時の雫-風に乗って君に届けば

§8 確認までの坂道


Episode 5 /6




 月曜日、美音は圭史が乗っているであろう電車に乗っていた。
車両は後尾の方で、近くに圭史の姿はない。
 学校最寄り駅に到着し、美音は通学路をいつものように辿っていく。
大分学校に近くなった所で、前方を行く圭史の後ろ姿に気がついた。
 いつもと変わらない彼の姿。

 校門を抜け、下駄箱までの距離が後半分となった頃、美音の横を誰かか走り抜けていった。冷たい朝の空気が風となって美音の頬を撫でていく。
まるで、目の前に現実を見つめさせるかのように。

ショートボブで、体のラインを見ても適度な筋肉がついているのが分かる。
器量からに元気そうなタイプだと察しがつくその女子生徒は、ここ最近、ちょっとした有名人だった。
美音はそれ以前から彼女の事は知ってはいた。1年テニス部女子の松内 千晴。
松内はそのまま走っていくと、飛びつくようにして圭史の腕に抱きついた。
「瀧野せんぱーい、おはようございまーす」
その勢いに、圭史は体を前方によろめかせていた。
 圭史の腕にしがみ付いたままの格好で松内は不敵な笑みをその口に浮かべて美音に目を向けた。

「……」
一瞬、その表情の意味が分からず、美音は呆気にとられたが、気がつけば苦笑していた。それを見たからなのか、どうなのか美音には分からなかったが、松内はぱっと顔を背け、圭史と言葉を交わしていた。
 ふと、目に見えた圭史の表情がなんだか面白くて、口元を手を隠しながら美音は笑いを必死で堪えていた。
そして気がつけば、圭史が言った言葉に松内は首をうな垂れて腕を放していた。
その表情が美音の心にも切なさを湧き出させる。
 下駄箱を過ぎても、松内は圭史に付き纏っていた。
圭史の歩くスピードに必死でついて行きながら、少しでも多く言葉を交わし圭史の表情を見つめている。
 ……美音は、遠い何処かを見ているような瞳で、それを眺めていた。
彼女の目が、表情が、彼に恋していると主張している。
 説明のつかない胸の痛みを無意識に感じながら、美音はそっと視線を足元に転じた。
それからは、前方に広がる光景に視界すら向ける事無く下駄箱に辿り着いた。
靴を履き替えると、美音は肩にかけているカバンをぎゅっと握り、教室に向かって走り出した。行き先を急いでいるかのように。
そして、何も気にしないように、平生を装いながら。






「春日?春日?!」
その声に、美音ははっとした表情を浮かべて、頬杖を外した。
「あ、ごめん、なに?」
「……終わったよ」
他に何か言いたげな亮太の表情をあえて無視しながら美音は口を開く。
「あ、ほんと。遅いから眠りかけてたよ」
今までの自分を押し隠すように美音はそう言葉を口に出していた。
「悪かったな。 ここの書記は一体どうなってんだか」
亮太の台詞に美音は淡々と返す。
「野口君は用事があって無理だって言ってたから。藤田君は?」
その固有名詞に一瞬だけ眉を顰めてから亮太は言った。
「あー…、あいつは、春日が来る事言わなかったからな、何やらごにょごにょ理由言って帰っていったよ」
「何それ。……来年の引継ぎが不安。任期延びたらどうしよう」
「大いにありそうだよな」
「びしばししごかないと駄目かなー」
「おー、しごいてやってくれ」
「じゃ、私野口君担当で」
「おいおい、藤田しごいてやってくれよ」
「いやよ。いつも冗談ばっかり言って。相手するこっちの身にもなってよ」
憤りを隠せない表情で言った美音の様子に、ポツリと呟いた亮太。
「……哀れなヤツ」
「何か言った?」
「いいや、何も。ほらよ」
書き終えた書類を美音に手渡してから、亮太は腕を上げて伸びをした。
力を抜くと自然にあくびが出た。それから美音を眺めると、真面目な顔で書類を見ている。
「今、学年中春日の噂でもちきりだよな」
「周りが勝手に言ってるだけでしょ。……なんでそんなに次から次へと私の噂が出るの?」
「そりゃ、気になるからだろ」
「なんでよ?」
「そりゃー、春日が誰に告白されても受ける事ないし、付き合ってるヤツいないからだろ」
「そんな事私の勝手じゃん」
「仕方ないだろ。お前が生徒会役員だってだけで注目浴びるんだから」
「何それ?」
「それだけ人目を惹くって事だよ」
「知らないよ、そんな事」
「誰かと付き合や、少しは落ち着くだろうによ。どんな人間ならいいんだよ?」
「えー?そんな話はしたくない」
「ふうん?珍しいやっちゃな」
「ほっといて」
ちらりと亮太を一瞥してから美音は又書類に目を戻した。

