時の雫-風に乗って君に届けば

§9 向かい風に煽られて


Episode 9 /9




 あと4日ほどで新年を迎えるという頃、近所では大掃除を始めている様子をちらほらとみかけるようになっていた。
その日から美音の母も休みに入り、昼ご飯は久しぶりに親子3人で一緒にとった。
昼食後、美音は部屋で宿題をし、中学3年生の妹の真音も部屋で受験勉強をしていた。
 問題を解いていく中で、段々と手の動きがゆっくりとなっていった。
書いたそれを、シャープペンを握りこんで頬杖を突き考え込むと、徐にそれを消しゴムで消した。
「うーん……」
そう呟く美音の額に眉間が寄られてしわが出来る。
沈黙が数分続き、美音は堪らなくなって部屋を出た。
「おかあさーん」
1階にいる母親の所へと向かった。





 この日、圭史は昼間での練習を終えて、クラブメイトたちと昼食を取ってから家に帰っていた。冬休み期間中は、生徒会の集まりはないらしく、学校で姿を見かけることは一度もなかった。3、4日前に会ったのが遠い昔に感じられる。

 ―こうすると、長期休みってのもつまらないもんだよな……―

そんな事を思いながら家の扉を開けて玄関に入った。
見た事のない靴が置いてある。リビングからは楽しそうな母の声が聞こえてくる。
友達が来ているのだと、この時はそれだけ思い、靴を脱いであがった。
「ただいま」
聞こえてないだろうが、とりあえず声だけは出しておく。
巻いているマフラーに手をかけて解きながら階段に向かう所でリビングから声が飛んできた。
「お帰りなさーい」
ひょこっと姿を現したのは美音だった。
笑顔の美音に、思わず圭史は把握できていない表情を浮かべ−それでも目は驚きの色を隠せなかったが−解こうとしていた手が止まっていた。
遊びに来ているのは美音の母だという事がこの時になって分かった。
「……あ、うん。びっくりした。ごめん」
美音はそれににこーと笑顔を浮かべると、学校では見せた事のない少し甘えた様子で口を開いた。
「あのね、数学の宿題煮詰まっちゃってね、教えて欲しいんです」
その可愛らしさに、いつものように即座に反応できない圭史。
 頭の中で、昨日の母親の言葉が思い出される。

夕食を終えて部屋に戻る際に母親は聞いてきた。
「明日、部活終わった後、真っ直ぐ家に帰ってくるの?」
「多分。もしかしたら、昼は食べてくるかも知れないけど」
「そう。その後は用事ないのネ?」
「今のところ」

 ―あ、あれか!そう言えよ母親。……わざと?―

自分を見つめている美音に気付き、圭史は言葉を紡ぐ。
「あ、うん。とりあえず、着替えてくるから」
「うん」
美音はそう返事をするとリビングへと戻っていった。
 その数秒後にやっと動きを取り戻した圭史は、部屋に行くと言う事を思い出して階段を上がり始めた。

―部屋、汚くないよな……?―

部屋に入ると、マフラーをしているままだと言う事に気付き、圭史の頬がほんのりと赤くなった。プレゼントされたそれを身につけているのを見られるのは何だか気恥ずかしく感じたからだ。
 クローゼットを開けてハンガーにマフラーをかけジャンバーをその上からかけた。
収納ケースから適当に服を取り出してそれに着替えると、出したままになっている物を片付け始めた。最後に簡易テーブルを出し、部屋の真ん中に置いた。
「……」
ベッドとの距離の近さに気がついて、半分より向こう側の扉近くの方に移動させ、そこにクッションをポスンと置いてから部屋を後にした。

