時の雫-紡がれていく想い
―1
§8
自分の部屋で机に向かったまま、もう大分時間が過ぎていた。
私の目はじっと机の上に向けられている。
「春日さんへ」とだけ丁寧な字で表に書かれた白い封筒。
学祭最終日、帰り覗いた下駄箱に入っていたそれ。
あれから何日が過ぎただろう。
その日帰宅してからは、その存在を忘れていた。
代休の日の夜、次の日を準備するのにカバンを覗いてみてその存在を思い出した。
それでもすぐ読む気にはなれず、引き出しの中に仕舞っていたそれ。
学校が始まり、ようやっと目の前に出した。
今の私は不安定で、自分に自信がなくて、どうして良いのか分からない。そんな状態だった。
意を決して封を開け、白い便箋を開いていった。
丁寧に書かれた文字。それだけで、胸が打たれるような思いだった。
それは初めて貰ったラブレターで、読み終えた後、顔を机の上にうつ伏せた。
気持ちは嬉しい。だけど、こんな風に思って貰える人間じゃないのに……。
どうしようもない気持ちが私を襲った。
ものすごく泣きたい気持ちになったけど、その理由は分からず歯を食いしばって耐えた。
心の中で、ずっと渦巻くようにそれらは私を支配していた。
気持ちが揺れているのを感じながらも、私は知らないフリを続けた。
それと反対に、彼と接する時間は増えた。
それは、役員とか関係なく、知り合いとしてのもの。だから、顔を合わせれば足を止めて他愛ない言葉を交わす。
心の中には、形の見えない黒い物が存在していた。
それを感じる度、不安が広がる。何故だか恐怖が走る。
彼に向かう緊張と不安。
その理由を見つけないまま、時間だけは緩やかに静かに過ぎていった。
クラスの女子の中では、グループが4つほどあった。
それぞれのグループには各々傾向があって、時として小さないざこざがあったりした。
学級委員が頭を抱え込んでいる姿を見た事も何回かある。
私も、典型的な女子のグループ、というのは、苦手だった。
それは多分、過去からの影響だと思う。
その日、一つのグループがいつもに比べてとある話題に奮起していた。
彼女達のうち3人は男子テニス部に好きな人がいた。まるで追っかけのように練習を見に行ったり差し入れをしたりとそのエネルギーは見ているだけでも感心させられた。
そんな人たちが身を乗り出して真剣になるものと言えば……。
「それで本当目障り」
「後夜祭ダンスもいくら断られても何度も誘ってったって話だもん」
「あれは見てる分でも気分悪いよね」
「瀧野君があんな子と付き合うのだけは絶対許せない」
「私だって」
「でも瀧野君の反応では、それは無さそうだけど」
「あーそれはそうかもね」
「周りが見てもそう思うのに、当の本人は凄いよね」
「ほんとに。いい加減分かればいいのに」
「あーでも瀧野君、いつみてもかっこいいよねぇ……」
「谷折君もカッコイイよー」
「それを言うなら峯君だって」
その時私は後ろの席のナミちゃん、女子テニス部の川浪さんに体を向けてある授業の課題の話をしていた。
多分、ナミちゃんの耳にもその話は聞こえてきていると思う。ただ、顔には出さないだけで。ナミちゃんの周りには同じテニス部の子二人が雑談中。他の子はお弁当を食べていた机を元の場所に戻してそこで雑談をしている。
私は他のグループに属してはいるけど、固執している訳ではないので、比較的あちらこちらと話が出来た。元々、授業以外の時間はあまり教室に留まっていられないのが理由かとも思う。
そんな中で、ナミちゃんとは意外にも話がし易いというか、話が分かる人だった。
彼女を良く知らない人は、キツイと思うかもしれないけど、実際は毅然とした態度を取る隠れ姉御肌タイプな感じ。私個人的にはナミちゃんの事は好きだった。
好きな人自慢に変わっていた頃、その話を耳にしていたくない私は図書館へと一人行った。
丁度、ナミちゃんと話が終わった所で沈黙が漂っていた時だったから。
私が静かに席を立ったのを、近くにいたナミちゃんは見ていた。
まだ明るい気分の時の私なら、笑顔で図書館に行ってくると伝えただろう。
でも今の私はそんな気持ちにすらなれず、そっと教室を出た。
