに気づいたタカは声をかけてきた。
「……あれ?瀧野?」
「あ、うん。久しぶり」
彼の声には躊躇いがあった。背中に私が隠れていてどうしたものかと思っているに違いない。明らかに私はタカから逃げたのだから。
だけど、タカは近寄ってくる。そして言った。
「久しぶり。今帰り?」
「そうだよ」
「いつもこんな時間か?」
「いや、今日は練習終わってからのんびりしてたから。そっちはこれから誰かと約束か?」
「うーん、残念ながら寂しく一人です。文房具買いに行くところだよ」
よりにもよって。そう思った。誰かと約束でもしていてくれたなら、さっさとここからいなくなっただろうに。だから、タカは言った。
「雑談しにどこか行くか?」
さっと顔から血の気が引く音がした。
どうしよう、そんな焦りさえ浮かぶ。
気配からして、どう返事をしようかと困惑している彼を感じた。
だから、縋るように、もう救いを求めるように彼のブレザーの裾をぎゅっと握った。
「えー、と……」
返事をしようと声を出した彼。私の体はびくりとなった。
彼は何て答えるんだろう。
そう思っていたら、彼の手が裾を握ったままの私の手に伸びてきた。そして、私の指を外していってそのまま包む様に握り締めた。
不思議な感情が胸に広がったのを感じた。
「又今度。悪い」
そう言った彼の声は柔らかかった。
「いや、別にいいよ。……」
そのタカの声に、内心ぎくりとした。何かを考えている声だったから。
少しの間があってから、タカの声が聞こえてくる。
「あー……、じゃ俺行くな」
何かを口に挟んだような言い方だった。自然と顔が強張ってきた。
「あぁ」
だけど、彼がそう返事をすると、タカは行こうとしていた道を進んでいく。
内心、ほっとした。
だけど、それも束の間。離れたタカから声が飛んできた。
「あ、そうだ。明日学校で春日に会ったら言っておいて。この間は分からなくて勘違いしていた事、今日分かったからって」
心の中で叫び声をあげた。ああもう当分顔を合わせられない……。
「……伝えておく」
窮しながら答えた彼に申し訳なさが募る。
「まぁよろしく。じゃ、またな」
まぁよろしくと言った声が何かを孕んでいるのに気づいていた。
じゃ、またな。と言った声がやけに明るい事に嫌な感じを受けた。
ああ、もう、頭が痛い……。
そして、残されたような彼との間に何とも言えない空気が漂っている。
何て言ったらよいのか分からない私に、彼は言った。
「……言っておいて、だって」
タカのその言葉に他の意味がある事に、彼は気づいているのかもしれない。
だけど、私は何も言えない。そして感じる繋がられたままの、彼の温かい手。
「うん」
そう口にすることしか出来なかった。
「……帰ろっか」
そう促すように言った彼の声がやたらと心に染みたんだ。
それに反応するように、自分の手が熱くなっていくのを感じた。
「うん」
恥かしくて顔を上げられなかった。それから、何も言葉が浮かんでこなかった。
漂っているのは静かな空気。
きっと、困ってる。この空気に彼は困ってる。
そう思えば思うほど、何も口に出来なかった。
反対に、何かを聞かれたらどうしよう、と思った。そう訊かれるのも、それに答えるのも今の私には怖い。
繋がれたこの手を甘受していていいのだろうか。そんな事さえ思う。
そして浮かぶ戸惑い。ぐるぐると回る思いに、まるで強迫観念のように何か言わなくちゃと思い始めていた。
「ぁの、瀧野くんの、この……」
必死の思いでそう言葉を口にした。
だけど最後まで言えず口を閉じてしまった。
「ん?何?」
優しい彼の声に、「やっぱり言えない」と思った。
泣きたい気持ちになっていた私が慌てて口にした言葉。
「え、と、……さ、最近、1年の子と仲良いよ、ね……」
言ってしまって、後悔した。言わなきゃよかった。
だって、彼の顔が変わったから。
つい先ほどまでの彼が、いなくなった様な気さえした。
押し寄せてくるのは酷い後悔だけだった。
あと感じるのは困惑した様子の彼。
「あー……、仲良いと言うか一方的に付き纏われてるっていうだけなんだけどね。……変な噂は立てられ、部員には冷やかされてこっちは迷惑してるし」
その言葉が鋭く突き刺さった。
自分の事を言われているのだと思った。
この繋がれた手が、仕方がないから、という彼の思いに聞こえて、迷惑をかけているのだと思えて、泣きたくなった。
「あ、ご、ごめん……っ」
そう口にして慌てて手を解いた。
迷惑をかけていると、本当は思っていた。迷惑に思われているかもしれないと、薄々思っていた。でもはっきり訊くのが怖かった。
彼の口からそうはっきりと聞いてしまったら、きっと私は立ち直れないのではないかと思っていたから。だけど、そう思っている事さえ認めたくなかった。
 泣きたくなった。不意に。
だけど、次の瞬間飛んできた彼の声に、私は驚いた。
「違う!」
そして、再び握られていた私の手。
意味が分からなかった。そんな彼の声を訊いたの初めてだった。
「ごめん……」
そう謝る彼が何を言っているのかも分からなかった。
分からない事だけが頭の中を回っていた。
そんな私を解放するかのように、彼は私の手をそっと離した。
そして、小さく息を吸うと言葉を紡いだ彼。
「これは迷惑なんかじゃない」

