時の雫-風に乗って君に届けば

§12 光が満ちるトキ


Episode 1 /12




  その時、谷折が一人で廊下を歩いているのを見て、少し控え目な声で美音は呼び止めた。
「谷折君、あの」
 自分にかけられたその声に、ふとした表情を浮かべて谷折は足を止めた。
相手を確かめて、それが美音だと分かると、谷折は表情を崩さず彼女が言葉を続けるのを待った。
 美音は伏せ目がちに、両手を組んで何か言い難そうにしている。
「あの、ね、こういう事って別に報告するものでもないと思うんだけど、谷折君には言っておこうと思って」
谷折は何も言葉を口にせず、その続きを待ってただ黙って聞いている。
「あの、瀧野くんと、……つき、あってる、から」
その台詞に、谷折は何か他の事を思うことなく声を出した。
「え?ホントに?」
「う、うん」
拍子抜けするくらいさらりとした口調で谷折は言う。
「そーなんだぁ、うんうん良かった良かった。……そっかぁ、うまくいったんだ。それは良かったよ」
そう言いながら浮かべた笑顔は、とても優しいものだった。
美音は少し意外そうな表情をすると、苦笑じみた表情で言った。
「……ごめんね」
「うん?何が?」
「ううん。じゃ、またね」
「うん、わざわざありがと」
谷折は笑顔でそう言うと、笑顔のまま美音と別れて足を進めて行く。
 頭の中で、最近機嫌の良い様子だった圭史の顔を思い出して、尚笑顔になって口にする。
「ほんと、良かったな。あいつ」
それは心からの言葉だった。



第1水曜日の今日は放課後になると、殆どの生徒が下駄箱に向かう。
残る生徒と言えば、生徒会役員と各委員会、それと各部の責任者だった。
 実行委員の圭史は、いつものように会議室へと向かい1階の途中で、お互いが一人でばったりと川浪と会った。
「あ」
思わず、そんな声がお互いの口から漏れてしまうくらいの顔合わせだった。
最初の言葉を口にしたのは川浪の方だ。
「あれから春日ちゃんとうまくいった?」
それににこりと笑顔を浮かべて圭史は言う。
「うん、ようやっとOKの返事貰ったんだ」
女性ならば母性本能くすぐられる事間違い無しの、その笑顔に、川浪は必死で笑みを浮かべそうになるのを堪えながら口を開く。
「そうなんだ」
「何かの時はヨロシク」
「うん。じゃあ」
圭史と別れてから、川浪は一人で思う。

 ― ぷぷ。今の瀧野クンかわいー ―



 実行委員会、今期のまとめが終わると、今回もまた書類を提出に向かうのは圭史以外の誰でもなかった。
いつもと同じように生徒会室の扉を開けて中に入ってみて、圭史は嫌そうな顔をして前方に見える人間に言葉を放った。
「なんでお前がここにいんの」
「えー?今日は総会の打ち合わせがあったんだって。で、亮太にくっついてここに来たの」
悪びれもなく笑顔でそう答えたのは谷折だった。
「ふーん」
無表情で言ったそれに、谷折は冗談めかしながら言う。
「俺がここにいるだけでもお邪魔ですか」
「俺にそれは関係ない」
「さいでっか」
肩を竦める谷折を目の端に捉えながらも、圭史は空いている席に座り今日の分の書類をまとめ始めた。
今、この部屋にいるのは、薫と亮太、谷折だった。
 書類の半分が埋まろうとしている頃、扉が元気よく開き、それを見た亮太が声を放った。
「お、やけに早い帰りだな。もう終わったんか?」
「うーうん、違う。二人に任せてきた。野口君が二人で大丈夫っていうから」
疲れた様子で美音が答えていた。中に入り扉を閉めると、谷折と圭史に気づいた美音は自分の席にちょこんと座った。
圭史は顔を書類に向けたまま、それを目だけで捉えていた。
 美音は引き出しからファイルとノートを取り出すとシャープペンを動かし始める。
「春日さーん、何してんのー?」
軽い調子の谷折の声。美音はそれに声だけを向ける。
「総会の時の資料作り。各部長さんに何か言われてもすぐ言い返せるようにね」
「……へー。それは気になる資料ですな」
隙あらば見に行こうとする気配濃厚の谷折に、亮太がすかさず言葉を放つ。
「企業秘密だ。覗くなよ」
「……はい」


