時の雫-風に乗って君に届けば

§12 光が満ちるトキ


Episode 3 /12




 テスト前で部活動は停止になっている今週、昼休みに圭史は谷折と廊下にいた。
練習はないのだから別に一緒にいる必要はないのに、それに気付いたのは廊下に出て谷折の顔を見てからだった。
二人ともがそうする事にもうすっかり習慣になっていた。
「なー、次の英語訳当たるんだよー、教えてくれー」
教科書を開き持って懇願する谷折。
圭史はため息混じりに教科書を手に持つと英文に目を向けた。
「そー言えば瀧野君」
にやけた顔で意味ありげにそう言った谷折。
「……あ?」
いつもと違う呼び方に圭史は眉をしかめた。
「俺に何か報告する事あるんじゃない?」
「……なんかあったか?」
目は教科書に向けたまま、圭史は素知らぬ顔で言った。
「まーたまた。照れ屋さんねー瀧野君」
にやにや笑いながら肩に肘をかけてくる谷折に、教科書で顔を隠すように覆ってから、また静かにそーっと離して谷折に目を向けた。
「……お前、その様子じゃもう知ってんだろ」
「へっへっへー、あったりー。瀧野君たら水臭いわー、ちーっとも言ってくれないんだもーん」
「その話し方気持ち悪いって。別に報告するようなもんでもないだろ」
「まー、色々と親身になってきたというのに、つれない言葉ねー」
「……。へいへい」
「言い出すのが照れくさかっただけなんだろー?」
「はいはい、そーですよ」
「なに? その投げやりな言い方」
「……ったく、うるせーやつだなー、お前は」
そう言うなり谷折の頭をガシッと掴んでぐりぐりとコブシを当ててやった圭史だった。



「失礼しました」
教師との面談を終え教員室を出た美音は、扉に背を向けた所で峯に気づいた。
壁にもたれて足を軽く交差させているその姿は、誰かを待っている様子に見えて、美音は気付いた素振りを見せずにその場から歩き出した。
 それでも、胸は嫌な音を響かせていた。
美音は峯と顔を合わせると、反応に困っていた。妙に身構えてしまう自分にも気付いていて、出来る事ならあまり会いたくないとさえ思っているのだ。
「春日さん」
なのに、彼は悠然と美音を呼んだ。
「……はい」
気持ちを整えるように、ゆっくりと足を止めて美音は返事をした。
顔を向ければ、微笑を浮かべた顔で峯はそこにいた。
「あれから、どう?」
その質問の真意が汲み取れず、美音は訝しげに言う。
「……何が?」
それに峯はにこりと微笑んで口を開く。
「ちょっとは僕の事、思い出してくれた?」
「……毎日、忙しいから」
「生徒会だもんね。大変だね」
峯は変わらず笑顔でそう言った。美音は困惑を隠しきれない目で口にする。
「好きでやっている事だから、別に」
美音のその言葉に、峯はくしゃりと笑みを浮かべ独特の雰囲気を纏ったまま言う。
「春日さんって、普通の子とはちょっと違うよね」
それに怪訝な表情をする美音に、峯は笑顔を保ったまま言葉を続ける。
「だから、興味引かれるんだよね。今度、僕とさ」
まだ続く言葉を遮るように美音は早口に言った。
「そんな話だったら、もう行くから」
踵を返し背中を向けて立ち去ろうと動いた美音を、峯は顔色一つ変えずに手首を掴んだ。
その瞬間、美音の背筋には恐ろしく重くて寒いものが走っていき、目に映るものが色をなくした様に見えた。自分の理性とは別に体は強張っていく。
峯に目を向けることさえ恐ろしい事のように感じて美音は動きを失った。
その間に峯が言った言葉さえ耳に届いてこない。
「瀧野だってさ、おんなじだと思うよ。思ってる事だってスル事だって」
出された名前に、美音は金縛りから解けたように体が熱くなるのを感じ力任せに掴まれていた腕を振り払い吐き捨てるように言った。
「だから何よ!」
峯の顔を見ることなくその場を小走りに立ち去って行った。
 少し痛みの残った手を片方の手で支えながら、意外そうな顔を浮かべていた峯は、美音の姿が小さくなっていくのを見て一人微笑を溢した。


 美音は混濁とした思いが体中を駆け巡っているのを感じながら教室に向かっていた。
掴まれていた手の方をぎゅうと握り締めながら心の中に渦巻いているある種の恐怖と説明できない憤りが美音の足を動かしているようだった。
 どんなに手に力を入れても、憤りに心をいっぱいにしても、掴まれた感触は一向に消える気配がなかった。それどころか、強くなっていくような気さえする。

