時の雫・風に乗って君に届けば

§3 注がれるもの


Episode 2 /3




 いつもより体にだるさを感じながら台所へ降りた。

「今日は夕方から雨だから傘持って行きなさいよー」
朝食をテーブルに出しながら、母は言った。

「はーい」

のろのろと箸を持ち食べ物を口に運ぶ。
働かない頭のまま朝食を取っていた。いつもの朝はもっとしゃきっとしているのに。

……昨夜は、数学の問題が1問だけ解けず、悔しくて解けるまで頑張っていたら、睡眠時間が短くなってしまったのだ。

「……ねむい……」

このテーブルの上に頭を置いただけで即座に眠りにつけるだろう。
5分でも良いから寝たい、と思って時計を見てみれば、とてもそんな時間ではなかった。

「わ!遅れる!!」
慌てて立ち上がると、急いで学校へ行く支度を始めた。

それから暫らくして、家を大慌てで出て行く美音。
手に持っているのは、カバンだけ。





 教室で圭史はうんざりした顔で頬杖をついていた。

次の授業は選択授業だ。
学期始めの科目選択で技術を選んだ彼らは技術室にいる。
 今、目の前で友人たちが夢中で話している内容は美音のことだ。

「サッカー部の青木って奴だって」
「昨日の話だろ?情報早いなぁ」
「しかしなんて恐れ多い奴なんだ」

昨日の放課後、美音に勇気を出して告白した奴の事を、彼らは好きなように口にしていた。
その話の内容は、青木の人間性にまで進められていた。
 そこまで彼らが話す必要があるのだろうか。
途中で同意を求められて、圭史は不機嫌な表情のまま口にする。

「知らん」

それでも話は進んでいく。
「春日さんの好きなタイプってどんなのだろうな?」
「聞いたこと無いわ」

 誰に交際を申し込まれても、断っている美音に、彼らはそう疑問を持った。

「瀧野、中学の時とかでなんかない?」

 そう話を振られ、頭に浮かんだのはただ1人の人物。
中学2年の時いつも一緒にいて隣にいた奴。
中学の3年間、同じ軟式テニス部で競うようにして一緒に頑張っていた奴。

無意識に、ぴく、と、圭史の指に力が入った。
「お前等、それ知ってどーすんだよ」
心なし低い声になっている。

 圭史は知っている。
いつも切ない表情で奴を見つめていた美音の姿を。
高1の時、1人でいた彼女が切ない表情を時折浮かべていたのを知っている。
きっと違う高校に行った奴のことを思い出しているのだろう、と思っていた。
一際愁いだ瞳を浮かべていたその姿は、目にしたこちらまで胸が痛くなるくらいの……。なのに。

 彼らはいつもの軽い笑顔で言うのだ。

「ちょっと外見から頑張ってみようかと」

「はぁ?!そんなので上手くいく訳ないだろーが」
ぶっきらぼうに紡がれたそれは、彼らには通じていない。

「そーかぁ?」
「万が一って事もあるかもよ」

治まらない感情が湧き上がるようにして圭史の中に蠢き始めていた。
それを抑えられず、圭史の口から発せられようとしたとき、違う声が横から降ってきた。 その言葉が全ての雰囲気を変えるように感じた。

「春日はそんな生温いやり方じゃ通じないよ。結構人を見る目もシビアだし。
というか、落とせる奴いないと思うぜ。な?瀧野」

彼は余裕綽々の笑顔だった。
 そう圭史に振ったのは、彼女と仕事を共にしている亮太だった。

同じ選択科目を取っているのでこの時間は一緒の授業なのだ。

 圭史の治まらない感情は一瞬にしてクールダウンした。
つい先程までのイライラが嘘のように消えていた。

圭史は普段の調子で口にする。
「同感。いい加減甘い妄想は慎めよ。本人の耳に入ったら間違いなく軽蔑されるよ」
圭史の台詞に、思わず声を上げて笑いながら、亮太は彼らに口を開く。
「全くだな。一番望みがある方法は、仕事で春日の上をいく事くらいかな?」
にっ、と圭史に笑みを向けたようにも見えた。

亮太のそれに圭史は気付いたが、あえて見ていないフリをした。
「だってさ」
圭史の付け加えられた台詞を聞いて、彼らは「うう〜ん」と心痛な面持ちで言葉を洩らし、美音の話はそこで途切れたようだった。

 そして気が付けば、亮太はクラスの友人たちの輪の中に戻っていた。

「・・・・・・・・・」
そんな亮太の後ろ姿を目にしながら、圭史は眉の形を少し歪ませていた。
 −今の意味ありげな視線、……−
そこまで思ったものの、それ以上のことを考えるのは得策ではないと感じ、まだ考え込んでいる友人たちに目を向けた。
 何も気づいていないフリをして。



 放課後、掃除当番を終えて教室に戻ってきた所に、谷折が顔を覗かせて来た。
「瀧野―」
部活用のスポーツカバンを机の上に置きながら、声のした方に顔を向ける。
「おー?ちょっと待って。今行く準備してるから」
それを聞いて谷折は圭史の席にまでやって来た。
「今日は筋トレに変更だって。委員会は?」
「今日は無し。明日あるけど打ち合わせだけで、来週から本格的始動」
荷物を全て入れ終え、ショルダーを肩にかけると、廊下に向かって歩き出した。
「よぉやるなぁ。俺には真似できねぇよ」
「というか、やらなきゃいけないからなぁ」
 他愛も無い話をしながら足を進めていた。