コンコン。ノックされたかと思うと扉が開かれて男子が一人入ってきた。
「こんにちは」
その声にいち早く反応を見せたのは美音だった。
ぱっと顔を上げると笑顔で声を出した。
「あ、足立さん」
それに続けて薫と亮太が挨拶をすると、足立が言う。
「この間は送別会ご苦労様。総会の準備の方はどう?」
「順調ですよ。心配されて様子見に来てくれたんですか?」
亮太の言葉に、足立はにこりと笑顔を見せ手に持っていたビニール袋を近くにいた美音に差し出した。
「はい、これ差し入れ」
「ありがとうございます。時間大丈夫だったら、資料作り助けて下さい」
「うん、いいよ」
快くそう言った足立は美音の隣の席に座りファイルを手元に引き寄せた。

 圭史は顔を書類に向けたまま、仄かに嬉しそうな笑顔を浮かべている美音を目にして、動かしていた筈の手には力がこもりコントロール出来ない感情を感じて目を伏せた。
「……。春日、出来たよ」
それはいつもより愛想の無い声だったかもしれない。
少し驚いた様子で書類を受け取った美音は、何か不安そうな表情で圭史を見つめていた。
「あ、それ終わったんなら、またこっち手伝って」
二人が他に言葉を交わすより先に亮太が声を放った。
反射的に振り向いた圭史は躊躇いがちに声を出す。
「あ、うん……」
「悪いな」
笑顔で亮太がそう言ったのを見て彼の近くの席に移り、それからは美音の様子に目を向けなかった。
 一人のほほんと両手で顎を支えながら眺めている谷折を見て、亮太は言う。
「お前はこれの清書。ほら頼んだぞ」
「え?!まじで?」
「どーせお前はおやつ目当てでそこにいるんだろーが。ならそれまで働け」
「……くっ。見破られている……」
悔しそうな顔をしてから谷折は大人しくボールペンを手に持ち始めた。
 それぞれが黙々と仕事をしている中、美音は足立にアドバイスを聞きながらノートに書いていた。
「でも、これおかしくないですか?」
その台詞に美音が指した場所を覗き込んでから足立は言う。
「うーん、確かに。過去の分も見てみようか」
「あ、前々年度以降のは書庫室に片付けてしまいました」
「ほんと。重いし一緒に行くよ」
「はーい」
戸棚の奥にかけている、隣の部屋の書庫室の鍵を持って二人は生徒会室を出て行った。
 ばたん、と扉が閉まり、谷折が目を向けてみると、圭史はじとーとした表情をしている。
「……気になんの?」
こそっと言われて、顔をぱっと谷折とは反対側の横に向けて言った。
「別に何も」
それは見るからに不貞腐れている様子で、谷折は面白そうに意地悪い笑みを浮かべて口を開く。
「お前、それは一般的にやき……」
そこまで言った所で谷折は脇腹に肘鉄をくらっていた。
その痛さに声を出す事もできず、机に頭を預けたまま耐えるしかない谷折。
圭史は何もなかったような涼しい顔で仕事を続けていく。
 二人が戻ってきたのはおよそ10分後だった。
それからすぐ仕事を始めて短い時間でそれは終えたようだった。
 そして、お茶タイムとなり、奥のソファに圭史と谷折が座り、足立はそこに近い席に座った。薫は1年二人を呼びに行っている。
「どっちが瀧野君?」
圭史と谷折の二人には聞こえるような声で足立は訊いた。
「あ、はい。僕です」
突然の質問に反射的に答えた圭史。
足立は変わらない笑顔のまま言葉を口にする。
「そっか。で、こっちが谷折君か」
「はい、そーです」
「それが何か?」
圭史がそう訊ねると、足立は笑顔になって口を開く。
「いや、さっき話を聞いたんだけど、それが…、あ、いや、余計な事言ったら怒られるかな」
「?」
その直後、扉が開き賑やかに3人が入ってきた。
「もー春日さん助けてくださいよー、全然はかどらないんですよー」
見れば元気が余っていそうに見える快が部屋に入るなりそう言った。
反対に疲れている様子で少し苛立っている丈斗が反論するように言う。
「何言ってんだよっ。エラーが出る度直してるの俺だろうが!藤田はすぐ春日さん呼ぼうとするだけで」
その台詞を聞いた美音の顔色が変わった事に圭史は気づいた。
みるみるうちに怒った表情になっていく美音。
「藤田君!!」
「はいっ!」
凄い迫力で名前を呼ばれて反射的に返事をした快。
「おっと」
それらの声に驚いたのは足立だった。
「……あー、驚いた。久々だと驚くわ」
その言葉だけで、足立の現役中はしょっちゅう美音の怒鳴り声が飛んでいたのが想像できる。
「なんでいつもいつもそうやって……。ちょっと話するからこっち来て」
美音は怒った様子で廊下へと出て行った。快は目を泳がせながら後を着いて出て行った。
その様子に薫と亮太の口からは呆れたようなため息が漏れている。
圭史と谷折に顔を向けていた足立も、やれやれと言った様子で腰をあげると口を開く。
「ちょっと見てこようかな」
それに亮太は微妙に渋い顔をして沈黙している。

