時の雫-風に乗って君に届けば

§8 確認までの坂道


Episode 1 /6




 多少の肌寒さを感じながら、日直である圭史は日誌を置きに教員室に向かっていた。
朝晩は冷え込むようになって、5時を過ぎた頃には空は濃紺に染められている。
 学祭が終わると、中間テストを迎え、気がつけばすっかり日常に戻っていた。


校内はいつもの静けさで今日も日常を作り出していた。
「あれ?瀧野君日直?」
その声に顔を上げると、圭史を見かけて足を止めている美音が笑顔で立っていた。
「うん。春日は?」
「私は生徒会の用事で先生の所に行った帰り」
今日は毎月定例の委員会の日だった。
「今日の議題は何?」
「球技大会のことデス。体育祭や学園祭に比べたらすんごく楽だし、すぐ終わるよ」
「そうかぁ、球技大会か。早いなぁ」
「そうだねぇ。これ済んだら後は3学期の卒業式で終わりなんだよね」
「……ほんと、早いもんだ」
認識して改めて言った圭史に美音はにこっと微笑みを見せた。

 そんな美音をチラッと見てから、圭史は今思い立ったように口を開いた。
「日が暮れるの早くなったから、委員会のある日は送っていくよ」
「え?でも、私の方が遅いかもしれないし……」
「その時は又考えるよ。……じゃ、後でね」
微笑みながらその場を後にし、当初の目的である日誌を置きに教員室へと入っていった。
本音を言えば、断られる前に逃げただけなのだった。

 用を済ませ、会議室へと向かいながら、自分を見かけて足を止めていた美音の姿を思い出していた。彼女の笑顔を思い出して、思わず笑みを零してしまう。

 学園祭という行事が済んでから二人の間に変わった事と言えば、美音が圭史を見かけると足を止めて笑顔を見せるようになった事だった。
そして自然と二人は言葉を交わすのが日常になりつつあった。
一日何度か口をきく。
それだけの事なのだが、それが楽しみで学校に来ているみたいなものだと少なからず今は思っている。

 そして、実行委員会は、順調に話は進み何の心配も浮かぶ事無く球技大会の役割も決まり終了した。
学園祭の時に気付いたのだが、書類にまとめを書く役が自分に決まっている圭史は、予想通り書かなくてはいけない書類を受け取り、次々と帰って行く連中の背を見て軽くため息をついた。
 他の委員がまとめを書いて提出した場合、書き直しを命じられ苦しんでいる姿が常だった。その書類に目を通すのが美音だから特に評価が厳しく一度で合格をもらうのは難しいとされていた。だから、皆まとめの書類を他人任せにしている。

「……いーけどね、別に」
そう呟くと、会議室の電気を消して、隣の生徒会室へと入っていった。
用事がなければ、この部屋に入る事はないのだから。
「実行委員会の方は終わったから」
圭史が入りながらそう言うと、亮太が「おう」と返事をした。
すると、丈斗が会議室の鍵を閉めに席を立った。
「ここの席使っていい?」
作業をしている亮太に圭史は訊ねた。亮太は気軽に返事をする。
「いいよ」
「いつの間にやら、俺が委員会のまとめ書かなくちゃいけなくなってるんだよな。
任せるだけ任せて誰も終わるまで待とうともしない」
「ああ、3年が言ってた。瀧野はちゃんと仕事するし任せておいて大丈夫だってさ」
「……どーだか」
そうぽつりと言って、圭史はまとめに取り掛かっていった。

 美音は黙々と書類に手を動かしている。
その向かいの席には快が座っていて、手を動かしていると思えば、すぐ手を止めて美音を眺めている。美音が少しも顔を上げずにいると、又、快は手を動かす、という事を繰り返していた。
そんな快の様子を圭史は横目で見ていた。
「瀧野君」
「はい」
思わずどきりとして畏まって返事をしてしまった。
「出来たら藤田君に渡してね」
美音は何も気にした様子はなく、いつもの仕事中の口調でそう言った。
「……はい」
思わず何を言われるんだろうと身構えてしまった圭史。
美音の台詞を聞いて安心し、それと同時に少し自分が情けなく思った。

 ―何びびってるんだろう、俺―

そう心の中で呟きながら手を動かしていく。そして無意識に零れるため息。
 頭を働かせながら目は書類を見つめている。
手を動かしながら、……変な視線に気付いた。
怪訝に思いながらそれに顔を向けてみると、快がじーっと見ている。
「……なに?」
そう聞かずにはいられなかった。
「あの、テニス部の人ですよね?」
「……そうだけど」
「もしかして、女テニ1年のまつ」
快がそこまで言ったところで、圭史はそれを遮って口を開いた。
「はい、これ出来たよ」
差し出された書類を反射的に受け取った快は、はっと表情が変わった。
 どうやらそれで、快は圭史に話の続きをするのを忘れたようだった。
心の中で安堵の息を吐きつつ、それでも多少の不安を抱いて目を向けた。

快は受け取った書類に一瞬だけ目を向けるとすぐ机の横に置いた。
顔は机に向いているはずの美音から即座に声が飛んできた。
「藤田君!ちゃんと中身読んで確認する!」
びしっと背筋を伸ばし、書類に手をかけ目を向ける快。
「はい!…………問題ないです」
美音は目をちらりと向けて声を放った。
「ホントに読んだの?」
「読みました」
きっぱりとそう返した快に美音は手を差し出した。
すると、快は「え?」という顔をして、その手を握ろうとする。
そしてすぐに、ぱちん。という小気味良い音が響いた。美音が快の手を払いのけたのだった。
「書類」
迫力のある美音の一言に、快は慌てて書類を渡した。
それに目を通してから、又美音は口を開く。
「問題が無い理由わかる?」
「え、と、……」
それに困ったようにため息をしてから、美音は問題がない理由を説明しだした。

