時の雫-風に乗って君に届けば

§12 光が満ちるトキ


Episode 11 /12



 学校共に部活のない土曜日。
朝、圭史は起きてからゆっくりとしていた。気力のない体を机に向かわせて月曜から始まる試験のため一日ずっと勉強をしていた。
 それでも、ふと気付けばシャープペンを持つ手は止まっていてぼんやりと宙を眺めていた。
「・・・・・・」
そして、何かを考えている自分に気付いて、圭史は参ったようにため息を吐くのだった。
机の引き出しを思いきり出すと、奥に数日前に買った写真たてが入っている。表が見えないように裏返しているそれを圭史は手に持ち顔の前に向けた。
暫く眺めていたかと思うと、写真たてを机の上に伏せて置き倒れ込むように頭を置いた。
「……はぁ」
そして、数秒経ちその格好のまま写真たてを手に持ち眺めたかと思うと深いため息を吐いた。
「……」
そのまま、宙を眺めて何かを考え込んでいる圭史は、徐に立ち上がり写真たてを元にあった場所に仕舞い、机の置く側端に置いてある包みに目を向けた。
窓の外は暗い。それでも圭史は、机の横に置いていた布製の肩がけのカバンを取り、その中に包みを入れ、財布など出かけるのに必要な物を入れた。
カバンと一緒にジャンバーを腕に持つと、部屋の電気を消して1階に下りていく。
階段を下りたところで丁度母親がリビングに向かう所だった。
「どこ行くの?」
「……ちょっと、ノート買いに」
「ついでにドーナツ買ってきてよ」
「……え?」
母親の思い立ったような台詞に、圭史の心臓はどきん!と声を上げた。
「お金は渡すから適当に買えるだけ買ってきて」
「あ、うん」
お金を取りにリビングに向かった母親を見て、そのまま玄関に行き靴を履いている。
「はい、これ」
やって来た母親が差し出したものを、掌を向けて受け取った。
1000円と自転車の鍵と、ミスタードーナツ北店優遇券。
「……え?」
掌にのせられたそれを見て、圭史はそう声を漏らした。
嫌な汗が体を伝う。
「人から貰ったのよ。だから、買ってきてね」
「あ、うん」
余計な事は何も言わずに圭史は静かに家を出た。

 ― ……わからない。分かってやってるのか、知らないでやってるのか…… ―

母親の行動に疑問を抱きながら、圭史はとり合えずコンビニに向かった。


 本当は、母親に言われるまでもなく、北店に来るつもりでいた。
今日はバイトに夕方から9時まで入っていると言っていたから。
先にコンビに寄ってから、最初から目的だったミスタードーナツ店に到着すると、自転車を止めながら店内を眺める。見渡したそこに美音の姿は見つけられなかった。
重い気持ちでため息を吐くと、圭史は何かを諦めた様に中に入っていった。
トレーをとり前に進みながら適当にドーナツを取っていきレジに並んだ。
自分の番が来て会計を済ませた後に、店員が遠慮しがちに声を放ってきた。
「……あの、春日さんの知り合いの方、ですよね?」
「あ、はい。……今日、彼女は?」
一度来ただけの顔を覚えていられた事に驚きを感じながらも、圭史はそれでもチャンスだとばかりに訊ねていた。
「さっきあがったところなので、入り口から丁度真後ろに行けば会えると思いますよ」
「ありがとう」
圭史はお礼を言って、ドーナツの入った差し出された袋を手に持つと店を出て行った。

 そこは店先よりも明るくはなかったが、十分に灯りはあった。
多分、そこが従業員入り口だろう、という場所がすぐ見える所で圭史は胸を鳴らしながら待っていた。
この緊張は、胸が痛くなるくらい重みのあるものだった。
「……はぁ」
辛くて自然と出してしまうため息さえ胸に痛みを響かせる。

 もしかしたら、次に会った時、ふられてしまうかもしれない。
そんな事を漠然と考えていた。
美音が相田に何を言われたのかまったく想像はつかない。
だが、美音のあんな顔、あんな反応は、圭史の視界を真っ暗闇にした。
 ……もう、嫌われたのだろうか。
そうだとしても、圭史は会いたくて堪らなくなっていた。
美音の顔が見たくて。たとえ、そこでふられたとしても、会いたかった。
そして、ふられる前に渡してしまいたい物があった。

