時の雫-風に乗って君に届けば
§7 二人の隙間に潜むもの
Episode 5 /6
3日間に及んだ学園祭は無事終了し、グランドでは後夜祭が行われている。
後夜祭は実行委員によって進められていた。
生徒会室を片付け終えた美音は、一人で体育館に向かっている。
体育館では他の生徒会メンバーと手の空いている実行委員が片付けをしているからだ。
―今年の後夜祭も仕事ですなぁ―
とぼんやり思いながら通路を進んでいると、通り過ぎようとしていた片岡が声をかけてきた。
「春日さんおどろー?」
美音は目すら向ける事無くさっぱりと言い切る。
「踊りません」
そして、そのまま突き進んでいく。
少しの間、片岡は美音を見つめていたが、反応が無いので諦めるようにして向かっていた道を歩き出した。
体育館に近づくと、両腕いっぱいに荷物を積んだ快がやって来た。
美音の姿を目にすると、一人盛り上げるようにして言葉を放った。
「あ!春日さん、後夜祭踊りましょうよ。俺寂しく一人なんですよ。今までダンス踊ったことないんですよ。踊ってくださいよ」
「それよりそれを運んできなさい」
ぴし。とそう言い、美音は足を止めることもせず歩いていく。
「……踊らない、って言ってるのに」
そう一人ごちながらやっと体育館に辿り着いた。
皆バラバラと片付けている。
2階通路を見上げると、まだそこは手付かずといった様子だ。
―今年もあそこを片付けるかー―
舞台袖の階段を下りたところにある、暗幕のような分厚いカーテンを潜り抜け、舞台裏から体育館に出るドアの角を挟んで隣にある扉を開けて、その中に入って行った。
狭い階段を上って出た先には、体育館の窓に沿って、幅1メートル弱くらいの通路がある。
美音は奥のほうから飾りを外していく事にした。
―えらい今年は手が込んでるなぁ―
必死で手を伸ばしても窓の上部についている飾りに届かない。
周りには踏み台になるものは何も無いので、柵に上って取ることにした。
「よいしょ、と」
柵に背を向け上部に手をかける。そして腕の力で体を上げその上に座った。
その状態のまま片足を柵にかけ立ち上がろうとした所で下から声が聞こえてきた。
「……春日?もしかしてその上に立ち上がろうとしてる?」
「あ、うん」
声の主を確認してそう返事をしたところで、美音はバランスを崩し通路の上に着地した。
下では安心の息を吐いている圭史がいる。
それでも美音は再び柵に手をかけた。
「春日ストップ。今そっち行くから、動くな」
「あ、うん」
「いいか?絶対動くな」
「あ、はい」
圭史にしては珍しく命令形の台詞に、美音は大人しく従った。
美音の元にやってきた圭史は、心なしか怖い表情をしている。
「これ、取るの?」
「うん、そう」
何も気付いていない美音に、圭史は深くため息をしてから言葉を紡いだ。
「無謀すぎ。しかも今スカートだって事分かってる?」
「……あ。す、すいません……」
頬を赤く染めて、顔を微妙に逸らしながら言った美音。
圭史は何も言わず、そのまま飾りを取り始めていく。
様子を伺うように、そっと目を向けた美音に圭史は気づいていない。
そのまま振り返る事無く外していく圭史の後ろ姿を、気がつけばずっと見つめていた。
彼の背中は広くてなんだかとても温かそう。
そこ一体の飾りを外し終えた圭史は次に移るべく振り返った。
その瞬間、美音の心臓は飛び上がったかのように反応し、思わず目を逸らしていた。
はっと我に返り、外して足元に置かれているそれらを拾い集めていく。
自分の中に緊張が生まれている。
圭史に顔を向けられないでいた。
それらを誤魔化すように美音は黙々と拾っていく。
圭史が次に移り再び背を向くと、ほっと小さく息を吐いた。
全てを外し拾い終えると、圭史の後をついていくように階段を下りていった。
今、二人の間に言葉はなく、美音は何かを話そうと思いはするのだが、何も言葉が浮かんでこなかった。そんな自分にすら戸惑いを感じていた。
下の空間に出た所で、足を止め自分の様子を伺っている気配を感じ、美音は顔を上げた。目に映ったのは、呆れ顔が混じった表情の圭史。
