時の雫-風に乗って君に届けば
§6 装う日常
Episode 4 /4
美音の顔色が悪い日から幾日が過ぎ、気が付けば、学園祭本番がすぐそこまで迫っていた。美音の顔色も、良くなっていっているはずだった。
だが、時間が迫られるほど、ハプニングが起こり、予定外の仕事が出来ていく。
そのせいも合って生徒会役員はフル活動で働いていた。
その中でも、美音は苛酷な労働を強いられていたように誰の目から見てもそう思えた。
実際、1年役員の指導も行いながらの役割担当をこなして行き、2年実行委員の進行も把握しながら、快の1年実行委員のフォローを行いつつ、丈斗は部活担当、その補佐は快だったが、殆ど美音が指揮していた。当初は二人の力不足を美音が補っていた形だったのだが、忙しくなってくる程、彼らの回転が悪くなり、ミスが続発するという最も避けたい事象が起こっていた。そうなると、責任者として美音が出なくてはいけなくなった。
学祭準備前半のほうで、快がトラブルを起こしてから、周りの人間も美音の所へ集中するようになった。1年2人は必然的に美音に助けを求めるし、各部の新部長は美音に話を持っていくという偏りを見せている。
他の理由としては、亮太は会計なので来期予算のこともあり、悪い印象を与えたくないので、まず避ける。生徒会長の薫は、掴み所が無く、気が付くと口だけで丸め込まれてしまうので、話をするのなら副会長が良いだろうと3年の部長から引継ぎされていた。
そして、とうとうあまりの忙しさに、美音は1日だけ学校を欠席した。
周りの人間は心配する暇も無いほど仕事に終われ、美音の存在の有難さをありありと感じたのだった。
その翌日に美音は元気な顔で登校してきた。
理由を聞いてきた生徒に、「ちょっと気分が悪かったから休んだの」と言っていたが、本当の理由が「過労」だと言うことを圭史は知っていた。
美音が休んだ当日、圭史の母が買い物先で偶然美音の母と会ったからだった。
日が暮れてから帰宅した圭史に、食事を用意しながら母は話してきた。
「美音ちゃん、今朝、起き上がれなかったから学校休ませてたんだって。車で病院連れてったって言ってたよ」
「……貧血とか?」
目の前で倒れかけた美音を思い出して圭史はそう訊ねていた。
「医者は過労だろうって」
「……過労……」
「生徒会で忙しそうにしてて、しんどくて食欲もあまりなかったみたいで。
病院で点滴受けて帰って来てからずっと寝てるんだって言っていたわ。
随分疲れてるのね。・・・・・・そりゃそうよね、過労で倒れるくらいだもんね。
でも他にも生徒会の子いるでしょ?何も1人に仕事させてる訳じゃないでしょ?」
心配な顔を見せる母親に、箸でおかずを摘みながら言った。
「それぞれ忙しいだろうけど、春日は仕事に対して何でも一人でこなしていくから、周りからその分任される事も多いんだと思うよ。いつも一人で頑張ってるみたいだし」
「そーなの。うちのひろにも見習って欲しいもんだわね」
この家の末っ子の頼りなさを思い出して言った母親に、圭史は言い切った。
「あーあいつは無理無理」
母とそんな会話をして、翌日の放課後、機会があった時に圭史は声をかけた。
すると、美音も圭史の母親と会った話を聞いていたみたいで、休んだ理由を知っていた圭史に対して、何も驚きを見せる事無く笑顔で言っていた。
「昨日一日よく寝たからもう大丈夫。問題とか何も無い?」
仕事のことを一番に気にかける彼女に思わず苦笑して「うん、今の所はなんとか」と答えた。
何故だか悲しく感じて、それ以上のことを聞けなくなった。
もう数日で学園祭当日になる。準備の方も大詰めを迎えていた。
休んだ事さえも無かったくらいに仕事をこなしていく彼女を見ていて、笑顔でいられない自分に気付いた。
心の中にモヤモヤとしたものがあって、暫くそれに気持ちが沈んでいた。
今日もそんな気持ちを抱えながら、日が暮れた時間に下校していた。
学校の中はすごく活気付いているのに、圭史の心の中は一向に晴れ間が見えなかった。
どうしたというのだろう。
学校を後にして一人で歩きながらそんなことを考えていた。
