時の雫-風に乗って君に届けば

§8 確認までの坂道


Episode 4 /6




 美音の耳にその話が入ったのは、その翌日の朝の事だった。
席について所用を済ませていると、登校してきたクラスメート達が美音の姿を見るなり寄ってきた。
「春日ちゃん!」
「おはよー」
名前を呼ばれていつものように挨拶をする美音に、彼女達は慌てたよう様子で口を開く。
「おはよ!他のクラスの子に聞いたんだけど、ホームで瀧野君といちゃついてたってホント?」
「……は?」
ぽかんと口を開けると、その子は必死な表情で言葉を紡ぐ。
「だって見た人がそう言ってたって!」
教室の端にいた子達も皆周りに集まってきた。
一人はひどく不安な表情で様子を伺うように見ている。その子は、圭史の事を好きな子だった。他にも圭史の事好きな子はそこに存在している。
それらが美音を冷静にさせた。
「え、と、……もしかして、痴漢に遭ったのを助けてくれた時の事じゃないかな?」
「え?痴漢?」
「うん、それで気分悪くなって、心配して瀧野くんが途中の駅に降りて心配してついててくれたんだけど。……多分、その事言ってるんじゃないかな?」
「え?それで大丈夫だったの?」
「あ、うん」
「じゃ、別に二人は付き合ってる訳じゃないんだね?」
「うん、え、と、ほら、瀧野くんて優しいし、ね」
笑顔を取り繕ってそう美音が言うと、不安な表情をしていた子は安心したような嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 美音が浮かべていた笑顔はどことなく曇ったものに変わっていた。
それに気づく者はなく、それぞれが思う事を口にしていた。
彼女たちが納得のいく答えを得られて浮かべている安堵の笑み。
美音は何かに取り残されたように感じていた。
そして、心の中に不快な気持ちが生まれている事にもこの時は訳が分からずに漠然と感じていた。美音はそれに囚われながらも自分に戸惑いを感じつつ、疑問が浮かんだ瞬間だった。

「春日ちゃんて、瀧野君と仲良いの?」
不意に名前を呼ばれてはっと我に返り、すぐ頭の中で言われた台詞を反芻した。
「え?……瀧野くん実行委員だし、色々話したりする機会多いから」
「仕事以外の事も話したりする?」
期待に満ちた目に、美音は内心嫌な思いを抱きながら声を出す。
「う、うん……」
「じゃあさ、今度好みのタイプとか聞いておいてくれない?」
「え?」
「ね、お願い」
「あ、私も知りたい知りたい」
「私もー」
戸惑いを隠せず美音は口を開く。
「え、と、聞ける、時があったら、ね?」
「うん」
「よろしくー」
断りきれなかった自分に、美音は一人になってから自嘲気味にため息を吐いた。
彼女たちが圭史の事を好きなのは前から知っていることだ。中には本気な子もいる。
恋をする気持ち、相手の事を少しでも知りたい、少しでも近づきたい、という思いをムゲにする事はできなかった。
相手を思うときの切なさを美音は知っているから。
そして、好きという気持ちにブレーキはかけられるものではなく、加速したそれを阻もうとした者は散々な目に遭うと知っているから。

 窓の外に見える空に美音は目を向けた。
きれいな青空は、前見た時より高く見える。いつのまにあの空はあんなに手の届かない所に行ってしまったのだろう。
 なんだか無性にやるせない気持ちになって知らずとため息が零れていた。