 バタン、と扉の開く音がし目を向けると、美音だった。
すぐ美音は立っている圭史に気づき、驚いた顔で名前を口にした。
「……瀧野くん、どうして、ここに……?」
「あ、え、と、ノート買いに。それと母親にドーナツ買って来いって頼まれて。だから、会えるかと思って」
その台詞に、美音は少し嬉しそうに照れた表情で微笑みを浮かべた。
それに圭史の心は窒息しそうだった重苦しい空気が少し緩和されたような気がした。
「……あとは、帰るだけ?」
「あ、うん。春日は?今日は自転車?」
「今日は、バスで来たから……」
「俺、自転車だから後ろ乗りなよ。……嫌じゃなかったら」
「……嫌じゃ、ないよ。……あの、私」
圭史の言葉に答えるように言ってから、続けて口にした美音の表情はどこか真剣な様子で、今の圭史にはそれが怖く感じた。
望まない事を言われそうな、そんな嫌な予感。
だが、それが美音の口から発せられる前に、扉から出てきた男性バイト員が美音の声を放ってきた。
「あ、春日さん、今、帰り?」
「あ、はい。お疲れ様です」
「お疲れさん。じゃあ、一緒に帰る?」
「いえ、彼が家まで送ってくれるので」
そう美音は笑顔で言っていた。
それに圭史の心は、まるで雲の合間から陽射しがサーっと差し込んで広がっていくような感覚に覆われた。
美音からすれば、その台詞に他意はなかったのかもしれないが。
 男性は、そこで初めて圭史に気づいたようで視線を投げてきた。
だが、圭史の姿をすぐ目に映すと、どこか諦めたような表情になり、美音と挨拶を交わしてその場を去って行った。
美音はどこか恥かしげに、トタタタタ…、と圭史の元へ駆け寄ってくる。隣に来たのを見て正面の方へとゆっくりと歩き始めた。

 圭史の自転車は後ろに座れるようになっているものだった。
促されて、美音はそこに座る。横座りで静かに。
サドルの下辺りに掴まっているのを見て、気にしないように言う。
「腰に掴まっていいよ」
「あ、……うん」
どこか遠慮しがちな声は、恥かしそうでもあった。
そっと添えられた手の感触に胸が高鳴るのを感じた。
 町中、美音の家に向かう道は自転車を漕いでいても静かに感じた。
そんな中、美音の手に微かに力がこもったのに気付いた時、背中から声が聞こえた。
「……昨日、ごめんね……」
「……」
それに圭史は何も言葉が浮かんでこなかった。何を言ってよいものか分からなかった。
そんな気まずい沈黙を胸に抱えたまま、時間が静かに過ぎ行くと共に美音の家にと辿り着いてしまった。
 美音は後ろから降りると、圭史の横に来て言った。
「ありがとう」
圭史はそれに静かに微笑んで見せただけだった。
すると、美音はどこか困った表情で視線を向けるとすぐに何かを諦めたように伏せてしまった。
圭史の胸は嫌な音を高鳴らせた。
 お互いが言葉に詰まった、そんな状態で二人ともが顔を伏せてしまっている。
困ってしまって視線を転じた先に、圭史は自分のカバンに気がついた。
「……あ」
圭史は道路の端に自転車を停めてカバンの中から包みを出した。そして、すぐに美音に差し出した。
「これ、ちょっと早いけど、ホワイトデーのプレゼント」
「え?いいの?」
「うん、受け取って」
差し出さしたそれを、美音は両手でそっと受け取った。
「あ、ありがとう」
圭史はそれに笑顔を向けただけだった。
「……じゃ」
それだけ言って、自転車のハンドルに手をかけようと美音に背を向けた。
だが、すぐジャンバーの裾が突っ張るような感じを受けて、顔だけを振り向けた。
「?」
 そこには、美音が少し必死な様子で圭史のジャンバーを引き止めるように掴んでいた。
振り返った圭史に気づいたのか、はっとした顔をしぱっと手を離した美音は、ぎこちない表情で言う。
「あ、ごめん。え、と、本当にありがとう。あの、来てくれて、……その送って貰って、あとこれ、も。その、嬉しかったから」
俯かせた顔は恥かしさで赤くなっているようだった。その表情もその仕草も可愛らしかった。心の中に広がる思いに、圭史の目には美音しか映っていなかった。
「あの……」
必死な様子でそう口にする美音。ずっと、何かを言いたそうにしているその姿。
失うのだと思っていたそれに、圭史の心は何かが染み渡っていくように何も考えられなくなっていた。
「あの、ね……」
美音がそう言いながら顔を上げた。何かを言いたげに向けたそれは縋るような眼差し。
次の瞬間、圭史の体は衝動的に動いていた。
この手は勝手に美音の腕を掴み、逃がさないようにした。体は勝手に彼女へと寄せ、まだ存在していない言葉など今の圭史には関係なく彼女のに唇を寄せていた。
重ねただけのキスだったが十分に彼女の柔らかさは温かさになって圭史の体と心共に広がっていった。
それに比例するように、奥底からじわじわと迫ってくる何かに頭の片隅で気付いてはいた。
ぎりぎりのところで理性を保ち圭史は唇を離す。
愛しくて苦しいくらいの切なさに胸は締め付けられながら、顔を離しゆっくりと美音に目を向けた。
ゆっくりと静かに目を開けるその仕草さえ、圭史を切なくさせる。