何と無く理由は分かっている。
最近の彼女を見ているとそんな気持ちになるのだ。
以前なら、頑張っている彼女を見て微笑を零していたのに。
今は何でこんなにすっきりしない気持ちでいるのだろう。
駅のホームに上がったら、電車の発車ベルが鳴り出したので、慌てて乗り込んだ。
そしていつも乗り込む車両へと歩いていった。
揺れる電車の中、バランスをとりながら連結部の扉を開けた時、美音を見つけた。
車両端の席に座って、横の窓に寄りかかりながら眠っている。
思わず動きを忘れてしまったのだが、すぐ我に返り、なるべく静かに扉を閉めてその車両に移った。
その場を静かに通り越して、同じ車両の中の斜め向かいの列の席に座ろうかと思った。
だが、圭史の目指した個所に座っている中年の男性が、美音を執拗なほど見つめているのに気付いた。圭史が怪訝な顔で見つめたのにも気付かない様子で嫌な目つきで見続けている。
嫌な印象を受けた次の瞬間、席を移ろうと腰を上げたのを見て、圭史は直感した。
狙ってる、と。
その男が移動してくるより早く、圭史は美音の横に威嚇するようにして席についた。
美音がいる方とは反対の、空いている席にカバンを置くと、鋭い視線を投げつけた。
その時既に立ち上がっていた男は、あたふたとしながら向こうの車両へと移っていった。やはり、圭史の直感は当たっていたのだ。
それを目の端に捕らえて、軽く息を吐いた。
電車の中は人もまばらで静かだった。
美音は静かに眠っている。電車の中でこうしている姿を見るのは初めてだった。
美音の寝顔は、仕事中とは違って和やかな顔だった。緊張を解いている時の表情だ。
……それほど、疲れているのだろう。
彼女のそんな寝顔を見て、圭史の顔にふと微笑が零れた。
そして、邪魔をしないようにと、ゆっくりと顔を反対側へ向け、暗い外の景色に目を向けた。
彼女が今のちょっとの間だけ羽を休ませられている時に、守ってあげられたのだから、いいんだ。……それでいい。
自分を納得させるように心の中で呟くと、静かな気持ちで外を眺め続けた。
彼女が横にいるその空間を感じながら。
一つ手前の駅に着いた時、目を覚ました美音の声が耳に聞こえてきた。
「あ!」
それは自分に向けられたものらしく、圭史は静かに顔を向けた。
「瀧野くん……」
向けられた顔を見るなり、美音は顔を両手で覆って膝の上に押し隠した。
「え?なに?」
戸惑って圭史がそう口にすると、美音はたまらないというように声を出した。
「も〜、それ反則―。又私寝顔見られたー前の昼休みにだって起こしてくれたらいーのに。また今だって寝顔見られてー」
どうやらそれで顔を真っ赤にしているらしい。
ちょっとだけいじめたくなってそんな美音に言葉をかけた。
「うん、気の抜けた可愛い顔してた」
「うー、なんで瀧野くんて、私が気の抜けている時に限って目の前にいるのー?」
「なんでと言われても……」
「今まで人に見せた事が無い所ばかりを見られているような気がする」
その台詞を聞いて、心の中に淡い色をした感情が広がっていく。
圭史の顔はどこか切なげで何かに揺らいだような表情を浮かべていた。
美音は顔を隠したまま言葉を続けた。
「なんか知らない所で、春日って実は〜ってバラされてそう。それで笑われていたりして」
「してないしてない」
慌てて否定したのを聞いて、美音は少し顔を上げ上目遣いで訊ねた。
「……ほんと?」
その仕草に一瞬手が出そうになったのを必死で止めた。
嫌な汗が額に浮かんできたような気さえする。
突如として湧き出た自分の感情をどうにか抑え込んで必死で頷いた。
「ほんとに?」
「……言ってない」
「誰にもだよ?広司くんとかおばさんとか、あと……仲良い友達、とかにもだよ?」
その瞳のまま、じーっと見つめられて、圭史は半ば必死で声を出していた。
その時、そんな状態でなければ、美音の言った言葉に気付いていただろうに。
「言ってません」
じわじわと身体の中を侵食しようとする何かをひしひしと感じながら、それでも尚圭史は堪えていた。熱くなっている体に尚汗が浮かんできているような気がしながらも全然余裕の無い自分を必死に抑え込んでいた。