ナミちゃんはこの時間に教室を出る時は図書室に行くという事を分かっているみたいで様子は何も変わらなかった。
何故だか、その類の話を聞くのが嫌だった。特に今の私には。
「……ふぅ」
思わず出てしまうため息。別に嫌な事があったわけじゃない。嫌な事がある訳でもない。
でも勝手にため息は出てしまう。
あの人たちはここ数日、同じ話題ばかりを口にしていた。いつこっちにお鉢が回ってくるかと思うと正直憂鬱だった。
図書室に到着した頃、古文の授業で分からなかった所を思い出し、それを調べる事にした。適当に何冊か本を見繕って、いつも好んで座っている席に着いた。
静かな空間だった。そのお陰で、短い時間で集中できて早く終わる。
読んだ本を元の場所に戻すため、本棚に向かった。
向かっている最中に、響き渡ってきた賑やかな足音に異質なものを感じながらいた。
姿が見えない先に、人と人がぶつかった音がした。そして、とん、という本棚に当たった音。漂ってくるのはひどく困惑した空気だった。
それを感じながらも足を進める。最後のこの1冊は、この本棚の向こう側に戻さなくてはいけないものだから。
そして、耳に届いた音は、この場所からだったのだと知る。
顔を向けた先に、決死の様子で抱きついている女子がいた。きっと、物凄いエネルギーを要したのだろう。それだけは分かった。そして、その相手は瀧野くんだった。
酷く困惑した顔が目の端に映った。
それでも、私はそれに知らないフリをしてその本棚の端に行き、本を戻した。
耳に届くのは彼の困惑した声。
そして、そこから去ろうとする私の足音と軋む廊下の音。
真っ直ぐと扉に向かう私の耳に、あの女子の声が届いてくる。
真っ直ぐと思いを伝える声が。
「好きなんです!」
真剣な声が。
そして、その数秒後に再び聞こえてきた女子の声。
「先輩!私、あの……」
きっとその声は図書室に結構響いていただろう。図書室はずっと静かだから。
その後、はっきりと聞こえてきたのは彼の声だった。
「ごめん。応えてあげられない」
それに胸がツキンと痛むのを感じながらも、私は表情を変える事無くそこから出て行った。
感じた胸の痛みが何故なのか、その時には分からなかったのだけど。
彼からすれば、そういう光景は珍しい事ではないんだろう。
彼の様子を見てそう思った。女の子に対する対応に慣れているものを感じて、また気分は沈んだ……。
気分が晴れないまま、変わらずやって来る毎日を過ごしていた。
そんなある日の朝、いつものように同じ電車に乗る。
その時間の電車はもう人が多くて、気合負けすると違う駅で降ろされてしまうほどの勢いもあった。
気分が優れないと、体調までもおかしくなってくる様な気もする。
けだるい体、はっきりとしない思考力。その原因を考える力もなくボーっとしながら電車に乗っていた。
それからふと違和感に気づいたのだけど、最初は誰かの鞄か何かが当たっているだけなのかと思った。けれど、少しの時間が経って、それは違うのだと知る。
途端に、私の体は硬直した。今まで目に映っていた視界が急に狭まって、周りの人さえも把握できないようになった。
怖いと思うのに、動けない体。声でも上げなければと思うのに動かせない口。せめてこの場所から動かなければと思うのに手さえも動かせなかった。
体中に冷たい汗が伝うような感覚に、気持ち悪い感触に、気分までも悪くなってきた。
せめて、あっちの方へ行きたい。
切実にそう思って救いを求めるように目を向けた。
その後の記憶は途切れ途切れで、ただ気持ちの悪さだけが私を支配していた。
何も考えられない私の腕がグイッと引っ張られたかと思うと、覚えのある匂いが鼻腔をくすぐった。ほっと安心する匂いに、ついさっきまであった冷たい汗が消えてなくなったような気がした。それでも感覚に残る嫌な感触に気持ちの悪さは消えて無くならなかった。
ぎゅうぎゅう詰めだった空間が、ゆっくりと呼吸が出来るくらいの隙間を得て、気を失いかけていた私を戻してくれたような気がした。
「……大丈夫?」
気遣うような彼の声に、応えなくちゃと声を搾るように出した。
「……ぅん、ごめん……」
彼が助けてくれて安心したのか、急激に気持ちの悪さが襲ってきた。
