時の雫-風に乗って君に届けば
§5 世界の表情が変わるトキ
Episode 3 /4
「あ、瀧野くん」
ふにゃ…、という笑顔を浮かべた後、又、口を開いた。
「制服姿じゃないと、また雰囲気変わるね」
「そぉ? ……って、なんか酒臭くない?」
辺りを仄かに漂う匂いに、圭史は気付いていた。
大学生の兄が夜遅く帰ってくると、こういう匂いを撒き散らしていた。
だから飲み会があったとすぐに分かる。
「あー、……わかる?」
膝の上に顔を乗せたまま、どこかうつろな目を圭史に向けた。
「……え?」
圭史はその様子よりも、言葉に驚きの表情を向けた。
「オレンジジュースかと思って飲んだらね、お酒だったの。多分、先生の、かなぁ」
ふにゃあ…、と表情を崩し言う美音の姿は、いつもと違う何かを纏っていた。
ちょっとでも気を抜けば吸い寄せられてしまう、そんな空気だった。
なぜか、圭史はそこから少しも動けずにいる。
「ふ―――……」
美音は体の中にある熱いものを吐き出すように、息を吐いた。
「……お茶、貰ってこようか?」
圭史の言葉に、美音は微笑んだ。
「うん、お願い」
そんな表情で、お願い、と言われて、首を横に振る奴がいるだろうか。
「うん、……」
その場所からコテージの出入り口へと向きを変えた。
数歩歩いた所で足を止め、美音を振り返り言葉をかけた。
「すぐ戻ってくるから、他行ったらダメだよ」
「うん、ここにいる」
美音は穏やかな笑顔で答えていた。
静かな木々の中、天から降り注ぐように夜風が二人を撫でていく。
美音は圭史が戻ってくるまでの間、静かに目を閉じた。
中に入ると、外とは打って変わって賑やかだった。
やって来た圭史に気付き、2年実行委員は声をかけてくる。
「おー瀧野―、テニス部の方は大丈夫なのかー?」
「ああ、今自由行動だから。お茶頂戴」
「冷蔵庫に入ってるよ。遊んでけよー」
「ああ、少ししたら又来るから」
台所へ向かい用を済ませ、足早に外へと出て行った。
圭史が美音のもとへ戻ると、閉じていた目を開け静かに顔を上げた。
受け取ったお茶を一口飲むと、すぐにごくごくと飲みだした。それはすぐ飲み尽くされてそして長く息を吐いた。
圭史は微妙な距離を残して、隣に腰を下ろした。
「……大丈夫?」
「うーん、どうなんだろう。頭がぐらぐらする。さっきよりはマシになったけど」
それでも、美音の瞳はまだうつろだった。
中に入った時に、又来るから、と実行委員達に言った圭史だったが、今はまだ行く気になれなかった。こんな彼女の隣の位置からは。
一人にして、ここに他の人間が来たら、望まぬ事が起こり得そうで。
「今日、テニスしている所、まともに、初めて見たよ」
森の闇に浮かぶ木々の姿を見つめながら、美音は静かに言葉を紡いだ。
「そう」
圭史の口からは、知らずと優しい声が洩れていた。
「うん、カッコよくて、他の子が騒ぐの分かるよ」
その台詞を聞いて、心臓が高鳴った。
今のは、どういう意味だろう。
微妙に腕に力が入る。
「なんか、特技みたいな、何か持ってる人って凄いなぁ、て思う。私だめだし」
「……なんで?」
「だって、可愛げの無い性格してるし、負けん気強いし。薫ちゃんのように気遣いが出来る訳でもないし」
落ち込んだ様子で美音は膝を腕に包んだ。
「……春日は、春日で充分だよ」
圭史はそう言っていた。
美音はその格好のまま、動きを見せる事は無かったが、うつろな瞳が少し生気を取り戻したようにも見えた。
「……いつも、…ありがとう……」
心の中に染み渡っていくような柔らかい声に、圭史は体中に広がるありったけの気持ちで答えた。
「うん、……特別、だから」
二人を撫でる夜風の音が、その場を優しく包み込んでいた。
心地の良い静けさに後押しされるように圭史は言葉を紡いだ。
いつもなら、こんな事聞けないけど、今はなんだかそれが許されるような気がして。
「あの、さ、」
「うん」
「え、と、」
それでも何て言おうか悩んでいる。
適当な言葉が浮かばなくて、どう言おうかと悩んでいると、肩に重みを感じた。
どき!と声を上げる心臓。
「ごめん、肩貸して…」
「う、うん…」
悩んでいたことが、どうでもいいような事のように感じて、口を閉じた。
春頃まで、美音は遠い存在だった。接することの無い位置関係だった。
だから、ずっとこれからもそうなのだろう、と思い込んでいた。
近づく術も無く、彼女が自分の存在に目を向ける事も無いのだと分かっていた。
どんなにあいつの側にいた自分でも、彼女が視線を転じることは無かったのだから。
いや、あいつの側にいた自分だから、目を向けられることが無かったのかも知れない
−『でも、』……、
『今は』……、
今は……?−
でも、あいつは、「ここ」にはいない。
流されるまま、日常を過ごしていた。
そうなのだと思っていたから。彼女にとって自分は、ただの人でしかなかったから。
半ば強引に決定された、実行委員に、最初戸惑っていた。
これ以上の近い距離で彼女を目にする事を、怖いと感じていたからだ。
どんなに小さくても、何かを期待してしまう。
そして、壊される。そして、傷つき、ショックを受ける。
それはとても勝手な事だと分かっているのに、心はとめられない。
