時の雫・風に乗って君に届けば

§3 注がれるもの


Episode 1 /3




「そーいや、瀧野ベスト10入りだってよ」

書類を眺めながら、思い出したように亮太が口にした。
その向かいの斜め方向に座っている美音がいつもと変わらず反応した。

「テニスの大会?」
「そう。県大会だってさ。クラスの奴が話していた。…テニス部の谷折、だったけ。
実行委員で忙しいくせに信じらんねーってぼやいていたな。」

そう言うと、ちら…と美音に目を向けた。

美音は別に顔色一つ変えず、シャープペンを持った手を頬に当てながら口を開く。

「中学のときも軟式でいい線いってたよ、確か。
一人で遅くまで残って練習してたり、朝早く来て練習してるんだって」

「……なんで知ってんの?」

「んー?クラスの子達が騒いでたもん。人気あるみたいだねー。うちのクラスの女子でも瀧野くんに本気な子いるみたいだよ」

「へー」

「まぁ、瀧野君て優しいからねぇ」

普段通りのままの美音を見て、書類を手に持ち上げて目を向けた。
「優しい、ねぇ」

美音は無邪気な笑顔で話し出した。

「そうそう、中学の時!忘れ物取りに教室行ったら、もう鍵閉まっていて入れなくて困ってたらさ、風紀の瀧野君が丁度見回りで鍵貸してくれたんだよねー。あの時も感謝したなぁ」

そうして、真っ直ぐにじっと見つめている亮太の視線に気が付き、笑顔を消して美音は訊ねる。

「……何?」

「……別に」

「?」

再び書類に目を向けた亮太を見て、何か言いたげだった様子に、美音は首を傾げた。


 廊下をすごい足音で走ってくる音が聞こえてきた。

「………」

2人は大体予想がついている。そして、その期待通りの反応を待った。

ばたん!

勢い良く生徒会室の扉が開かれ、1年生の割にしっかりした体格の男子が二人の姿を見るなり声を上げた。

「1人で各クラブ回るなんて無理です!!」

二人は動じず、目を少し見開くと椅子の背もたれに凭れて、その彼に言った。

「それぐらい1人で回れるように頑張って。体育祭当日はもっと大変だから」
「ま、毎年恒例1年生の洗礼式みたいなもんだ」

二人は飄々としている。

「そんな〜先輩〜」

「生徒会内では先輩と言うのは禁止だから」
「ここで時間費やしてたら、今日中に終わんないよ」
「藤田君、頑張って」

そうして、藤田は肩を落として仕事に戻った。

「ちゃんと顔覚えてもらわないとねぇ」
困ったもんだ、と言いたげに美音は言った。


 暫らくして薫がやっと教員室から帰ってきた。

「ただいまー」
「あ、お帰りー。どうだった?」

薫の方に体を向けて美音が訊ねると、少し疲れた表情で口を開いた。

「うーん、教員会議にかけてみるって。朝の職員会議に出席しなきゃいけないかも」
「ふぅん。古い備品なんだからすんなり買い換えてくれても良さそうなものだけどね」
「まったくね」

疲れた様子で椅子に座ったのを見て、美音は笑顔で言う。

「お茶タイムにしよう。お菓子作ったの持って来てるんだー」
「わーい」

それを聞いて亮太が戸棚に立ち、中から急須と湯飲みを出してお茶の準備をしだすのだ。

「今日は何ですか?」
嬉しそうな表情で薫が訊ねた。
「今日はシュークリームです。大成功です」

小皿に持ってやりそれぞれの分を机に置いていった。

「おかわりあるから」

亮太の入れたお茶を飲んでから、自分で作ったシュークリームを口に運んだ。
はむ。と口に入れて閉じたすぐ後、生徒会室の扉が開かれたのだ。

「運営の企画書、変更して欲しいところが、……」

扉を開けて、そう言いながら中に入ってきたのは圭史だった。

生徒会のその3人が、ビクっとしたのを見て、思わず台詞の途中で口を閉じてしまった。

「は、ふぁひのふん(あ、瀧野君)」

思わず圭史は苦笑い。何を言っているのか分からなかったが、多分名前を口にされたのだろう。

「いい時に来たね」
薫が笑顔で言うと、亮太が勧めた。
「一緒に食べてけよ。お茶もあるから」
「え?いや……」

圭史が戸惑っていると、やっと飲み込み終えた美音が笑顔で声をかけた。

「シュークリームまだたくさん作ってきてるから座って食べてってー」

「あ、うん」

美音にそう言われ、亮太の隣に座った。そこは美音と斜め向かいの席になる。

亮太はシュークリームを食べていたので、美音がお茶入れてシュークリームを小皿に持って圭史に差し出した。

「あ、ありがと」

そして、圭史が食べたのを見て、亮太がにやりと笑いながら言った。

「これで瀧野も共犯な?」
「げほっ」

それを見て、美音と薫の2人は声を出して笑った。


 ……あれから、美音はすっかり『日常』に戻っていた。
暫らくは圭史に顔を向けられない状態が続いていたが、次の行事の準備で委員会が動き出すと、いつもの美音らしさを取り戻していった。

