時の雫-風に乗って君に届けば
§12 光が満ちるトキ
Episode 5 /12
どうにか気持ちが落ち着いた頃、圭史はゆっくりと立ち上がると小さく息を吐いた後、来た道を戻っていった。講堂に向かう中、学校の中は不気味なくらい静かだった。
― ……あ、遅れて入ったら注目の的だな。……うーん ―
講堂の近づいた所で圭史はそんな事を考えていた。
諦めて中に入るか、いっその事サボってしまおうか。そんな事を思った時、静かな廊下では十分に聞こえる小声が飛んできた。
「瀧野さん」
それに顔を向けると、講堂壇上からの裏口からそっと顔を出している丈斗だった。
「春日間に合った?」
「はい、どうにか。瀧野さんこっち」
来い来いと手を振る丈斗のそれに素直に従ってその中に静かに入った。
扉を閉め終えてから、丈斗は小声で話す。
「終わるまでここにいて下さい。春日さんが、遅れて入るよりって」
「サンキュ。助かった」
圭史のそれを聞くと、丈斗は笑顔を向けてから壇上脇で進行の様子を窺っている亮太の所へ行き何かを耳打ちしている。
すると、亮太はその場を離れて圭史の横にやって来た。
「瀧野、どうもな。何はともあれ間に合った」
「いや、結局俺は何も」
「でも、途中で会えたんだろ?」
「ん?うん」
「それだけでも大きな違いだよ」
ため息混じりに言った亮太の言葉に、圭史は疑問符を浮かべたが口にはしなかった。
講堂の中は、美音の凛とした声が響いている。
途中でとある体育部が難儀な質問をしてきても、美音は少しもうろたえる事無く反論する隙を与えない返答と迫力で返していた。
「この分だと予定の時間より早く終わるな」
それは亮太の呟きだった。
美音の進行はスムーズに最後を向かえ、後は終わりの挨拶をするだけとなった。
だが、美音の口からはそれが発せられず、壇上脇にいる生徒会役員は微かに顔色を変えていた。
「美音ちゃんどうしたの?」
「いや、わからん。挨拶忘れてるのか?」
「……あの顔は、違う?」
壇上脇にいる薫と亮太の会話だった。二人の目は美音に注がれている。
それを知ってか知らずか、前方を見据えていたその目を伏せるとスカートのポケットの中から何かを取り出した。
「拾得物の連絡です。先程の休憩時間、ここへ向かう途中教材室の出入り口付近に生徒手帳が落ちていました。心当たりのある方、いらっしゃいますか?」
ざわついたものの、誰も反応を示さなかった。それを見回して確認した美音は、表情を変えぬまま声を放つ。
「では、ここで失礼させていただきます」
そう言ってから生徒手帳の後ろのページ、身分証明書を開き名前を確認する。
「2年5組田原さん。いらっしゃいますか」
生徒の間で、一部分がざわついていた。
壇上の美音は、一点先を見つめている。まるで分かっているかのように。
名前を呼ばれた時点で、その持ち主ははっとした様子で胸ポケットに手を当てた。
いつもそこに入っている筈の手帳はなくポケットの中は空だった。彼女は蒼ざめたままその場から一歩たりとも動けなかった。
美音はすっと目を細め手にしたその手帳を閉じると変わらぬ声で言った。
「いらっしゃらないみたいですね。では、これをもちまして本年度総会を終了します。各担当の方お疲れ様でした。通路側のクラスから順番に退場をお願いします」
一礼をし、美音は壇上脇へと姿を移した。
重々しい空気が一転し、講堂は生徒たちの声で賑やかになっていた。
いつもと違う顔をしている生徒会役員の顔を目にしていても、美音は表情を変えず笑みを浮かべたまま言う。
「お疲れー。無事終了しました。次は卒業式当日、来賓の受付案内の仕事です」
「……おー、おつかれさん」
美音の顔を見て、亮太は半ば諦めたようにそう言った。
美音はそのまま奥へと進み、圭史の前で足を止めた。
ファイルとノートを腕に抱えた左手で先程の生徒手帳を持っている。
「心配おかけしました。無事終わりました」
向けられた美音の笑顔と台詞だった。
圭史は言葉にならない思いをその胸に感じながら、どうにか言葉を紡いだ。
「お疲れ様。見事でした」