 足立が生徒会室を出て行き、そこにいるメンバーの手元にお茶がいった時、呟くように亮太が口を開いた。
「あーあ、あいつとうとう怒られるな」
「とうとう?」
そう聞き返したのは谷折。それに亮太は言う。
「俺も足立さんに注意された事あったけど、クルんだよなー。優しそうに見えるけど、厳しい人で、きつい事さらりと言うところがさ」
「へー」
「まぁ、最近またたるんできてるから、いい薬にはなるだろ。春日に又嫌われる事になるだろうけどな」
「あー、そうかぁ」
視線を宙に向けながらそう言った後、谷折は圭史に横目を向けた。
「……なんだよ」
「いーや、別に」
白々しく視線を上に向けて言った後、静かにお茶に口をつけた谷折だった。
 それから数分が過ぎて足立が一人中に戻ってきた。
何とも言えない表情をしたまま、元いた席に着くと冷めているお茶に口をつける。
「あ、煎れ直しましょか?」
亮太の言葉に足立は何事もなかった様子で言う。
「いいよ。これくらいが今は丁度いいから」
「春日はまだ、ですか?」
湯飲みに目を向けたまま足立は答える。
「うん。今回は大分キてるみたいだから、まだ時間かかる様子」
その台詞に亮太は「うーん」という顔をして何か考えこんでいる様子だった。
 圭史は静かにお茶を飲みながら、そんな二人の様子を視界の端に捉えていた。
心の中は、陰鬱とした形容しがたい感情が渦巻いている。
知りたくも気付きたくもないのに、ちゃんと頭は気付いている。

 ― ……俺って、実は心狭いかも ―

思ったそれは、自分を落ち着かせるために言ったようなものでもあった。





荷物を鞄にしまいながら美音は何のためらいもなく口を開く。
「亮太、今残りの仕事を藤田君一人にさせてるから、まだ大分かかると思う」
書類を見直す美音の口からそんな台詞が出たのを聞いて、亮太は様子を窺うようにチラリと目を向けた。
他の者からすれば近寄りがたいという表情を浮かべている。
「そっか」
「私、今日はもう帰るね」
そう言った美音の表情は、まだ怒っているものに亮太には見えた。
「おう。気をつけてな」
「うん、じゃまたね」
にこりと笑顔を浮かべることなくそう言い、美音は鞄を手に持つと静かに生徒会室を出て行った。
いつもより重たい空気を残したまま去って行った美音の姿を見つめていた亮太は参ったように頭を掻いた。
「……もめさせたらやばいと思って、放っておいたのが裏目に出たなぁ」
顔を伏せたままの亮太の口からため息とともに吐き出された台詞だった。



 谷折と一緒に生徒会室を出てからどれだけの時間が過ぎたのか、圭史には分かっていなかった。というか、計ろうとしていないからだった。
一人で下駄箱の手前の入り口に壁にもたれてずっと立っていた。
人の近づいてくる気配がして顔を上げてみれば、それは足立だった。
口にする挨拶も浮かばなかったので、圭史はとりあえず頭をぺこりと下げた。
すると足立は穏やかな表情で口を開く。
「お疲れ様」
そのまま圭史の前を通り過ぎようとした時、思い出したような顔をしてからゆっくりと振り返り、圭史に顔を向けると足立は変わらない笑顔で言った。
「仲良くね」
「あ、はい。…………?」
とりあえずそう返事をしたものの、それが何を指しているのかその時は理解していなかった。
 離れていく足立の足音に再び静寂が訪れ、圭史はのんびりと物思いに耽る。