動かす事も儘ならない自分の体に残る嫌な感触が、まるで私の首を締め上げていくような感じだった。我慢できる所まで我慢する私なのに、今はそれも叶わず、耐えようとする意思とは裏腹に下半身の力が入らなくなっていった。
増すばかりの気持ちの悪さに耐え切れず声を出した。
「……気持ち悪い……」
丁度電車が止まった時、私の手から重みが消えた。そして変わりに熱い手が与えられていた。彼が私のカバンを持ってくれて誘うようにそこから連れ出してくれた。
ホームの端にあるベンチに来ると、腰を下ろしやすいように繋いだ手をすっと上げてくれた。私はそれに素直に従って座った。
今思えば、スマートな彼の仕草に感服する。
座った途端、体中からどうにか残っていた力が抜けていくのを感じた。ぐったりとする体。気持ち悪い体。それでも必死に耐えるように顔を手で覆う。
どうにかこれをやり過ごせるように、と。
きっと、彼は心配な顔で私の様子を見ている、と思ったから。
それと、胸に痞えて私を襲おうとする何かを追い払うように彼に言った。
「……さっき、痴漢が……、でも、動けなくて……」
ぐらぐらとする感覚に、この地面が斜めなのか、それとも揺れているのか、といった感じがして、自分自身が揺れている事も把握できないくらいの衰弱様だった。
そうしたら、優しく引き込まれるような力に、頭は彼の肩に乗せられていた。
そして、乗っている温かい彼の手。守られるように包み込まれている感覚を受けた。
それだけで、幾分気分が良くなっていくようだった。
そして、彼の気遣いに時間遅れで気づき言った。
「……あ、ごめんね……」
「……気にしなくていいから……」
その声に、労わってくれている気持ちを感じて嬉しかった。
大分落ち着いてきた頃、心配してくれている彼が言葉をかけてくれた。
でも、彼の事が反対に気になった私だった。
私につき合わせて、もし彼まで遅刻させてしまったら悪いから。だから、先行っていいよって言ったんだ。
だけど、彼はずっと付いていてくれた。次に来た電車に乗った時も、ずっと守るように回りから距離を取っていてくれた。電車の揺れで、彼の腕が私の背にある壁に伸ばされた時、思わずドキッとしてしまっていた。こういうシチュエーションには慣れない……。
電車の中で言葉を交わしているうち、大分気分が落ち着いてきていた。
朝、電車で彼と会う事は稀だったのだけど、言われてはじめて知った。
もう一本早い電車に乗っているんだという事。そして、それは大分空いているという事も。
そのまま学校へ一緒に行き、彼の入る教室の前で別れる時に心配顔で言ってくれた。
「気分悪かったら保健室行って休みなよ?」
「うん、ありがと」
その優しさに救われたような気持ちになって自然と笑顔になって手を振っていた。
その時思った。
彼は不思議な人。って。
時間の経過と共に、気分の悪さはひいていった。
その時の事を思い出せば嫌な気分になるけど、彼の事を思い出せばどうにか立ち直る事ができた。
そして、次の日はいつもより早い時間に家を出て、彼が言っていた一本早い電車に乗った。
彼がどの車両に乗っているかは知らない。彼を待つのも変な気がするし、なんだか小恥ずかしいので、電車は違えどいつも乗っている前の車両に私は乗った。
彼の姿は、駅で降りて改札口を出た所で見つけた。前の方を歩いている後ろ姿を目にして、私はゆっくりと駆け出していた。
声をかけるのに少し恥ずかしさを感じながら、それでも声を出した。
「おはよう」
それにすぐ足を止めて振り返った彼。
「おはよう。……今の電車だった?姿見えなかったけど」
それを聞いて私は彼の横に並ぶ。
もっと前だったら、こうして横に並んでも話題に困っていたかもしれない。けど、今は自然と話ができるようになっていたから。
「あ、うん。大分前の方の車両に乗ったから」
彼と一緒に歩くのは、凄く歩き易かった。
彼が一人で歩いている時は、走らないと追いつきはしないのだけど。
それがどういう事なのか、その時の私には分かりはしなかった。
頭の中で昨日数学の問題を解いていて分からなかった事を思い出していた。
