時の雫-風に乗って君に届けば

§8 確認までの坂道


Episode 3 /6




 朝、一日が始まったばかりだというのに、圭史は疲れを感じていた。
今日もこの身に襲い掛かるであろう疲労に、今から疲れているのだった。

 ―あー、だるいな……―

そう思いながら、人の流れに沿って電車に乗り込んだ。
いつもより一本遅い電車に、気乗りがしない面持ちでダルそうにつり革を握っている。
電車の中は結構込み合っていて、いつもの電車に乗れなかった事を後悔した。

 ―一本違うだけで、こんなに混むもんか……―

電車に揺られて、同じ車両内の隣の扉付近に目が行った。
 偶然に美音の姿を見つけた。
朝は幾分ぼんやりとした表情でそこに立っている。
身動きが少しも取れない、という混み具合ではなく、その気になれば移動できるくらいの隙間は何とかあった。
でも、扉付近、美音の周りは圭史の所より人口密度は高いように見えた。

 ―いつも、この電車なのかな?―

ずっと見つめていたい気持ちにはなっていたのだが、さすがにそれに素直に従う事は憚れ窓の外に目を向けた。空は時折雲に覆われ、隙間から陽が差し込んでいた。
 電車が次の駅に止まり、圭史の近くにいた人もちらほらと降りていく。
再び電車が動き出して暫くしてから、確認するように美音の姿に目を向けた。
 先程の場所より奥へ流されたみたいだった。
周りの人の多さに少し参ったような顔をしている。
何となく圭史は笑みを浮かべてからまた顔を戻した。
それから1分も経たずに美音の事が気になって、吊り革を持つ腕の間からそっと目を向けた。

 ―?―

たった短い時間の間に、美音の表情が変わっていた。
肩や腕に力が入ってるのが見て分かる。ひどく困ったような、何かを耐えているような、うろたえている様子が圭史にはありありと分かった。
 美音は動けないようで必死に身を固めている。俯いていて表情は見えない。
何か嫌な気配を感じて、自然と手は吊り革を離し体は美音に向いていた。
 その注視に気づいたのか、微かに顔を上げた美音。
今にも泣き出してしまいそうな目に、ひどくつらそうな顔は何かに怯えている様な。

 本人が気づく前に、圭史は体を動かしていた。
人の間を無理やり掻き分けるようにして美音の元へ向かった。
自分の逸る気持ちをひしひしと感じながら。

 ―多分、これは……―

 圭史は手が届く距離になったところで、腕を伸ばして美音の腕を掴むとそこからぐいっと引き寄せた。空いたその空間に、丁度美音の後ろに立っていたであろう男が取り残されたようにいる。
圭史がその男を睨み付けた瞬間、駅に着いた電車の扉が開いたところで、男は逃げるように降りていった。
 真っ青な顔をした美音は思考能力が戻っていない様子だ。そんな彼女を置いてはいけない。
座席端の手すりの空いた所へ美音を移動させると、その向かいに周りから守るように圭史は立った。
丁度、この電車への乗り込みが始まったところだった。そしてすぐに電車は発車する。

「……大丈夫?」
顔が青いままの美音に、他に言葉が浮かばずそう言葉をかけていた。
「……ぅん、ごめん……」
か細く今にも消え入りそうな声で美音は言った。
それでも、美音の顔色の悪さはひどくなるばかりで身を屈める様にして立っている。

「……、……気持ち悪い……」

本当に小さい声で言ったのにも関わらず、圭史はそれが聞こえた。
あと数駅で降りる駅だったが、電車が駅に止まると、美音のカバンを手に持って手を握るとその駅に下車した。
美音を気遣いながらホームの一番端にあるベンチまで行き、そこに美音を座らせた。
体に力が入っていない様子で美音は座り、顔を覆うようにして手を当てしんどそうに言葉を紡ぐ。
「……さっき、痴漢が……、でも、動けなくて……」
微かにふらついている頭を、支えるように手を伸ばし自分の肩に寄りかからせた。
力をその手に込めながら、でも包み込むように優しく抱き寄せていた。