黙々と書類に目を通していく様子を見て亮太は静かに息を吐いた。
「……あいつら遅いな」
そして紡がれた言葉に、美音は口だけを動かした。
「約束?時間無いなら先帰っていいよ?」
「いや、……谷折に春日手製のおやつ食べに来いよって誘っておいたんだよ。藤田が来ないって分かった時点で。春日はちゃんと人数分用意してるからな。
この時間になっても来ないという事は忘れているか、終わってから来る気か」
その亮太の台詞を聞いて、今日は自分がおやつを持ってきていたのを思い出した。
「じゃあ、コピーしに行くついでに、テニス部の様子でも見てきましょうかね」
「おう、頼みます」
「戻ってきたらお茶しましょうか」
「おう、待ってます」
確認し終えた書類を手に持って、美音は一人で生徒会室を出て行った。
 見えなくなった美音の後ろ姿に目を向けてから、頬杖をしたまま亮太は窓の外に顔を向けた。
もうすっかり暗くなった空の色に亮太はぽつりと呟く。
「……さぁ、俺の勝ちかなー」



 教員室に向かう途中にあるコピー室にいた。
枚数を押してスタートボタンを押せば後は刷り上るのを待つだけである。
 今日はなんだかテンションが低い。
授業もいつもより実に入らなかったような気さえする。
 コピー画面に目を向けるその表情も、いつもより曇っていた。
思い出したように「あ」と言葉を漏らしてからその場を離れた。
美音は廊下に出て窓を開けるとグランドの奥にあるテニスコートに目を向ける。
視界は真っ暗だった。どこのクラブも活動をしている雰囲気ではない。
「灯りがついていないという事は終わったのかなぁ」
それは独り言だった。
「何が?」
突然背後から飛んできた声に驚いた美音は思わず声を上げた。
「わぁあ!」
声をかけたほうも驚いて動きが止まった。
その様子を察知して美音は動揺したまま、背を壁に預け振り向きながら言った。
「あ……、ごめん、まさか人がいるとは思わなかったから」
「いや、こっちこそごめん。まさかそんなに驚くとは思わなくて」
「う、うん。 片岡君はこれから帰宅?」
「そうだよ。良かったら送っていこうか?」
微笑まれて言われたそれに、戸惑いながら美音は言葉を紡ぐ。
「あ、……まだ仕事残ってるから。それに他の人もいるから」
「そっか。……窓閉めなくていいの?」
「あ、そうだった」
片岡にそう言われて、美音はくるりと向きを変えると窓をガラガラと閉め始めた。

 片岡はその様子をじっと見つめていたのだが、目に鈍い光が灯ると、すっと足を進め美音のすぐ隣に立った。
そして、美音の白い頬を目掛けて、すいっと身を屈めると顔を近づけていった。
それは僅かな時間、数秒間の出来事だろう。
 美音はまだ驚いた時の余韻が残っていて、それには全く気づいていなかった。
気付いたのはその後の音。
 ひゅんっ という物が飛んでくる音が聞こえたかと思ったら、ばしん! という紙がぶつかる音が響いた。その静かな廊下に。
え?と驚いて顔を向けると、それは片岡に当たっていたらしく表情が歪んでいた。
床に落ちているそれは部誌らしかった。美音がとりあえずそれを拾おうと手を伸ばした時、声が飛んできた。
「わり。思わず手が滑った」
ふと、美音の手が止まる。
顔を上げてみれば、そう言葉を投げてきたのは圭史だった。
その言葉は片岡に向けられたもの。だが、片岡を見るその目は厳しい眼差しだった。
そして、静かな空間の間に搾り出されたような声。
「……いや」
片岡は口ではそう言っているものの表情は険しい。
 落ちたままの部誌を美音が拾い上げると、動かぬままの圭史へ足を踏み出した。
異様な空気を感じつつ、美音は片岡の側を離れた。
嫌な心臓の音が美音を包んでいた。
うろたえたまま、そろ…、と圭史に目を向けてみる。
 美音と目が合うと、圭史の表情が緩んだ。さっきの厳しい眼差しでない。
心なしほっと安心して肩から力が抜けたのを美音は感じた。
そして美音は思い出したように片岡に顔を向け、口を開いた。
「片岡君またね、」
バイバイ、と言葉を続けようとしたら、片岡が声を放ってきた。
「ねぇ春日さん」
「?」
「今誰かと付き合ってるの?」
そう言いながら、確かに片岡は圭史に視線をちらりと向けていた。
「え? ……ううん、……」
伏目がちな美音に遠慮する事無く片岡は言う。
「そっか。じゃあ俺なんてどう?今ならお買い得だと思うけど」
「えぇーと、高くつきそうなのでやめておきます。私仕事残ってるから行くね」
どうにか笑顔を取り繕って言うと、美音はあたふたしながら圭史の方へと歩いていく。
数歩手前に来たところでコピー室から「ピー!」という機械音が響いてきた。
コピー機のエラー音に美音ははっとした。
「あ!コピー!」
そう声を上げてコピー室に走っていく。

