時の雫-風に乗って君に届けば
§12 光が満ちるトキ
Episode 2 /12
それはいつもと変わらない金曜日の練習中。
「あ、届けだすの忘れてるわ」
「は?お前今何時だと思ってる?」
思い出して声を上げた谷折の言葉に、圭史は眉を顰めてそう言っていた。
「あー、今日居残るって亮太が言ってたから、まだいるんじゃないかなぁ」
「ふーん。で、届けは部室に置きっ放しか?」
「そうそう。なのでヨロシク」
「……お前なぁ」
「あ、別にゆっくりでいいよ。もう少しで休憩するから。あと春日さんにもよろしく〜」
「……」
にへら、と意味ありげな笑みを浮かべて手を振る谷折に、ちろりと何か言いたげな視線を向けてから圭史は歩き出し、手をひらひらと振ってコートを後にした。
明日明後日の土日は、午後は練習で潰れる。
美音の方はバイトだといっていた。
月曜日になれば、期末テスト1週間前で部活動は停止になる。遊んだりする暇はなくなるが、一緒に登下校が出来るようになる。
その間に、総会や卒業式などがあって、雑用に追われる事もあるだろうが。
― あーあ、部活、やめようかな…… ―
言うほど一緒にいられない現状にため息を吐いて、圭史はそんな事を思っていた。
部室に寄り届けを手に取ると、そこから下駄箱に向かい生徒会室へと行く。
扉の前に立った時から、中にいる美音の声が聞こえてきていた。
「将来有望?」
「まぁ男前だな」
美音の言葉に答えたのは亮太。それに美音は喜んで言う。
「えー顔見てみたい。写真とかないのー?」
「……」
圭史は静かに扉を開けて中に入り、少々意地悪な気持ちになりながら、上から届けの用紙をひらりと美音の視界を遮るようにして真正面に広げた。
それに不思議そうな表情をしながら手に受け取ると、そのまま顔を上に向けて圭史だと分かった美音は「あ、……」という表情になった。
「遅くなりましたけど、今日の届けデス」
「あ、はい」
そんな二人の様子を、亮太は片眉を上げて眺めていた。
「ちなみに休日のって出てる?」
「え?出てないよ。練習あるの?」
「うん。……今日のも忘れてたくらいだから、完璧忘れてるなアイツ」
「……じゃあ、ここで書いてく?用紙置いてあるから」
「うん、用紙下さい」
今日は自分の席の隣に座っていた美音は席を立つと棚の中にある書類ケースから用紙を取り出し自分の机の前に立った。
手にしていたそれを机に置き、引き出しを開けてボールペンを取り出したのを見て、圭史はその机の端に立った。
「あ、ここ使ってくれていいよ」
「うん、ありがと」
その言葉に素直に頷いて、いつもは美音が座っている席に圭史は座った。
美音は棚に戻りケースの中を確認している。
「あ、やっぱり用紙あとチョットしかないわ」
美音のその言葉を聞いて亮太がすぐに言う。
「ああ、じゃあ俺がコピー行ってくる。原紙頂戴」
「あ、はい」
差し出されたそれを手に取ると「はいよ」と一言口にして生徒会室を出て行った。
急に静かになった空間に美音は戸惑いを見せ、おず…、と圭史の隣でもある今日座っていた場所に座った。
圭史はその気配を感じている。用紙に書きながら美音に言葉をかける。
「今日は溝口と二人だけ?」
「……うん。残ってた雑用片付けにきただけだから。瀧野くんは、今日も遅くまで練習だよね」
「……うん、終わる頃にはどっぷり日も暮れて。明日練習が昼からの分、今日は遅いんだ」
「そっかぁ、大変だね」
その声は、一緒に帰れないのを残念がっているような声ではなかった。
美音は向かいの机にある書類に気付き、椅子から立ち上がりそれに腕を伸ばしていく。
圭史は顔を向け、体を支えるために机の端に残されている腕に気付くと、右手に持っていたペンを離してすぐその手首を掴んだ。
細い手首に、思わず包み込んでしまいたくなるような小さい手。
突然のそれに、驚いた様子で目を向ける美音に、圭史は笑顔を向けて言う。
「来週さ、放課後図書室で勉強して帰ろう?」
「あ、うん。また、……数学教えてもらえる?」
控え目な様子でそう訊ねる美音に、圭史は笑顔で答える。
「うん」
それに美音は恥かしそうな笑顔を浮かべて、ぽすんと椅子に腰を下ろした。
それでも圭史は手を離そうとせず、そのまま位置をずらして美音の手を優しく握り真っ直ぐと見つめている。
美音は恥かしさに段々と顔を俯かせていき、顔は真っ赤になっていた。