「母さん、……あ、こんにちは」
リビングに顔を覗かせて母親を呼んでから、気付いたように美音の母に挨拶をした。
美音の母がそれに笑顔で返すと、圭史は自分の母親に言葉を発した。
「一緒に勉強するんだけど、キッチン寒いし部屋でいい?」
「はいはい、どこでも好きな所でどうぞ」
「ごめんね、いつも教えてもらってるみたいで迷惑かけて」
申し訳無さそうに美音の母に言われて、圭史は笑顔を向けて口を開いた。
「いいえ、僕も勉強になって助かってますんで」
それを見た美音の母が少し緩んだ表情になったのを美音は隣で見て少々呆れた顔をしていた。
 圭史は美音に目を向けると、目が合ったのを確認してから指で2階を指しつつ言う。
「じゃ、行こうか」
「あ、うん」
そう返事をして、横に置いていたカバンを手に持ち圭史の後を着いて行きながら美音は口を開く。
「突然ごめんね。時間、とか、大丈夫?」
「うん、毎日部活で学校行くぐらいだから予定もないし。宿題も早く済ませないといけないしね。それに……」
最後の言葉は小さな声で言っていた。
「え?何?」
「ううん、なんでもない」
階段を上り終え、部屋に向かって廊下を歩いている中、圭史の心臓は何やら緊張を見せていた。自分の部屋なのに、そこに彼女を入れることに意識をしているみたいだった。
ドアを開けながら圭史は言葉を放つ。
「どうぞ」
「お邪魔します」
部屋の奥に進み美音を振り返ると、彼女は数歩入った所で足を止めていた。
部屋の中をきょろきょろ見渡す事もなく彼女はいた。
「好きな方、座って」
テーブルに手を向けると、美音はスイッとそのまま近くのクッションに腰を下ろした。
それを見て角を挟んで隣に座った圭史。
「あのね、この問題」
カバンから宿題を取り出し問題を見せる美音に、圭史は一瞬間を見せた。

 ―……あ、うかうかしてたら、やばいかも―

確実に美音が訊ねてくる問題の難易度は以前よりあがっていたからだ。
 美音に合わせてそこの問題から解き始めていく圭史に、美音は自分のノートと見比べながら答えを導き出していく。
「ああ、なるほど」
そこからの問題を圭史も解いていきながら、途中で分からない問題にぶち当たった美音がそれを聞くと言う形で進んでいた。
 宿題を始めてどれだけの時間が過ぎたのだろうかと、掛け時計に目を向けてから圭史の目は美音を見つめた。
「……」
いつもは下ろしている髪が、今日はサイドを髪留めで後ろにまとめている。
そんな小さな違いも圭史は彼女に見惚れてしまう理由になる。
真面目に問題を解いているその表情にも目を奪われていた。
同じクラスにはなった事がない。だから、授業中の彼女の表情を知らない。
……いつも、こういう表情なのだろうか、と考えてしまう。
心の中にじわじわと込み上がってくる何かに圭史は気づいていながら、やばいと思いつつ眼が放せないでいる。
言葉に出来ない焦燥感が圭史の首を締め付けようとしていた。
「圭史―!」
下から声をあげている母の声が廊下から聞こえてきて、圭史は顔を上げてから立ち上げるとドアに向かった。
不意に見上げた美音に圭史は言葉をかける。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「うん」
美音は笑顔でそう言った。
部屋を後にしながら圭史は思う。

 ―あれは、不穏な気を感知した母の行動か……?―

 結局それはおやつと飲み物を用意してくれた母の呼び声だった。
それらをのせたトレーを持って部屋に戻った圭史を見て、美音は持っていたシャープペンを置いた。
 圭史は力の抜いた手でドアを閉めた。ドアは完全には閉まらず、少し隙間を見せている。ちょっと手を開けば簡単に開くぐらいに。
「休憩する?」
圭史の問いに美音は笑顔で頷く。
「うん。大分進んだし、休憩しよ」
グラスに刺さったストローに口を付けながら、二人は他愛もない話をしてゆっくりしていた。
「へー、谷折君ってお姉さんに逆らえないんだ」
「そうみたい。俺んちの兄弟が羨ましいって言って帰っていったよ」
「ああ、それは何か分かるかも。弟君面白くて可愛いしね、一緒にゲームした事あるけど楽しかったし。お兄さんはかっこよくて優しい感じだから、妹しかいない私は羨ましいなぁ」
「あんなので良ければいつでもあげるけど」
「ははは。反対に断られそう」
「それは、ないでしょ。多分」
「確定じゃないんだ?」
「まぁ一応」
「あ、そう言えば、お兄さんって幾つ上だったんだっけ?」
「4つ上。今確か大学3回生……」
「そっか」
そういうことを美音に聞かれたのは初めてだった。
それに気付くと同時に湧き上がる不安。
「……気になる?」
「瀧野3兄弟がね」
にこり。と笑顔で返され、圭史はそれ以上言葉を紡げなくなった。
美音のその台詞の心意さえ掴めていないが、その笑顔を見てどうでも良くなってしまっていたのだ。いつもこの笑顔に掻き消されてしまう。
 そして、ふっと頭に過ぎったのは、机の引き出しにしまいっ放しの映画の券だった。
話してみようかとも思うのだが、少なからず兄に興味を向けていた美音の様子に、今言うのはベストではないと圭史は思った。

