時の雫・風に乗って君に届けば

§4 期待して壊れて、期待して…


Episode 3 /4




 1学期最後の定例委員会の日。
終礼が終わって、圭史はカバンに教材を詰め込んでいた。
テスト前ということもあり、体育祭前と違ってやたらと静かに感じる空気が流れている。
圭史は別段何も無く、あれから毎日を過ごしていた。

「瀧野―、古典のノート、貸してくれないか?」
圭史の様子を伺うように、内藤が遠慮がちに声をかけてきた。
「古典?明日なかったけ?」
手を止めることなく圭史はそう返していた。
「いや、明日は古典の授業は無いけど」
「じゃ、明日には返せよ」
カバンに仕舞ったばかりのノートを取り出して、内藤に手渡した。
「サンキュー」
受け取った内藤は安心した笑顔を浮かべ、池田が待っている席へと戻っていく。

「じゃあなー」
 帰り支度が済んだ圭史は、カバンを手に持つと教室を出て行った。

内藤は安心た表情で池田に言う。
「良かったー。今日の瀧野は機嫌良かったー」
「うん、とりあえず普通だったな」

 彼らがそんなことを気にするのは、体育祭翌日から圭史の機嫌が悪かったからだ。
 彼らがいつものようにお喋りに花を咲かせていると、普段の彼からは想像も出来ない迫力で言ったのだ。

「てめーら、うるさい」

たったそれだけの言葉だったのだが、圭史の雰囲気はいつもと違っていた。
何か反論でもすれば、容赦なく 返り討ちに遭いそうな勢い。
 いつものような穏やかさが全くと言っていいほど無かった。
普段の彼なら呆れたように笑いながら話に耳を傾けているのに。
そういう荒々しさを見せるようなタイプではないのに、いやにぴりぴりしている。
 普段大人しい奴ほど怒ったら怖い。
そんな事を彼らは実感したのだった。
彼らは極力、圭史を逆撫でしないように努めてきて、今日に至るという訳だ。



 本日の委員会は、体育祭の反省のまとめと1学期のまとめだったので、いつもより早い時間で終了した。個々が書く体育祭の反省を終えた者から帰宅となった。そして最後の者が生徒会へ提出するのだが、気が付いた時、残っていたのは自分一人だった。
 軽くため息を吐き、教壇の上に出されている用紙を手に取り枚数を数えてみる。
ちゃんと人数分あることを確認し、自分のカバンを手にして、隣の生徒会室へと向かった。

 微妙な緊張が体を駆け巡った。

……それでも、あれから彼女は平常通りだった。

圭史はゆっくり息を吐いてから、生徒会室の扉を開けて中へ入っていった。


「ちょっとー、この問題教えてー」
机に数学のノートを広げて、だれた様子で両手を伸ばしている美音。
それに亮太は嫌そうな顔をして言うのだ。
「お前が解けない問題、今の俺に解ける訳ねーだろ」
「使えない男だなー」
「お前に使われたくないね」
「役に立てない男は価値ないね」
美音の目はノートに向けられながら、手に持っているシャープペンをコツコツと机に当てていた。
「はン、痛くも痒くもないわ」
亮太のその言葉に、美音はチロリ、と目を向けると、意味ありげな笑いを浮かべて口にした。
「その言葉、覚えときなよ?」
「……な、なんだよ」
その小悪魔的笑顔に思わず臆してしまう亮太だった。

「あの、これまとめ……」
いつ声をかけようかと、困っていた圭史だが、亮太が劣勢になった所で声を出した。

「あ、ごめん」
寝かせていた上体を起こし、美音はそれを受け取った。
ふう、とため息を吐くと、目はノートに向けたまま訊ねていた。
「瀧野君、これ解き方教えて?」
そう訊ねられて、ノートに目を向けた圭史の動きが、一瞬だけ、止まった。
「ちょっと、先に解いてみていい?」
さすがに問題を見てすぐに教えられる難易度の易しいものではなかったらしい。
「あ、うん、どーぞ」
そう言われて、美音はノートと手に持っていたシャープペンを渡し、隣の椅子に座るよう促した。
座った圭史は問題に目を向けて、それに頭を動かし始めていった。
美音は横でそれを覗き込むように眺めている。

