時の雫-風に乗って君に届けば

§9 向かい風に煽られて


Episode 4 /9




生徒会の仕事へ向かった美音と別れて、二人は肩を並べて歩いていた。
「周囲への決定付けに、食堂で食べてたろ?」
何気なく口にした谷折の言葉に、「うーん」と考え込むように目を動かした後に口を開いた圭史。
「結果的にそうなっただけ、かな」
「ふーん? お前らって、似た者同士だよな」
「そうか?」
「変なとこ抜け目がないところとか、変に動じないところとか」
「・・・・・・あまり嬉しくない例えだな、おい」
「それはさておき、1年の松内さんの事知ってるか?」
「何が」
「えらい春日さんに敵意あらわにして突っかかってるらしいぞ」
「……そう」
急に声のトーンが落ちた圭史。
谷折は様子を伺うように目をちらりと向けた。微かに曇った表情をしているのが見て取れた。
「どーすんの?」
「俺が何か言ったら、余計ひどくなるだろ、きっと」
「かもね。春日さんもがつんと言ってやったらいいのに」
「春日は、同性相手にあまりキツイ事は言わないから。特に年下には優しいし」
「ふーん。よくご存知で」
「……なんか突っかかる言い方だな、さっきから」
圭史のその台詞に、不貞腐れた顔を正面に向けて拗ねるように谷折は言葉を洩らした。
「……俺が反対に怖い顔で聞かれたんだ」
不機嫌そうなそれに、圭史は聞き返す。
「春日に?」
「違う!伊沢さんにだよっ」
大きく開いた目を圭史は向けた。
「へー、何を」
「あの子の態度があまりにも春日さんに対してひどいもんで、瀧野君は何を言ったの?って。うう、なんで俺が責められにゃならんのよ。あの顔で怒った顔されたらすんごい怖い」
「……へー。あの伊沢がねぇ」
「春日さんの事になると顔色変わるんだもん。それで怒られたらたまったもんじゃないよ」
「じゃあホント仲いいんだな」
「あのなぁ俺が言いたいのはそこじゃなくてだなぁ」
「分かってるよ。……でも、下手に手ぇ出せないだろ。なんであんなにしつこいんだか」
「……あの子なりに納得しないと無理だろーな。そのうち、勝負して下さいとか言って春日さんに詰め寄るんじゃない?」
「まさか。……でも、そんな事があったとしても、春日は受けないよ。そういう事好きじゃないから」
「お前だったらどうする?」
「何が?」
「春日さんの事で他の奴に挑まれたら」
「受けるよ」
何も構えることなく速答した圭史に肩を竦めて苦笑した谷折だった。





 本部席で生徒会役員は種目別結果をクラス毎の得点化の作業を行っている。
手持ちの書類を終えていた美音は、手を休めるようにして頬杖を突きながらぼんやりとグランドを眺めていた。
あと、今行われているソフトボールの試合が終われば、本日の球技大会は終わる。
 予定時刻より大分早いそれに、後ろで亮太と薫が言葉を交わしていた。
「あまりにも時間余るから、先生方が余興しろって」
「余興―?何しろって言うんだよ」
「それを考えろっていうことよ」
「春日―」
全てを任せるかのような亮太の声に、眺めたままの格好で美音は声を出す。
「リレーとかでいいんじゃない?自由参加型で1位の人のクラスに点追加で」
「はい、決定。野口―、ソフトの試合が終わり次第放送かけて」
「はい。参加者は本部に来てもらったらいいですか?」
「おう。じゃ、俺と藤田とでライン引きでもするかな。藤田―」
「はーい」
快を伴って用具室へと向かった亮太だった。
 美音がまだぼんやりとしている頃、試合が終わるのを見て丈斗がアナウンスを流した。

それを耳にした、遠巻きにソフトボールの試合を眺めていた圭史は顔を上げた。
予定外のコトに注意を向けたみたいだった。

 圭史をずっと眺めていた美音は、視線を手元に戻すと「ふぅ」と小さく息を吐き沈黙を保っている。美音はずっと浮かない顔を浮かべている。
「どうしたんですか?春日さん」
心配するように声をかけてきた丈斗。
美音は顔を上げたものの、言葉が浮かばず髪をかき上げて言葉を紡ぐ。
「あー、なんかすっきりしなくて。気分ばっかり滅入ってしまって、何がなんやら……」
「そういう時、ありますよ。気分転換してきたらいいですよ?ここは僕がいますから」
丈斗の言葉を美音は素直に受ける事にし、笑顔を向けて言う。
「うん、ありがと。じゃあちょっとジュースでも飲んでくるね」
「はい、急がなくていいですよ」