 ― さっきのセリフは何だろう? ―

そう思ったまま、ぼんやりと時間をやり過ごしていたら、急にある予想が頭の中に浮かんだ。

 ― ん? ……もしかして。 ……でも、どうだろう? ―

そんな事をぼんやりと考えているうちに耳に届いてきた元気のない足音に圭史は目だけを向けてみた。
それは美音だった。足先を見つめるように伏せているその顔には疲労が見えている。
その様子に言葉をかけずここまでやって来るのを静かに待った。
美音を見つめる目はひたすら優しい。
 変わらない様子で歩いてきていた美音の足が不意に止まった。
俯かれたその視界に、圭史の足が見えたからだ。
待っていると思っていなかった顔で圭史に目を向けた美音は、自分を見つめている圭史の微笑を見て幾分ほっとしたような微笑を浮かべた。
「待ってて、くれたの?」
「うん」
それでも美音の顔からは疲労の色は消えていない。
「じゃあ随分待たせてしまったよね、ごめんね」
「ううん、ぼーっとしてたから時間は気になってないよ」
圭史の言葉に見せた笑顔には、やはり元気がなかった。
 靴を履き替えて一緒に並んで歩いていく中、校門を抜けた辺りでようやっと美音の顔から先程まであった疲労の色が消えていた。
だから、そこで圭史は訊いた。
「しんどい?」
「え?……あ、……あまりにも怒りすぎて、それでちょっと」
苦笑して顔を微かに傾けた美音に、心の中でふつと涌き出た感情に目を細めながらいつもと変わらないように気をつけながら言葉を紡ぐ。
「気分転換に寄り道して何か飲みにでも行こうか」
「あ、うん」
突然のそれに美音はすぐ笑顔になって返事をし、圭史はその反応が堪らなく嬉しく感じた。


 向かった先は気軽さでマクドナルドになった。
向かい合わせに席に着くときに、美音を奥へと促してから圭史は手前の椅子に腰を下ろした。美音がジュースに口をつけて一息つき終えた頃に、圭史はここへ向かう途中に思い出した事を少し思い切って口にする。
「そう言えばさ、下駄箱で足立さんに会った時に、仲良くねって言われたんだけど」
「え?」
すると忽ち美音の顔が赤く染まっていった。
その反応が嬉しくて笑みが零れてしまいそうになるのを必死で堪えながら圭史はそっと言う。
「だから、言ってくれたのかな、と思って」
恥かしそうに目を俯かせて赤い顔で答えた小さな声。
「……うん、書庫室、行った時に」
その可愛い反応に、思わずにやけてしまう口を頬杖でどうにか隠していたら、ちろ…、と美音が目を向けたので、無意識に口から手は離れ微笑んでいた。
すると美音はより一層赤くした顔を俯かせた。

 ― 反応が可愛くて、……結構ヤバイですが ―

 そう、圭史は、美音の気付いていないところ―心で、湧き出しそうな感情を必死で抑えて、尚衝動に駆られないよう堪えていた。

「さっきの話さ、怒りすぎって、1年の藤田クンのこと?」
「……うん。なんかあの後色んなことを考えてしまって。私が甘やかしてしまったからなのかなとか、教育が下手だったのかなとか、今までこれで良いと思っていた事は全部実は間違いだったのかな、……とか」
俯いたまま浮かない表情でそう話した美音。
「……いや、そんな事はないと思うけど。ただ、……」
途中でやめたその台詞に美音は顔を上げ不安そうな表情で聞き返した。
「ただ?」
「え、と、……藤田クンが甘えてる、ように見える」
何とか言葉を紡いでそう言った。
「うーん……」
圭史の言葉を聞いて美音は考え込んでいる。
圭史は内心息を吐きながら本音をこぼす。

 ― ただ、好きという意思表示を履き違えているだけなんだろうけど。……春日って、実は本気で気付いていないのか?好意を寄せられてる事…… ―

美音に視線を向けてみたら、まだ神妙な顔で考え込んでいるようだった。
暫くすると、テーブルの上に両膝を組むように置きその上に顔をうつ伏せた。
「……きつい事言い過ぎたかなーって、後になって思ったり、もっと別な言い方あったんじゃないかなーとか思ったり。でも、ずっとあんな調子だし、しっかりしてもらわないと困るし……。単に私が扱い方下手なだけだってわかってるけど、でも、ヨイショして動いてもらっても嫌だし……、亮太は私に任すって言うし」
かなり滅入っているっていう事がよくわかる様子だった。
まるで独り言のようにそう話していた美音の声が、微かに震えていてとても感情が不安定だと言うのが分かる。
 圭史はテーブルの上に置いていた腕を動かし、手を上げかけたところで躊躇い止めた。
顔を上げない美音を数秒見つめて、思い切ったようにその手を伸ばしそっと美音の頭を優しく撫でた。
煩わしい事が早く解決するよう祈りながら。
 そして、快の気持ちに気付いていないであろう美音を確信して、

 ― ……ま、いいけどね。他のやつの事なんか ―

圭史はその事に関してはあえて口を閉じることにした。

2005.7.28