「無茶はしないように」
「はい……」
圭史は先程まで取り掛かっていた場所に戻っていった。
美音は、校舎裏の一件から、圭史にまともに目を向けられないでいる。
あの圭史の台詞を思い出すたびに、心臓が強張ったようにギクッと音を立てる。
そして胸がドキドキ言って手が汗ばむ。
「はぁ、……参ったなぁ」
丈斗がしている大道具の解体作業を手伝っていると、快が戻ってきた。
作業を行いながら雑談を交わしていると、まるで話が途切れる瞬間を狙っていたかのように快が言葉を紡いだ。
「春日さーん、踊りましょー?」
「踊っといで」
美音はそう一言言うだけで作業の手を休めない。
「えー?可哀相な子羊に愛の手をー」
「野口君助けてやって」
作業を進めながら、指を快に向けて言い放った美音に、丈斗は冗談混じりに言う。
「じゃあ踊りに行こうか藤田―」
「遠慮させてください……。じゃあ誰だったらいいんですかー?」
美音は笑顔を浮かべて快に言った。
「後夜祭が終わるまでに片付けないと、打ち上げ行けないよ?」
「……はい」
その笑顔が全てを遮断するものだと察した快は大人しく返事をし、諦めて作業を続けた。
美音が両腕一杯に荷物を抱えて体育館を出たところに、圭史が荷物を運び終えて戻って来ていた。
あまりの量にみかねたらしく、圭史は美音の荷物に手を伸ばした。
その一瞬にすら、美音の心臓は動揺を見せる。
それを必死で押し隠そうとしながら、美音はきゅっと口端を結ぶ。
圭史は美音の腕に少しの量を残して殆どの荷物を取った。
そして圭史は美音の横に並んで歩き始める。
いつも見慣れてた通路は、今は違って見えた。
日がすっかり沈みそこは暗がりの中だった。
お互いの顔がはっきり見えない事に、美音は落ち着きを感じているようだった。
前の時間に言葉が出てこなかったのが嘘のように今は雑談を楽しんでいる。
二人とも穏やかな声を向けていた。まるで何もなかったのだと偽っているように。
そのまま荷物を片付け体育館に戻る道の途中、グランドに流れている音楽が聞こえて、ふと美音は口にしていた。
「瀧野くんもダンス誘われてたんじゃない?」
見上げると、彼は前方を見つめたまま口を開いた。
「どーだったかな」
それの言葉に返す言葉が浮かばず、美音は圭史に合わせるように足を進める。
そして暫くしてまた口にする。
「……別に抜けて行ってきてもいいんだよ?瀧野くんは誘ってくれた子たくさんいるでしょ?」
別に深くを考えずに紡いだ台詞だった。
なのに、彼はピタッと足を止め一、二歩斜め後ろを歩く美音に振り向いた。
美音の足も自然に止まる。それと同時に感じる緊張。
「……ダンス、踊らないの?」
靄の様に心に浮かんだ何かを晴らすように美音は口にした。
ただ、素直に思ったことを聞いてみただけだった。
だが、圭史はじっと美音を見つめている。その眼差しが美音から言葉を奪った。
何か言いたげな真っ直ぐな瞳。
反対に美音は困惑した表情を浮かべている。
その瞳を前に、美音は何も言えなくなった。
「……春日は、今回のダンスも踊らないの?」
静かに放たれた台詞。
高校に入ってからまだ一度も行事のダンスに参加していない事を知っているような口振に聞こえた。
いつもと違う圭史の雰囲気に戸惑いを感じながら、美音は目を泳がせつつ言う。
「あの、ダンス苦手だし、それに、ずっと踊ってるの嫌だし……」
「……それで踊らないの?」
「え、その、手が、駄目だから……」
ダンスを踊ると言うことは、幾人もの男子と手を繋がなくてはいけないという事だった。美音が異性と手を触れたりするのはだめだというのは、圭史も分かっている事だ。
でも、圭史は例外だった。
「……俺とは? 替わる時に抜けたらいいし、踊らないと、苦手意識も消えないし」
「ほ、他の子は?」
まるで何かを誤魔化すようにそう言った美音に、圭史は数秒見つめ、向きを戻しながら口にした。
「……じゃ、いい」
「……あ、……」
圭史の背中を目にして、美音は俯いた。
―なぜ、他の子に言ったように言えないのだろう。……負い目を、感じてる?