圭史は聞いていて、自分の書いたものなのだが思わず納得していた。

「だから、この1枚で私らが何か合った時にすぐ動けるかっていうのが大事なの。わかった?」
「はい」
「じゃあ、はい」
と美音が書類を返すと、又机の横に置いた。
「すぐファイルに閉じる!」
「はい!」
背筋をピンと伸ばして快はファイルに手を伸ばした。
参ったようにため息を吐いてから、美音は作業に戻った。

「瀧野、これ助っ人して」
眉間にしわを寄せながら亮太が頼んできた。
「いーよ。計算していくだけ?」
「そう。これが終われば帰れるんだよ」
圭史がそれを手伝い、暫しの時間が経った頃、快が気付いたように声を出した。
「日が落ちるのも早くなったっすよねー。外もう暗いですよ。あ、そーだ、春日さん女の一人歩きは危険だから送っていきますよ」
美音は手にぴくっと反応を見せてから声を出した。
「方向が違うでしょ。それに藤田君なんて頼りにならないからいらない」
「えー?そんな事無いですよー」
身を机の上に乗り出して言う快に、呆れながら亮太が口を挟んだ。
「おいおい、ここに同じ方向のガードマンいるから、お前は用なし」
それに不満露な顔を向け快は口を開く。
「えー?同じ方向ってどこまでですか?」
その台詞にいち早く反応したのは美音だった。
手元にあった消しゴムを快の頭に投げつけると言い放った。
「口より手を動かしなさい」
「……はい」

そう返事をしたものの、快は納得がいかないような顔で圭史を見ている。
亮太がそれに気付き、隣に座っている圭史を小突いた。
「何か用?」と顔を向けた圭史に、亮太は顎で快を指した。
「?」
なんだろうと目を向けると、不満という一言では説明のつかない表情を快は圭史に向けている。何を思っているか、ろくに話をしたことのない圭史にだって伝わってくる。
圭史は悪びれも無く余裕の笑顔で答えてやった。
「春日の家から歩いて10分足らずの距離だよ。すぐ近く」
 快はうな垂れて仕事に顔を向けた。

そして圭史は何も無かったような顔で机上を向いたところで、隣の亮太の表情に気付いた。
頬杖を突きながら快と美音の方を見ている様子だった。
「ふーん?」と意味ありげな表情に、圭史は訊ねていた。
「? 何?」
「ん?いいや」
亮太は何食わぬ顔でそう言うと、何もなかったように仕事に手を動かしていく。
「?」
疑問には思ったものの、例え問うたところで答えてくれるような相手ではない。
圭史は静かに手を動かしていく。





「瀧野君にまで手伝わせちゃってごめんね」
二人になった帰り道で美音はそう言った。
「いいよ別に部活があった訳じゃないし」
圭史がそう言うと美音はにこりと微笑んだ。
「ありがとう」の意であることは分かっている。それでも胸がどき、と高鳴る。
 歩きながら圭史は平常を装いつつ口を開いた。
「あの1年の、藤田クンっていつもあんな感じ?」
「うーん、あんまり気にした事無いけど、あんな感じじゃないかな。いつも手ばっかりやかせて全く持って頼りにならないんだけど」
「そうかぁ」
少し納得したように言ったのを聞いて美音は訊ねてきた。
「それがどうかしたの?」
それには圭史は穏やかでいて優しい笑顔で答える。
「ううん、何も無いよ」
そうすると美音はとりあえず笑顔で「そう?」と返してそれ以上聞いてこないのだ。

 暫く歩いた先で、不意にガサリと音が聞こえてきた。
美音はビクッとこわばらせた体は、思わず圭史に寄っていた。
二人の間は、もう何センチも空いていない。
圭史は軽く触れた彼女の手をすっと握り穏やかに言った。
「大丈夫」
それを聞いて、美音は他に何も物音がしないのを確認するとやっと余計な力が抜けたようだった。安心したように、ほう…、と息を吐いた。
 警戒を解いた彼女を見て、圭史は手を繋いだままゆっくりと歩き出した。
繋がれた手を見て、彼女は一瞬何か言いたそうにしていたが、圭史が又にっこりと微笑みを向けると微かに俯いて口を噤んだ。
圭史は分かってやっている。
圭史の穏やかで優しい笑顔に美音が反論を示すことは無かったから。
 そのまま家に着くまで時間、美音の小さな手は圭史の手に包まれたままだった。

「じゃあ、又明日」
圭史がそう言うと、美音はただ「うん」と口にして家の扉へと向かう。
 家の扉の前に美音が足を運び終えようとする頃に圭史は歩き出すのだ。
 美音は玄関の扉に手をかける前に、足を止め圭史に視線を向けた。
すると、圭史はその場所から家に入ろうとしていた美音を見ているところだった。
 圭史はすぐに笑顔を浮かべて手を振った。
美音もすぐ笑顔になって手を振り返した。
それから、安心した様子で静かに家の中へと入っていた。

 圭史は家に辿り着くまで間、彼女の笑顔をずっと頭に思い浮かべていた。
可愛い彼女の笑顔が、心に穏やかなものを与えてくれる
そして、彼女への想いを自分の中に感じながら、圭史は明日を又楽しみにする。