 下駄箱出た所の、外庭に面した所を抜けて体育館に向かっていた。
その途中で、微小ながらに困った表情を浮かべて雨の降りしきる様を見つめている美音の姿を見つけた。


 ――美音は、いくら待っても止む事は無いであろう雨を睨み付けると、重々しい気持ちで息を吐いた。
 今週掃除当番でない美音は、終礼が終わってからずっとここに立ち止まっていた。
少しでも雨の降りがマシになれば、駅まで走っていこうと思っていたのだ。
 朝、母は傘を持って行けと言ってくれたのに。
タイミングの悪さが重なって、結局傘を忘れてきたから、困った状況になっていた。
 友達は皆学校でまだ用事があるので期待できない。
普段なら図書室に行って時間を潰したりもするのだが、今日は用事があった。
 早く、帰らなくてはいけない。
口をきゅっ、と締めると、意を決して1歩踏み出そうとした。雨の中に身を投じる覚悟で。

「これ使って」

それは突然だった。目の前の雨に頭が占領されていたから。
急に頭の上から降り注がれた言葉と、目の前に差し出された男物の折りたたみ傘。
まるで、風が一瞬にして吹きつけて行ったかのように突然に感じた。

「え……?」

茫然と言われるまま手を出して受け取り、顔を上げると、その彼の姿はもうそこには無く、一緒にいた友人の所へ戻っていた。

 振り向いて目を向けると、圭史の後ろ姿だけが美音の瞳に映った。

「いーのかよ?」
谷折の言葉に、圭史は平然と答える。
「部室に置き傘あるから」

そのまま、振り返ることなく部活に向かっていく。

「・・・・・・」

美音はそのまま暫らく見つめていたが、彼はとうとう振り向きはしなかった。
 顔を外に向けると手の中の傘を見つめ、柄にもう片方の手をかけた。

「…ありがとう」

圭史の耳に届くわけでないけれど、そう呟いた。
そして静かに傘を開き、まだ賑やかな校舎を背中に感じながら、降りしきる雨の中を帰って行った。
 傘に当たる雨音が、いつもより楽しいリズムになって美音の心に響いていた。




 翌日、登校した圭史が、いつものように下駄箱を開けると、昨日貸した傘とポカリが入っていた。

美音の気遣いに、ふ…、と微笑を浮かべた圭史は、靴を履き替えてからそれらを片手に掴み、教室に向かった。



 美音は傘を返すのに多少悩んだ。
母伝手で返して貰おうかと思ったが、それは失礼のような気がしてやめた。
教室に持っていって手渡しで返そうとも思ったが、周りの冷かしに遭いそうな気がして、結局下駄箱に入れておく事を選んだ。
以前、ポカリを好んで飲んでいたのを覚えていたので、お礼に入れておいた。

−……結局、傘を差し出してくれた時も、返す時も、お礼をちゃんと言えないままになってしまった……−

美音はその事に、1人頭を悶々としていた。
些細な事なのだろうが、あまりに自分の反応の鈍さに軽い自己嫌悪に陥っていた。
お礼はちゃんと言った方が良い。
でも、美音は圭史のクラスの友人達が、本当はちょっと苦手なのだ。

 −うーん……−


休み時間も眉間にしわを寄せたまま、廊下を歩いていた。

「あ」
耳に零れてきた声で反射的に顔を上げると、微笑を浮かべた圭史が前にいた。
彼も1人だった。

「アレ、わざわざありがと。別に良かったのに」

数瞬後、彼を何も考えられずに見つめていた事にはっと気付くと、朝からの胸の痞えを外すように口を開いた。

「ううん、こっちこそ、ありがとう。……え、と、瀧野君て飴食べる?」

「? うん、食べるよ」

圭史の少し不思議そうな表情に、美音は笑顔になって手首に巻き付かせていた布巾着の中から飴玉を2個ほど取り出した。圭史に「はい」と飴を握ったままの状態で差し出す。

圭史が手の平を向けると、その上に飴をコツンと落とした。

「これもお礼。傘貸してくれてありがと」

にこり。と笑顔を向けた。
それから美音は先程と変わって軽い足取りで教室に向かっていった。


 自分に向けられた−予想していなかった満面の−笑顔に、圭史は体中の力が抜けるかと思った。
 なぜこうも不意打ちなのだろう。
教室に入っていく美音の後ろ姿を眼の端に捉えながら、静かに息を吐いた。
圭史はどうにか自分を落ち着かせてから自分のクラスへと戻って行った。
 席につき、握ったままの飴玉をカバンの外ポケットに仕舞った。

友人たちはいつものように他愛も無い話をしている。

 彼らが知らない、普段の美音の姿を圭史は知っている。
彼らが見ている美音の姿が、本人にとっては「幻想を抱かれている、言わば虚像でしかない。受け入れられない」と言う事も知っている。

 だから、彼女はいつも頑張るしかないのだ。彼女の役割を。
それは全て、生徒会での仕事に現されていた。

友人たちを目にしながら、深い溜め息を吐いた。

そんな圭史に気付かず彼らは話を続けている。

 −こいつらは分からないんだろうな……−