そうして美音は売店横にある自動販売機へと向かって行った。
 ばらばらと人が行き交っているそこで、美音は一人投入口にコインを入れる。
出てきたジュースに手を伸ばし取り出すとその場でストローをさし口を付けた。
落ち着いたところでストローを離すと、美音はため息を零した。
 手に持っているそれを無造作に揺らして、……不意に手が止まる。
浮かない顔を地面に向けると、残りを一気に飲み干し空になったパックをゴミ箱に放り入れた。じっとそれを見つめて、僅かに顔を伏せるとグランドに足を向ける。
中庭を歩き、掲示板の所を過ぎようとした頃、美音を真っ直ぐな目で見てくる松内の姿が数メートル手前に存在していた。
 それに気付いた美音の足は自然に止まっていく。
美音の困惑気味な表情を無視するかのように松内は強い眼差しを真っ直ぐに向けている。

「……2本目のフリースロー、手抜きましたよね」
 荒れる感情を必死で抑えている声に、美音は辛そうな表情を浮かべた。
松内はそれを肯定と取った。
「可哀想だって、私の事、思ってるんですか!哀れんでるんですか!それとも相手するほどじゃないってバカにしてるんですか?!」
その台詞に美音の表情は悲しく揺らいだ。
だが、美音の無言に松内は一層感情を顕わにする。
「あなたってそうですよね!誰にでも笑顔振りまいて皆にいい顔して!いろんな人と噂があって、はっきりしなくて。私そんな人に負けたなんて思いたくない!」

「……何も、負けたなんて……」
弱々しく紡がれた美音の言葉に、松内はするどい視線を向けた。
「瀧野先輩の事どう思ってるんですか!」
「どう、って……」
軽い困惑を感じながらそう口に出ていた。
「そういう態度ずる過ぎます」
「そう、言われても……」
次から次へと放たれる松内の感情に、美音は言葉を濁すばかりだった。
「先輩の事、何も思っていないなら、もう近づかないでください。もし、そうでないなら、私とリレー勝負して下さい」
射るような真っ直ぐな眼差しに美音は思わず閉口した。
数秒沈黙があった後、美音は口を開いた。
「……勝負したって、選ぶのは瀧野くんだよ?」
「分かってます。それでも、気持ちが納まらないんです。……自分でもどうしようも出来ないくらい。あなたを見てると、いてもたってもいられなくなる」
そう最後に言った松内の瞳に、何かが揺らいで見えた。
美音はそれを見て辛そうな表情を浮かべたが、飲み込むようにぐっと堪えると口を開いた。
「1回だけ、ね。50メートルと100メートルどっちがいい?」
「100メートルでお願いします」
「わかった。私の方で本部に出しておくから、また後でね」
「はい」
松内はそう返事をして走ってその場を去っていった。

 佇む様に暫し立っている美音。
そのまま何処かへと行ってしまうのではないだろうかという、ぼんやりとした表情を浮かべている。
口から出そうとしていたため息を慌てて堪えて、グランドに目を向けるとゆっくりと足を踏み出した。

 戻ってきた美音の顔を見るなり亮太が声をかける。
「グランドの準備は出来たぞ」
「参加者は?」
「まぁそんなに多くないな」
「じゃあ、100メートルで、1年7組の松内さんと私、走るから。後適当に人数出しといて」
「お前が出んの?」
「そう。ちょっと表舞台に出てくるので、ここはよろしく」
「了解。……珍しい事もあるもんだな」
亮太の呟きには何も答えず、本部席を離れグランドの方へと移っていった。





「あれ?あそこにいるの春日さん?」
特にすることもない谷折は瀧野にくっついていた。
圭史はその言葉に素直に顔を向ける。
「あ、ホントだ。珍しいな、自由参加ものに出るなんて」
そんな二人の横を、リレーを走り終えてクラスメートの所へ向かっている栞が通りかかった。
谷折の姿に気付いた栞は足を止め、凛とした声を放った。
「谷折君」
「はい、何でしょう?」
即座に返事をして振り向いた谷折は、何やら厳しい表情を浮かべている彼女に、知らずと身を固めてしまっていた。
「……春日ちゃんをこれ以上苛めないでね」
その台詞に顔を強張らせ何も答えない谷折に、栞は強い口調で言う。
「谷折君!」
「は、はい、わかりました」
返事を聞いて、納得したような顔を浮かべた栞はすぐその場から離れた。
「お前、なんかしたの?」
圭史の問いに、谷折は内心冷や汗をかきながら口を開ける。
「い、いや、別に何も。ほら、もうすぐ春日さん走るみたいだよ」
その台詞に圭史はグランドに顔を向ける。
注意を背けられた事に安堵の息を小さく吐いた谷折は、尚も胸を撫で下ろしていた。

