時の雫・風に乗って君に届けば

§2 染み入る雫のように


Episode 4 /4




 ボーっとした状態のまま、美音は夕食を食べて入浴し、その状態のままその日は就寝した。


 朝、目覚ましが鳴るより早く美音は目を覚ましていた。
蒼ざめた表情で、ベッドの上に上半身を起こした状態のまま、呆然と固まっている。

「私、……私、何してんのー?!一体―……わー!」

今朝になってやっと頭が働き出し、状況を把握したのだ。
いつもとは大いに違う自分だった。
 普段の自分なら、弱い自分を曝け出したりしない。
異性に抱きついたりなどしない。
助けを求めたりしない。
しかも、家まで送ってもらっておいて、御礼も言えていないではないか。

 たまらず両手を顔に当てた。

一体、今日どんな顔をして会えば良いのか。

ただただ、恥ずかしさと己の愚かさに翻弄されていた……。


 そして隣の部屋の妹は、その姉の賑やかな声で朝を迎えていた。
「・・…朝っぱらからテンション高いなぁ…」

 そして、落ち着いていられなかった美音はいつもより早く家を出た。



 朝練を終えて、まだ生徒は疎らにしか見ない早めの時間に、圭史は教室に向かっていた。
今日の放課後は実行委員会がある。
生徒会は顔を出すのかな、と思っているうちに階段を上り終え、その階に出た。
圭史の在籍クラス4組、教室の前の通路を挟んで向かいの壁に、背を凭れて立っている女子が目に入った。
まだ早いこの時間に誰かを待っているようだった。
 ある程度距離が近づいたところで、その人物が美音だと言う事に気付いた。

 胸がドキッと声を上げた。

ぼんやりとしていた様子だったが、圭史に気が付くと、壁から背を離して立ちゆっくりと向かって来た。

 圭史の心臓はいつもより落ち着きが無かった。
そして彼女はもっと落ち着きが無かった。
ある程度近づいたところで、美音は足を止めると口を開く。

「あ、あの、昨日は、私おかしくてごめんね。その、行動とかで迷惑かけたんじゃないかと思って、……すんごい反省してて……」

「いや、別にそういうのは全然……」

必死に話している美音を見つめながら圭史は優しい表情を向けていた。
美音は圭史の顔をまともに見られず、それでもなんとか必死に話している。

「一緒に帰ってもらって、すごく助かったから。あの、最初一人で帰っていたんだけど、知らない人に後つけられていたみたいで、それで怖くて学校に戻ったんだけど……」

ピク、と圭史の手が反応を見せた。
やはり、よっぽどの事だった。
あの時間帯に居合わせる事が出来て良かったと思った。

「1人になったときは、いつでも言ってくれていいよ」
「うん、昨日は本当に怖かったの」

そう言うと、初めて顔を上げた。照れで赤く染まった頬。

「だから、本当にありがとう!」

ペコンとお辞儀をする格好でお礼を言うと、圭史の顔を見れずにそのまま口を開いた。

「あの、そ、それじゃ」

耳まで真っ赤に染めて彼女は自分のクラスへと小さい歩幅で走っていった。

 圭史は俯き加減で口元に軽く握った拳を当てていた。
そのにやけた口元を隠すように。


 教室に戻り席についていた。
まだ火照った顔に両手を当て、激情に流れまいと必死に耐えていた。

「あー……緊張した。自分で何を言ってんだか分からないくらい、緊張した」

まだ心臓がドキドキいっている。


しばらくして、それがようやく落ち着いてきた頃、薫がやって来た。

「おはよー」
「あ、おはよう。今日はどしたの?」

珍しく朝から自分の元に来た薫に美音は訊ねた。

「うん。生徒会長の話、今日までだったでしょ?昨日の呼び出しでどうなったのかなぁと思って」

「あ」

今思い出したかのように美音は口にした。
帰りから今の今までそれどころではなかったからだ。

「えー、と、実行委員会で投票してもらう事になったよ。今日の委員会で。
先生達いくら言っても納得してくれないんだもん。私じゃ無理だっていってんのに」
「なんで?」
「うーん、会長ってまとめ役でしょ。しかも色んな意見が出た中で全員が納得できるように、そして感情的にならず。
……仕事の事ではすぐかっかっする私ではしんどいと思うなぁ」
「そぉ?美音ちゃんはいつも冷静だよ?」
「そうでもないよー。あ、どっちかと言うと、薫ちゃんの方が向いてるかも」

