時の雫・風に乗って君に届けば

§4 期待して壊れて、期待して…


Episode 1 /4




 6月に行われる筈だった体育祭も、雨の為順延され、7月に入ったばかりの頃、開催される事となった。
 体育祭当日、役員たちは皆慌しく動き回っていた。
そんな中、テントの下、本部席で美音は書類にペンを走らせていた。

じっとして風を受けていれば過ごしやすい気温だが、ちょっとでも動けば暑さを感じる。
 美音の元に、額に汗を浮かばせた快が走ってきた。
「春日さーん、次の障害物に使うハードルないんですよー」
「予行練習のときも同じ事言ってなかったぁ?」
手を止め、顔を向けた。
「でも、指定の場所に無いし、実行委員はある筈だって聞かないし」

快が信任してから、1年実行委員の担当は薫から引き継いでいるのだ。
お互いが慣れない仕事に振り回されている様子は普段から分かっていた。
これも、そのせいだろう、と美音は思いながら、頭を働かす。

「もしかしたら、第2ゲート付近にあるかも。予行の時もそうだったし、今日も何か騒いでいたから」
「見てみます!どもです!」
と口にするなり、快はダッシュして向かった。

その後ろ姿をちらりと見遣ると、長テーブルの上の書類に目を向けた。
各競技における各団の順位を得点換算しなくてはいけないのだ。競技別得点表を見ながら、美音は淡々とこなしていた。
 そして、数分後。
グランドの方に目を向け、快がハードルを無事設置しているのを確認して、再び書類に目を落とした。


 その後方から、書類の束を持ってやって来ていた圭史は、参ったような表情を浮かべると、肩に書類の束をぽんと乗せた。

 あれから彼女は、不安げな表情を何一つ浮かべることなく、普段通り仕事をこなしていた。
以前より隙が無くなったかもしれない。

 美音の座っているテーブルは椅子が2つある。詰めて置けば3つ置けるのだが、そこにはあえて2つ並べられていた。

書類の束を置き、圭史は美音の隣に腰を下ろした。
そして、書類が揃っているか確認に入った。

 美音の反対側に位置するテーブルの上にはお茶が入ったタンクがある。
美音はそれに腕を伸ばしてコップにお茶を注ぎながら口を開いた。
「お茶、飲むでしょう?」

1つを自分の手元に置き、もう1つのコップを手にしたのを見て、自分に尋ねられているということに気付き答えた。
「あ、うん」

お茶が注がれたコップが手元に置かれてお礼を言うと、美音はすぐ自分の仕事に目を向けていた。
 書類を片手にお茶を飲みつつ確認している圭史。

二人の間は、今は静かだった。

 最後の1枚を無造作に他の上に乗せた。持って来た全ての書類に目を通し終え、休憩を兼ねてゆっくりとお茶を口に運ぶ。

……ふと、美音の手が止まって、こちらに顔を向けているのに気付いた。

「暑いね」
柔らかい口調で、ほんのり笑顔と共にそう言葉をかけられていた。

「うん、ゆっくりしていたらそうでも無いんだけど」

 仕事の時、第3者がいる時、美音は平生通りの生徒会役員の顔だった。
圭史に対して以前と変わったのは、こうしてふとした時に、業務的ではない表情が表に出るようになった事だった。

「そうだねー。50メートル走出たんだけど、走り終わった後暑かったよ」
「うん、他のヤツも暑い暑いって喚いてる」
「競技何出るの?」
「えーと、対抗リレーと、……」

他愛も無い会話を交わしながら、二人の時間は穏やかに感じた。

 ふと、お互いが沈黙の色を見せたとき、この時間を壊したくなくて口を開いた。

「……、時間あるし、何か手伝おうか?」

その言葉に、ぱっと笑顔になって美音は口を開く。
「ほんと?じゃ、これ確認してもらえる?」
「OK」
差し出された書類を受け取って、再びテーブルに顔を向けた。


 午前中の前半種目が消化された頃、美音の書類も取りあえず消化された。
次の競技が終われば、美音の参加する種目だった。
軽くノビをしてからペンをテーブルに置くと、立ち上がりながら圭史に声をかけた。

「私、行かなくちゃいけないから、後これだけ、……きゃ!……」
そう話している最中に、パイプ椅子の足元に引っ掛けた美音。

「あっ、……ぶねー」

成す術無く倒れていきかけていた美音を、圭史は咄嗟に腕を掴んで自分の方へ引き寄せ抱き留めるような形で助けていた。

「あ、ありがと、……あーびっくりしたぁ」
自然に圭史の腕元から離れると、まだ驚きを隠せない表情をしている。

椅子と心中して顔に傷を作った、何て事になっていたら、それこそ騒動だ。
「ついつい教室の椅子と勘違いしてて……、ありがとー」
美音はそう言うと、競技の集合場所の方へ向かっていった。