 ―いいや。帰り際にあげたらそれで―

「いつも冬休みとかどう過ごしてるの?」
美音の問いに圭史は顔を上げて答える。
「殆ど毎日部活に追われてるかな。大晦日と正月はさすがに練習ないけど、今回は初日の出見に行こうとか言ってたから、結局学校の奴と毎日顔合わせてる」
「へー、そうなんだ。運動部は結束がいいよね」
「そうかな。生徒会は、冬休みの登校はない?」
「うん、冬休みはないなぁ。春休みになったら入学式の準備で半分は登校するけど。なんで?」
「うん?なんとなく気になって」
「?」
その台詞に意味がわからなくても美音は笑顔を返していた。
圭史は何かを誤魔化すように笑みを向けて、視線を手元に落とすと小さくため息をついていた。
胸の中に現れていた疑問に似た不安を抑えきれず言葉にしていた。
「……春日は、バイト先の人とどこか行ったりとか……」
「ううん、殆どしない。っていうか、した事ない、な。それは生徒会メンバーも同じかな」
美音の台詞に幾分安心しながら、圭史は素知らぬ顔で台詞を口にする。
「へー、結構休みの日でも会ってそうな感じがするけど」
「不思議とそういう話はあんまり出ないよ。放課後とかよく一緒にいる分、休みの日まで……っていう感じじゃないかな。瀧野くんは谷折君と休みの日もよく一緒にいるの?」
「いないいない。学校のない日も部活で毎日顔合わせてるから、たまのオフの日まであいつの顔見たくない」
「ははははは。あんまり谷折君愛されてないんだね」
「当然。冬休みは他に始業式の2日前しかオフの日ないのに」
「貴重な1日?」
「そう。……」
「そっか」
美音の言葉に頷いてから、圭史は美音の顔に目を向けた。
ニコニコと笑みを浮かべていて、いつもより柔らかい印象を圭史は受けていた。
それにつられるように、頭に、美音の言葉「貴重な1日」と映画の券がかすめて思わず言っていた。何かに背中を押されるかのような感覚を受けながら。
「その日、映画見に行かない?」
「映画?」
そう聞き返されて、目線を下にずらすと口を開いた。
「あ、うん。兄貴が、彼女に振られていらなくなった映画の券2枚安値で売ってくれたんだけど、……良かったら」
断られるだろうか。そんな不安を抱きつつ付け足すように最後の言葉を口にすると、圭史はそっと美音に目を向けてみた。
「あ、うん。じゃあ半分出すよ、お金」
美音は先ほどと変わらない笑顔でそう言った。
「いいよ。その、マフラーのお礼」
「え?いいの?」
「うん」
「……ありがとう」
美音は少し照れた様子でそう返した。
 圭史はそれにふっと笑みを浮かべると、立ち上がると机の引き出しから映画の券を取り出し美音に手渡した。
「これなんだけど」
「……あ、これ見たいって思ってたやつ!」
嬉しそうな笑顔を向けた美音に、圭史は笑顔で言う。
「うん。それ、春日が持ってて」
「うん」
微笑みを浮かべている圭史の心の中は、飛び跳ねたいくらいの喜びが湧き上がっていた。
誘ってみて表情が翳ったらどうしようかとも思ったのだが、思ったより喜んでもらえたのが圭史には嬉しかった。
「何時にしようか」
笑顔のまま、圭史がそう訊ねると、美音は目線を上に向けて考えながら口を開いた。
「んー、昼一の上映に間に合うくらいの時間だから、駅に10時半でどうでしょう?」
「OK。あ、お菓子食べなよ?」
「うん、じゃ頂きます」
そう言って美音は器に手を伸ばした。
圭史は込み上がってくる嬉しさに笑みが零れていた。