「……」
その様子に、胸に抱いた事を心の中で諦めてそっと手を解放した。
「……ごめん」
再び机に体を向け続きを書いていく。
その顔は動揺など何もしていないかのようなものに見えるだろう。
だけど圭史は堪らない想いを胸に、ただ、耐えていた。
届けを書き終えた圭史はペンを持ったまま目だけで美音を様子見た。
火照りの治まらない顔を必死で落ち着かせようと両手を当て頬杖をついている。恥かしそうに何とも言えない表情を浮かべている美音の姿は、圭史の心をふっと和ませた。
― いまはまだ、仕方がないか…… ―
「このボールペン、引き出しの中にしまって置いたらいい?」
「あ、うん」
返事を聞き、すぐ引き出しを開けてその場所に置いた。
その開いている隙間から、とある冊子が姿を見せている事に気付き、手を伸ばしつつ圭史は心の中で一人笑みを浮かべながら言う。
「あ、そう言えば、この冊子って学祭の時の?」
「え?」
その言葉に顔を向けて、圭史が手に上げて見せた冊子を目にした瞬間、美音ははっとした顔をして声を上げる。
「あ!だ、だめ!!」
手に持っている冊子を奪い返そうと美音は腕を伸ばしてきた。
圭史は半分反射的に半分故意的に取られまいと腕を伸ばし上げ後方へと向けた。
「だめだめ!」
それでも必死になって腕を伸ばしてくる様子に、笑みを向けたまま圭史は言う。
「何がそんなに駄目?確か次に見つけたら見せて貰うって約束したと思うけど」
届かないのに一生懸命伸ばしている美音は、必死になったまま言葉を紡ぐ。
「う〜〜〜、見せるしちょっと貸してー」
その様子が妙に嬉しくて楽しくて自分の中に意地悪な自分が顔を見せる。
「ホントはもう見た後って言ったらどーする?」
少し意地悪な笑みを浮かべて言った圭史に、美音はピタッと動きを止めて声を漏らした。
「……え?い、いつ?」
そして圭史に顔を向けてみて、あまりのその近さに今になって気付き一瞬にして顔を真っ赤にさせて飛びのいた。
「わ、わ、わ、ご、ごめん」
ガシャン、と椅子に足をぶつけ「いた!」と声をあげても動揺しまくっているその姿に、圭史の顔にはほころぶ様に笑顔が浮かんでいた。
その反応に美音が、バツが悪そうな困ったような顔をしてジトッとした目を向けるのを見て、圭史は笑顔のまま手にしていた冊子を差し出していた。
「はい」
それをおず…、と受け取りながら、美音は言葉を紡ぐ。
「あ、……物挟んでて、それがなかったら別に……」
「あ、うん。じゃあ、その冊子ちょうだい」
「う、うん、いいよ。ちょっと待って」
美音はそう言うと、圭史に背を向けるようにして机に向かいこそっと中から取った物をスカートのポケットにしまった。
その様子を圭史は机に頬杖をつきながら細めた目で眺めていた。
― で、何かな、アレは ―
ほっと安心した顔で振り返った美音は笑顔で圭史に冊子を差し出した。
「はいどうぞ」
「どうも」
にこりと笑顔でそれを受け取ってから美音をじーっと見つめる圭史。
「な、何?」
笑顔を取り繕ってそう訊く美音に、圭史は変わらない笑顔のまま口を開く。
「ん? 隠すようにポケットに入れた物は何かなぁと」
「あ!そう言えばね、あと用済みの写真あって、いるものは持っていっていいって言われてるんだけど、見る?」
少々わざとらしくそう言った、ぎこちない笑顔を浮かべている美音を、頬杖をついたままじーっと見つめる圭史。
「み、見ない? あとは捨てるだけなんだけど今日にでも」
「……、見る」
たとえ問い詰めたとしても言いそうにない美音を見て圭史は少々憮然としながらもそう答えた。とりあえず、彼女が写っているかもしれないそれが見たいために。
美音の誤魔化しに騙されたフリをして手渡された写真を一枚ずつ眺めていく。
「欲しいの貰っていい?」
隣で書類を整理している美音にそう言葉をかけると、顔だけをこちらに向けて笑顔で言う。
「うん。何枚でもいいよ」
「じゃ、2枚ほど」
「どの写真?」
「気になる?」
「うん」
はっきりとそう返事した美音を見て、圭史はきっぱりと口にする。
「じゃ、さっき隠したの教えてくれたら」
「……う」
途端に美音の表情は固まった。
ゆっくり目を逸らすように机に向くと、まるで何事もなかったように黙々と作業を始めた。
「……」
美音のその反応に細めた目を向けてしまった圭史だった。