 ― なんなの?!あの人! ―

 夢中で廊下を突き進み、そして階段を駆け上り向かうべく教室がある階に出た。
そこでやっと安心して足を止め、動悸でうるさい心臓を落ち着かすように息を吐くとゆっくりと歩き出した。
 力の入らない体を感じながら教室へと進む美音に声が飛んできた。
「春日」

聞きなれた声に顔を上げた美音は真っ直ぐと圭史の所へ足を向けた。
「今日も図書室行ってたの?」
いつもと変わらない様子で谷折は訊ねた。
「あ、今日は教員室に」
美音がそう答えると、谷折は教科書を丸く握り締めて訴えるような眼差しを真っ直ぐに向けている。その様子に耐えられずに美音は口にする。
「ど、どうしたの?」
「お願いします!英語の訳、教えてください!」
「い、いーけど」
差し出された教科書を受け取って目を通すと胸ポケットからシャープペンを手に取りさらさらと書き込んでいく美音に二人は感心の息を漏らした。
「はい」
できたそれを受け取って谷折は低頭にお礼を言うと教科書を見始める。
 横で美音を見つめていた圭史はそこで言葉をかける。
「なんか顔色悪いみたいだけど、……?」
それに美音は顔を伏せて頼りない声で言った。
「え?あ、ううん、大丈夫……」
その様子に圭史はいささか疑問を抱いたのだが、谷折が声をかけてきたので注意はそれる形になった。
「そう言えば、この間のさ……」
 美音は圭史の気がそれたのを見て、まだ違和感の残っている左腕の袖を捲って見た。
見るからに赤くなっているそれに、はっと小さく息を呑んだ後、その時の感触を思い出して体中に嫌悪感が走った。それと同時に意味のわからない憤りが沸いてくる。
その時、横にいる圭史から声が飛んできた。
「どうしたの、それ」
それにびくん、と反応を見せた美音を頭の隅で疑問に思いながらも、圭史は擦るように手を伸ばしていた。
「あ、ちょっと、ぶつけて」
どぎまぎした様子で笑顔を浮かべる美音に、心配そうな顔を向けた圭史。
美音は心許無く言葉を紡ぐ。
「だ、大丈夫だよ。大した事、ないから……」
安心させようと言っている言葉が、圭史にはやけに不安そうに感じて気になっていた。





 放課後、掃除当番を終えて軽い足取りで図書室に向かっていた。
気持ちを抑えているつもりでも、体は不思議と身軽に感じていて自分がどれだけ浮かれているのかを知る。
大きい廊下を抜けた所で、その足は不意に止まった。
「……」
圭史の目は前方に向けられたままの状態で動きが止まっている。
その向けられた視線の先には、図書室に向かっていたであろう美音を呼び止めた峯の姿があった。
峯のかけられた言葉に、美音は目もくれず一言言っただけだ。
「さようなら。」
峯の返事を待つことなく美音は図書室に向いてさっさと歩いていく。
残された峯は困った微笑を浮かべて肩を竦めただけだった。
 それを見てから、圭史は何もなかった様子で歩き出す。
それらなどまるで最初からなかったかのように。
「よ、瀧野」
すれ違う手前で足を止めて峯はそう声をかけてきた。
圭史は足を止めて表情なく顔を向けると挨拶を返す。
「よ。」
それでも峯は楽しかった事があったような表情で言う。
「今、春日さんに会ったよ」
「うん、それで?」
峯のその言葉に心の中は冷ややかな気持ちになり圭史はそう冷たく言い放っていた。
峯はそれに構うことなく言う。
「あの子、かわいいよね」
その台詞に圭史は自分の中に炎のようなものが湧き上がったのを感じた。それを無理矢理押さえ込みながら峯に目を向ける。
「……先月の部活のない放課後に、俺が言った事、覚えてるか?」
「……覚えてるよ」
苦笑交じりに峯はそう答えた。
「だったらいいんだけど」
見据えるように言った圭史の言葉に、峯はそれまであった微笑を消し注視した。
「じゃあな」
強い口調でそう言うと、圭史は歩き出していく。
そして、1、2メートル進んだ所で足を止め顔だけを振り向かせて言葉を放った。
「あのコを他の女と同じだと思ってんなよ」
峯の返事を待つことなく圭史はその場を去っていった。

 残された峯は、少し意外そうな表情を浮かべながら圭史の後ろ姿を眺めていた。
「ふぅん。……思ってはいないんだけど、ね」
誰にも聞かれることなく呟かれた言葉だった。

2005.8.12