 圭史は片岡に目を向けた。
片岡は目が合う前にふいっと身を逸らしその場を後にしていく。
「……」
そして、圭史は美音が入って行ったコピー室に足を進めた。
カバーを開けて中のロールに挟まった紙に手を伸ばしていた。
「直りそう?」
圭史の言葉に作業を進めながら美音は答える。
「うん、紙が詰まっただけだから。
瀧野くんノート持っていく所だったんでしょ?ごめん、そこ置いてる」
「うん。まだかかる?それ」
「うん、もう少し」
「うん、分かった」
部誌を取ると圭史は教員室へと行った。
 美音がコピー機の調子を直し再び印刷を開始した頃に圭史が戻ってきた。
「どう?」
「うん、直ったよ。あと10枚くらいで終わり」
「そう」
「あ、テニス部終わったんだよね?」
「うん、部長の谷折は部誌を置いたまま姿を消したんだけどね」
「ああ、じゃあ生徒会室来てるかも。亮太が誘ってたって言ってたから。おやつ食べに、瀧野くんもどうぞ?」
「あ、うん、ありがと」

 ―ホントは既に聞いてるんだけど―

圭史の心の声は美音には届くわけがなく、向けられた美音の笑顔に圭史も笑顔になっていた。



 お茶を終えて片づけが済むと亮太は教員室へ行き、それに谷折はついて行った。
 圭史と美音は二人で下駄箱へと向かっている。
「あ!忘れ物!」
不意に足を止めて声を上げた美音に、圭史は顔を向ける。
そうした時には美音は既に方向を変えていた。
「ごめん、ちょっと取りに行って来る」
「あ、一緒に行くよ」
「ううん、先下駄箱行ってて。急いで行ってくるから」
「分かった」
圭史の返事を聞くや否や美音は走って戻っていった。

 圭史はゆっくりと歩き始めた。
次第に心の中は教員室の近くで起こっていた事に囚われていた。

圭史は部誌を教員室に持っていく途中から、美音と片岡の姿に気づいていた。
遠目でも美音の姿を見間違えることはなかったから。
不意にかけられたであろう言葉に驚いていた美音が片岡と言葉を交わしているのも分かっていた。
 普段から美音の様子を見ていて、片岡に特別な感情を持っていない事は分かっていた。強いて言うなら、学園祭の時の出来事もあって美音は必要以上に会話を持とうとはしない。出来る事ならあまり関わり合おうとはしていないのが見て取れる。
だが、片岡の方は違っていた。誰の目から見ても近づこうとしているのが分かる。
 あの時、もし圭史が部誌を投げなかったら、片岡は美音の頬にキスをしていただろう。

 ―思い出しても腹の立つ……!―

そう思っているのは向こうも同じだろう。
 ……もし、美音が片岡に好意を持っているのだとしたら、どんなに憤りを感じても邪魔する事は抑えただろう。

 ―今、男共の中で気を許した表情を見せてくれるのが、少なくとも自分だから、その位置を他の人間に譲るような事はしない―

そう心の中で言葉にした圭史の表情は真剣そのものだった。

 ―あいつ、絶対わざとだ。俺の方見てから聞いていた。……噂の真相を確かめたんだろうけど―

今誰かと付き合ってるの?という台詞を思い出して、前髪をくしゃっと握った。



「何怖い顔してんだよ」
「あ、……別に」
下駄箱にやってきた谷折と亮太。亮太の言葉に圭史はそう返した。
「春日は?」
「忘れ物取りに行ってるよ」
「俺ら先帰るわな」
「分かった」
谷折の先を歩いていた亮太はそう言うと、一番に靴を履き替えている。
谷折はすれ違いざまに圭史の背を叩き言葉を紡いだ。
「じゃ頑張れよ」
よろめいた体を瞬時に立て直しぽつりと呟いた。
「……何をだよ……」
ため息混じりに零されたそれを彼の耳に届いてはいない。



