時の雫・風に乗って君に届けば
§2 染み入る雫のように
Episode 3 /4
練習後に許可を貰ってした自己練習を終えて、圭史は今校門を出ようと歩いていた。
殆どの生徒は見かけない。それ程、遅い帰宅時間だった。
門衛もそろそろと校門を閉める準備をしている。守衛室の中を片付けて日誌を書いている様だった。
それから、前方に目を向けて、速い速度で向かってくる人影に気がついた。
その速度に感心しよく目を凝らし見て、圭史は思った。
−……? ん? あれはひょっとして−
校門を出たところで、その姿は1メートル手前にまで距離を縮めていた。
そして圭史の数歩前には、道路から歩道への区切りに段差があった。
美音は見事に足をそこに引っ掛けたのだった。
「あ!!」
危ない!と声を上げるよりも先に、圭史は腕を差し伸べていた。
「きゃああ!」
思い切りこけようとしていた美音をナイスキャッチでその腕に抱きとめた。
衝撃も抱きとめて、圭史は確かめるように腕の中に目を向けた。
状況を把握するのに数秒かかった美音。
肩で息をしながらも、手は圭史の腕を必死に掴んでいた。
明らかに様子のおかしい美音に、様子を伺うように名を口にしていた。
「春日?」
その状態のまま、必死に呼吸を整えている。
暫くすると、見た目にも荒い呼吸がマシになってきた。
なんとか声が出せる状態になったであろう美音は、圭史の腕をギュウウっと掴んだまま、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳を向けて、縋るように口にした。
「瀧野君、一緒にかえろ?」
その瞬間、心から噴出した何とも表現の出来ない感情が体中を駆け巡り、圭史は頭がくらくらして倒れるかと思った。今までに経験のした事の無い感情の波に飲まれこみそうになったが、寸でのところで何とか耐えきった。
今までの人生の中で、これほど耐えを見せたことはないというくらいのそれ。
−やばい、…やばい、今のはやばかった……−
心臓がバクバク言っている。
必死の思いで目を美音から外し、どうにか自分を取り戻して、恐る恐る声をかけた。
再び飲み込まれないように、と警戒して。
「うん…、じゃあ、」
そう言ってから圭史はゆっくりと足を進めた。
美音は圭史の腕を離さないまま、今までに無い近い距離で隣にいた。
ずっと、ぎゅううう、と圭史の腕を掴んだままだ。
圭史はどうしてもその痛みに堪えきれず洩らすように言った。
「春日…、痛い」
「あ、ごめん……」
力を入れすぎて半ば固まった状態の手を広げて、腕から離した。
−いや別に離さなくてもいいんだけど−
何ともいえない思いにかられていると、その美音の手が圭史の鞄の端を掴んでいる事に気付いた。
−……。ま、いいか−
駅に着くまでの間、美音はずっと体中に力を入れたままの状態と心痛な表情のままだった。
彼女が、他人にあんな表情を向け、こうも何かに警戒した様子を見せ、助けを求めている。
何かよっぽどの事があったのだろう、と思い、美音の事を気にしながらも、何も聞かずに歩いていた。
通学路に自分たち以外の人影は見当たらない。
それでも美音は固まった状態のまま、圭史に引っ付くように歩いている。
何事も無く、駅に到着し、改札口を通り駅構内に入ると、美音が一つほっと息を吐いたのに気付いた。
それでも美音は手を離さず圭史の横にいた。
駅に着いてホームに降りても、改札口を出て外に出ても、ずっと、ぎゅうううっと圭史の鞄を掴んだままだった。
−………−
圭史はいつも家へと向かう、真っ直ぐに行く筈の道筋の手前の角を曲がって歩いていた。
美音の表情を見ると、幾分落ち着きを取り戻しているように見える。
公園の前を通過しようという頃、圭史は足を止め、口を開いた。
「あ、ちょっと待ってて」
すぐ側にあった自動販売機に足を向け、小銭を投入してジュースを2つ選び、それを手に持って美音の所へ戻っていった。
「はい」
オレンジジュースを差し出し、受け取ったのを見て、圭史は公園の柵に寄りかかった。
そして、自分の分をあけてゆっくりと飲みだした。
「…ありがとう」
美音の、いつもよりか細い声に、圭史はただ微笑を浮かべた。
圭史の隣に並んで、美音もジュースに口をつけた。
ちょっと飲むつもりが、喉はすごい勢いで飲み干していく。
喉がカラカラに渇いていたことにも気が付いていなかった。
辺りは静かで、風が美音の髪を撫でていった。
隣にいる圭史も何も聞かず、静かにジュースを飲んでいる。
……それだけで、やっと、肩の力が抜けたように美音は感じた。
美音の横顔にそっと目を向けてみて、落ち着いたのだろう、という事が、圭史には分かった。
さっきの様子が気になってはいるが、それを訪ねる事は憚れた。
とりあえず、今一番の身近な内容を口にすることにした。
「……生徒会長、結構ハマリ役だと思うけど」
ちょっと間があった後、微かに顔を上げて気が付いたように口を開いた。
「あ、でも、もっと穏やかに人の話を聞けて、なんて言うか、いろんな意見を取り纏めていける人が向いてると、思うんだけど…。私がなったら、……私の性格だと、なんか意見の衝突が原因で不協和音が多くなりそうで」
「生徒会長って、もっと手が空いてそうに見えるのにな」
「会長は教師とか人を相手にする仕事が多いから…。結構私、食って掛かるところがあるから、そういう面で無理かな…」
「まぁ、周りが思うより、本人がしんどいと思う事って色々あるから…。
でも、周りは評価してるって事だから。春日の事」
そう圭史が言った後、美音は圭史に顔を上げてふんわり微笑んだ。
「……うん」
いつもと違ったその柔らかい表情が、圭史の心に降り注いでいった。それはまるで春の陽射しのように
圭史はジュースを飲み終えると、美音に笑顔で手を差し出した。
「空き缶入れに入れてくるから、飲み終えたんなら一緒に入れてくるよ」
「あ、ありがと」
圭史の言葉に、美音は素直に手にしていた缶を差し出していた。
美音を家まで送り届けると、圭史は言葉をかけた。
「じゃ、又明日学校で」
門扉を締めながら顔を向け、微かに微笑んで返事をした。
「うん」
そうして美音は家の中へと入って行った。
美音が家の中に入ったのを見届けてから、圭史は歩き出した。
黙々と家に向かって歩いている。
その距離があと半分というところで、圭史はぼそっと呟いた。
「俺、家に着いたら、倒れそう…」
勿論、理由は体の疲労ではない。
胸の鼓動がいつもと違う事を圭史は分かっている。
切ないような、それでも嬉しいような胸の高鳴りが、圭史の平常心を掻き消そうとしていたからだ。
期待してはいけない、日常の中の非日常的な出来事……なのだから。
圭史は家までひたすらに歩いていた。