それに美音はにこりと笑顔を浮かべた。
それを目にし、その後で手に持った生徒手帳に目線を移すと美音が抵抗を見せる間もなくそれを手に取った。
驚いた顔を見せる美音に、圭史は先に口を開く。
「これ、俺から返しとくよ」
「あ……」
美音がそう口にした時には、圭史はもう背中を見せていた。数歩歩いた所で足を止め振り返り笑顔と共に言う。
「あ、じゃあ、またお昼にね」
「あ、うん」
いつもと変わらない笑顔を目にして、圭史はようやっと安心した思いで教室へと向かっていった。
自分の教室に戻る前に圭史は5組へと向かった。そして、適当に人を捕まえ、田原を呼んでもらうよう頼んだ。
廊下の壁に背をもたれ腕を組み、足首を交差させるようにして待つ圭史の所へ、青い顔をした女生徒が恐る恐るといった様子でやって来た。
見覚えのあるその顔に圭史はただ冷たい眼差しを向けた。
「5組の、田原?」
不機嫌そうなその声にその田原は尚顔を青くしてうろたえた様子で口を開いた。
「あの、偶然ぶつかって、別に最初から閉じ込めるつもりはなくて、その、鍵閉まっちゃたし、でも、時間がなくて、その」
「へぇ、そうだったんだ。俺は何があったとか何も聞いてなかったから知らなかったんだけど、随分だな。……それは全部、俺が気に入らなくてしてる事、だよな」
最後の台詞は有無を言わさない圧迫感があった。
彼女に言葉を発する事はできなかった。
手にしていた生徒手帳を差し出し、それを彼女がおず…、としながらも受け取った所で圭史はボソッと言った。
「それ以外の理由だったら女でも許さないから」
そして、二度と顔を向ける事無く圭史は教室へと向かった。
残されたのは顔面蒼白の田原一人だった。
終礼が終わり、圭史は廊下で美音を待って一緒に食堂に行った。
一緒にいる間、美音はいつもと変わらない様子でお喋りをしていた。
圭史もそれを嬉しく思いながら話を聞いていたり、話題を振ったりしていた。
総会が始まる前の事などに触れてはいけないようなそんな空気が圭史には感じてならなかった。
体育の補講の開始時間10分前になると、美音は笑顔で別れて向かっていった。
一人になった圭史は、急とも感じる静けさに目を伏せ、何かを思う。
「…………」
ため息混じりに足を一歩踏み出し図書室へと向かった。
そこもまた静かだった。
一番奥の列へと行き、窓側の外が眺められる席に腰を下ろすと鞄の中から勉強道具を広げ始めた。それでも、すぐに取り掛かる気にはなれず、ぼんやりと空を眺めた圭史。
その瞳は遠い何処かを見つめているようでもあった。
それからどれだけの時間が流れただろうか。まだぼーっとしている時、耳に聞こえてきた声で我に返った。
「あ、こんなところにいた」
その声に圭史は興味無さそうに顔を向ける。
微笑を浮かべながら見下ろす峯に、軽く息を吐くと背もたれにもたれると面倒だとも言うように声を放つ。
「なんだよ、いちゃ悪いかよ」
「いや、別に。その不機嫌さは春日さんから話を聞いて?」
楽しそうに言った峯の言葉に、圭史は何故峯が知っているのかと顔を向けた。
圭史は美音から直接話を聞いた訳じゃない。大体の予想をつけているだけだった。
美音が壇上で拾得物の連絡をした時、圭史は見える位置にそっと移動していた。
あの珍しく好戦的な表情が全てを物語っていると、圭史は感じたのだから。
「3時間目からずっとその教材室でサボって寝てたんだ」
「……」
何かを口にするより、圭史はぎろりと視線を向けた。
この男は鍵が閉まったその部屋で美音と二人きりだったと言いたいのだ。
「それで?」
思ったよりもぶっきら棒な言い方で圭史は口にした。
「ふ。……気にならないの?」
「総会が始まるまでに春日は講堂に入った。それがなんだ?」
「で、何もなかったと思う?僕が何も手を出さなかったと?」
何処か挑戦的な笑みを向けてくる峯に、圭史は感情がいらっと沸き立つのを感じた。
― こいつ……! ―
思わず体は勢い良く立ち上がろうとしていた。気付かないうちに力を入れていた拳だった。
だが、不意に美音の顔が浮かんだ。