 日直の仕事で教員室から教室に戻っているときだった。
別に通り過ぎる人に眼を向ける訳でもなく、ただぼんやりと歩いていた。
 だから美音は行きかう生徒が何か言いたげに目を向けていくことに気づいていなかった。
「春日さん!」
突然名前を呼ばれ、驚いて美音は肩をびくっと反応させた。
「……びっくり、した……」
恐る恐る声が飛んできた方向に顔を向け、相手が見知った人だと確認して、そう口にした。
「何度も呼んでたんだけど」
苦笑気味にそう言いながら、片岡は美音に歩み寄ってくる。
「あ、ごめん、聞こえてなかった」
片岡は美音が手に持っている、次の授業で使うであろう教材・2メートル近くもあるロールされたスクリーンを見て言う。
「重いでしょ?持ってあげようか?」
「ううん、大丈夫。片岡君こそ何か用事あったんじゃないの?」
持ってもらおうと言う気は全くないらしく、美音は真っ直ぐと片岡を見上げた。
「あ、うん。辞書あったら貸して」
「何の辞書?」
「英和。ある?」
「うん、あるよ」
「じゃ、取りに行くついでにそれ持つよ」
「ううん、平気。自分の仕事だから気にしないで」
「……春日さんに頼まれたらどんな男でも喜んで手伝うのに。もっと甘えた方が喜ばれると思うよ?」
少し呆れの混じった声に、美音は苦笑してから言葉を紡ぐ。
「私、自分の事は自分でするし、サービスで甘える気なんてないよ」
「ふーん?」
 美音はそれを見て、ただにっこりと笑みを向けた。
 一旦教室に入った美音が手に辞書を持って、廊下で待っている片岡の所へと戻ってきた。
美音が動くたび、周りにある空気は風となってどこかへと流れていく。
そして、片岡の所にもそれが届き、前髪がふわ…、と揺れた。
「……春日さんって、コロンとかつけてる?」
「ううん、何もつけてないよ?」
「なんかいい匂いがするから」
「シャンプーとか洗剤の匂いじゃない?」
「うーん、そういうのじゃなくて」
と首をかしげる片岡に、話を打ち切るように美音は辞書を手渡した。
「あ、ありがと」
片岡が言った言葉に、美音はにこりと笑顔を向けてから教室に入っていった。

 5時限目が終わると、片岡は借りた辞書をすぐ返しに来た。
「ありがとう、助かったよ」
「いえ、どーいたしまして」
そう返事をすると、すぐ教室に戻ろうとした美音。
片岡はすぐ口を開いた。
「春日さんはいい匂いがするよね」
「? 匂い?」
片岡のその言葉に、美音は足を止めて首を傾げながら顔を向けた。その様子に満足して片岡は口を開く。
「うん、春日さんの匂い」
その笑顔に美音はただ首を傾げただけだった。
 何気なく視線を転じた先に、3,4組の男子生徒が体操服姿で教室を次々と出て行く光景があった。美音は無意識に目を留めていた。
 その中に見知った人物の姿はなく、美音は知らずと俯いていた。
「春日さん?」
名前を呼ばれて我に返った。
「あ、ごめん、今考え事していたみたい。今日、日直だからやる事多くて」
「あー、そうだったんだ。……あと、さ、部練届けって休日の前の日に出さないといけないの?」
「うーん、いつでも受け取り可能だったはずだけど」
「ほんと?わかった。ありがとう」
笑顔でそう言った片岡は自分の教室へと帰っていった。

「はぁ」
 意識せずに出たため息だった。口を噤んで足元に目を向けてからそれに気づいた美音は思わず苦笑を浮かべた。
まるで、らしかぬ自分を持て余しているようだった。
教室に戻ろうかと足を進めたら、また声が飛んできた。
「春日―」

 ―今日はよく呼び止められる日だなぁ―

そんな事を思いつつ顔を向けたら、今度は亮太だった。その横に谷折もいる。
「委員会の球技大会の資料って、まだ作ってなかったよなぁ」
「そう言えばまだだわ」
「いつする?」
「うーん、今週も今日で終わりだし、今日か月・火曜のいずれかだけど」
「俺はいつでもいいけど」
「じゃあ月曜日。火曜日は予備日で開けといて」
「了解。あと、なんか谷折が聞きたい事あるみたい」
突然話を振られて、谷折は動揺した。
「え?おれ?」
「まどろっこしいから、谷折の口から言えよ」
きょとんとした顔を向ける美音。谷折は困った表情をしながら口を開く。
「え、えーと、今、ほら、春日さんすごい噂になってるんだけど」
「うん、なってるね」
「えーと、瀧野とさ」
「うん、知ってる」
「それで、大丈夫なのかなぁと思って」
「…………?」
思い切り怪訝な顔をする美音。
谷折は困った表情で頬をぽりぽりかきながら言葉を紡ぐ。
「1組のテニス部の女の子たち、なんともない?」
その顔には心配した様子が伺える。
「ああ、誤解はちゃんと解いてあるから大丈夫だよ」
「……そうですか」
意気消沈した様子の谷折を見て、美音はくすっと笑うと声を出した。
「変な谷折君」

