時の雫・風に乗って君に届けば
§4 期待して壊れて、期待して…
Episode 4 /4
翌朝、美音は薫と廊下で立ち話をしていた。
それは何気ない日常の一コマで、通って行く男子生徒の潤いでもあった。
「それで、今年は8月の第1週だって」
薫が生徒手帳にメモしているのを見ながら説明をしている。
「場所は同じだよね?」
「うん、藤山高原。各クラブが合宿に使う所。涼しくていいんだよねー」
「うん」
そう答えて、ふっ、と頭に浮かんだのは違うことだった。
「あ!」
「……何?」
突然の美音の声に、薫は様子を伺うように訊ねていた。
今にも崩れそうな表情をしている美音。
「薫ちゃん、ちょっと待ってて?」
「うん」
その悲壮な顔に、薫はただ頷いた。
その返事を聞いて、美音は自分のクラスに走っていき、又数分して戻って来た。
「やっぱりー、家に忘れてきたー」
もう泣きたい、と言わんばかりの顔で美音は薫に抱きついた。
「な、何?」
「古典のノート〜、予習して机の上に置きっぱなし。しかも今日当たるのに〜」
「あー……、うちのクラス今日はないんだよね……」
あまりの不運に、美音はよろよろ…、と薫から離れ、壁に頭をゴツと当てた。
「1時間目だし、予習する時間も無いがな…」
深くため息を吐いた時、人の影がかかり、誰が来たのだろうと顔を上げた。
「それって、どこまで進んでるの?」
と話し掛けたのは4組の内藤だった。
「あ、えと、今日は源氏物語の2ページ目からなんだけど…」
美音が問いに答えると、内藤はカバンの中からノートを1冊取り出すと笑顔で差し出した。
「そこなら、昨日やった所だから。今日授業ないし使って」
「え、でも……」
「大丈夫、俺のじゃないから中身は確かだよ。終わったら本人に返しといてね」
彼は言うだけ言うと、自分のクラスへと入っていった。
美音は暫し茫然としている。そんな美音を見て、薫は口を開いた。
「まぁとりあえず、良かったよね」
「う、うん」
薫と別れて教室に入り席についた。
借りる事となった古典のノートを机の上に置き、美音は内藤の台詞を思い出した。
−俺のじゃないって、……誰の?−
ノートを表に向けると、ボールペンで書かれた名前が目に入った。
'瀧野'
「…………あ」
思わず零れた美音の声。
やって来た圭史を見て声をかけた内藤は、いつもより機嫌が良さそうだった。
「おっす」
「おう。……どうした?」
笑顔で何か言いたげな内藤に、圭史はそう訊ねていた。
「古典のノートな、朝他のクラスの子が忘れて泣きそうになっててさ、それで瀧野の貸したから。俺の汚いし。後でその子が返しに来てくれるから」
「……はぁ」
そう言われて、圭史はそう返事する事しか出来なかった。
1時間目が終わっても、2時間目が終わっても、ノートは帰ってきていない。
楽しそうに池田と話している内藤に目を向けた。
誰に貸したんだろう、と思い、聞いてみようかと思った。
しかし、あの朝の、何か言いたげで且つ不気味な笑顔を思い出し、又あの顔を向けられる事に微妙に腹が立つ思いを感じたので、聞くのをやめた。
そして、何故か昨日の亮太が頭によぎった。
自分がいる時に、あえて、美音に訊ね、時折、様子を見るようにこちらに視線を向けていた。
行き場の無い憤りが、圭史の胸の内をじわじわと徘徊していた。
「………、はぁー……」
−一体何だって言うんだ……−
それを一掃する気分でため息をつき、圭史は頬杖をして机上に目を向けた。
浮かない気分のまま、午前の授業は終了し昼休みも時期終えようとしていた。
後5分もすれば予鈴が鳴る。
午後は選択授業なので、そろそろ技術室に向かわなければならない。
所用で席を外しているうちに、友人達は既に向かった後のようだった。
「……薄情な奴らめ」
そうぽつりと呟きながら、机の中から必要な道具を取り出し、教室を出た。
教室を出て数メートル先の階段に向かっている時、後ろの方から同じ方向に向かって駆けて来る足音が響いていた。
誰か急いでいる、という認識しかせず圭史はすたすたと歩いていた。
そうして、自分とは関係のない筈のそれが自分の背後まで寄った時、ぐいっ、と制服を掴まれた。
思ってもいなかった衝撃に思わずつんのめりそうになったが、瞬時に体勢を戻しそちらへと振り向いた。
「……た、きのくん、やっと、いた」
少し息が上がっている美音がそこにいた。
「……、え?」
「これ、返そうと思って」
胸元に大事そうに抱えられていたノートを圭史に向けた。
「もっと早く返しに来れたら良かったんだけど。……朝ノート忘れたのに気づいて困ってたの見た内藤君が貸してくれたんだけど。……ごめんね?」
申し訳なさそうな表情を圭史に向け、美音は反応を待っているようだった。
「……あ、いいよ、役に立ったんなら」