それはどういう意味なのだろうか。
私には分からなくて、答えが分かる訳でもないのに彼を見つめていた。
でも彼は目を伏せたままで動かなかった。
何を言えばよいのかも分からなくて、私は固まったままだった。
だからなのだろうか。
彼が何かを抑えるように静かに言った。
「足止めてごめん、帰ろうか」
「……あ、うん……」
私にはそう言う事しか出来なかった。他には何も言葉が浮かばない。
だってもう場面は変わってしまったから。私が言葉を返す時間は終わってしまった。
なんでこんな事になったんだろう。
もう訳が分からなくて泣きたくなった。
そこから家に着くまでの短い時間が、物凄く長く感じられた。
いつもあっという間の時間のはずなのに。

彼は怒っているのだろうか。
そう思うと、どうしようもなく不安に駆られた。

家の前で他に言葉が浮かばなくて、「じゃ……」とだけ言った。
不安に揺れたまま、自信なく彼に向けた目。
「また明日」
いつもと変わらない声でそう返してくれた彼に、少しだけ安心してお礼を言った。
「うん、送ってくれてありがとう」
そして、帰ってきたのは彼の微笑みだった。
 たったそれだけの事に、心の中に温かいものが生まれたのを感じる。
そのまま彼はここを離れ帰って行くのだと思った。
だけど、彼の足は止まり、耳に声が届いてきた。
「一年のあの子とは何でもないから。……だから、誤解しないでほしい……なんか皆誤解してるみたいだけど」
そして、真っ直ぐと見つめてきた彼。
それらに私の頭は何も考えられなくなった。
意味が分からなかった言葉が、私の中で思い出されていた。

―「あー……、仲良いと言うか一方的に付き纏われてるっていうだけなんだけどね。……変な噂は立てられ、部員には冷やかされてこっちは迷惑してるし」
「これは迷惑なんかじゃない」―

それは、私の事も含まれているのではなくて?
他にも言葉にならない思いが突風のように心の中を通り過ぎていっていた。
瞬時に処理しきれない頭と心に、私は動きを忘れていた。
何か返事をしなくちゃ。なけなしの理性がそう言う。
そしてやっとの思いで言えた言葉は「……あ、うん」ただ、それだけ。
私はうろたえていた。
真意を量りかねてどう反応を見せて良いか分からなかった。
彼はそのまま目を離し、「じゃ……」とだけ言って帰って行った。

動けなかった自分に、後悔が募る。
情けない自分。彼を困らせてしまった自分。
はっきりと対応できない自分が、全て嫌で仕方なかった。

私は何をやっているんだろう。
何をしたいんだろう。
自分の心なのに出口が見えない。
自分の世界のはずなのに、何も見えない。

今の私、きっと最低だ。


 彼の顔を思い浮かべるたび、泣きたくなった。
自分がどうしようもなく嫌いに感じた。
 いっその事、全部なくなってしまえばいいのに。
そんな事すら思い始めて。

 まるで凍てついた心のよう。
心の片隅で小さな声が生まれる。……なぜ?と。
だけど、私は聞こえないフリをする。

 嫌だったから。


2006.8.20


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