 二人と別れて教室に戻った美音はスクリーンを肩にかけるように持ちながら廊下に出た。
「春日ちゃん、ドア閉めとくからー」
「うん、ありがとー」
クラスメイトの親切に笑顔を向けてから、美音は教員室へと向かう。
その階の廊下を曲がり、階段へと向かう所に出た時、急に体が軽くなったのを感じた。

 ―え?―

驚いて顔を向けると、体操服に着替えている圭史がスクリーンをその手に持ち抱えていた。
「あ、ありがと……」
「通り道だから」
美音がどことなく恥かしそうに言うと、圭史は穏やかな優しい笑顔でそう言った。
 並んで進める足を見つめて、美音はそっと圭史に目を向けた。

 スラリとした体形は、決して痩せ型ではなく適度な筋肉がついていて、遠目で見るより彼の肩幅は結構あった。性別が違うだけで、どうしてこうも違うのか。自分を抱き上げられるくらい力もあって、ここぞと言うときの決断力も実行力も彼にはあった。
2年になって、彼が実行委員になってから、共通の時間が増えて知る機会が必然と出来た。知ったのは彼の笑顔。声。温もり。優しさ。
でも、知れば知るほど、追いやられるように不安にも似た気持ちに覆われていた。



 終礼が終わり日誌を教員室に届け終えてから、美音は図書室に向かっていた。
まだ帰宅する生徒の姿が外庭に見える。中庭に顔を向ければ、体育会系の部活に属している生徒が部室へと向かう姿が見えた。
腕を目前に上げると、ブレザーの袖口をすっとあげ、腕時計に目を向けた。
そして、何もなかったかのように美音は足を進めていく。
 通いなれた図書室の扉を開け中に入ると、数えられるくらいの生徒の数しかない。
常連となっている美音は司書に挨拶をすると、奥のテーブルへと向かう。
美音が決まって座る席。
そこは一番奥の校庭が見える窓を眺める事ができる場所だった。
空いているその席に、美音はまずカバンを置いてから椅子に座る。
そして、カバンからノートを取り出して広げると、おもむろにシャープペンを手に握った。
 広げられたそれは数学だった。
顔はノートに向けて、問題を解こうと手にはシャープペンが握られているのに、美音の目は数学を捉えていなかった。図書室にいる生徒の話し声も、校庭から聞こえる部活の声も、今の美音の耳には届いていない。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、美音には判別できなかった。
シャープペンをテーブルの上に転がすと、顔に両手を覆い、拭うように動かして数秒後、ため息を吐いた。

「それ、そんなに難しいの?」
突然横から聞こえた声に、美音は驚いてびくっと反応を示した。
栞が横に来ていたの事にさえ気づいていなかった。
「実はこれがずっと解けないでいてね」
「春日ちゃん、珍しいね」
「何が?」
「ため息」
「うーん、そう言えば最近よく出るなぁ」
そう言いつつまたため息を零しそうな様子に、栞は見つめながら言葉を紡ぐ。
「なんだか元気なさそうだし。まだ不調?」
美音は頬杖を突いたその手を額につけると、前髪をクシャッと掴み俯きながら口を開く。
「うーん、そうでもない筈なんだけど……」
「生徒会大変なの?」
「それは全然」
そう言ったキリ、美音は又俯いてしまった。
栞は余計な事は何も言わずただ座っている。
そして、言いにくそうにしながら美音は口を開いた。
「……今日、谷折君に心配されてね」
「うん」
「何やら今噂になってるけど、大丈夫?って」
「大丈夫、ねぇ」
「うん、相手が瀧野くんだから同じクラスのテニス部の子たち何でもないかって。……噂ってどんなのが流れてるの?」
「皆が勝手に憶測で話している事だから、……いろいろ、だけど」
「一学期は、私が亮太と付き合ってるだの、3年の生徒会の先輩と付き合ってるだの噂があったって聞いたけど」
「あー、うん。一部の間でね。春日ちゃん、付き合ってる人とか、いないんだよね?」
「うん、いないよ?」
「……、瀧野君と春日ちゃんが付き合ってるって噂、学年中に広まってるらしいよ?」
「痴漢に遭ったとき助けてくれた時の話がね、その時の光景を誤解して見た人がいてね、ホームでいちゃついてたって事になってたらしいんだ。川浪さんにも聞かれたから、誤解だよって説明したんだけど……、それもその時の話でしょ?」
それを聞いて、栞は少し困った顔をしながら話し出した。
「え、と、学園祭の前くらいから話はあったみたい。二人で帰ってるとか。でも私は二人が同じ中学だって言うの知ってるから、別に特別な事だとは思ってなかったし。委員会で帰りが遅くなっての事だと思うし。ただ、準備中に、抱き合ってたとか、後夜祭でも手繋いでたとか、……」
「……?なんでそういう……」
話が出てる、と言おうとして、美音ははっと思い当たった。
体育館に向かっている時に目眩を起こして階段から落ちそうになり、助けてもらった時。
後夜祭を踊るのに二人は手を繋いでグラウンドに向かっていた時。