 美音の小さくなっていく後ろ姿を目に捕らえながら、圭史は小さく溜め息を零した。


 美音に頼まれた確認作業を淡々とこなしていった。
ふと気が付いた頃、美音の参加する競技が開始されていた。
 スタートラインより後ろの場所で美音は待機している。
いつもは両サイドの髪を留めて下ろしているが、今日は髪留めでアップにまとめている。
体操服のハーフズボンから出た彼女の足は、色が白く形の綺麗な足だった。
 華奢な体だな、と圭史は思った。

触れてしまいたいと思う、自分の感情を心の奥に押しやって、圭史は作業に目を戻した。

 それから数分後、放送部のアナウンスで美音がスタートしたのが耳に入ると、手を止めてグランドのほうに目を向けた。

バトンを受け取った美音が走り出している。真面目な表情で前を追う。

時間に換算すれば、あっというまの時間。
それでも圭史には短くは感じなかった。

美音は1人抜いて順位を上げると、次の走者にバトンを渡した。
 軽く流して足を止めると、「ふう」といったように息を吐き、頭につけたハチマキを外して歩き出した。
 この本部席に戻ってくるのだろう。

 それから三度、書類に目を戻し作業を続けてようやっと終わりが見えてきた。
肩に重さを感じて、思い切り伸びをして息を吐くと無造作に置いた腕が書類に当たり地面に落ちてしまった。

「・・・あ、」
椅子から腰を上げてしゃがみ込み、落ちた書類を拾い始めた。

 眼の端に戻ってくる美音の姿が捉えられ、圭史ははっとして手を止めた。
美音が顔を向けている反対側には、棒を数本担いだ役員がすれ違おうとしていた。
その棒の端が美音に当たろうとしている。

危ない、と思われた瞬間、美音は亮太に手を引っ張られるような感じで引き寄せられ、それを回避する事が出来た。

……だが、美音の顔色が瞬時に変わり、亮太の手を振り払った。
いつもの様子とは打って変わった反応。圭史の場所から見ても、彼女の体全体に力が入っているのが分かった。

「いってー、助けたんだろー」
亮太のその台詞を耳にして、我に返ったようだった。
それでも少しぎこちない様子で美音は口を開いた。
「あ、あー、ごめん、ちょっと男の人に触られるの、駄目、で……」

いつもと違う暗い表情の美音を数秒見つめて、亮太はその視線を外しながら言う。
「……まぁ、いーけど」

 そこまで見て、圭史は急いで書類を全て拾い上げ、何も無かったように椅子に座った。
 自分の心臓がやけにうるさく聞こえた。

カタ…、と、神妙な表情で横の椅子に座った美音に、圭史は普段通り声をかけた。
「どうだった?」
その圭史の微笑で、美音に安心した表情が微かに見えた。
「あ、一人抜いたよ」
「ほんと」
笑顔で圭史はそう答えると、頼まれていた書類を渡した。
それを美音は笑顔でお礼を言ってから受け取ると軽く目を通している。
そんな、いつもの美音の様子を見つめながら、圭史は願うのだった。
 早く、癒されることが出来たら良いのに……、と。




 体育祭全ての競技が終了して、閉会式が済むと、グランドの後片付けを全校生徒で行われている。中央では、委員によってレクレーションの準備がすすめられている。
最後に行われるのはオクラホマミキサー。

「あーやっとこれで無事終了しましたねー」
隣に立っている丈斗の台詞に、亮太も同じ気持ちで言った。
「ほんとだなー。あとは期末テストだなー」
「ああ〜、思い出させないで下さいよ〜」
「それが現実だ。あー、俺も今回やばいんだよなー」
遠い目をまだ明るい空に向けて亮太はため息をついた。

ふと顔を下に向けてから、ここにいない存在達を思い出した。
「そう言えば、他の生徒会役員は?」
「会長は先生に呼ばれて教員室に。春日さんはあそこで話しています。藤田は、……知りません」


 丈斗の示した所に美音はいた。
壇上とマイクが立てられて置かれている横で美音は数人と話している。
一緒にいるのは、美音と同じクラスの女子2人と、圭史の友人達3人だった。