あの、廊下で会えた途端、腕に手を伸ばしてきた時の晴れやかな笑顔。
それが圭史には真実だった。
嘘のように体から力が抜け、幾分落ち着いた様子で声を放つ。
「お前みたいな奴が、彼女に手を出せるのか?他の子と違う彼女に」
それには「おや?」という顔をしたが、峯はすぐ笑顔になり言った。
「……あの子、ほんとに違うよね」
圭史はそれにちろりと視線を向けただけだった。
「もっとフツーの優等生かとも思ってたんだけど、彼女の行動は予想外だったよ」
圭史は何も言わずただ目を向けた。
「総会が終わった頃に窓を外して出してあげるよって言ったら、机や椅子を積み上げて高さ作ってさ、一番上の開いている窓から飛び降りて行ったよ。フツー他の子だったら飛び降りる事はできないよね」
そう話す峯の身振りが本当の一番上の窓だったと言っている。
圭史はそれ聞いて内心言葉を失っていた。……だが、それを信じられる自分もいる。
「なんかおかしくてさ、一人になってからちょっと笑っちゃったけど。時間がないからって本当に一人でどうにかするんだもん。すごいよね。
……春日さんも、瀧野が優しいって言うからさ、男だったら好きな子には優しくする。下心があるからって教えたんだ。普段言うほど優しい奴じゃない、すました奴だって」
決して好意的ではないその言い方に、キツイ眼差しを無言で向けた。
だが、峯がそれ以上話そうとしないのを見て、低い声で訊いた圭史。
「それでなんて?」
それには「ふっ」と笑みを溢すと参ったとでも言うように峯は肩を竦めて言う。
「はっきり言われたよ。最初から優しかったって。5年前から。優しさはさりげないものだからそれに気付かない人がいるだけなんだって」
「……」
本人の口から聞いた訳じゃない。それは峯の言った言葉だった。
だが、圭史の心にそれは新緑の風となって広がっていった。今まであった重々しいものが一掃されたような清々しい気分になった。
「最初から知ってたって、春日さんは言ってたよ。……最初って、いつさ?」
そう言った峯の目は真偽を確かめるような強い意志を燈っていた。
「それは多分、中1か中2くらい……」
「ふぅん。……フツーの優等生に憧れているのかと思ってたんだ。だから、それで瀧野は春日さんに固執してるのかと思った」
「そんなんじゃない。俺は最初から……」
最初から。そう、それは中学の時から。もうその頃から気持ちはあった。
認める、認めないの、まだそんな状態の気持ちだったけど。
そう心で思った次の瞬間、峯の顔から笑顔が消えている事に気付いた。
その初めて見るであろう表情に圭史は動きを止めていた。
「最初? 最初っていつからさ。瀧野が春日さんを好きだって言う最初は」
峯にしてはムキになっている様子に、心の中で生じた違和感に圭史は気づいていた。
何も答えないでいると峯が言葉を紡ぐ。
「2年になってからか?それとももっと前からか? 瀧野も中学の時が最初って言うの?」
それに峯が執拗に尋ねてくる理由が分からなかった。
全く分からないのに、突然頭に浮かんだワンシーンにはっと息を呑んだ。
「もし、そうだったら、なんではじめから春日さんの所に向けなかった?」
峯のその言葉が、今から1年ほど前の光景と共に圭史の心を突き刺す。
「なんか、一緒にいても、私の事見ていてくれる気がしなくて……。それで今、他に……」
彼女が目を潤ませて言ったその台詞に、内心どきりとしながら、それでも平生を保って言葉を放った。
「うん、もっと大切にしてくれる人が現れたんなら、そっち選びなよ。ごめんね」
それは、もしかしたら残酷な台詞だったかもしれない。
……今にも泣き出しそうな目を下に向け、ぽつりと呟いた彼女の言葉。
「…………ずるい……」
それは心にちくりと刺さったままだった。
― ……まさか ―
他に誰と付き合うとかいう事を聞きはしなかった。
その後、誰と一緒にいるとか誰かが話していたような気もする。だけど、圭史はそれを全く聞く気にはなれなかったから……。
それからどうなったという話も聞いた覚えがない。
だけど、その相手が峯だということあるだろうか?