すると同時に私は一人勝手な事を思っていて、
「あの、数学、前に教えてもらって、その、凄く解り易かったから、また……」
そう言いながらも、なんだか恥かしくて。
でも、言わずにはいられなかった。
自然と上目遣いで、彼の様子を窺うように見ていたと思う。
彼が一際優しい笑顔になった、その次の瞬間、空気が変わったのを感じた。
「おはようございまーす!」
元気な大きい声に、彼の顔が不機嫌に固まったのを見た。
そして、その勢いと共に元気な声の主は彼の腕に抱きついていた。
そのストレートな行動に面食らった、のが正直な所。
彼はそれに反発するように腕を引き剥がそうとするけど、彼女の方は逞しい。
何度だって腕を確保する。
なんとなく、ここに自分がいる事に気まずさを感じて、上向きだった気持ちが下向きになっていた。それに、彼女は図書室で彼に告白をしていた子で、そのやり取りを見るのも彼の様子を見るのも嫌で、その気持ちに素直に従うように、私は言った。
「瀧野くん、先行くね、日直なの思い出したから」
そして一人駆けて行ったんだ。
その後、背後から彼女の声だけが聞こえてきた。
「えー?いいじゃないですかぁ」
多分、諌めるような事を彼が言ったんだろう。
そんな風に自分の感情を相手に向けられるコトに億劫さを感じた。
嫌な気分だった。混沌とする感情に何でだか泣きたい気持ちになって、必死で教室に向かって駆けていた。
明るい気分になったと思ったら、すぐ元通り。
晴れない気分のまま、また時は過ぎていって、私は理由も分からずぼんやりと空を眺めるんだろう。
嫌な感情をやり過ごすように。
何も深く考えられない、どうしようもなく情けない自分に泣きたい気持ちを抱いたまま。
こんな自分、嫌いで嫌いで仕方なかった。
いっその事、消えてしまったらいいのに。
そんな事をぼんやりと思いながら、授業中窓の向こうに見える空を眺めていた。
とある日の朝、クラスの女子が教室に入ってくるなり、凄い剣幕で私の所へやってきた。
いまだ冴えない頭のまま、どうしたんだろう?とかぼんやりと思っていた私。
本当はちょっとだけ嫌な予感はしていたんだけど、今の私にそれをしっかりと察する気力がなかった。
「おはよ!他のクラスの子に聞いたんだけど、ホームで瀧野君といちゃついてたってホント?」
思いもがけない言葉に、一瞬頭の動きが止まったかと思った。
「……は?」
きっと間抜けな顔をしていただろう。
「だって見た人がそう言ってたって!」
必死な様子でそう言ったクラスメート。
テニス部に好きな人がいるグループの子。他の子も真実を聞きたいらしく周りに集まってきた。
はっきりと言わなくても、彼の事を好きな子はたくさんいる。私はそれを知っている。
恋をする女の子は、それぞれが真剣なのだから。
それらがどんな風に他に影響するのか知っている私は、急に冷静になった。
そんな風に誤解されることと言えば、最近では一つしかないから。
「え、と、……もしかして、痴漢に遭ったのを助けてくれた時の事じゃないかな?」
「え?痴漢?」
そう言っただけで、皆の顔から張り詰めたものがなくなった。
それで幾分ほっとする私。
「うん、それで気分悪くなって、心配して瀧野くんが途中の駅に降りて心配してついててくれたんだけど。……多分、その事言ってるんじゃないかな?」
「え?それで大丈夫だったの?」
「あ、うん」
私のことを心配してくれた台詞に意外なものを感じたから、そんな返事になった。
「じゃ、別に二人は付き合ってる訳じゃないんだね?」
あ、やっぱりそれは聞くんだ。
「うん、え、と、ほら、瀧野くんて優しいし、ね」
他に理由も見つからず、そう言った。彼の事と言えばそれくらいしかすぐ思いつくものはなかった。それに、その形容詞は、彼を好きな子なら喜ぶ理由で納得してしまうから。
だけど、その場に居た人間で私だけはすっきりしていなかっただろう。
皆が抱く彼、と、私が抱く彼、との間には何か差があるような気がした。
彼女たちの中に入っていけない自分。入ろうともしない自分。
知ろうとしない彼女たち。彼を思い描く彼女たち。
この私の心の、不気味な静けさはなんだろう?