亮太はそんな様子−傍から見れば、何気ない普通の状態−を、確かめるように、ちろりと見つめてから、自分の仕事に顔を戻していた。

 圭史は、美音から見ると詰まる事無く式を展開していった。
最後に一瞬だけ手を止め、最後の答えを導き出した。
そして解答を見て、自分の出したそれと答えが合っているのを確認すると小さく安心の息を吐いた。

「どこまでわかる?」
圭史の優しい口調に、美音は肩を竦めて答えた。
「ぜぇんぜん。答え見てもそこまで辿り着けなかったの」
それが悔しかったのか微妙にぶすくれた表情をしている。
 圭史は細かく書いていった式を使って説明していった。
それを熱心に聞いている美音。亮太は鼻から聞いていない。
「はー、なるほどぉ。こうやって解くのね」
すっきりとした表情になった美音を見て、圭史はにっこりと微笑んだ。

「……なんで解けるんだよ」
ぼそ、と呟いた亮太。
 彼は美音がノートを広げて唸っている時点で通りすがりにそれを覗き込んだ。
その問題を目にして、無言のままそこを立ち去り席についたのだ。
自分が口を挟める問題ではないと。

「だぁって、瀧野君数学ランキング保持者だもん。毎回名前載ってるよね」
笑顔を向かれ、圭史はなんとか口にした。
「あ、う、うん」
そんな所を見られているとは思っていなかったからだ。

「……。そーいや、春日いつもあいつに送ってもらってるけど」
不意に出された台詞に、圭史は一瞬自分の体が固まったのを感じた。
美音はいつもの様子でそれに返していた。
「ああ、野口君?」

 その台詞を聞いて、圭史の体から嫌な力は抜けた。

「そう野口。毎日?」
「はぁ?生徒会で帰りが一緒になった時だけだよ。毎日な訳ないでしょ」
何言ってるの、という非難の声音だった。

そんな美音を無防備に見つめたら、亮太が自分を見ていそうな気がした。
それでも、俯いている事は出来なくて、そっと目を向けてみた。

「ふーん。なんか野口には態度違うように見えるんだけど?」
「そー?それって藤田君と比べてでしょ」
美音はため息混じりにそう言った。

 亮太は体を美音と反対に向けて、はっきりと台詞を投げた。
「んで、いつも送ってもらってて、大丈夫な訳?」
「・・・・・・。」

圭史は動きを見せないように静かにしていた。

美音は何を言われたのか分からないようで、微妙に考えこんでいるようだ。
そしてすぐ表情が浮かぶと、声を出した。
「それはそっちでしょー。薫ちゃんと一緒のくせに」
「な、今は藤田が一緒だろーが」
向こうに向けていた顔を美音に向け、彼にしては珍しくムキになって返していた。

圭史はそんな彼を見るのは初めてだった。

「今はでしょ。今は」
やたらと強調して言う美音に、亮太は他にも何か言いたげだったが、それを堪えて言葉を放った。
「最初から何にもねぇよ」
「ふ、うーん?」
そんな亮太に疑いの目を向ける美音。

圭史は思わず口の端が上がってしまっていた。

たまらない、というように亮太は手を額に当てると、美音に言う。
「藤田はいつもお前と帰りたがってるよ」
「方向違うのに何言ってるの」
呆れたように美音はそう言った。

いつもと変わらないその台詞を耳して亮太は何か言いたげな顔を美音に向けた。

「?」
「いや、いい。今のは気にしないでくれ」
向けていた目を伏せ、大きなため息を吐きたい気持ちと共に亮太はそう告げた。
美音は不可解な顔をしている。


「……、じゃあ、おれ帰るな」
静かに口にして、椅子から立ち上がった。

「あ、私も隣の鍵閉めに行かないと」
後に続くように美音も立ち上がり圭史の後ろを歩いていく。

「瀧野君、教えてくれてありがとー」
「ああ、いーよ。解ける範囲だったし」
そう言葉を交わしながら二人は生徒会室を出て行った。

静かになったその部屋に亮太は一人になった。
書類を片手に持ち上げて、暫し眺めると、たまらず声を洩らした。
「……ほんと、ニブイ奴……」
 窓の外は夏の陽射しがこの時間になっても降り注いでいるというのに。
亮太は浅く腰掛けていた椅子に深く座りなおして真面目に取り掛かることにした。
美音の心にある氷がいつか、この陽射しで溶けてしまう事を願いながら。