でも、瀧野くんはどうして……―
その雰囲気を察したのか、圭史は背を向けたまま言った。
「片付け入ったからとっくに諦めてたのに、春日が聞いてきたから踊ってくれるのかなってちょっと期待しただけ」
それを聞いて、美音の瞳は動揺に揺れた。
「……、他の子、いいんだったら、踊る、けど……。私でいいんなら、ちょっとだけ……」
美音は俯いたまま手をぎゅっと握っている。
美音の台詞に振り向いていた圭史は、そんな様子を目にしてふっと笑みを浮かべた。
「いいよ、無理しなくて。……戻ろう」
そう言って圭史は再び進行方向に体を向け歩き出した。
美音は顔を上げそれを目にすると、目線を落として後をついて行くように後ろを歩いていく。心の中に生じた気まずさをひしひしと感じながら。
だが、数歩歩いた所で、圭史は足を止めた。
止まった圭史の足を見て、美音は足を止め顔を上げた。
そこにあったのは、圭史のはにかんだ笑顔だった。
「やっぱ、踊って」
その言葉に驚きの表情を浮かべたが、何かを思うより先に返事をしていた。
「うん」
その返事を聞き、圭史は美音の手を取ってグランドに向かって歩き出した。
美音は引っ張られるようにして早足でついて行く。
不思議な気持ちだった。どこか甘いようでほろ苦い、そんな気持ち。
―瀧野くんはいつだって優しいのに……―
グランドに着くと圭史は美音の手を離し、輪に加わってから笑顔で美音に手を差し出した。美音はそれに自分の手を素直に預けた。
体育の授業で数回やっただけのダンスを美音は必死に思い出しながら動きを進めていった。足が縺れそうになるのを必死に避けながら圭史に合わせて動いていた。
動いているうちにすっかり思い出したようで、大分ぎこちなさが取れてきた。
少し余裕が出てきた美音は、圭史の手の温もりに今気づいたようだ。
自分の手を包み込んでしまえるくらいの大きな手は、れっきとした男の人の手だ。
なのに、その手だけは、いつも居心地のよさを与えてくれていた。
他の人では駄目なのに、彼だけにはそれを感じない。彼の温もりはいつだって優しい。
不思議と心の奥から穏やかな感情が生まれてきて、普段の自分がまるで違う人間に思えてくる。
それでも今は、彼の手の感触に、微妙な緊張感を自分の中に感じていた。
そんな自分に戸惑いながらも、この時ようやっと圭史の視線に気づき、ふとゆっくりと目を向けた。
彼の瞳はいつもと違っていて、とても熱っぽくて、それが美音をどきりとさせた。
まるで心臓を鷲掴みにされたみたいに。
丁度それは一通り踊り終える頃。と同時に音楽が終わった。
「あ、ラストダンスだったんだ……」
そう放たれた圭史の呟き。自然に手は離れていた。
「もどろっか」
「うん」
微笑みながらの圭史の言葉に、美音はどうにか笑顔で返した。
自分の中で、今まで感じなかった筈の緊張と、不思議な気持ちがひしひしと蝕んでいく。
体育館について圭史と離れても、美音の心臓はまだうるさく鳴り響いていた。
それが指先まで響いてきているようで、自分の手のひらを見つめると微かに震えている。
その中に残っている圭史の温もりを感じて、美音は手をぎゅっと握り締めた。
とても神妙な顔をしたまま……