だけど、モヤモヤと生じている不快は何によってなんだろう?
彼女たちはただ彼に恋焦がれているだけなのに。
そう思ったら、無性にため息をつきたくなっていた。
その後は極端に誰かと接するのが億劫になっていた。
一人で黙っていたい、そんな気持ちで、自分の殻に閉じこもってしまいたかった。
そんなときに限って、色々と声をかけられる。
日直の仕事で教員室からの帰り道、ぼんやりとしながら歩いていた。
大きな声で名前を呼ばれて心底びっくりした。
それはバスケ部の片岡君。
心が余計に翳ったような気がしたのだけど、ぼんやりとしつつ受け流すようにしていた。
辞書を貸してと言われて、断る理由もなかったから一緒に教室に歩いていた。
その途中で言われた言葉があった。
日直の仕事で持っていたロールスクリーンを持つと言った片岡君を断ったから。
「春日さんに頼まれたらどんな男でも喜んで手伝うのに。もっと甘えた方が喜ばれると思うよ?」
思わず苦笑した。
そんな私、私じゃない。
けど、片岡君の声には呆れが混じっていて、自己満足のための親切をムゲにされて、そう言う事が正しい事だと思っている、そんな言い方にうんざりした。
「私、自分の事は自分でするし、サービスで甘える気なんてないよ」
「ふーん?」
分かっていなさそうな反応に、ただにっこりと笑みを向けた。
もうそれ以上答える気はないという私の意思表示。
そうして、片岡君は授業が終わってすぐ辞書を返しに来た。
それを受け取って、教室に入ろうとしたのに声をかけてきた片岡君。
「春日さんはいい匂いがするよね」
「? 匂い?」
そう言えば、辞書を貸した時も匂いの話をしていたっけ。
何をそんなに気にしているのか私には分からなかった。
教室に入ろうとしていた足を止めて首を傾げたら、片岡君は笑顔で言っていた。
「うん、春日さんの匂い」
私には全く意味が分からなかった。
この場から逃げたい気持ちになって、何かに気づいたように目を向こうへ向けた。
そこは丁度、3,4組の男子生徒が体操服姿で教室を次々と出て行く姿があった。気がつけばそれを見ていたけど、知っている人は誰もいなく、何を見ているんだろうと気落ちして目を伏せていた。
私は何をしてるんだろう?
「春日さん?」
名前を呼ばれて我に返った。
「あ、ごめん、今考え事していたみたい。今日、日直だからやる事多くて」
本当はそんな理由でもないけど、とりあえずそう言った。
「あー、そうだったんだ。……あと、さ、部練届けって休日の前の日に出さないといけないの?」
「うーん、いつでも受け取り可能だったはずだけど」
「ほんと?わかった。ありがとう」
笑顔でそう言った片岡君はようやっと私を解放してくれた。
「はぁ」
また勝手にため息が出ていた。そして、足元を見つめていた。
それは全部無意識にやっていて、そんな自分に情けなさを感じて思わず苦笑した。
自分でも思う。今の自分はおかしいと。
そう思うのに、どうしたら良いのか分からなくて、泣きたい気持ちになっていた。
こんな所にいたって仕方がない。日直の仕事があった。早く教材を戻しに行かなくちゃ。そう思って足を進めたところに、また声が飛んできた。
「春日―」
今日はよく呼び止められる日だなぁ、なんて感心するように思って振り向けば、体操服に着替えた亮太と谷折君だった。
「委員会の球技大会の資料って、まだ作ってなかったよなぁ」
「そう言えばまだだわ」
すっかり忘れてた。そういうのもあるという事を。
その時点でも、私がおかしいという事がわかる。
「いつする?」
「うーん、今週も今日で終わりだし、今日か月・火曜のいずれかだけど」
「俺はいつでもいいけど」
「じゃあ月曜日。火曜日は予備日で開けといて」
今日はもう真っ直ぐ帰るつもりでいたから。……ただそれだけの理由。
「了解。あと、なんか谷折が聞きたい事あるみたい」
「え?おれ?」
「まどろっこしいから、谷折の口から言えよ」
なんだろう?
