時の雫・風に乗って君に届けば

§3 注がれるもの


Episode 3 /3




 週が変わると、午後は体育祭の準備に割り当てられ、学校全体が賑やかな空気に包まれていた。
2年は2クラス共同で大きなゲートを作っている。それぞれの学年にも役割があり、どこも活気付いていた。
 外庭を歩きながら、校門の方に目を向けると、守衛室がカラだということに気付いた。
さして気にも留めず、圭史は書類を片手に歩いていた。
別に珍しい事ではないので、この時は大した事でもないと思っていた。
 そして、遥か前方の校舎と間に、箱などの荷物で両手に山積みに持っている美音の姿を発見した。
忙しいからと、又一人で無茶をしている。
呆れたように軽く息を吐いてから、急ぐように大股で歩き出した。

「あれぇ?瀧野、委員会は?」
途中でクラスの友人たちに遭遇した。
忙しい圭史とは対照的に、彼らは手に工作道具を持ちながら鷹揚としている。
「ん?仕事中。又後でなー」
「おー」

「大変そうだなぁ」
彼らは自分たちとは関係ないかのように遠くなっていく圭史の後ろ姿を眺めていた。


 山ほどの荷物を両手に抱え、顎でどうにか抑えながら、美音は会議室に向かっていた。
何度も往復するのが面倒だからと、この両腕に乗せられるだけ乗せてもらったのだ。
これが案外難しく、ちょっとでも腕を動かしてしまうとバランスが崩れて荷物が落ちてしまう。
 −ゴールはまだ遠いなぁ……−
そんなことを思いながら、美音は歩いていた。

「きゃああああぁぁぁ!!」
どこからとも無く女子の悲鳴が聞こえてきた。
「何事?!」
唯事で無い叫び声に、美音はそのまま進めば通り過ぎるはずの通路に目を向けた。

そこに見えたのは、非日常の光景。

学校の女子が腕を掴まれて脅えている。部外者であろう小奇麗とは程遠い雰囲気の男に。
もう片方の手を掴み壁際へ追い込もうとしていた。
 美音は考えるより先に、両手一杯の荷物をその場に放り落とし適当な箱を掴んで男に投げつけて声を上げていた。
「部外者がうちの女生徒に何しようとしてんのよ!!」
つかつかと近寄り、蹴りを一つ入れてその男から引き離すと、彼女を背にして男と対峙した。
美音は小声で言った。
「……走れる?」
「は、はい、なんとか……」
「じゃあ、走って逃げるから」
気丈な自分の筈なのに、嫌な汗が額に流れた。
心の中で「せーの」と自分に掛け声をかけた。そして彼女の背を押して促した。
自分も一緒に走って逃げるはずだった。
でも美音の足は自分が運んでいた荷物に邪魔をされて思うように走り出すことが出来なかった。バランスを崩しその場に倒れこもうかと思われた次の瞬間。

 −……!−

彼女の手首は、その男にしっかりと掴まれていた。
もう片方の手で口を塞がれ、引き摺られるようにして奥へと連れ込まれた。
男は奇妙ともいえる笑みを浮かべている。
それを見て、美音の頭に、忘れていた筈の光景がよみがえる。

薄暗い帰り道、ついてくる足音に、途中ミラーで盗み見た男の姿。

 −まさかっ……−

一瞬にして血の気がひき、体が固まったように感じた。
逃げなくては、と思うのに、掴まれた手首はびくともしない。更に奥への壁際に引っ張られていく。
泣きたい位の、強い力に美音の力ではびくともしない。腕を掴まれたまま壁に叩き付けられるように追いやられた。
 声を出さなくてはと思うのに、喉に引っかかる感じがして、全く声が咽を通らない。
自分の呼吸すら掠れているように聞こえた。
自分の体が、まるで別の誰かの物ように言う事が聞かない。

 −怖い!怖いっ!こわい!!−

あまりの恐怖心に周りの視界が目に入らなくなっていた。
吐き気すら感じる今の光景に美音は他に何も考えられなかった。
心臓さえ圧縮されて逃げ場を失っているようだった。
逃げる事さえ出来ずに恐怖に固まっている彼女。
それを十分に承知しているようで、男はゆっくりと足を1歩前に進めた。