「……あ、ごめんね……」

そう口にした美音に、圭史は悔しさにも似た気持ちをその身に煮えたぎらせながら搾り出すように声を出した。
「……気にしなくていいから……」

数分が過ぎて、美音の顔色が少し良くなったように見えた。
「何か飲む?」
「ううん、大丈夫。……それより瀧野くん先行っていいよ」
「大丈夫だよ。それより、今日はもう帰る?」
数秒間が空いてから、美音は顔を上げ笑顔を浮かべて―それでもしんどそうだったが―圭史に言った。
「ううん、学校行く。……ありがと」
それに圭史は幾分安心して微笑を向けた。
 次に来た電車に乗り込むと、扉を背にして美音を立たせ、守るようにして美音の前に圭史は立った。ゆっくりと電車が動き出し、体がバランスを崩して揺れたので手を扉に―美音の肩の上辺りに―支えるように伸ばした。
一瞬、はっとしたような表情をして、すぐ俯いて美音はカバンを持っている手を持て余す様に動かした。仄かに顔に赤みが戻ってきたように見える。

「……いつもあの電車?」
「え、と、大体は。いつもは違う車両に乗ってるんだけど、今日はもう面倒くさくなってここでいいやと思って乗ったんだけど、そしたら酷い目に遭っちゃった。……瀧野くんは?」
「いつもはもう一本早いヤツ。結構空いてるから」
「そんなに違う?」
「うん、さっきの電車乗ってそう思った」

 一緒に学校に向かっている間に、美音は大分落ち着いてきたみたいだった。
どうにか微笑みを見せるようになっている。
 教室の前で別れる時、圭史は心配顔で言葉をかけた。
「気分悪かったら保健室行って休みなよ?」
「うん、ありがと」
じゃあね、と手を振ってから美音は1組へと向かっていった。
その微笑みを見て、圭史はとりあえずほっとして教室に入っていった。



 翌日はいつもの電車に乗り学校へと向かった。
圭史がいつも乗る車両に美音の姿は見当たらなかったので、大丈夫かなぁ、と思いつつ改札口を出た。
たたた…、と小走りに駆けて来る音がしたかと思ったら、遠慮がちな声が飛んできた。
「おはよう」
その声に足を止めて顔を向けると、はにかんだ笑顔を向けた美音が立っていた。
「おはよう。……今の電車だった?姿見えなかったけど」
美音が隣に来るのを待ちながら圭史はそう言葉をかけた。
「あ、うん。大分前の方の車両に乗ったから」
並んで歩きながら他愛のない話をして美音の歩く速度にあわせるようにして足を運んでいた。
 一つの話題が終わった時、数秒の間を見せて、美音は少し言いにくそうな表情をしながら口を開いた。
「あの、数学、前に教えてもらって、その、凄く解り易かったから、また……」
どこか恥かしそうに言うその姿が、圭史にはくすぐったく感じられるくらいに可愛く思った。圭史の顔に笑顔が不意に浮かぶ。
だが、美音がその台詞を言い終える前に、明るく元気な声がその場に飛んできた。
「おはようございまーす!」
それに意識をそがれた瞬間、圭史の片腕に違う感触の重みが加えられた。
一瞬嫌な顔をしつつも、とりあえず挨拶だけは返した。