静かに椅子から立ち上がると、その頑なな背中を隠すように背後に立った。そっと左手を机に当て横顔を覗き見るように顔をしゃがめて声を出す。
「春日美音サン、どうかしたんですか」
「……」
ピクリとも動かず美音は俯いたまま。
「美音サン?」
美音は動きを見せなかったが、それに反して耳まで赤く染まっていくのが見えた。
「は、はい」
その上擦った声に圭史の心は尚くすぐられる。
圭史は左手を美音の指と交差させるように覆い被せて握り、どぎまぎしている美音をその目に映しながら口を開く。
「隠したの何?」
「……」
ぎゅうっと目を瞑って赤い顔を俯かせた美音に、意地悪そうな表情で言う。
「……別にいいけど。後は押し倒すだけだから」
「……!!?」
ビクンと顔を上げ驚きを見せた美音は、椅子から立ち上がりその場を離れようと動きを見せたのだが、圭史はそれを余裕で阻み、机を美音の後ろにあてて簡単に逃げ場をなくした。圭史の両手はしっかりと机に固定されている。
恐る恐ると言った様子で顔を向けた美音に、圭史はにっこり。と笑顔を見せた。
赤い顔がこれ以上染まりようがないくらいに真っ赤に染まり硬直を見せる美音。
「あ、の、……そろそろ、戻ってくるから……っ」
必死にそう言葉を紡いだ美音に、圭史は気にする風もなくさらりと言う。
「うん」
それでも美音は必死で言葉を続けようとする。
「だから、あの……」
圭史はそれに、にこり。と笑顔を向け無言で圧した。
美音は言葉を無くして、ただ縋るような眼差しを向けてきた。
それにすら表情を一つも変えず、圭史は言う。
「だって、春日が悪いんだよ?」
そして、片方の手を机から離して美音の腰にそっと添えるように置いた。
それに小さく体をびくっと反応させた美音。
たちまち目が潤み、それは今にも涙が溢れ出しそうなほど。
圭史はそれに気づき、ぎくりとした。心の中にはっとした思いが駆け巡りやり過ぎたのだと、後悔した。
美音の口から涙声で言葉が紡ぎ出されようとした時、圭史はぱっと美音の頭に手を伸ばし自分の胸元に抱き寄せた。
「ご、ごめっ……」
出された美音のそれは圭史の胸の中に掻き消された。
圭史の顔から先ほどまであった表情は消え失せ、代わりに表れたのは不安に揺れる表情に似たものだった。
「……ごめん、いじめすぎた。つい反応が面白くて、かわいいから……」
「うう〜」
泣くのを必死で耐えているであろう美音の姿を見て、圭史は自分の中に閉じ込めたいような気持ちになりそのまま美音をぎゅうっと抱きしめた。
彼女の柔らかさ、鼻腔をくすぐるような甘い匂いが、視界を狭くしていくのが自分でもわかるほどだった。
自分の中で湧き出るモノと、頭にちらつくさっきの美音の顔が圭史を更に苦しめていく。
理性の声が、身の内から溢れ出てくるものにかすれていくようだった。
思うまま動かしたくなっている手を、どうにか止めて必死の思いで声を出した。
「……もう、ヤバイから練習に戻るよ」
その台詞が苦しげに呟かれた後、美音は圭史の腕から解放された。
そして耳に届く圭史の足音は、やけにいつもと違って聞こえた。
美音の頭の中は固まったままなのだが、耳に扉の開く音が届き閉じる気配がないのに気付いて目を向けた。
出て行こうと扉を開けているのに、名残惜しそうに淋しくてつらそうな表情で美音を見つめる圭史がそこにはいた。
美音と目が合うと、圭史は嬉しそうだけど困ったような微笑を浮かべて声を出した。
「また、ね」
そして、圭史は今度こそ本当に生徒会室を後にした。
残された美音は、力なく椅子に座りなおすと茫然としたまま宙を見つめた。
「…………心臓、爆発、しそう……」
倒れ込むように机に顔を置き気が遠くなりそうになっていた。
― ……俺って、こんな奴だったっけ? つーか、マジやばい…… ―
スタスタといつもより早足になりながら圭史はコートに戻っていく。
そして、その日の練習を終えてとある部員たちは。
「なぁ、瀧野、おかしくね?」
「あ、お前もそう思った?」
「うん。妙に機嫌が良いというか、それでいて元気がないというか」
「なぁ?いつもの瀧野じゃないよなぁ?」
通り過ぎの谷折はそれを耳にして、びしっと指をさしながら言葉を投げた。
「こらそこ!平穏無事なんだから余計な事、気にしない気にしない。早く片付け済ませろー」
いつもと違ってまるで心配などしていない谷折の様子に、彼らは顔を見合わせた。