ふと美音は今そう思った。
薫はにこりと微笑んで見せ、口を開いた。
「うん、もしかしたら溝口君よりも向いてるかもねー」
二人は笑いながら話していた。



 放課後、会議室。
実行委員がちらほら集まっていた。圭史は同じ2年の男子数名と固まって話をしていた。

「結局会長って誰がなんのー?」
「さぁ」
「昨日聞いたら春日は相変わらず会長になるのは拒否していたけど」

圭史はそう言った。
 それでは、結局決まっていないという事なのか。と、他の生徒は思った。

そこに3年の委員が会議室に入ってくるなり声を上げた。

「今日実行委員会で投票だって。会長は誰がいいかって」

それに2年の1人が声をかけた。

「別に誰でもいいんじゃないんですか?」
「さあー? でも会長になったら実行委員の学年担当は外れないといけないからなぁ。
立場が違うから。そうなると、仕事していても姿を見ることは殆どなくなるけどな」

 それを聞いて2年実行委員は、はっとした。
密かに2年実行委員は、学年担当である美音と顔を合わすのを楽しみにしていた。
仕事自体は大変な事が多いが、それでも美音が色々とフォローもしてくれるし、それに彼女の存在自体が周りに明るさを降り注いでいた。

だから、会長は春日でも良いと思っていた。
だが、今の話を聞いて、彼らは「やばかった」と思った。
しんどい仕事だらけの実行委員会に、唯一の「潤い」が無くなってしまっては、灰色の役員生活になってしまう。

「誰に入れよう…」

1人がそう呟くと、又1人が1年に聞いていた。

「誰にいれるー?」
「あ、はい、橋枝さんが入れてねーって言ってたんで、橋枝さんに入れると思います」

そこにいた殆どの委員の心の中で、薫の名が反芻された。

実行委員会の開始されたおよそ10分後に投票が行われた。
それは教師によって集計され結果が出ると、生徒会のメンバーは教員室に呼び出されていた。

「えー、溝口8人、春日3人、…橋枝12人で、橋枝が会長に選ばれました」

少し驚きを隠せないように、顧問は発表した。
美音も亮太も驚きを隠せない表情で、お互い顔を見合わせた。
 美音は正直殆ど諦めていた。それでも、少ない可能性で、亮太が選ばれるのでは…、とも思っていた。
亮太は、美音が選ばれるとほぼ確信していた。
2年実行委員に信頼されて好かれているのを知っていたし、1年の間でも良く思っている人がいるのも知っていた。3年の殆どは自分に投票するだろうと思っていたが、それでも、美音に投票する人はいるはずなので、自分に決まることは無い、と思っていた。
それでも、薫が1位に浮上することは予想外だった。


教員室を出て歩いていると、薫は笑顔で言った。

「休み時間に先生に会長になりますよって言ったんだけど、もう委員会で投票するからって言われてね。先生は美音ちゃんが選ばれると思ってたみたいで。だから1年の子に頼んでおいたんだー」

……1番やり手なのは、この人かもしれない。
他のメンバーは心の中でそう思った。

 そして次週に残りの役員選抜の生徒会選挙が行われ、見事に新メンバーが決定した。
そして、5月最終日、掲示板に張り出されている。

  生徒会長、橋枝 薫(2-2)
  副会長 、春日 美音(2-1)
  書 記 、野口 丈斗(1-6)
  書 記 、藤田 快(1-8)
  会 計 、溝口 亮太(2-3)


それを確認した圭史は、テニスコートのほうに足を向けた。
用具室からの帰り際に張り出されていることを思い出し、立ち寄ったのだ。

 1年全員は薫の名を記入した。3年の大半は亮太に入れたらしい。
亮太の仕事振りを信頼しての事だし、唯一の男子だからだ。
あと、自分たちの担当でなくても、美音の姿は傍で見たいということで選ばなかったみたいだ。
2年は、やっぱり美音の名を書いてしまったというのが何人かいた。


 −副会長、……はまり役だな−

 美音の願いが叶えられた事に、「良かったな」と思いつつ、圭史は練習に再び戻って行った。
きっと、仕事で忙しそうに動き回っている、楽しそうな美音の姿が、身近で見る毎日がこれからも続いていくのだろう。
 なんとなく、微笑を空に向けて、雲の流れに目を向けた。