 ―きっと、あれの事だ。昼に食堂で言った事だ。伊沢さんであれだけ怒ってるんだから、こいつに言ったら、俺半殺しにされる、よな―

顔はグランドに向けながら、横目で谷折の様子を見ていた圭史は、美音がスタート位置に足を進めたのを見て、言葉をかけるのを止め谷折を放っておく事にした。
 圭史の立っている位置と美音がいる場所はかなりの距離があるのに、圭史は美音の表情に気がついた。

なんというのだろうか。
憂鬱そうな翳りのある表情を浮かべている。
「……?」
無理やり出されたのだろうか?
そう思ってから視線をずらした先に、松内の姿が見えた。同じスタートラインに立っている。その顔は真剣な表情そのものだ。
先程の谷折の言葉「……あの子なりに納得しないと無理だろーな。そのうち、勝負して下さいとか言って春日さんに詰め寄るんじゃない?」を思い出して、圭史の胸中に不安が過ぎった。

 ―多分、偶然だろう?……でも、まさか……―

相反する気持ちが湧きあがっていく。だが、美音がそれを受けるとは考えられなかった。
 中学の時だって、賭けのネタが聡の事だった時も、美音はガンとして受けようとしなかった。
「そういう事は嫌いな事だから絶対しない」
そう言った時の美音の強い意志を持った表情を圭史は覚えている。
 聡本人がいない場所で、たまたま圭史はその現場を通り過ぎようとしていた時だった。
いくらやっても本気を出さない美音に、男子が半分冗談で持ちかけたのだ。
「勝ったら、アイツの事教えてやるよ。面白い話があるから」
「50メートル勝負しようぜ」
確かそんな内容だっただろう。
どんな男子がそう誘っても、美音は首を縦に振らなかった。
他の子だったら、「うん、やるやる」と軽くOKしそうなものなのに。
 賭けの対象にする聡に悪いという思いと、自分がされたら嫌と思う事はしない、という信条で美音はしなかったのだと圭史は知っている。

 だから、いくら松内が勝負を申し込んでも美音は引き受けないのだと思っているし、何より、それを別にしても、自分が美音にそこまで思われているとも思えない。
だから、美音にとって受ける理由は無いはずだから。

 なのに、圭史の心臓はうるさく鳴り響いていた。
心の中で何かがざわついている。ありえない事に期待が湧きあがろうとしている。

ずっとぼんやりとした表情をしていた彼女が、スタート位置に立った時、少し辛そうな表情を浮かべた。
 それに構う事無くレース開始の音が鳴り美音が出遅れたのに圭史は気づいていた。
 きっと、早くも遅くもない順位を走り抜けるんだろう、誰もが思っただろう。

なのに、一瞬視線を転じた彼女が、突如表情を変えた。
邪魔な向かい風を正面から迎えうつように、強い眼差しを真っ直ぐと向けたのだ。

 その瞬間、圭史の心は完全に彼女に奪われていた。
凛とした表情、姿勢。流れるような綺麗なフォームに、圭史は目が放せなかった。
 頬を触れていく風が、すべて美音が起こして自分の所へ流してきているかのような錯覚を圭史は感じていた。

 それは、あの頃と同じ感覚。必死に思わないようにしていた中学の頃。
それでもテニスコートから見える美音の走っている姿に、圭史は心の奥底で願わずにはいられなかった。
 風が自分の元から彼女の所へ流れていくように、自分の想いもその風に乗って彼女の心へ届けばいい。そう、願っていた。
でも、感じるのは彼女からの風ばかり。
 あの頃の気持ちが、今の圭史の心の中に湧きあがる。

でも、決定的に違うのは、抑え切れないこの感情。
「――――――っ」
胸いっぱいに広がっていく切なさが、今尚圭史を苦しめる。

 美音は中盤で開いていた距離を見る間に縮め、そして距離をあけていきそのままゴールした。

「ふわー、すげー。あのコース展開も凄いけど、綺麗な走りだったなぁ」
感心した顔を圭史に向けながら、谷折はそう言っていた。
圭史の様子がいつもと違う事に気付き、思わず口にする。
「瀧野?おい?瀧野?」
「あ、なに?」
「春日さん、綺麗なフォームだったな。早かったし」
「あ、元陸上部だし。……中学の時な」
「へー、だからあんな綺麗な脚線美なんだ。見るからに美味しそ……」
「あっ?!」
「い、いえ!すいません冗談です」
身の危険を感じ慌てて谷折はそう言った。