恐怖という名の痺れと共に、美音は息を呑んだ。
自分という存在を、見失う一歩手前の状態に、美音は出くわした。

だが、その一瞬後、空気は変わった。



 後を追うように急いでいた圭史の所に、知らない女子が血相を変えて飛び込んできた。
「…て…っ、変な男が、春日さんがまだ…っ」
それを聞いて圭史は走り出した。
今まで制服姿でこんなに早く走った事がないくらいの速さで。
その先のあまり使われていない通路に向かう先に、美音が持っていたはずの荷物が散らばっていた。
急いでその通路に入った。

その次の瞬間、目に飛び込んできた光景で、頭に血がのぼった。
「!!何してんだっこのやろうっ!」
その不快な男に思い切り蹴りを入れた。
そしてすぐさま、背後に美音を庇うように立った。

男はその力に耐えられず横方にどさっと倒れた。すぐ慌てて起き上がりその場を離れようと走り出し、その通路をあっという間に抜け、校門の方へと向かう。

圭史は後を追うようにその通路を出た。
前方には先程すれ違った友人たちの姿が見える。
「お前等っ!!そいつ捕まえて警察突き出せ!!」
感情を露にした圭史の台詞に彼らは驚いていたが、唯事ではないと察知すると、走ってくる男に顔を向けた。
「春日襲いかけてたんだよ!!」
彼らは一瞬にして表情を変えた。
今まで見た事の無い咄嗟の団結力で、その男を囲い込むと捕まえるように飛び掛った。
さすが、自称春日ファン。

 とりあえず、それを見てほっと安心の一息を吐いた圭史はすぐ美音の元へと戻った。
壁さえも邪魔だと言うように手で押しのけるようにして通路を曲がった。
そこには先ほどと変わらぬ位置で壁に背を預けたまま座り込んでいる美音が存在した。
 じゃり…、と小石を靴に踏む音がする。
気持ちを落ち着けるようにしながら、茫然自失状態の彼女に歩み寄っていった。

「春日?」

名を口にしながら、片膝を地面につけてしゃがみこんだ。

美音はゆっくりと圭史の顔を見つめた。それでも、目は何も捉えていないように見えた。

蒼ざめたままの美音の左手首が赤くなっているのに気付くと、言葉に出来ないほどの怒りに似た感情といたたまれない感情が体内を駆け巡っていった。

「大丈夫?」
何をどう声をかけたら良いか分からなくて、とりあえずそう言っていた。

彼女はこくん、とただ頷いた。

「立てる?」
圭史は一際優しく聞いていた。

こくん、と又静かに頷くと、両手を地に付けてゆっくりと立ち上がった。
――それは圭史の目には大分危なげには見えたが。

そして自分が手にしていた、今は散らばった物を目にして呟いた。
「……荷物、……」
彼女がそれらに体を向けたのを見て、圭史は先に足を向け荷物をとりあえずまとめだした。

 美音も圭史の傍で拾い出した。ぎこちない動作で。
何個かを積み上げ、まだ傍にあった小さい箱を片手に持った。
拾い始めて数分ほどの時間だ。
手にした物を顔の近くまで持ち上げて、……それはぽとりと地面に落ちた。

不思議に思って視線をずらすと、赤みの無い自分の手が震えている。気が付けば、その震えは全身にまで回っていた。

 すぐ目の前に圭史の背中がある。それを見て、どうにか震えはマシにはなった。

――ただひたすらに恐かったのだ。頭の中は真っ白になって何も出来なかった。
声を上げることも出来ず、逃げることも出来ず、固まってしまった。

 こういう場面、普通何かしら出来るよ。

テレビを見て、いつもそう思っていたのに。

 なんて、ばかなんだろう。

そう思った後、熱いものを感じた。心の中まで広がるようなそれに気付いたのは、頬を落ちて地面に染みとなって目に映し出されてからだった。

 どんなに辛くても悲しくても泣いた事など無いのに。

強張っていた体が、許されたかのように解き放たれていく感じだった。

「………っ、…うっ……」

本人の意思とは無関係に次から次へと溢れ出てくる。
その涙を拭う事すら頭に浮かばず、ただひたすら恐かったと言う感情に心は染められていた。

 様子の変化に気がついた圭史は美音を振り向いてみて体が硬直した。
そしてすぐにいたたまれない気持ちになった。
大きな雫をボロボロと零して、声も出さずに必死に何かを耐えているようにも見えた。
震えている手。

