時の雫-風に乗って君に届けば

§5 世界の表情が変わるトキ


Episode 4 /4




 翌朝、隣の部屋の薫は起きるととりあえず、夕べ早々に寝てしまったという美音を起こしに行った。
中に入ると、美音はもうベッドの上で体を起こしてぼーっとしている。
「美音ちゃん?大丈夫?」
「うん、……なんか良く寝たー」
そう言うと、布団の上に抱きつくようにして身を落とした。
布団の柔らかさを感じながら、まだ現実をしっかりと把握できない頭は、つい先程までの夢の中を思い出していた。

−瀧野くんの夢見てたー−

数秒、ぼーっとしてから、体を起こしベッドから降り、そして顔を洗いに薫と1階へ降りていった。
 そして、歯磨きをしながら、ぼんやりと美音は考え始めていた。

−なんで、この服装のまま寝てたんだろう?はて?−

そんな疑問を抱いて、夕べ寝るまでの経緯を思い起こしていた。


 ―――ジュースだと思って勢いよく飲んだものがお酒だった。それはちゃんと覚えている。
持って来てくれたお茶を飲んで、それから何か二人で話していて、たしか、自分が抱いている劣等感について話をした。普段の自分なら、そんな話しないはずなのに。

−「……春日は、春日で充分だよ」−

突然、頭にフラッシュバックされた圭史の言葉に、歯ブラシを動かしていた手が不意に止まった。


 ―――どこか遠慮がちに放たれた言葉は、優しい声音だった。


それでも、平生を装い、歯ブラシを濯いで、口の中を濯ぐ。
だが、美音の脳みそは、本人の意思と関係なく記憶を呼び起した。

−「うん、……特別、だから」−

突然のそれに、美音はむせた。
咳き込む美音に、薫は心配そうに声をかける。
「大丈夫?喉でも痛いの?」
「う、ううん、…なんでもない、大丈夫」

苦しさのあまり肩で息をしながら、心の中で声を上げていた。

−違う違う!そんな意味じゃない、生徒会での私の姿をそう言ってるだけ…!−

特別、という言葉に、何かが込められていたような気がする。でも、それを考えることは、開けてはいけない箱に触れるような気がして、美音は必死に心に言い聞かした。


 ―――あの後、あまりの眠たさに耐え切れず、瞼は落ちていった。そして圭史の肩に凭れてしまってから言葉を放った。「肩、かして」と。

彼の温もりが気持ちよくて、そのまま意識は落ちていったのだ。
それに抗うことは出来ず、すっかり安心していた。いつも自分を助けてくれた彼の温もりに。

 でも、彼は何かを言おうとしていなかったか…?
思い出そうとしても、全く何も頭に浮かばなかった。



 顔を洗い終えた美音と薫は、洗面所から出た。とりあえず、リビングフロアへと向かった。
歩いている最中、俯いていた美音は、誰かの足が自分の前で停まったのを見て顔を上げた。
それは今から洗面所へ向かう亮太だった。
「あ、おはよ」
気付いてすぐ美音は挨拶をしたのだが、亮太は意味ありげに美音を見遣ると、美音からするとただ嫌な笑みを向けただけだった。

「?」
怪訝な顔をする美音とすれ違い、その後ろを歩いていた薫が声をかけた。
「おはよう」
「おはよ」
薫には至って普通に挨拶を交わしている。

−……? なんだ?今の不適な笑いは?−

眉を顰めた美音だった。



 その日、誰も何も夕べのことは美音に話をすることは無く、午前中のレクレーションが始まった。
テニス部顧問の教師に参加するよう言われたらしく圭史も参加していた。


 その時間を取り仕切る、生徒会役員は忙しそうに働いていた。
その中でも誰の目から見ても美音が一際忙しそうに見えた。会長の進行を副会長の美音は何かと補佐をしている。会計である亮太は、我関せずという顔で自分の仕事をこなしている。
学校で行われる委員会の時のように美音が圭史の方を見ることは無く、平穏と時間は過ぎていく。そして、いつものようにぼんやりと思った。