そんな事を頭の中で思う。
嫌な予感がする心の中で、それは当たりだといっている自分もいる。
「瀧野の事を優しい人だと言う度に哀しそうな顔をする3年の女の人って言ったら、誰だかわかるか?」
「……一人だけ、思い当たる人がいる」
圭史の静かに放たれたその台詞に峯はふっと笑みを溢し言う。
「どれだけ先輩が瀧野に視線を送っていても、いつも瀧野は知らん顔で表情一つ崩れる事がなくて。どんな奴だったの?って訊くと決まって言うんだ。優しい人って。それを訊く度にそんな訳ある訳がないって思ってたよ」
「……それをずっと覚えていて、今頃に、か?」
それを訊いても圭史の、峯を睨み付ける目は変わらなかった。
「ふ。瀧野の、春日さんとの噂を聞いても信じてなかったんだ。気にもしてなかった。どちらにも興味はなかったから。別に今だって、二人が付き合おうが僕にとってはどうでもいい」
「じゃあどうして春日にちょっかい出した?」
「春日さんには変な所見られちゃったみたいだったから。それだけだったよ。……それまでは顔色一つ変えなかった瀧野が、面白い位に右往左往するのが見ていて楽しかったからね。ちょっとした嫌がらせだよ。春日さんも反応が面白くてね」
「……」
圭史の目は真っ直ぐに峯に向けられている。それでも峯はたじろぐ事無く言葉を続ける。
「はは。でも春日さんって聡いよね。今日見事に言い当てられたよ。瀧野が彼女を選ぶのが分かった。僕は、手に余る彼女はごめんだけど」
峯に腹を立てる自分を心の中にひしひしと感じる。だけど、それは元は自分の、身から出たさびなのだから、言葉を投げる気にはならなかった。
ただ、形容しがたい気持ちが胸を衝いていて、本当は、出来る事なら目を逸らしてしまいたかった。
「……俺の事、殴っとくか?」
圭史のその台詞に峯は微かに目を大きくした。だが、すぐいつもの表情を浮かべ言う。
「殴らないよ。スッとした気持ちに瀧野をさせたくないから。それに結果的に十分報復は受けてるだろ。瀧野の彼女は同性から風当たり強いみたいだし」
その最後の台詞に、圭史はぐっと口を噤んだ。
「けど、彼女の方は全然意に介さずって様子だけど。それくらいじゃ気にもならないみたいだね。あの子を好き好んで敵に回す子の考えなさには気の毒さを感じてしまうけど。
……せいぜい、頑張りなよ。俺の言いたい事はそれだけ。じゃあね」
峯はそう言うと図書室の出入り口に体を向け歩き出した。
そして、数メートル進んだところで振り返り言う。
「誤解のないように言っておくけど、先輩は僕のいとこ殿だから」
「……」
「あとさ、本気って、他と何が違う?普通に好きって言うのと、本気で好きっていうのと」
「……俺は、他の奴には渡したくないって思うけど」
「ふぅん。じゃ、僕には分かんないな」
笑みと共にそう言って峯は背中を向け図書室を出て行った。
一人になった圭史はため息をつくと自分の身を背もたれに任せた。
そして、髪の毛をくしゃっと掴むと、そのまま動かずに暫くいた。
色々な思いが心の中を交錯する。後悔に似た念と諦めにも似たような思い。そして、美音への謝罪にも似た気持ちや切なくてつらい思い。
今は何も言葉が浮かばなかった。
ふと、圭史は引き寄せられるように窓の外に顔を向けた。
いつの間にやら体育の補講は始まっていて、生徒何名かが校庭を走っている。
その目は校庭を追ったまま椅子から立ち上がり場所を移動すると、椅子に寄りかかりながらその景色を見つめる。