「もう、大丈夫だから……」

見ているこっちが胸を押しつぶされそうな気持ちになりながら、そう言葉を紡いでいた。
見えた赤い手首に堪らなくなって、圭史はそれを隠すように軽く、優しく握っていた。

 見かけた時にもっと早く行っていれば、こんな風にはなっていなかったかもしれない。
「…ごめん」

圭史の言葉に美音は俯きながら首を横に振る。
次から次へと溢れてくる感情に、手首にかけるように添えられた圭史の手を縋る気持ちでぎゅうっと握った。

1人ではない安心感と救われたと言う気持ち。

圭史の温もりが美音に大丈夫だと囁いている様だった。


 それから暫らくして、ようやっと落ち着いた美音が、ゆっくりとその場を立ち上がった時も、顔を洗っている間も、圭史はずっと傍にいた。

まだ左手首の痛みは響いているままだが、喋らなければ普通の状態でいられるようになった。

……荷物を持って生徒会室に行かなくてはいけない。
その事を伝えて向かおうと思うのだが、どうしても言葉が口から出ない。
心が悲鳴をあげようとする。
 美音は救いを求めるかのように、すぐ隣にあった、圭史のカッターシャツの袖をぎゅ、と握った。


 袖に突っ張る感触を感じて、圭史はふと顔を向けた。
俯いて袖口を指先で握っている彼女の顔は、不安げで、縋るような表情だった。
……また不意に、感情が溢れ出しそうになった。まるで心が鷲掴みにされたような息苦しさだ。
自分の理性が働き出すより早く、今にも又泣き出してしまいそうな彼女を落ち着かせる為に、握ってきた右手を握られていない反対側の左手で握った。

 ひんやりと冷たくて小さな手。

安心したように手の力が抜けるのを感じて、圭史はゆっくりと歩き出した。



☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆



 気が付けば、真っ白だった。

 ―あれ?部屋、じゃない……。どこ?―

暫らくの間、ぼーっと宙を眺めていた。
頭がハッキリしない。体もだるい。
ゆっくりと体を起こしてみて気が付いた。制服姿だから、ここは学校だということに。

 ―保健室だ―

そう心の中で呟いて、ベッドの下に置かれている上履きに足を落とした。

 ―……どうしたんだっけ?―

何も浮かばない頭に、力を入れるように目を閉じて意識を向けた。

―ああ、そうだった。あの子を助けて反対に私が掴まったんだ。そして又助けて貰ったんだ―

上履きに足を通し、美音はカーテンの間を潜り抜けるようにして遮断された空間を出た。
そこには保険医が机に向かって何かを書いている姿があった。
微かな足音で美音に気付いたようだった。
「あ、起きたのね。大丈夫?」
「え、はい」
「とりあえず、熱だけ計ってね」
差し出された体温計を受け取って、黒い丸椅子に腰を下ろした。
「気分はどう?」
「うーん、多分なんともないです」
少しでも眠ったお陰で、嫌な光景を遠のく事が出来たようだった。
「話は一応聞いてるけど、今日は家に帰ったらゆっくりしてね。あと、2回くらい瀧野君が様子見に来てたわよ。それと、1度だけ生徒会で呼び出しの放送がかかってたわ」

最後の台詞で思い出した。
「あー、今日中にまとめないといけないのがあったんだ……」
あの荷物の中にその書類があったはずだ。
いつものようにしなければ、心配をかけてしまう。
そんな感情が漠然と心に浮かび上がった。


 保健室を出て、廊下を真っ直ぐと歩いていた。

体中を嫌な心臓の音が鳴り響いている。
一人でいると、先程の男が又目の前に現れるのではないかという妄想に囚われそうになっていた。
それを必死で打ち消しながら、自分に大丈夫だと言い聞かせながら、全身緊張した状態で進んでいた。