−熱心だなぁ……−



☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆



 翌週のとある日、生徒会役員の招集日だった。
静かな学校中を、美音は1人で生徒会室に向かっている。
それぞれの場所から各部活動の練習の様子が流れてきていた。
あれだけうるさかったセミの声も、今はもう聞こえてこない。
外よりもひんやりとする空気の廊下を通り、いつもと変わらず、生徒会室の扉を開けた。
 そこにいたのは、亮太一人だった。
「あれ?1人?」
「おう。休み中だから、皆来るのギリギリぐらいじゃね?」
「そっかぁー。じゃあ先に図書室寄ってきても良かったなー」
カバンを机の上に置いて椅子に座った。

 亮太はいつもと変わらない表情で頬杖を突いて窓の外を眺めていた。
美音の様子もいつもと変わらない。
カバンの中から本を取り出して、無造作にページを捲っている。
そんな様子に目を向けながら、亮太は言葉を紡いだ。

「……なぁ、瀧野の奴、ふつー?」
「・・・・・・? 別に休み中って顔合わすこと無いし、普通と聞かれても分からないんだけど?」

読んでいたページに指を挟んで、尋ねてきた本人に顔を向けた。

「ふぅーん。なんだ、ホントに何もないんだな」

少しつまらなさそうにも見える亮太に、美音は顔を顰めた。
「何の話?」

そんな美音に、ちらりと視線を向けて、呆れたように言った。
「最後の親睦会の夜、1人爆睡だったろ?」
「ああ、ジュースだと思って飲んだのがさぁ、お酒だったみたいで」
「ああ聞いた聞いた」
その話はそれ以上するなと言わんばかりに、手をひらひらと振る亮太。
「途中話していたのは覚えているんだけど、……どうやって部屋に戻ったのか。誰も何も言わないし」
「え!?」
「わたくし、朝まで熟睡してました」
「マジで?」
頬から手を離し、亮太は身を乗り出していた。
美音の様子は嘘を吐いているようには見えない。なので教えてやった。

「瀧野が起こしても起きない春日を、こう抱っこして運んだんだよ」

一瞬間があって、美音の手から本が床に落ちた。

「嘘っ!!」
思わず口から発せられる言葉に美音も驚いていた。

「紛れも無い事実だよ。おい、……本落ちたぞ」

そう言われ、美音は屈んで本に手を伸ばした。
「襲うのか、それとももう襲った後かって聞いたら、しねーし、してねーよって言った瀧野は中々面白かったけどな」

それを聞いて、美音は頭を机にぶつけた。
「あいたたたたた…」
ぶつけた所に手を当て痛みに耐え忍んでいる。

すると、頭の中にあの晩のことが思い出された。
 温かい居心地の良い肩から固い板に寝かされて少し意識が戻った時の事だ。

−「……他の男だったら襲われてるよ……」− 

思い出し、心臓がどき!と鳴って、急に頭を上げた。
再度机にぶつけ、あまりの痛さに動けなくなった美音に、亮太は声をかける。
「おーい、大丈夫かぁ?」
「………いたい」
ぽつ、とそれだけ言うと、美音はよろよろと体を起こし、机の上にうつ伏した。ぶつけた頭を抱えるようにして。

心では到底整理がつきように無い、あの晩の台詞が頭の中をぐるぐる回っていた。
ぶつけた痛さと恥ずかしさで美音は泣きそうになっていた。
 ただでさえ、あの次の日、意識のし過ぎで圭史に顔を向けられなかったというのに。

今、夏休み中で良かった、と美音は心底思った。
落ち着くまで顔を会わせないですむ。
彼の前で平生でいられる自信は美音には無かった。
 弱い自分が恥ずかしすぎて。

「あ、そうそう、他の奴は誰も知らないからな。安心しろ」
そんな亮太の言葉が、今は何の慰めにもならない。
「……そう、ですか……」
もう美音の体には何の力も湧いてこなかった。




 生徒会の用事が終わり、美音は図書室へ寄ると言ってメンバーと別れた。
一人図書室への道を歩いている。
途中、校庭まで目が届く場所に出た。運動部はそれぞれ活動を行っている。
勿論、テニス部も練習をしている。きっとあの中に圭史もいるのだろう、と、美音はポツリと思いながらそのまま図書室への道を進む。