「一緒に踊ろうよ」

美音を間に挟んで、彼らに声をかけていた。
彼らは万歳をしたいほどの喜びを抑えつつ笑顔で答えていた。
「いいよー」

「あと、瀧野くんはー?」
1人がさり気なさを装ってそう尋ねていた。

美音は笑顔を浮かべながらも、心の中では白々しく感じている。

「あー、あいつは忙しくてなぁ」
「そうそう。・・・春日さん、俺と踊ってー」
彼らのうち、内藤がそう言葉をかけていた。他2人は先を越されたと顔を見合わした。

「え?あ、私は……」
気持ち的に、クラスメートの腕に隠れるように、じり…、一歩下がった。

それでも内藤は笑顔で屈しない。
「役員は手本でレクレーションに参加しないといけないよね?」
「お前、嫌がられてるって。春日さん俺と踊ろうよ」

そう言われて美音は尚クラスメートの腕にぴたりとくっついている。

庇うようにして、クラスメートが口を開いた。
「春日ちゃんは忙しい身だからー。ね?」
「うん、まだ仕事残ってるし」

「えー?他の男にでも任せていたらいーじゃん。男の方が人数多いんだし」
この好機を逃してなるものかと彼らは必死だった。
残りの1人は、すかさずもう1人の子と踊る約束を取り付けていた。
「お前らまだ決まらないの?」
「いつの間に……」

「春日さーん踊ろうよー」

大いに困ってしまった美音。
心の中はすっかり殻に覆われてしまって何も言葉が出てこなかった。
この場の雰囲気に気まずさをひしひしと感じながら、どうしても「踊ってもいいよ」という台詞は出てこなかった。

 ― どうしよう…… ―


「お前ら、なーにやってんだよ」
美音の後ろから、怒りと呆れが混じった声が飛んできた。

 その声を耳にして、美音は振り向きながら安堵の色を浮かべていた。

「あ、瀧野」
「いや、この後のレクレーション誘っていただけだよ」
と彼らが口にするなり、遮るように最初圭史の事を尋ねた彼女が口を開いた。
「あ、瀧野君、踊る相手決まってるの?」

彼女から腕をそっと離した美音に気づきながら、圭史は言う。
「あ、いや、実行委員は人数合わせで踊らないから」

「そーなんだ、踊りたいって言う子いるんだけどねー」

その台詞を聞いた彼らは、じろりと圭史を睨んだ。
なんで、こいつばっかり。そんな文句が聞こえてきそうな目だった。
「で、瀧野どうしたんだよ」
踊らない奴が何の用だ、と言わんばかりの言い方だった。

それを気にとめる事無く、圭史は美音に顔を向ける。
「あぁ。春日、集まれだって。溝口があっちで呼んでるよ」

「え?うん、ありがと」

そう言うと、亮太のいる方向に向かって早足で歩き出した。
だが、数歩行った所で美音は足を止め彼らに振り返ると言葉を投げた。

「内藤君、池田君、誘ってくれてありがとう、ごめんね」
申し訳なさそうな笑みを向けて、美音は躊躇いがちに向きを変えると走って行ってしまった。

そして、2人から洩れるため息。

「なんだよ、人数足りないんだったら、俺がお前らと踊ってやろうか?」
そう言ってのける圭史に、彼らはムキになって言い返すのだった。
「いるかっ」
「へーへー」
そう言いながら、マイク立てからマイクを外して、圭史も亮太の所へと向かっていった。


 美音がそこへ辿り着いた頃には、亮太の所に、教員室から戻って来た薫がいた。
「実行委員の2,3年男子が抜けて、人数はぴったり。生徒会1年は参加。と、いう事で実行委員の人に始めて貰うようにしましょうか」
段取りも整ったようで、薫がそう言うと、亮太は機材が置いてある委員のもとへ向かっていた。
暫くして音楽が流れ出し、皆バラバラと輪を作って踊りだした。

「みなさん、踊ってますなぁ」

遠くを眺めるように美音が言ったのを聞いて、戻って来ていた亮太が声をかけた。
「踊りたそうだな。委員の奴誰か誘って踊ってきたら?」

少しの間があって、美音は口を開いた。
「さぁ、生徒会室片付けなきゃ。薫ちゃん、いこー」
「うんー」
わざとらしく話をそらした美音に、亮太は何か物言いたげな目を向ける。
だが彼女は知らないフリを決め込んでいるようで、とっとと歩いていった。
そして亮太は軽くため息をつくと、2人の後をついて行くようにして歩き始めた。

 その様子を目に捕らえていた圭史は、ふ…、と微笑を浮かべた。

 ― 踊るわけ、ないか…… ―