 廊下を曲がった所で、進行方向からきた人物にぶつかりそうになって慌てて足を止める。

「おっと、……」
声を聞いて気付くより先に美音は顔を上げていた。
それは保健室に向かおうとしていた圭史だった。
圭史の顔を見た瞬間、美音の体に纏わりついていたものがすっと消えて、体が軽くなった……。

「大丈夫?」
美音に気付いた圭史は、とても柔らかい表情でそう聞いていた。

初めて見るその眼差し。

 ふんわりと温かい微笑に、美音は気付かぬまま見惚れていた。

「……、春日?」
少し戸惑いを含んだ声音で名前を呼ばれて我に返った。

「あ、うん」
何となくそう返事をして、保険医に数回様子を見に来てくれている事を教えてもらったのを思い出し、―美音自身気付いてはいないが― 心から滲み出る柔らかい他の誰もが見た事の無いほど、ふわっとした笑顔で言葉を紡いだ。

「……ありがとう、瀧野君」


 その笑顔で、圭史の頬は微かに赤く染まった。
このまま、蕩けてしまうような錯覚さえ感じた。

「保健室で休んだから、大分落ち着けたと思う。それで、……、どうなったの?」
訊ねた美音の顔から笑顔が消えたのを見て、冷静になり圭史は口を開く。
「あぁ、池田達が咄嗟に囲んで捕まえて警察に突き出したよ。で、あいつらまだ戻ってきてないみたいで。生活指導の先生も呼ばれて行ってるみたい」
「そう、なんだ。でも、校内でこういう事が起こるのって、かなりショックだなぁ」
「丁度守衛がいない時だったから。一応その事も報告しといたけど。春日もあまり無茶しないようにな。今回は取りあえず良かったけど。」
語尾に強く含まれているそれに、美音は「うっ……」という表情をした。
「荷物は生徒会室運んでおいたから。放送かかってたから橋枝に保健室で休んでるとだけ言ってあるから」
「何から何まですいません。このご恩は一生忘れません。何か出来る事あったら何でも言ってくださーい」
と言って深―くお辞儀した美音を見て、思わず圭史は吹き出してしまった。
「はっ、ははっ」
「えぇ?!今のって笑うとこぉ?」
「え?いやごめん、つい」
半分冗談めかして、美音はむくれた顔をした。でも、心の中は圭史の存在に救いを感じていた。

そんな美音を圭史は優しげな瞳で見つけていた。


 外庭に面した廊下を歩いているとき、外靴を履いて下駄箱に向かっている男子生徒3人が目に入った。彼らは圭史の姿に気がつくと声を放ってきた。
「おーい、瀧野―」
名を呼ばれて、圭史は足を止めた。つられたように、隣にいる美音も足を止めた。

小走りに近寄ってきた彼らに圭史は声をかけた。
「おお、お疲れ。どうだった?」
「今、生活指導の先生が対応してる。俺らもう用無いから帰って来た」
「なんか、あいつ鼻から春日さんを狙ってたみたいだよ。警察の人がそのような事を言ってた」
その台詞を聞いた圭史の顔が、罰が悪そうに歪んだのを見て、彼らは圭史1人でない事に気がついた。

「……あ」
彼らの口から洩れる声。
 当の本人がその場にいる事など思ってもいなかったのだから。
美音は、男たちの気まずさを無視して口にした。

「うん、私の顔見て反応示したもん。多分、前アトつけてきたのもあの人だよ」

驚きを隠せない顔で、美音を見つめた圭史。

それには、苦笑とも言える、微笑を見せた美音だったが、呟くように言った。
「でも、捕まって良かった……」
そして彼らにはにっこり笑顔を向けて告げた。
「捕まえてくれて本当にありがとう」
その笑顔に、彼らは見惚れていた。

美音が踵を返したのを見て、圭史は彼らに言葉を放つと美音の横を行く。
「じゃ、又あとでな」
「お、おお」

 歩を進める美音の横を圭史はいた。
それを不思議にも思わず美音は歩いていた。

 生徒会室の扉の前に立った所で、圭史は笑顔で告げる。
「じゃあね」

「あ、うん……」

戸惑った様子の美音を尻目に、圭史は今来た道を戻って行った。


 角を曲がって背中が見えなくなるまで、無意識に見つめていた。
そして、そこで気付いた。

一人になる筈の間、傍についていてくれた、のだと。