 その日は、いつものように何か面白そうなのはないかと探す気にもならず、次に読もうと思っていた本を1冊だけ借りて、長居はせずに静かなその空間を後にした。
その通り、下駄箱に向かう道は静かだった。他に生徒が来る気配も無い。
だから、美音はいつもと変わらぬ様子でそこにいる事ができた。

 静かだから気付いたのだろうか。
土を踏む音が耳に届いて、誰かが来たのだと分かった。
前方でそれは停まっている。何故か呼ばれているような気がして顔を上げ目を向けた。
その相手を目にして、足の歩は自然にとまっていた。

 それはテニス部の練習に参加しているはずの圭史だったから。

なぜ、この時間に彼がここにいるんだろう?
今はどこも練習を行っているはずで、コートから図書室に向かう途中の道が見えるといっても、通る美音に気付くことは皆無のように思っていたのに。
 いつもなら、自然と言葉が頭に浮かんできて、笑顔でそれを口にしているのに、今の美音にはそれが適わなかった。
何を口にしようとかと言葉が出てこず困っていると、先に圭史が口を開いた。

「……覚えてる?」

それがあの晩の事を聞いているのだと言う事はすぐに分かった。
でも、どれの事を聞いているのか、わからない。
たちまち、美音の心臓は騒がしく鳴り始め、いつもすらすらと出てくる文章が今は出てこなかった。

「あ、えと、私、話の途中で寝ちゃったんだよね?凄く眠くなって、……あの、ごめんね」
そう話しながら、美音の顔は段々と俯いていく。俯いてからも、彼に目を向けた。

 圭史は言葉に困っているように見えた。いつもと、空気が違うようにも思えた。
お互いがいつもと違う調子で、美音は物凄く気まずく感じた。
それを壊すようにとりあえず口にする。

「あと、部屋まで運んでくれたって聞いたんだけど、重かったでしょ。あのごめんね、ホントに…」
謝りの言葉ばかりを口にする美音に、圭史は言う。
「…それは、いいよ、気にしなくて」

他に何かを言いたげな様子を美音は感じ取った。けれど、間にある、変な緊張が美音の口数を多くさせた。彼が本当に言おうとしていることを聞くのを怖く感じていた。

「あと、何か、言いかけてた時、だったよね・・・・・・?」

そう聞いて、美音はちろっと目を向けた。
 圭史は何かを言おうとして口を開けたが、それはすぐ閉じられた。垣間見せた躊躇いと共に。

奇妙な沈黙がその場を包んでいた。

 圭史は静かに、それでも、じ…、と美音を見つめている。
その彼の瞳から不思議と目を離すことが出来ず、カバンを持つ手に自然と力が入っていた。抗うことの出来ない強い何かに、そうすることによって自分を必死で保っているかのように。
 頬が紅く染まっていくのを感じながら、それでも動けずにいた。
それにつられたのか、彼の頬もほんのりと色付いていた。

彼は、す…、と目をそらすと、洩らすように言葉を言った。
「……ごめん、なんでもない。うん」
そして、ゆっくりと校庭に向かう道に向け足を進めた。

美音の心は完全に彼に呑み込まれている様だった。

数歩歩いた所で、彼は何かを思い出したように足を止め、振り向き言葉を放った。
「……無防備な寝顔だったけど、襲ったりとかしてないから。他の男なら無理だろうけど」

忽ち、美音の顔はこれ以上に無いくらい真っ赤に染まった。
話す事も動く事も忘れ、ただただその場に立っていた。


 初めて見せる彼女の表情を目にして、圭史の口から笑みが零れた。
そして先を急ぐように、今いなければならない場所へと駆けていった。

 美音は真っ赤のまま、茫然と立ち尽くしたままだった……。
何も考えられなくなっていた。
本当は考えたいことはあった筈なのに、圭史の姿だけが今の美音を捕らえて放さなかった。
辺りはセミの声がうるさく響き出したのに、それすら美音の耳には届いていない。