すぐに美音の姿を見つけてそのまま圭史は見つめ続けた。
……あの頃だって、グランドを走っている美音を練習の合間に盗み見していた。
無意識に目は勝手に探していて、誰にも見られていない事を祈りながら姿を見つけてはすぐ顔を戻していた。ただ、ちょっと辺りを見回しただけだと言わんばかりに。
そして、時折テニスコートを眺めている彼女を見つけては痛む胸に圭史は一人苦しみを感じながらも知らないフリをしていた。
「本当は、あの頃からずっと、……好きだったよ」
ぽつり、と呟くように言った台詞。聞かせる相手はすぐ傍にはいないのに。
もう、今日はこのまま帰ってしまおうか。
そんな事を自虐的に思い圭史は目を伏せた。
美音は、もう帰っていると思っているだろう。待っているとは一言も告げていなかったから。ただ、「じゃあ」と別れただけだったから。
一人で勝手に待っているだけだから。
だから、彼女が何かを思う事はないはずだから。
……このまま待っていて、自分はいつものように美音の顔を見て、いつものように笑顔で話せるだろうか。
もし、できなかったら?
出来る自信はない。
圭史の中に諦めにも似た気持ちで、じゃあ帰ろうか、と考えが浮かぶ。
すぐに彼女との間に埋められない距離が出来るのを感じた。
圭史の手に力が入る。
もう、彼女が傍にいないことなんて考えられない。
また遠くで見つめるだけなんて耐えられっこない。
ぐっと何かを飲み込むように力を込めて校庭に目を向けた。
彼女は走り終えたようで呼吸を整えるためにいまだ暫く歩いているようだった。
「…………」
手放せない自分を確認して、圭史はゆっくりと深呼吸をすると荷物は置いたまま図書室を出て行った。
校庭に出ると端の方で腰を下ろし休んでいる美音の姿をすぐ見つけた。
圭史は黙ったまま隣に行くと、横に腰を下ろしてから自分に顔を向けた美音に、途中自販機に寄って買ったスポーツ飲料を差し出した。
「あ、ありがとう」
驚いた顔で笑顔を浮かべながら、美音はそれを受け取った。
プルトックをあけようと指をかけるのに滑るだけなのを見て、圭史は小さく言った。
「貸して」
素直に差し出されたそれを簡単に開けて返すと、美音は笑顔を向けてからそれに口をつけ、こくこくと飲んでいく。
「おいしー」
口を離し満足した笑顔で言った美音に、圭史は表情を緩めた。
美音ははっと表情を変え、圭史に顔を向けると言葉を紡ぐ。
「今まで待っててくれたの?寒い中?」
「図書室で勉強してた。最初から、終わるまでいるつもりだったから」
「え、……」
そう口にした美音。
そんな美音の顔を見て、圭史の中に様々な思いが交錯する。情けないくらい気持ちが昂ぶりそうなのを感じて必死に抑え言葉を紡いだ。
「……ごめん」
美音が言葉を紡ぐ前に、圭史は口を開きながらその場を立った。
「図書室に、いるから」
笑顔を向けたつもりだった。
だけど、やけに重い心を感じている自分だったから、それ以上顔を向けることは出来ずにそのまま図書室へと戻って行った。
何か考えたくない事がある時は、自然と勉強ははかどった。
静かな図書室で圭史は黙々とシャープペンを動かしている。
出入り口近くのテーブルに本を眺めている数名の生徒がいるだけで、何も他に気になることはなかった。
図書室の扉が開く音がして、圭史は手を止め足音のする方に顔を向けた。