だから、見ないようにしていたのに。
以前より近い彼女との距離。何かを願わずにいられない距離。
前より更に知った、彼女の内面。表情も性格も。他の誰も知らない、守ってしまいたくなる彼女の心。
・・・・・・自分はこんなにも、彼女だけに心が反応してしまうのに。
圭史は思い切って先ほど飲み込んだ言葉を紡いだ。
「……今でも、想い続けてるの?」
静かな圭史の言葉。捨てようとして、捨てきれない、小さな望みを乗せた言葉。
心臓がいつもより大きく鳴っている。
圭史は彼女の返事を待った。そよ風をその頬に受けながら。
短いけれど、長く感じるその瞬間を圭史は待っていた。
肩に感じていた彼女の重みが、胸元へと移動するように落ちてきた。
「・・・・・・」
美音は眠っていた。
規則正しい呼吸音が耳に届いている。
「……マジかよ……」
片手は彼女を支えながら、もう片手は参ったように額に当て、口からは深いため息が零れた。
それから、名前を呼んでも揺すっても彼女は目を開けない。
「……頼むよ、起きてくれよ……」
祈りのような圭史の呟き。
けれど、それは届かず、美音は気持ち良さそうに眠っていた。
全く起きる気配の無い美音に、圭史は着ていた上着をそっと静かにかぶせていた。
山の夜は肌寒かった。
彼女に目を向け、眠ったままの様子に、幾度目かのため息を吐くと、美音をその場に横たわらせた。このまま起きるのを待っていたら、山の夜はもっと冷えてくる。
土の上に足を下ろして立つと、彼女を暫し見つめ声を出した。
「……他の男だったら、襲われてるよ……」
恨めしく思ってしまうほどの、無防備な寝顔。
深くため息を吐いて、コテージの中にいるであろう亮太の所へ行った。
丁度その頃、亮太はテーブルを囲んで数人と言葉を交わしていた。
その姿を確認すると、真っ直ぐにそこへ向かった。側にいる人間に聞こえぬよう、彼の顔近くで言葉を紡いだ。
「……ちょっと、外」
それだけ言って、圭史はさっさと外に出て行った。
亮太は何の疑念を抱かぬまま、ちょっと間を置いてからその場を離れた。
言われた通り外に出て、圭史が向かった方へ体を向ける。
その光景を目にして、さすがの亮太も驚きの表情を浮かべざるをえなかった。
美音が圭史に抱きかかえられている、その光景。
眠っている美音を抱き上げている圭史は、何とも言えない顔−例えて言うなら、拗ねたようなバツの悪そうな顔−をしていた。
「……、部屋どこ?」
圭史の言葉に我に返った亮太は、隣のコテージを案内した。
先に行き、電気を点け、扉を開けてやる。圭史が中に入り、扉を閉めたところで声を出した。
「何これ?」
唖然とした様子の亮太に、圭史は彼にしては珍しく無愛想に答えた。
「寝てるんだよ」
「なんでまた」
「冷蔵庫に入ってた酒をジュースと間違えて飲んだんだって。つーか誰だよ、そんなもん持ってきた奴は」
「・・・・・・・・・・さぁ。そいつ、起こしてやったら?」
「全然起きねーんだよ。いくら起こしても」
「ふーん。……重そうだな。代わってやろうか?」
すやすやと寝ている美音の顔を見てから、ちら、と圭史に目を向けてそう聞いてみた。
圭史は仏頂面で言う。
「部屋どこ」
「2階の手前、2つ目の部屋がそう」
亮太の答えを聞いて、圭史は2階への階段へと向かった。
そんな圭史の後姿を眺めながら、亮太は訊ねる。
「襲う?それとも事後?」
圭史は足音をたてて上りながら言葉を放った。
「してねーし、しねーよ!」
その様子が可笑しかったのか、亮太は声を必死で殺して笑っている。
部屋に入り、ベッドに美音を下ろすと自分の上着を取り布団をかけてやった。
彼女は相変わらず気持ち良さそうに眠っている。
彼女にかけてやっていた上着に袖を通し、また彼女を見つめた。
「はぁ」
無意識に出てしまうため息。もう何度吐いたか分からない。
−早く部屋を出よう。またおちょくられる−
踵を返そうとしたとき、美音の声が聞こえた。
「……の、くん……」
ぴた、と圭史の足は止まった。……自分を呼んだ気がした。
起きたのかとも思い、驚いて顔を見ると、彼女はまだ眠っている。
「・・・・・・・・・え?」
戸惑いとも取れる驚きの感情が圭史の胸に湧いて出た。
だが圭史が何かを呟くより早く、1階から亮太の声が飛んできた。
「おーい、気ぃ利かして先戻っておこうかー?」
それを聞くや否や、飛び出すように部屋を出て扉を閉め、凄い勢いで階段を駆け下りた。
「やれやれ」
呆れた様子を装ってそう口にした亮太に、圭史は睨むように一瞥してから出入り口に向かって歩いていく。
コテージを出て、先を歩く圭史の後ろ姿に、亮太は声をかけた。
「なぁ、お前って、あの春日にかなり信頼されてるんだな」
圭史はそれに一瞬足を止めると、再び歩き出してから静かに声を放った。
「さぁ、……どうだかな」
そのまま何も言葉を口にする事無く、先にコテージの中に入っていく圭史の後ろ姿を目にしながら、亮太は聞こえぬように呟いた。
「……あれ、おれのだったんだよなぁ……」
美音がオレンジジュースだと勘違いした、あの、スクリュ−ドライバー。
「口が裂けても言えない、な」
外は、そよ風が夜の木々をなびかせていた。
穏やかでも、どこか寂しげに聞こえる葉音は、奇妙な沈黙を感じさせていた。