 図書室で急に抱きつかれての告白をされてからというもの、このテニス部の後輩は、姿を見つけては抱きついてくるようになった。人目も気にせず、いつも堂々とした行動をとるこの松内が、今の圭史に疲れを感じさせる要因だった。
 松内の腕を自分の腕から剥がそうと手を引っ張るのだが、松内は手を離されてもすぐまとわりついてくる。
「瀧野くん、先行くね、日直なの思い出したから」
「あ……」
困った表情で言った美音に言葉を返す間もなく、美音は走って行ってしまった。
圭史は心の中で長く深いため息をついた。一瞬にして全てを奪われたかのよう気分だ。
 全く離れようとしない松内に、圭史は言葉を紡ぐ。
「離して」
「えー?いいじゃないですかぁ」
感情的に言い放ちたいのを必死に抑えながら、圭史ははっきりと言う。
「手、離して」
そう厳しい口調で言い放った圭史の、きつい眼差しに、松内は大人しく腕を離した。
「先輩、怒ってるんですか?」
「……別に」
下駄箱に着くまでの間、圭史は無愛想と言える態度を崩さずに松内の言う事に、無視をしたいのを必死で堪えながら適当に返答を繰り返していた。



 昼休み、友人たちの他愛もない話に耳を傾けながら、圭史は平和を実感した。
以前なら彼らの話を聞いていても、大して面白くも楽しくもなかったが、今は安息できるのはこの教室だけになっていた。廊下に出ていれば、他の男子生徒からの注目を浴びるし、他の学年も行き来する場所に出れば、松内に付き纏われるしで、知らずとストレスはたまっていく一方なのだ。
しかも、今朝は一度ならず二度までも、美音の前で抱きつかれた。今更、変な誤解を受けたくはない。しかし、今の自分が彼女に何を弁明しようと言うのだろう。
我知らず小さなため息が口から零れた時だった。

 このクラスのドアが勢いよく開かれ、見慣れた顔が入ってきた。
他のクラスの実行委員だった。

 ―ん?何か用かな?―

と思った次の瞬間に、それまでの安息の時間は終わったのだった。

「朝っぱらからホームで抱き合ってた話はホントなのか?瀧野」
その大きな声に、教室の中はし…ん、と静まり返った。
圭史は突然の事にポカン、とした顔をしている。
反応のない圭史に、その実行委員は圭史の所まで足を運ぶと問い詰めるように声を放った。
「どうなんだよ?!」
「な、何が」
「そういう噂は聞いてたけど、委員の奴らは単なる噂で処理してたけど、お前、付き合ってるのかよ?あの春日さんと!俺たちの憧れと朝から抱き合うような仲なのかよ?」
「……げ」
圭史はその台詞の意味を把握すると、周りにある険しい視線が自分を刺していることに気づき、そう一言口にせずにはいられなかった。
一番恐ろしい顔をしているのは、圭史の周りにいる友人たちなのだから。



 逃げるように教室に入ってきた圭史は、迷うことなく谷折の所へやってきた。
「ごめん、ちょっと匿って」
「お?珍しいな」
谷折は圭史の姿を見て教室の隅へと移動した。
「なんかすごい疲れた顔してるな」
谷折のいつもの様子に、圭史は深いため息を吐いてから口を開いた。
「ああ、疲労は増すばかりだ」
「はは、モテル男は大変だね。で、逃げてきた原因は何?」
圭史はため息を吐いてから朝と先程の出来事を話し出した。
「あいつらはまともに人の話を聞こうとしないし、危うくシメられるところだった」
「はー。それじゃ、お前有名人に躍り出たなぁ」
「……みたいだな」
「本人の耳に入るのも時間の問題だし、松内サンの事もあるから、噂は尾ひれがついて広まるだろうなぁ。瀧野圭史二股疑惑女のもつれか?なぁーんて」
「お前人事だと思って……」
「まぁ俺は当人じゃないからなぁ。でもまぁ部活に支障きたす様ならちょっと考えないといけないよなぁ」
「……俺、いっその事退部していい?」
「それは却下。お前も思い切って当たって砕けてみたら?その方が色々と諦めもつくだろ?」
「……。俺、砕けたくないんだけど」
「うーん、皆そう言うよな。儚い夢だね」
「って言うか、駄目前提だよな、それ」
「……そりゃー、お前相手が相手なだけにさ。俺が見てたって勝算の見込みないよ」
「へいへい、……分かってるよ」
そう呟いた圭史の横顔は、どこか悲しげだった。