時の雫-風に乗って君に届けば
§6 装う日常
Episode 3 /4
放課後、生徒会室で黙々と書類を片付けていた。
その甲斐あってもう終わりに近づいている。
美音の机の山は既に片付いているのだが、残りの多い薫の分の消化に勤めていた。
何分、会長は生徒会室を留守にする仕事が多いから、先に終わったものが手助けに回らないといけない。
―んー、大分片付いたし、ちょっと様子見に行って来ようかな―
だるい体をゆっくりと椅子から立ち上げ、背筋を伸ばした。
「ちょっと進行具合見に行って来るー」
真面目な顔をして書類の消化に勤めている亮太と、それを手伝っている丈斗に言葉をかけて扉へ向かった。
「おー、無茶はするなよー」
顔は書類から離すことなく亮太は言った。
「はいはい」
―一体どういう意味なんだか……―
体育館に向かうべく道を目指し、美音は本館の階段を上がっていた。
―あー、しんど。なんでこんなに息があがってるんだろう……。運動不足かしら―
普段は何も思わず駆け上っていた場所に違和感を覚えながら必死で呼吸を繰り返している。いつもは、さささっと上っている階段が、今日はやけに長く感じる。体が重くて膝を折ってしまいそうになる。
後数段で踊り場に出るという所で、目指している場所から降りてきた人物に気がついた。
彼は踊り場で足を止めて、心配そうな顔で見つめている。
それに気付きながらも、やっとの思いでその踊り場に最後の一歩を辿り着けた。
上がった息を落ち着かせるようにして吐くと、美音は声を出した。
「昼休み、ジュースありがとう」
しんどいけれど、必死に浮かべた笑顔を見て、圭史は表情を歪ませながら答える。
「うん、どーいたしまして」
最後の段を上り圭史のいる踊り場に辿り着かせると、又一つ息を吐いてから手すりを掴んでいた手を離し、顔を上げようとした。
……だが、それは叶わない動作になった
顔を上げようとした瞬間、美音の体は感覚を保つことを拒否し、歪んだ世界が美音の目には映った。
視界には一色以外の色の壁以外映っていなかった。何の音も耳には届かない。
体中の力が抜けていく。
襲ったものは眩暈だった。
体は後ろへと倒れていっている。はっとした時には、もう「ダメだ」と思った。
そして、何も考えられなくなっていた。
だが、血の気が引いて、足掻くことさえ諦めた次の瞬間、美音は凄い力に引き寄せられていた。
一瞬に予想した、起こる筈の衝撃は襲ってこなかった。
反対に美音に訪れていたのは、安心にも似た穏やかな温もりだった。
「………、は――――」
安堵の、深いため息にも似た声。それは美音のものではなく。
咄嗟に圭史は、片手で手すりを掴み、もう片手で美音の腕を掴んで引き寄せた。
それに流されるまま美音の体は圭史の胸の中に抱きとめられ、圭史は手を彼女の腰に伸ばし無事を確認するように抱き寄せたのだ。
静寂が辺りを包むその中で、美音は呼吸をすることさえ苦しいと感じながらも、必死に体を常態に戻そうとしていた。
一瞬の出来事に茫然とする間もなく美音の体は衰弱しているようだった。
それでも、美音の体は居心地のよいそれを感じていた。
圭史は何も言わず、ただ美音をそのまま抱きとめていた。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか、美音には判別できなかった。
静かな中、何回か瞬きをしてぎこちなく顔を上げた。
自分が今どこに存在しているのか確かめるために。
「!!!」
思い切り圭史と目が合った次の瞬間、その状態に気付き、その場所から飛び跳ねるようにして手摺の付いた壁に背を預けた。
彼の困惑した表情を見て、美音は考えるよりも先に口走っていた。
「あ、あ、あの、こ、こういう体勢、な、慣れてなくて」
忽ち顔は真っ赤に染まっていった。
「じゃ、なくて、えぇと……」
自分の言った言葉に戸惑い凭れていた背を起こしたら、軽い眩暈が美音を襲った。
一瞬、視界が歪んだのだが、手首にある感触に引き戻されるようにして意識がはっきりした。
腕は、再び倒れるかと思われた様子に瞬時に体を動かしていた圭史の手に掴まれていた。
圭史の顔が見れず、その手に意識を向けたまま、美音はやっとの思いで声を出した
「あ、ごめん、大丈夫……」
「……仕事、は?」
絞りだされるようにして紡がれた言葉に、美音は無理矢理笑顔を取り繕って返した。
「え、ちょっと体育館の様子を見に行こうとしてた所で」
なのに、圭史の表情は、いつものように優しい表情を向けることは無く、ただ静かに言うだけだった。
「……そう。とりあえず、春日、こっち」
今美音が来た方向を圭史が指差すので、素直にそれに従い、圭史の後をついていった。
圭史は何も言わず、美音が来た道を戻っていく。
そして、後にしてきたはずの生徒会室の前で足を止めると、美音に振り向き口を開いた。
「体育館のほうはスコブル順調だから。反対にそんな疲れた顔で今にも倒れそうな状態でいられたら周りが落ち着かない」
彼にしては初めて見せるその表情。
いつもは柔らかい物言いなのに、今は怒りを含んでいるような、初めて聞く声に、美音は茫然とした。
「それと、これあげる」
ポケットに入れておいたお菓子を美音に渡すと、圭史は続けて言った。
「だから、とりあえず他の事は気にせず今日はここでゆっくり仕事すること。……わかったよね?」
最後の台詞は笑顔と共に向けられた。それはとびきりのものだった。
他の女生徒なら頬を紅くして見惚れてしまうほどのものだが、同時に有無を言わせないものがあった。
美音にはただ頷くことしか出来なかった。
「じゃあ、はい」
と生徒会室の扉を開けて圭史はそう言った。
抗えない何かに、美音は大人しく中に入った。
そして、背中で扉が閉められた音がした。
「あれ?見に行ったにしては早い帰還だな」
そんな亮太の声に、今にも崩れてしまいそうな情けない顔で言った。
「きょ、強制送還されました……」
本人は自分がしたその表情に気付いていない様子で、そのまま大人しく椅子に座ると、顔を机の上に預けた。
亮太は動かしていた手を止めてそんな美音を見ていた。
美音は手に持っていた、圭史がくれた菓子袋に気付くと、それをじっと見つめた。
特用サイズで売っているコアラのマーチの、個別分。
それを開けて、一つ口に入れると甘さが体中に浸透していくようで優しい気持ちになった。
「おいし……」
「ああ、疲れてるときは甘い物が欲しくなるんだよな」
「そーですよねぇ、すんごく美味しく感じるんですよね」
亮太と丈斗の台詞を聞いて、美音は自分の体調を知った。
―そうか、私、疲れてるんだ。
……いつも、笑顔なのに。なのに、呆れたような顔、してたなぁ。
まあ、疲れた顔してて目の前で倒れそうになれば、笑顔どころじゃないもんなぁ。
階段から落ちそうになったのを咄嗟に助けてくれて。疲れているから甘い物までくれて。……いつも、助けてくれる瀧野君、……―
「ふぅ」
小さく息を吐いて、じっと机の上を見つめた。
「・・・・・・」
暫し何か考え込んでいたようだったが、小さく頭を横に振るとゆっくりと立ち上がり、薫の分の書類を自分の所へ移動させた。
しゅん…、とした様子の美音を亮太は暫く眺めていたが、残りの書類の束を見て再び手を動かし始めた。仕事をしている気になっている間は、まだ大丈夫だろう。
そう思いながら亮太は仕事を進めていった。