 やるせない気持ちも、急いで戻ってきた美音の姿を目にすれば、すぐに晴れてしまう。
そして、向けられた笑顔を見て、仄かに嬉しい気持ちが胸に広がっていく。

 ―あー、俺って重症だよな……―





 夜道を二人は話を弾ませながら楽しそうに帰っていた。二人の間に穏やかな空気が流れている。
いつの日から、楽しみとなった幸せな時間は、そう頻繁に無くこうしてたまに訪れるだけだった。
でも、それくらいで丁度良いのかもしれない。
そう頻繁に起こってしまえば、次の事を期待せずにはいられなくなってしまう。
一歩近づこうと動きを見せれば、彼女は忽ちうろたえて後ずさりしてしまうから。

 ―慌てず急がず……ゆっくり……―

逸りそうな気持ちにまるで呪文のように心の中で呟きながら圭史は彼女との道のりを歩く。
「そう言えば、球技大会の種目決まった?」
ふと思い出し、圭史はそう訊ねた。
「みんなの希望を元にクラス委員が決めるんだけどね、結果は来週分かるんだ」
「希望は何?」
「第1がソフトボールで第2がバスケ。優勝を狙っているらしくクジでは決めてくれないらしい」
「優勝商品、学食のチケットだもんなぁ」
「うん。特に男子が燃えてる。瀧野くんは決まった?」
「うん、ソフトボールに」
「あーいいなぁ」
何気ない言葉を交わしながら駅から家までの道を進んでいた。

途中、大きな通りを横切るのだが、その手前に来た所で前方に目を向けた美音が小さく声を洩らした。
「あっ」
それにつられる様に圭史は美音が目を向けたであろう方向に顔を向けた。
そこには、私服姿でどこかへ向かおうとしている貴洋の姿があった。
「あ……」
圭史も思わずそう声を洩らした。
その声が聞こえたのか、貴洋はふと足を止める。
それを見た美音は慌てた様子で圭史の背に隠れてしまった。
その後に、貴洋がこちらに体を向け、様子を伺うように視線を投げてから言葉を放ってきた。
「……あれ?瀧野?」
「あ、うん。久しぶり」
圭史がそう答えると、貴洋は歩み寄ってきた。
「久しぶり。今帰り?」
「そうだよ」
「いつもこんな時間か?」
貴洋の様子を見る限り、美音には気付いていないようだった。
「いや、今日は練習終わってからのんびりしてたから。そっちはこれから誰かと約束か?」
「うーん、残念ながら寂しく一人です。文房具買いに行くところだよ」
 幼馴染であるはずの美音は、圭史の背に隠れたまま黙っていた。
どうかしたのだろうか。そう思っても、隠れているのに聞く事もできない。
「雑談しにどこか行くか?」
何気ない貴洋の言葉だった。美音に気づいた様子はまだ見えない。
どう返事しようかと思った瞬間、美音が圭史のブレザーの裾をぎゅっと握っているのに気づいた。
「えー、と……」
そう口にしながら、空いている片手を後ろに回し美音の指を外していくようにその手に伸ばし、柔らかい指先を指の腹で感じながら、そのまま握り締めた。
不意に浮かぶ微笑に貴洋が気付いたかどうかは分からない。
「又今度。悪い」
「いや、別にいいよ。……」

そう言った貴洋が、ふと目を上の方に向けた。それは圭史がいる方向とは反対だった。

「あー……、じゃ俺行くな」
「あぁ」
圭史がそう返事すると、貴洋はその大きい通りを進んでいく。

1、2メートル離れた所で足を止め、向きは何となく圭史の方に向けているが、目は向けようとしない貴洋が声を放った。

「あ、そうだ。明日学校で春日に会ったら言っておいて。この間は分からなくて勘違いしていた事、今日分かったからって」
「……伝えておく」
内心、窮しながらもそう返した。