 ―見られてたんだ……―

 頬が赤くなるのを察知して、美音はテーブルの上で頭を抱えて俯いた。
「……どうしたの?」
「な、なんでもない……」
「本当のところ、瀧野君の事どう思ってるの?」
「え?な、なんで?」
「そういう噂が出るくらいだから、何かあるんじゃないのかなぁと思うの」
「な、何かって?」
「怒らないで聞いてくれる?」
ずいっと身を乗り出して小声で聞いてくる栞に、戸惑いながら頷く美音。
「瀧野君って、人気ある割りに女子には素っ気無いんだけどね。だから想っている子は安心しているところもあるんだけど」
「え?!素っ気無い?」
「うん、部活でもそうだよ。私も殆ど話した事ないもん。だけど、話聞いていても瀧野君って春日ちゃんには態度が違うと思うの」
「そ、それは、親同士が仲いいし、中学の時は瀧野君と仲良い子の事が好きだったから、それで気遣ってくれてて、今は実行委員で仕事柄もあるから……」
「うん、分かってる。けど、本当にそれだけかなぁ?」
「私に聞かれても……」
「私は、春日ちゃんに気があると思うんだけど」
「そ、そんな事言われても、わからないよ……」
俯いたままの美音に、栞は続ける。
「春日ちゃんは?」
「……よく、わからない……」
俯いたまま零すように言った美音に、栞はそれ以上訊ねるのをやめる事にした。
美音の様子がいつもと違って不安定だったからだ。
「あんまり思いつめないでね?周りは羨ましがってるだけだから」
「……うん」

 結局、数学は解けないまま図書室を出た。
その校舎を出て下駄箱へ向かっている途中に、美音は渦中の人物と鉢合わせした。
「生徒会?」
美音の姿に気づいていた彼は、ある程度まで近づいたところで気づいた美音にそう声を放った。
「あ、ううん、今から帰るところ」
自分の中にギクシャクした何かを感じながら美音は答えた。
それを聞いて、今から部活に向かうところの圭史は笑顔で言う。
「そう。……あ、これ」
思い出したように制服のポケットから取り出すと、それを握ったまま美音に差し出した。
美音は不思議そうな顔をしながら、そっと手の平を向けた。
すると、圭史は照れた様子で言う。
「前に言ってた技術の課題のキーホルダー。気に入るか分からないけど」
受け取ったそれを握りながら、気を抜けば思考が止まってしまいそうなのを感じながら美音は言葉を紡ぐ。
「あ、ありがとう」
「じゃ、気をつけてね」
「うん、ばいばい」
どこか恥かしそうに、それでも微笑みながら言った美音に、圭史は軽く手を上げると部室へと向かっていった。
 下駄箱に向かいながら、美音は手の中の物をぎゅうと握り締めたまま微笑を零している。
自分の場所に到着すると、受け取ったままのそれをポケットに入れて美音は学校を後にした。なんとなく穏やかで嬉しい気持ちをその身に感じながら。