そして、ほんの沈黙を感じた。
いつもなら、何を思っているのだろうと彼女の表情に目を向けるのに、それが今は出来なかった。今美音の姿を見ることは火に油を注ぐような行為だと解っていたからだ。
必死に耐えている時、片膝に美音の手が置かれた感触を受け、自分の体が硬直したのを感じた。
はっとして顔を向けると、様子を伺うようにして覗き込んでいる美音の顔が思ったよりすぐ近くにあって一瞬何も考えられなくなった。
自分の限界を感じるかと思われた次の瞬間、電車の扉が開いた。
もう降りる駅に着いていた。
圭史は慌ててカバンを持ちあたふたとその場を後にしようと動きだした。
美音は別に変わった様子も無く、圭史の後ろを歩いていく。
―……どうか、無事家まで送り届けられますように―
微かに息を吐きながら、一瞬祈るように目を瞑った。
電車に乗り込んだ時まで抱いていた感情を圭史はすっかり忘れている……。
駅を出て家へと向かう暗がりの中、圭史は彼女を隣に感じながら歩いていた。
彼女は、仕事の時とは違う雰囲気で傍にいた。
なぜこうも纏う空気が違うのかとも思うのだが、彼女から聞こえてくる穏やかで優しい声がとても心地よくて、余計なことはそれ以上考えられなかった。
生徒会での彼女の声は、ぴりぴりしていて何かに挑むような意思をひしひしと感じられる。圭史には、いつの頃からかそれが危なっかしく感じられていた。
今にもその緊張が切れてしまって脆く崩れ去るのではないのだろうか、と。
そう感じているのは自分だけなのかもしれない。
彼女の、女の子としての脆い所と何度も出逢ってしまっていたから。
「谷折君、結構砕けた人なんだね」
気が付けば学園祭のクラスの出し物から、いつの間にか話は谷折の事になっていた。
谷折のことを言われて、素直に返した。
「んー?あいつは、そういう所もあるよ。そう見えて結構人に気を使う奴なんだけど」
「へー。やっぱそうなんだ」
そういう事はある程度接触がないと気付かないことのはず。と考えてその台詞に疑問を抱いた。
「……何か言われた?」
「ううん。テニス部の谷折君と言えば、瀧野君と並んで人気があるから、まぁ色々と話を耳にすることが多くて。この前は谷折君の優しい所について、クラスメートが大いに盛り上がってたよ。後夜祭の競争率は激戦物だね、あれは」
他人事のように、感心しながら言った台詞に、ふと、圭史は訊ねたくなった。
「……じゃあさ、谷折に後夜祭誘われたらどーする?人気がある奴から誘われたら嬉しいもん?」
「ははは。そんな事ないない。絶対無い。あったとしても、即断っちゃうけどね。クラスメートの反感買いたく無いもん。友達にも悪いし」
笑顔であっけらかんと言った美音に、たまらず苦笑した。
「そっか。そんなもんですか」
「私にはそんなもんですヨ」
それに言葉を返す事無く、少しの間沈黙が続いた。
なんとなく、微妙な雰囲気を感じながら、思い切って聞いてみようかと思った。
心の中に迷いはあったのだが、口を開いてみた。
「……じゃあ、……」
それでも、言葉を続けられなくて、美音の顔をちらりと見ると、「ん?」という表情で自分を真っ直ぐと見つめていた。
思い切った筈なのに、その勇気はしぼんでしまった。
「……やっぱ、いい……」
慌てて顔を正面に向け、心なし歩くスピードが上がった。
「え?何?教えて」
戸惑った様子の美音に、尚更照れが生じてきた。
「いい。やっぱやめとく」
顔を向けようとせず、すたすたと歩いていく。
そう言う事を訊こうとした自分が何となく恥ずかしく感じた。
美音は圭史のシャツを掴んでそのスピードを落とさせるようにしながら言葉を投げた。
「言い掛けて止められたら気になる!ちゃんと答えるし教えて」
それでも圭史は足を止めようとしなかったので、美音は引っ張りながら動きを止めようとした。
シャツがズボンから引っ張られて出てきたのを見て圭史はやっと足を止めた。
少し恨めしそうな顔を向けて、一言。
「えっち」
それを聞いた美音はぱっと手を離した。
夜だから分からないが、きっと顔を赤くしているだろう。そんな表情だった。