そして、気がついた。足を再び進める数秒前に貴洋が細めた目にうっすらと浮かべた笑みを圭史達の方へ向けたことに。

「まぁよろしく。じゃ、またな」
そう言うと貴洋は今度こそ当初の目的へと進んでいった。
 速い歩調の貴洋の姿が小さくなるのに時間はかからなかった。

「……言っておいて、だって」
手を繋いだまま、圭史は後方に顔を向けてそう言った。
「うん」
美音は俯いていて表情が見えなかった。
「……帰ろっか」
「うん」
俯いたままの美音の手はやたらと熱かった。
 急に様子の変わった美音を気にしながら圭史はゆっくりと歩き出した。
貴洋の伝えてと言った台詞に何かあるのだろうが、圭史に分かる範疇ではないので、取立て気にしないようにした。
美音は無口のまま足を進めている。

 どうしたものかなぁ、と圭史は夜空を眺めた。
眺めたからといって、何か浮かんでくる訳ではない。

「ぁの、瀧野くんの、この……」
どことなくたどたどしい言い方に、その場を取り繕うとする美音の気持ちが伝わってくる。
「ん?何?」
それでも途中で終わってしまった台詞に圭史はいつもより優しい語調になってそう口にした。

「え、と、……さ、最近、1年の子と仲良いよ、ね……」

だけど、口にされたその言葉を聞いて、圭史の顔からすっと笑顔が消えていく。
 それを察したのか、美音の言葉の語尾は弱々しくなっていた。表情もうろたえているのが分かる。
そんな事を頭の片隅でぼんやりと考えながら、圭史は言う台詞に困っている。
「あー……、仲良いと言うか一方的に付き纏われてるっていうだけなんだけどね。……変な噂は立てられ、部員には冷やかされてこっちは迷惑してるし」

「あ、ご、ごめん……っ」
慌てた表情で俯いた美音はカバンを持つ手に力を入れたかと思うと、繋いでいた手を振りほどくように離した。

急に感触がなくなった手に圭史は一瞬動揺を見せた。
心の隙間に木枯らしが吹きつけたような寂しさが瞬く間に圭史を襲う。
そして追い討ちをかけるように切ない気持ちに塞がれた。

 もしかして、美音は台詞の後半、意味を取り違えたのかもしれない。
 圭史は咄嗟に言葉を放ちながら美音の手を握り締めた。
「違う!」

はっ、と驚いた顔を見せる美音に、いつもらしかぬ自分に気付き圭史は平常心をすぐさま取り戻した。そして口にする。
「ごめん……、……」

静かに美音の手を離した圭史は、小さく息を吸うと言葉を紡いだ。
「これは迷惑なんかじゃない」

美音が自分を見つめているのをありありと感じながらも、圭史は顔を向けられなかった。
彼女は返答に困っているようで、圭史はそれに続く言葉が浮かばず、心うちに湧き出た何かをぐっと堪えると静かに言った。
「足止めてごめん、帰ろうか」
「……あ、うん……」

それから美音の家まで二人の間には無口な時間が降り注いでいた。
美音の手を握っていた手はズボンのポケットに無造作に放り込まれている。
顔も俯き加減でその表情は沈んでいた。
その静かな外見も、中身は違った。色々な思いが交錯していて、圭史自身どれだけの事を思っているのか判別できないくらいだった。これが一人だったら、頭を両手で抱え込みその場で座り込んで言葉にならない声を口にしていただろう。

そう悶々としているうちに二人の足は美音の家の前にたどり着いていた。
 二人の足は言葉なく止められる。
「じゃ……」
様子を伺うようにチラリと向けられた目に圭史は言葉を返す。
「また明日」
「うん、送ってくれてありがとう」
その台詞に答えるように圭史は微笑むと向きを変えようとした。

だが、頭に浮かんだ、美音に訊かれた台詞。
―「最近、1年の子と仲良いよ、ね」―

それに、圭史は口にせずにはいられなかった。
「一年のあの子とは何でもないから。……だから、誤解しないでほしい……なんか皆誤解してるみたいだけど」
そして美音を見つめた。

だけど、目に入ったのはぎこちない表情。そして紡がれた言葉。
「……あ、うん」

そう答えた美音から目を放すと「じゃ……」と言い、先を急ぐようにその場を走って行った。
圭史の頭の中では、幾つもの戸惑った美音の顔が浮かんでは消え浮かんでは消えていく。


 あんな顔が見たかった訳ではないのに。