「うん、すごく助かりました。……なんか、ここんとこ瀧野くんに助けて貰ってばかりだね。ありがとう」
向けられた満面の笑顔に、圭史はクラクラ…と倒れたい心境にかられた。
それを必死の思いで心の奥底に押しやり、いつもの自分を崩さぬように頑張った。
「いや、そんな大した事してないし」
そんな圭史の言葉に、美音はにこっと微笑んでから口を開いた。
「今度お礼するね。時間の無い時にごめんね。あと、内藤君にもよろしく伝えてね」
教室へと急いで戻っていく美音の姿を見てから、階段の方へと向きを変えた。
先程まで沈んでいた気持ちが嘘のように、今はすっかり浮上していた。
彼女の、自分だけに向けられる言葉と笑顔。それだけで満足してしまう。
「あ、急がないと……」
時間が無いことを思い出し、圭史は小走りに技術室へと向かった。
どうにか予鈴が鳴る前に教室に到着すると、楽しそうにお喋りをしている内藤の姿が目に入った。
そんな彼をチロリと横目で見遣ると、すれ違い様にバランスを崩させるような蹴りをいれた。
膝の裏に蹴りを見事に食らった内藤は、ガクッと体勢が崩れ机の上に慌てて両手をついた。
「な、なに?」
「'古典のノート'よろしく伝えてって言われたから」
圭史にしては珍しく無愛想な表情で言った。
内藤はそれを聞いて、とりあえず、頷いていた。
それを見て、後は構うなとでも言うように静かに席に着いた。
そして戻って来た古典のノートを開けてみた。彼女の元へいっていた自分の物。
「あー、俺何かしたのかと思って、びびったー」
胸を撫で下ろしている内藤だった。
ノートには、ある文法のところに「ここ重要」と注意が書き加えられていた。最後には「very Thanks!by M」と書かれている。
彼女の小さな気遣いに、心の中が温かさに満たされていくような感じを受けた。
それはきっと彼女だからなのだと、圭史は分かっている。
静かにノートを閉じ、他の目に触れぬよう道具の下にそっと忍ばせた。
期末考査が終了した翌日、1日かけて答案用紙が返却され解答が発表される。
赤点を取った者は、明日からのテスト休みは学校に出てきて補習と決まっていた。
取立てすることの無い休憩時間、教室から出て行こうとしていた級友が出入り口の所から声を放ってきた。
「瀧野―、お客さん」
そう呼ばれて顔を向けると、級友は廊下の外を指差している。
相手が誰だか検討もつかないまま、廊下に向かった。
教室の扉を閉めて、顔を向けた先に立っていたのは美音だった。
片手に書類と、もう片手には小さな紙袋をぶら下げていた。
きっと、あの級友はわざと美音の名を口にしないでいてくれたのだろう。
それ程、圭史の周りの友人達の美音のファンっぷりは公然なのだ。
どう言葉をかけようかと、悩んでいたら、美音が先に笑顔で口を開いた。
「あ、そーだ、前に教えてもらった数学の問題、ばっちりテストに出たよね。ありがとー、本当に」
「あ、うん。お役に立てて光栄です」
美音は笑顔のまま続いて要件を口にした。
「これ、毎年恒例の親睦キャンプの案内。生徒会と実行委員、各委員会の責任者が参加なんだけど」
美音はそう言いながら圭史にプリントを渡した。
それを受け取り、ざっと目を通した。
「へえ、こういうのやってるんだ」
「うん。今年は8月1日から2泊3日で。……でも、瀧野君部活だよね?」
「そーなんだけど、丁度同じ時に強化合宿。こっちは1週間だけどね。同じ場所だし、自由時間とかに顔出しに行くよ」
「うん、それとね、これ」
紙袋をひょい、と圭史に差し出した。
不思議に思いながらも、それをとりあえず受け取った。
「前に言っていた御礼です。ハンドメイドクッキーです」
「あ、ありがとう……」
紙袋が2つある事に疑問を感じつつも、圭史は驚きを隠せずそう口にした。
「大きい方はね、内藤君達と1個ずつ食べて。又違う物だから」
そう言って最後に、にこりん、と笑顔を見せると、機嫌が良いまま、彼女は5組がある下の階へと書類を渡しに行った。
思いがけない貰い物と、たまらないほどの可愛い笑顔に、圭史は何も考えられなくなっていた。頭の中で何度も繰り返される美音の笑顔。
力が抜けていくような感覚を受けて、そのまま、頭で支えるように壁にゴツ、とぶつけた。
「…………あれは、」
−純粋な、お礼だ。それ以外の何物でもない。……だから、……−
まるで暗示をかけるように心の中で必死に呟いた。
周りが知っている「自分」が何処かに行ってしまわないように。
それらに気持ちを染めるようにして息をゆっくりと吐いて落ち着かせた。
教室に入る為にドアに手をかけた。
―――連中の喜ぶ姿が容易に目に浮かぶ。
少々それに腹立ちを感じながら、圭史は紙袋の存在を手で確認した。
それは間違いなく美音から圭史に向けられたものだから。