包装紙の開ける音がし口に入れて数秒経つと美音の動きが止まった。
「?」
目を向けてみると、美音は渋い顔をしていてジュースに手を伸ばすと勢いよく飲み始めた。
「うーっ」
「不味いのでもあった?」
「ウイスキーボンボンだった……」
「……あ」
それは圭史が好きで母親が気が向いた時に買ってきてくれる物だった。
そう言えば、母親が用意してくれたお菓子用の器に入っていたのだ。
「なんか、喉の奥がカーッとしてきた。瀧野くん好きなの?これ」
「うん、割と」
そう答えて、圭史は口に放り入れた。
その好きな味に圭史の口端は緩んでいる。それをじーっと見ている美音に、圭史は言ってみた。
「食べる?」
差し出されたそれを手のひらで受け取って、美音は言う。
「うん。もう一度挑戦」
美音が食べる様子を圭史は頬杖をして眺めている。
 口に入れて何回か噛んだところで美音の表情は歪んだ。やはり駄目らしい。
口を直すようにジュースに口を付け、一息つくと段々と目が虚ろになっていく。
「……なんかぽーっとしてきたかも」
そう言うと美音はテーブルに額を乗せ俯いた。
「アルコール弱い?」
美音を眺めながらそう訊ねてみた。
美音は顔を横に向け頬をテーブルに引っ付けながら言う。
「っていうか、飲んだ事ないもん。まだ未成年だもん」

 ―そうでした……―

圭史は兄の相手をさせられて少量を口にすることは珍しい事ではなかった。
さすがに親の目の前で飲酒する事はなかったが。
 納得しながら、少しぼんやりとした美音の表情に、目を向けてみて、圭史は釘付けになった。無意識に体に力が入る。
「……春日?」
「なぁに?」
いつもより油断を見せているその口調に、圭史の鼓動は自然と高鳴っていた。
 今なら、聞きにくい事を聞いても許されてしまいそうな空気に、圭史は口を開く。
「……バイト先で、気になる人、とか、いる?」
「んー、いない」
「じゃあ、学校でとかは?」
「んー?ふふふふふ。なんで?」
「……うん、……」
その問いには口篭ってしまった圭史は、手元を数秒見つめ再び美音に目を向けた。
すると、彼女は自分を見つめていたようで目が合い、……彼女はにこりと微笑みを見せた。

どきっ!と圭史の心臓は声を上げた。

美音は数回瞬きをすると、重いまぶたに耐え切れなくなったように目を閉じた。
圭史の中にある種の緊張と動揺が走る。
そのたった数秒の事に、心臓はやかましく音をたてているし掌には汗がにじみ始めている。
体を支えているのにじゅうたんに置いていた手を、体勢を変えようと力を入れた。
「……っ、か……」

その台詞は最後まで口にすることなく、1階から阻むように声が飛んできたのだった。
「圭史―!」
「はいっ!」
思わずそう返事をして背筋を伸ばした圭史は、すぐはっとして美音に目を向けると、体裁をつくろうように口にして部屋を出て行った。
「ちょっと、行ってくる。ジュースのお代わりもついで来るよ」
「あ、うん。ありがと」

 廊下に出ると、ひんやりとした空気が上昇していた圭史の体を落ち着かせるように撫でていく。
圭史は思わず息を長く吐いた。
「は――――……」

 ―あのタイミングで呼ぶなんて、……ほんとに偶然か?母の陰謀じゃないだろうな……?―

参ったように片手を髪にかけながら階段を下りていった。

 ―今日はマジで、余計な気を回すのはやめよう。……身が持たない―

1階にはお互いの母親が顔を突き合わせているのだから。
 それでも、圭史の頭に先程の美音の顔がちらちらと浮かんでいる。
たまらない気持ちが圭史の胸の奥に溢れ返っていく。

 ―あーっ、もうっ!真綿で首をしめられてるようだ!!―

 どうにか気持ちを落ち着かせ再び部屋に戻った時には、美音はもう顔のほてりが治まっている様子で、さきほど見せたような油断は見受けられなかった。
 圭史が知っている美音の顔。

―あ、なんかすっごいチャンスをふいにしたような、損した気分……―

 そうして、圭史の今年は後数日で終えようとしている……。