走り終えて久々にすっきりした顔をしながらやって来た美音だった。
美音は笑顔で圭史の隣に荷物を置くと控えめの声で言った。
「読みたい本が返却されてあるかどうか見てくるね」
「うん」
圭史が返事をしたのを聞いて、美音は急ぎ足で本棚の奥の方へと向かっていた。
その視界の向こう側で、本を読んでいたはずの生徒が少し驚いた表情でこちらに眼を向けていた。このカップリングに驚いているようだった。
圭史は内心不機嫌な思いを抱きながら顔をノートに伏せた。
荒くれた感情に全てを覆われそうになったところで美音の存在が心に浮かんだ。
「…………」
シャープペンを挟んでノートを閉じると静かにその場を立ち、本棚の方へと歩いていく。
奥の方へと行くと、本棚に向かって1冊の本を開いている美音がいた。
その後ろ姿は今までに圭史の目に焼き付いているのとなんら変わらないものだった。
胸の中に、鷲掴みにされるほどの淋しさに似た切ない気持ちが溢れ出て、堪らなくなった。
圭史はそのまま後ろから包み込むように抱きしめた。片腕でも十分にはまってしまう彼女の細い腰に、両腕を巻きつけて。
「た、た、た、瀧野くん?」
突然の行動にうろたえまくっている美音の声だった。
でも圭史にはそれが現実なのだと教えてくれているような気がして温かい気持ちになった。
オレンジのコロンの香りに混じった汗の匂いが頭を痺れさせていく。
それよりも、彼女の温もりが圭史の心を生き返らせていくようでもあった。
「あ、あの……」
「もう暫くだけ、このままで……」
何かに縋るような圭史の声音だった。
一瞬美音は躊躇うように息を呑んだが、本棚の隙間にすっと本を置くとそろりと圭史に体を向けた。
それに気付いた圭史は腕を少し緩め振り向いた彼女の肩にそっと頭を置いた。
「瀧野くん?」
「……ん」
「あの、……大丈夫だよ?」
様子を窺う様な美音の声に、圭史はふ…、と笑みを浮かべて口を開く。
「そう言えば、聞いたよ?脱出するのに凄い所から飛び降りたって」
「え、……あ、もしかして聞いた相手って……」
「うん、……峯」
「むー。私あの人嫌い」
美音のその言葉に圭史は頭を上げ、むすっとした美音の顔を見て笑みを溢し、頭を撫でた。
なのに、美音は不安そうな表情で圭史を見上げていた。
「……」
言葉に困り目線を伏せた圭史だったのに、美音はそのまま背伸びをして圭史の頬にそっとキスをした。
「……あ」
つい、といった感じで美音は思わずそう口に出した。
圭史は突然のそれに驚いて目を大きくし、思わず美音を見る。
忽ち耳まで顔を真っ赤にさせていく美音に、同じようにキスを頬に落としその胸の中に閉じ込めるように抱きしめた。
その彼女の温かさに圭史は埋もれていくような心地よい温もりを感じた。
「……このまま、お持ち帰りしようかな……」
「……!」
ポツリと呟いた台詞を聞いて体を固まらせた美音に、圭史は苦笑にも似た笑みを溢し言う。
「……冗談、という事にしとくよ」
今はまだ。そんな言葉を心の中だけで呟いて圭史はそっと美音の頭を優しく撫でた。
「最初から優しかったって。5年前から。優しさはさりげないものだからそれに気付かない人がいるだけなんだって」
頭の中に浮かんだ、峯から告げられた美音の言葉が、圭史を穏やかにさせていた。
美音の温もりが圭史の心を包み込んでいた。
だから圭史は耐えられる。自分が冒した所行の結果にも。
2005.8.26