 あの事件で心を痛めている表情を見るより、そして、気まずさで自分から顔を背けられるより、いつもの美音のほうがずっと良い。

それに、以前よりは、自分に対する態度が柔らかくなったような気がする、となんとなく感じていたからだ。


 2個目のシュークリームを貰いながら、薫は口を開く。

「新人達はどんな様子?」

美音は「はい」と圭史にも2個目を渡しているところだ。
亮太がそれに答えた。

「毎年恒例、部巡りに追われているよ。さっきも一人泣き言言いに戻ってきていたけど。あれどっちだっけ?」

「いい加減覚えてあげなよー」

薫がそう言うと、亮太は「ふう」と溜め息をつきながら参ったように言うのだ。

「人の名前と顔覚えるの苦手なんだよ。しかも野郎で印象薄いのは」
「えぇ?じゃ女ならいいの?」

率直にそう聞かれ、美音に振った。
「春日、どっちだったけ?」

美音は笑いを堪えながら、なんとか平生を保って答える。
「藤田君でしょ。体格の良い方」
「あーそうそう。そんな名前だったな」

美音にはすっ呆けた顔に見える亮太の様子が面白かった。どうしても笑いがこみ上がってくる。
その様子を眼の端に捉えた亮太は「なんだよ」と言わんばかりの眼差しを向けてから顔を背けた。

 そんなやりとりを、圭史は2個目のシュークリームを食べ終えようとしながら目にしていた。
さて、企画書の話をいつ切り出したものか……。

 全員がシュークリームを食べ終えてお茶を飲んで一息つけた頃、美音が凛とした声で言った。
「さ、仕事に戻りましょか。瀧野君、運営の企画書だったよね?」
「あ、うん」

切り換えの良さに多少の戸惑いを感じながら圭史はそう返事をしていた。

美音の台詞を聞いて、薫と亮太は器の片づけを始める。

 圭史は持ってきていたプリント用紙3枚を並べ、美音に説明を始める。
すると美音は休憩中の表情と打って変わって真剣なものになる。
そうなると、もう冗談は口に出せない。彼女は仕事に対していつも真面目だった。

実行委員の連中は、それをよく知っている。
皆、そんな美音を信頼しているし、自然と影響を受けていた。
だから2年の委員は仕事への取り組みがよく、まとまりも良かった。

「あ、本当だね。変更しないと駄目だね」

納得した美音は素直にそう言うと、自分用のファイルを取り出し赤ボールペンで記入し始めた。

「じゃあ今日中に直しあげて、…明日は委員会休みだから、明後日の委員会で差し替え出来るようにしましょうか」

てきぱきと進める美音に、圭史は感心の念を覚える。
用は済んだ圭史が席を立つのを見て、美音は笑顔で言葉をかける。

「いつもありがと」
「あ、いや、こちらこそ。ごちそーさま美味しかった」

そう返すと、圭史は足早に生徒会室を出て行った。



 校内に残っている生徒の数も大分減ってきた。それでもまだ日は明るい。

「大分日が暮れるの遅くなったねぇ」

ぼけーっと窓の外を眺めながら薫が呟いた。

「本当だな」

後片付けに入っている亮太が答えた。

美音はまだ印刷室から帰ってこない。全員が集まると狭く感じる生徒会室も今は少し広く感じた。

「美音ちゃん早く帰ってこないかなー」

外を眺めたまま、薫は呟く。

 少なくなったとはいえ、外からはまだ生徒の声が聞こえてくる。

そこから、なんとなく元気な美音の声が聞こえてきているような気がしていた。

「ほんと春日の事好きだよなぁ。会長になったのだってその理由なんだろ?」

書類をファイルにしまいつつ、眼の端に薫を捉えながら言った。

手の甲に乗せた顔を亮太に向け、にこー、と笑んだ。

それを目にすると、亮太はファイルに視線を落とし口を開く。

「でも橋枝の交渉のうまさは会長向きだけどな」
「ふふ。まぁそれぞれの得意分野があるし。当事者全員が納得できていたらOKよね」
「そーだな」
「美音ちゃんて一人で突っ走っちゃうとこあるから、助けになりたいんだー」

亮太は溜め息混じりに言う。

「ほんとに春日の事好きだよなぁ」

薫はにこー、と笑むのだった。


 廊下から足音が聞こえてきたと思ったら、美音が入ってきた。
後ろに1年書記の藤田を従えて。彼の両手には凄い量の用紙が積まれている。

「ついでに藤田君捕獲してきたよー」
「じゃあ部巡り完了か?」

藤田は机の上に一杯の用紙を倒さないように置くと、一呼吸吐いてから答えた。
「なんとか終わらせましたー」
「あれ?もう1人の方は?」
「ああ、野口君はもうすぐ来るよ。最後の所だって言ってたから」
亮太の問いに美音が答え、帰る支度をして待つ事となった。