亮太にそういわれた谷折君と目が合った。凄い困った顔をしているけど。
「え、えーと、今、ほら、春日さんすごい噂になってるんだけど」
「うん、なってるね」
今、噂といえば一つしかないから。
「えーと、瀧野とさ」
「うん、知ってる」
「それで、大丈夫なのかなぁと思って」
「…………?」
意味が分からない。
そんな私の反応を見てか、谷折君は困った表情で頬をぽりぽりかきながら言う
「1組のテニス部の女の子たち、なんともない?」
その顔には心配した様子が伺える。
むしろ、心配なのはそこじゃないところなんだけど。
やっぱ、ナミちゃんたちって誤解を受けてるのかなぁ、何て事をぼんやりと思った。
「ああ、誤解はちゃんと解いてあるから大丈夫だよ」
「……そうですか」
なんか意気消沈した様子の谷折君。思わずそれがおかしくて笑ってしまった。
「変な谷折君」
そう言った私に谷折君は何か言いたげだったけど、知らないフリをした。
で、今度こそはと、戸を開け教室に入り、スクリーンを肩にかけて再び廊下に出た。
ぶつけないように注意をしながら運んでいると教室の中からナミちゃんの声が飛んできた。
「春日ちゃん、ドア閉めとくからー」
「うん、ありがとー」
顔だけをナミちゃんに向けて笑顔で言った。
そんな親切を即座に出来るナミちゃんが好き。
肩に食い込むようなスクリーンの重さに内心辛さを感じながらも歩いていた。
それでも、クラスの男子に頼む事もせず、まるで自分でする事を意地のようにして重さに耐えていた。
誰かに「持とうか?」と言われても、どうしても「お願い」という事は言えない。
何でだかそれは昔からだった。
そして、そんな自分を可愛くない、とも本当は思う。
もしかしたら、片岡君はそれも言いたかったのかもしれない。
そんな事をぼんやりと思っていた時、丁度階段へ向かう場所に出た時に重みが消えた。
突然の感覚に「え?」と驚いて顔を向けたら、体操服に着替えた彼がスクリーンをいとも簡単に持ち取っていた。
戸惑いながらも、私はお礼を口にする。
「あ、ありがと……」
「通り道だから」
さらりとそう言った彼は、優しい笑顔だった。
途端に、今までぼんやりしていた私の意識が変わったような気がして、ちょっと困惑した。
彼は、いつもすっと手を伸ばしてくれた。だから、私はその親切を断れない。
だって、彼は聞く事無くさらりと行動に移してしまうのだから。
もし、他の男子がこれを持ってくれたとしても、持てるのは当たり前、ぐらいにしか思わないだろう。
けど、今、彼の体形を見てみると、そんな風には思わなかった。
彼の肩幅は結構あって、自分の身が簡単にすっぽりとはまってしまう事を知っている。
腕だって、クラスの男子より逞しいのを知っている。
見た目だけじゃなくて、決断力も実行力も彼にはある。それは、多分中学の時から知っていた。けど、昔よりも今の方が知ってる。
それくらい、共通の時間が増えてるから。
彼の笑顔。声。温もり。優しさ。それを思うと、なぜか胸が痛んだ。
……なんで?