 もう、失くすものだと思っていたから。

震える手を彼女の背に回し、そのまま閉じ込めるように抱きしめた。
 その中で美音は任せるように顔を圭史の胸にそっと預けた。
彼女の温もりを確かめるように抱き締めて圭史はたまらなく言葉を漏らす。
「……軽蔑されて、嫌われたのかと、思った」
「……え?」
「もう、ふられるんだと、思ってた。……マジで」
「……、あ、……ごめん……でも、……違うよ?」
「……うん」
聞きたい事は色々あった。でも、言葉にならない。
言ってしまえば、この腕の中にいる彼女が消えてしまうような気がして。

「それに、瀧野くんは何もしてないよ。……私が勝手に……。だから、ごめん……」
圭史の所為だとも相田の所為だとも言わない美音。反対に自分を責めて。
自然と腕に力がこもる。
「何を、言われたの?教えて」
切なそうに言った圭史の言葉。
美音の、圭史の胸に当てた手に力がこもった。
「……んでも、ない。なんでもない。……大丈夫だから。ホントに絶対。……だから、だから、瀧野くん」
そう言って美音は顔を圭史に向けた。縋るような潤んだ瞳で。
それは、圭史が初めて理性を失いそうになった時に似ていた。
 胸の奥から湧き上がってくる想いが圭史の意識を奪い取っていくようだった。

「…………美音」
想いの全てを集約されたような搾り出された声だった。
美音の何も持っていない片手が、圭史のジャンバーをぎゅっと握るように掴んだ。

 圭史がはっきりと覚えているのはそこまでだった。

 美音の背中に回していた腕を片方だけ腰に当てた。ぐっと支えるように。
そして、耳を隠すようにもう片方の手を美音の顔に当て、半ば押し当てる様に半ば引き寄せる様にして、彼女の口を塞いでいた。
彼女の、柔らかい唇の感触が、尚圭史を衝き動かす。
彼女の唇を味わい尽くすようなキスだった。
膨らみのある彼女の下唇もついっとした形の良い上唇も、感触で覚えるように自分のものにするかのように、求めるように何度も啄ばみ舌でなぞる。そして堪らず甘噛みをした。
「……んっ」
彼女の口から漏れる苦しげな吐息と甘い声が圭史を尚追い詰めようとする。
その先に進もうとする自分。自分でも止められない燃えるような思い。

 微かに震える美音の手から、持っていた筈の物がパサリと落ちた。
そこで、はっと我に返った圭史だった。
彼女から顔を離し、今にも泣き出してしまいそうな美音の顔を見て、圭史は顔が赤くなるのを感じた。
「……あ、ごめ……」

 ― 俺、……何、やって…… ―

力の抜けている彼女の体を圭史はその胸で抱きとめるようにし、支えるように彼女の腰に腕を回した。
服を通して伝わってくる彼女の温もりが、圭史の鼓動を今までにないくらいに早くしていた。意識が飛んでしまうのではないかと思う位のそれに、圭史はあたふたとしながら、美音を玄関口まで半ば強引に運ぶと、美音の手からさっき落ちた物を思い出し、一瞬で拾いに行き美音の手に渡した。
「あ、えと、勉強、頑張って……。……今日はごめん!」
圭史はやっとの思いでそれだけ言うと、あっという間にその場から離れて行った。
心臓はいつまでもけたたましく鳴り響いていて倒れ込んでもおかしくない位だった……。

「……俺の事、好きでいてくれる?」 頭の片隅に浮かんだ台詞。不安な自分が何度も口に出そうとした言葉だった。
 今日、美音に会いに行って、圭史は一人思う。

 ― 大丈夫。……きっと、大丈夫 ―

 祈りにも似たそれは心の中に広がっていった。

2005.09.22