 ―なんか、今すごく恐ろしさを感じた……―





 本部に戻ってきた美音を見て、薫は笑顔で声をかけていた。
「美音ちゃん、見てたよー。かっこよかったよー」
美音はそれに翳りのある笑顔を浮かべていた。
「うん、ありがとー。試合でのミスをリベンジしてきたんだ」
「集計できあがったけど見るかー?」
亮太の声に美音は「うん、見せて」と頷くと書類を手渡された。
生徒会メンバーを正面にして会長の薫が口を開く。
「じゃあ、結果発表してから先生の話で、この場で解散。美音ちゃん、その後はどうする?」
「んー、今日はとりあえず無しでいいんじゃないかな。何かあれば又来週」
「という事で、生徒会は仕事無しです」
 そうして閉会式が行われこの場で解散となった。

本日は部活動の許可はどこも下りていないので、全校生徒が帰宅の途を歩む。
体操服姿のまま帰る生徒もいるし、ちゃんと着替えてから帰る生徒もいる。
 制服とカバンを持った圭史は、廊下で見かけた亮太に声をかけた。
「今日もあんの?」
「いや、今日は生徒会は無しだよ。と言っても、俺はこれから物置きに行かなならんのだ。瀧野は?」
「俺は部室で着替えてから帰ろうと思って」
「じゃあ、悪いんだけど、本部席にまだ残ってるファイル届けてくんない?」
「ああ、いいよ」
「じゃ頼むわ」

 部室で着替え終えた圭史は、グランドの本部席に置いたままになっているファイルをその腕に抱えると生徒会室へと向かう。
 その途中で偶然、松内とばったり会った。
お互いが思わずといった感じに足を止める。圭史が何かを思うより先に、松内はただぺこりと頭を下げた。そして、小走りに去ってしまった。
「……」

圭史は静かに足を進め生徒会室へと向かう。
その手前で亮太と会い、そのまま一緒に生徒会室へ向かう。
 生徒会室の扉のノブを回してみて、鍵が閉まっていることを確認すると、亮太はポケットから鍵を取り出しながら言う。
「あ、やっぱ閉まってるか」
「なんで?」
「いや、今日仕事無しって言ったけど、一人で今日のまとめでも書いてるんじゃないかと思ったんだけどな。どうやら違ったみたいだ」
「ふーん?」
亮太が扉を開け中に入ってから、見えた景色に声を出した。
「あれ?カバン置いてある、という事は、やっぱ残ってんのか?」
美音の机にカバンが置いてある。でも、美音の姿は見当たらない。
 亮太はそのまま自分の机に進み、持っていた書類を下ろした。
圭史もそれに続くようにして中に入り、亮太の机とは反対側の並びにある適当な机にファイルを置いた。
そして、奥の方に目を向けてみて、仕切りの向こうに見える足先に気付き、覗き込むようにして上半身を傾けた。
「!」
声は上げなかったものの、圭史は驚きを隠せなかった。
仕切りの向こうにある、ソファに座って眠っている美音の姿があったからだ。
「……」
圭史は亮太にそっと目を向けた。彼は気付いていないようだ。

「本部にあったのってこれで全部?」
そう訊ねてきた亮太に、小さめの声で圭史は答える。
「あ、うん。残ってたの全部持ってきたから」
「そっか。……春日戻ってこねぇな」
美音の荷物を眺めながらそう言った亮太。
 圭史はもう一度奥の方を覗き込んでみた。
 丁度、目を覚ました美音が気持ちよく伸びをしている。そして身体の力を抜き、ふと目を開けた美音と目が合った。
「!!」
何とも言えない、驚いた美音の顔に、圭史は思わず口が緩んだ。
「春日ならそこにいるよ」
必死に笑わないように努めて亮太にそう言った圭史。
その台詞を聞いて声を上げたのは美音だった。
「えー?!いつからいたの?二人!」
「ついさっき来たとこだよ。お前こそ、そんな所で何やってんだよ」
ソファが見える位置にやって来た亮太がそう返した。
「え?ちょっと休憩してた。リレーであまりにも疲れたから体力の回復に」
「ふーん。俺らは本部に置きっ放しのファイル片付けてたんだよ」
「え?あー、じゃあジュースでも買ってくるよ」
もう扉に向かっている美音。
圭史と顔を合わせないようにしている美音の耳が紅い事に圭史は気づいている。
零れそうな笑みを必死で堪えながら圭史は亮太と反対の方向に顔を向けていた。

 この後、美音が圭史に見せるであろう、あたふたする姿が容易に思い浮かぶ。
その可愛いであろう反応に圭史の笑みはおさまりそうにない……。