「どうかした?気分でも悪い?」
気がつけば変な顔をして俯いていた私だった。彼の台詞に我に返って顔を上げた。
「あ、ううん、大丈夫」
すると彼は笑顔で「そ?」と言った。
たったそれだけなのに、心の中で何かが広がる。でもそれは何だか苦しくて泣きたい気持ちにもなった。
教員室に向かう廊下と、下駄箱に向かう廊下との分れ目でスクリーンを受け取ろうと思っていたのに、彼はスタスタとお構いナシに教員室へ向かう方へ歩いて行った。
「あ、あの……」
自信なさげに出てしまう声。
「大丈夫だよ」
スタスタと歩きながら彼はそう言った。
なんか申し訳ないような気持ちになって、きゅっと手を握り締めた。
もし、集合時間に遅れてしまったらどうしよう。そんな風に思って。
彼には変な小細工が通用しない気がした。私自身、他の人には出来るように、彼には同じ対応が出来ない。何でか、彼を目の前にすると、物凄く自分に自信がなくなるから。
教員室に届け終わっての帰り道、下駄箱に向かう所で彼は顔を振り向けて言った。
分かっていたけど、その瞬間はっと目を向けた私。
「それじゃ」
「あ、が、んばってね」
「うん」
笑顔でそう言った彼は下駄箱に向かおうとする。なのに、一歩足を動かしてすぐ彼は足を止めた。
「?」と頭に浮かんだ私。
何かを考え込んだような彼の顔は、私を見ると、いつもより何か言いたげな目になって口を開いた。
「春日も、今日、……日直頑張って」
そう言った顔は笑顔だった。笑顔だったけど、いつもと違う表情。
私は驚いて数秒固まっていた。
ば、ばれてた。
今日日直だって。本当はこの間、日直じゃないってこと。
うわぁあ!
声には出せないけど、心の叫び。うわあぁああ……。
どことなく意地悪な瀧野くんの笑顔だった……。
いつもよりはスッと目が細められていて、何か微かに冷たさを感じるような笑みで……。
あの顔は絶対ばれてるよ……。
その後の授業中も、彼のそれを思い出すたび、隠れたい心境になって頭を抱え込んだ。
きっと後ろの席のナミちゃんは不可解そうな顔をしていることだろう。
ああ……、もうどんな顔をすりゃ良いのやら……。
その日の放課後、図書室にいた。
今日は友達を待っていた。いさちゃんが来るまでの間、ずっと解けないでいる数学の問題を眺めていた。
けど、頭の中は違う事をぐるぐる考えていた。考えていると言うより、ただ回っているだけのような気もする。何も考えられないのが実情。
もう何だか堪らなくなって、シャープペンをテーブルの上に転がすと、顔に両手を覆い、拭うように動かして数秒後、ため息を吐いた。
「それ、そんなに難しいの?」
突然横から聞こえた声。いつの間に来ていたんだろう。全く気づかなかった。
何と言うタイミングだろうか。
言葉を交わしながら、あまり触れて欲しくないと思っていた話題が出された。
「なんだか元気なさそうだし。まだ不調?」
なんて答えたらよいのか分からなくて、誤魔化すように前髪をクシャッと掴み俯きながら言葉を口にした。
「うーん、そうでもない筈なんだけど……」
「生徒会大変なの?」
「それは全然」
なんて言ったら良いのか分からない。何を話してよいのか分からない。
自分が自分の事を分かっていないのに、どう話したら良いだろう?
でも、いさちゃんは横の椅子に座ったまま何も言わないで待ってる。
分からないままだったけど、何となく最近の出来事を話してみた。
「……今日、谷折君に心配されてね」
「うん」
「何やら今噂になってるけど、大丈夫?って」
「大丈夫、ねぇ」
「うん、相手が瀧野くんだから同じクラスのテニス部の子たち何でもないかって。……噂ってどんなのが流れてるの?」
「皆が勝手に憶測で話している事だから、……いろいろ、だけど」
「一学期は、私が亮太と付き合ってるだの、3年の生徒会の先輩と付き合ってるだの噂があったって聞いたけど」
「あー、うん。一部の間でね。春日ちゃん、付き合ってる人とか、いないんだよね?」
「うん、いないよ?」
いさちゃんがそんな確認をしてくるのは珍しかった。
なんでだろう、と思いつつ答えた私。
いさちゃんは何かを考えながら言った。
「……、瀧野君と春日ちゃんが付き合ってるって噂、学年中に広まってるらしいよ?」
学年中とは知らなかった。一部の人だけかと思ってた。