全員の後片付けが済んだ頃、野口 丈斗がやっと戻ってきた。

「すんませーんお待たせしましたー」

「はーい、お疲れー。じゃあ揃ったところで帰ろうか」

薫は生徒会室に鍵をかけると、その鍵を美音に手渡した。


 下駄箱に向かいながら、美音は1年2人に言葉をかける。
「交通手段は?」

「あ、おれバスです」
元気に答えたのは藤田だ。美音は野口にも答えを求めた。
「野口君は?」
「自転車です。方向的には線路渡った先の方なんで」
「本当―。いいなぁ自転車通学」

「春日さんはどこですか?」
野口よりも背の高い藤田が、美音の頭の上から訊ねた。

「野田高校の割と近く。自転車で来るのはちょっと距離があるもんなぁ」
「あー、じゃあ電車ですよね。良かったら僕駅まで送りますよ。通り道だから」

野口の言葉に、美音は笑顔を向けて言った。

「いいの?ありがとー。前に一人で下校したら怖い目にあって…。助かります!」

そんなに喜ばれると思っていなかったみたいで、野口は少し照れた様子になった。

戸惑っていた様子の藤田も口を開いた。
「あ、じゃあ俺も」

美音はいつもと変わりなく笑顔で言う。
「会長と溝口君もバスだから一緒に帰ったらいいよ」


「・・・はい」
静かにそう一言口にした藤田。
そんな彼に、野口はちろ、と視線を向けた。


 下駄箱までもう直前、という距離で、男子が一人部活のユニフォーム姿のまま姿を現した。

「春日さん、……」
名を呼ばれて美音は顔を上げた。自然と足は止まる。
横にいる2人も足を止め事の成り行きを見ているといった感じだ。
それに負けることなく彼は口を開く。

「ちょっと、話が……」
彼はぎこちない表情でいた。美音は彼に足を進め問う。
「はい、なんでしょう?」
美音はわかっていない様子だ。

1年二人が立ち止まったままなのを見て、数歩前に進んでいた亮太が言葉を投げた。
「1年2人、立ち止まってないで行くぞ」

それに2人ははっとして再び足を進めた。

角を曲がって下駄箱に入ったところで、藤田が亮太に聞いた。
「溝口さん、今のって……?」
訝しげな藤田の表情を眼にした亮太は事も無げに言うのだ。
「邪魔したら野暮だろ」
「じゃ今のって」
驚いた表情になった藤田だ。それに薫は涼しげな表情で口にする。
「美音ちゃんは振っちゃうけどね〜」





 事の済んだ美音は1人でぽてぽて歩いていた。
その口からは溜め息が洩れていた。

 ……いかにもスポーツをしてますという爽やかさで優しそうな顔の人だった。
話し方も、こちらを気遣った言い方でなんだか好感の持てる人だった。

だから、美音は辛そうな表情で言うしか出来なかった。

 ごめん、ね。そいう事考えられなくて

嫌なもんだ、と思った。それを言われた方は尚更だが、言う方も嫌な物だ。

 結局、1人で帰る事になってしまった……、と思いながら、靴を履き替え歩いていると、校門の前に自転車を横にして立っている人影が見えた。

それに気付いた美音は小走りで校門に向かった。

 少し驚いた表情の美音に気付くと、野口はニコ。と笑顔を向けた。

「待っててくれたんだ。ありがとー」
美音も笑顔で言っていた。

 野口は自転車を引きながら歩いている。
「帰ろうかなとも思ったんですけど、怖い目にあったって言ってたし……、と思って」
「そーなのそーなの。怪しい人に追いかけられてねー」
「え?それで大丈夫だったんですか?」
「うん、フェイントで角曲がって全速力で学校戻ってね、同じ中学だった子に送ってもらった」
ははは、と笑いながら話していた。
「あー、春日さん美人さんだから大変ですね」
唐突に言われた台詞に、美音は頬を赤くした。
「えぇぇえ?世の中の美人が怒るよ」
「いえいえそんな事無いですって。1年の間でも有名ですよ」
野口はいつものまんまで口にしている。
赤くしたままの頬を両手で覆いながら、美音は恥ずかしそうに言う。
「ひゃあ〜、初めて言われたよ、そんな事。恥ずかし〜」
そんな様子が面白くて野口は小さく笑っていた。

生徒会で見る時の様子と違って、素朴な可愛らしさを感じた。
 普段はもっと厳しそうで一定以上近寄りがたい雰囲気を感じるのに。


 美音は野口に駅まで送ってもらうと、笑顔で御礼を言って別れた。

「うん、野口君はいい子だ」
新生徒会役員が良い子であって、美音は嬉しいと思いながら帰っていった。