圭史は乱れたそれを直しながら、先程の美音の言葉を思い出していた。
直し終えると、どこか恥かしそうに言葉を紡いだ。
「えぇと、俺は春日にとって、どうなのかな、と思って」
そう言ってから、ちらり、と目を向けてみた。
美音は、人差し指を頬に当てて考えているように見えた。
「後夜祭……?」
と言葉を紡いだところで、圭史は遮るように早口で口にした。
「そういう事じゃなくて普段」
「……、瀧野くんがどんな女の子を選ぶのかは興味があるな。
きっと凄く大事にするんだろうなと思うから。でも、彼女になる子は大変だね。
同性を敵にまわす事になるだろうから。私がその子の立場だったら嫌になっちゃうかも」
「そ、そんなにもてないよ、俺」
カウンターを軽く食らったような気分で、圭史はとりあえずそう返していた。
美音は気付いた様子も無く明るく言う。
「テニス部の谷折君と瀧野くんは競争率が高いんだよ。隠れファンが多いから分からないだけで」
「春日も、ファン多いよ?」
「私?そんな事ないない。それに寄って来るのは変なのが多いし。男運ないんだよね」
「そーかなぁ」
「そうなのよ。もう別に良いけどさ。瀧野くんと仲の良いとある人の事だって忘れて欲しい事だし、帰りが遅くなって怖い時は、優しい瀧野くんがこうやって送ってくれるし。他の子にばれたら総スカン食らうだろうけど。……まぁ他の男の人に、興味も無いし。こればっかりは仕方ないよね」
そう言った美音の表情はどこか苦しそうに見えた。
それには圭史は何も答えられなかった。
「だってね、電車とかでも駄目なんだよね。男の人にくっついたりとか?でもいつもの身近な人はまだ大丈夫。咄嗟に手を出されたりしない限りは。時々亮太とかでも駄目な時あって、そういう時、すんごい嫌な気分にさせてるだろうなぁって思うもん」
夜ということもあって、美音はいつもより心内を口に出していた。
はっきりとお互いの顔が見えない暗がりに、心の紐がいつもより緩んでいるようだった。
「あ、でも、瀧野くんには平気だよね。いつも助けてもらってるからかな?きっと、手とか繋ぐのも平気かも。不思議だね」
そう言いながら、無防備に美音は笑顔を向けた。
圭史は色々な思いが複雑に絡まって、それには意味ありげな視線を送る事しか出来なかった。
―こっちが訊きたい―
そして、圭史の中に浮かんだ事があった。
彼女の無防備さに気付かぬフリをしながら口を開く。
「平気?ホントに?」
「うん、多分」
「ふーーん?」
その疑惑の目に、予想通り美音はムキになって返すのだ。
「えー?何でそんな目で見るの?!」
足を止めて言う彼女に、圭史も足を止めわざと少し疑いを残した口調で訊く。
「そんな目ってどんな目?」
「なんかすごい疑いの目だった!」
「だって多分とか言うから。多分って言葉はあてにならないんだよね。で、ホントはどう?」
「平気だってば!」
その言葉を聞いて、圭史はにっこりと微笑んだ。予想通りのその反応に。
それはごく自然だった。
隙を許さぬほどの流れで美音の手を握り、何も無かったかのように再び歩き出した。
手を繋いで。
美音の手は小さくて柔らかかった。
それは心にまで浸透するくらいの温もりで、とてもさらりとした手だった。
それはとても自然の事のようにして美音はその手を繋いでいる。
「平気ですか?」
圭史がいつもと変わらない声で答えると、少しの間が合ってから美音の声が届いた。
「うん」
歩きながら美音に目を向けると、美音はすぐその視線に気付いた。
今のこの状態に何の疑問も抱いていない、その可愛い表情に、圭史は他の女性が見れば蕩けてしまうくらいの微笑みを浮かべていた。
美音はそれを不思議そうな表情で見つめ返していた。
以前とは違う圭史の笑顔に、美音が気付くのはいつの事か。
今はまだ気付かなくても、この状況に満足している自分がいる事を圭史は感じていた。
自分にだけは平気だと言い、興味があると言い、あどけない表情を見せる彼女に、圭史は笑みが零れる。
駅を後にするまでのあの疼いた感情は今は鎮火されていた。
発火させた彼女によって…。
今はまだこれで満足できてしまうから。