「痴漢に遭ったとき助けてくれた時の話がね、その時の光景を誤解して見た人がいてね、ホームでいちゃついてたって事になってたらしいんだ。川浪さんにも聞かれたから、誤解だよって説明したんだけど……、それもその時の話でしょ?」
納得するどころか、困った顔をいさちゃんはした。
「え、と、学園祭の前くらいから話はあったみたい。二人で帰ってるとか。でも私は二人が同じ中学だって言うの知ってるから、別に特別な事だとは思ってなかったし。委員会で帰りが遅くなっての事だと思うし。ただ、準備中に、抱き合ってたとか、後夜祭でも手繋いでたとか」
まだ他にも何か言いたそうだったけど、いさちゃんはそれで口を閉じた。
「……?なんでそういう……」
話が出てる、と言おうとして、はっと思い当たった過去が……。
体育館に向かっている時に目眩を起こして階段から落ちそうになり、助けてもらった時。
後夜祭を踊るのに二人は手を繋いでグラウンドに向かっていた時。
見られてたんだ……。がく然とする気持ちでそう思った。
そう思ったらかぁぁっと顔が赤くなってきた。それを隠すように頭を抱えてテーブルの上にうつ伏した。
「……どうしたの?」
「な、なんでもない……」
「本当のところ、瀧野君の事どう思ってるの?」
「え?な、なんで?」
平静に返そうとしたのに、声は上擦った……。
「そういう噂が出るくらいだから、何かあるんじゃないのかなぁと思うの」
「な、何かって?」
「怒らないで聞いてくれる?」
やけに真剣に言ってくるいさちゃんに、圧され気味の私はぎこちなく頷いた。
「瀧野君って、人気ある割に女子には素っ気無いんだけどね。だから想っている子は安心しているところもあるんだけど」
それは予想外の台詞だった。
「え?!素っ気無い?」
「うん、部活でもそうだよ。私も殆ど話した事ないもん。だけど、話聞いていても瀧野君って春日ちゃんには態度が違うと思うの」
「そ、それは、親同士が仲いいし、中学の時は瀧野君と仲良い子の事が好きだったから、それで気遣ってくれてて、今は実行委員で仕事柄もあるから……」
まるで言い訳のように、やましい気持ちなんて何もないのに、何故だかしどろもどろになっていた。
「うん、分かってる。けど、本当にそれだけかなぁ?」
「私に聞かれても……」
「私は、春日ちゃんに気があると思うんだけど」
「そ、そんな事言われても、わからないよ……」
本当に困って、私は俯いた。けど、いさちゃんは思いもよらぬ事を言う。
「春日ちゃんは?」
それに心臓は嫌な音をたてた。だけど、私には何も視えなかった。
「……よく、わからない……」
他に、何も言えない。何を言えばよいのかわからない。
どうして周りは困らせることばかりを言うんだろう?
私はただ、毎日を穏やかに送りたいだけなのに。
「あんまり思いつめないでね?周りは羨ましがってるだけだから」
「……うん」
そう答える事しか出来なかった。
余計、頭が混沌としたような気がする。気分が重くなって荷物も足も引きずって歩きたい心境になっていた。
私の目には何も映っていなかった。だから、彼がいたなんて事にも声をかけられるまで気づかなかった。
「生徒会?」
「あ、ううん、今から帰るところ」
私の中には、少なからずわだかまりがあったのだけど、彼はいつもと同じ笑顔だった。
それにいくらばかりか救われた気持ちになってた。
「そう。……あ、これ」
思い出したように制服のポケットから取り出した彼は、握ったまま私に向けた。
何だろうと思いながら素直に受け取るようにそっと手の平を向けた。
そしたら、彼は握っていたものをそっと置いてくれて、なんだか照れた様子で言ったんだ。
「前に言ってた技術の課題のキーホルダー。気に入るか分からないけど」
一瞬、不思議な感情が体を突き抜けていく感覚に襲われた。
気を抜けばどもってしまいそうになりながらお礼を言った。
「あ、ありがとう」
「じゃ、気をつけてね」
にこり、と笑顔で言ってくれた彼。
「うん、ばいばい」
何だか嬉しくて、どこか恥かしくて、そんな感情が混ざりながらも私は笑顔になっていた。
それに答えるように軽く手を上げてくれた彼は部活へと向かっていった。
微かに温もりが残っている、彼がくれたキーホルダーをぎゅうっと握り締めた。
不思議な気持ちだった。
ついさっきまでは気分がもう地面の下に沈みこんでしまいそうな勢いだったのに。
2006.8.12